第4話

 ブシュウッ――と細い排気音を響かせて、蓋が開く。

 志道秋穂しどうあきほは古めいたフルダイブ用ポッドから体を起こすと、額を押さえてかぶりを振った。


「……んん」


 床を這う配管の群れを踏まないように、そろりとポッドから降りる。

 志道がジャンク部品から制作したこのフルダイブ用コクーンポッドは、データ通信速度こそ現在の流通品に大差ないのだが、とにかく場所をとるのが難点だった。


 まるで古式ゆかしいSF映画の光景よろしく、室内には剥き出しの配線やパイプが触手のように這い回っている。我ながら、色気もへったくれもない空間だ。


 部屋の中央、ぽつんと置かれたガラステーブルの上から、錠剤の瓶と青色のヘアゴムを掴み取る。髪を纏め、噛み砕きつつ薬を飲み込んでから、志道は「ふぅ……」と仮想ではない本物の息を吐き出した。


 錠剤はただの酔い止め薬だ。空きっ腹で飲んだとしても、それほど深刻な副作用はない。

 ただ、長時間のダイヴから戻って来た志道にとって、必要な薬だというだけだ。VR適正がCコモン以上の「健全」な人間でさえあれば、こういった薬も本来必要ないのだが。


 ビィ――ッ、と。


 来客を告げるブザーが鳴り、志道は部屋の隅にある玄関へと視線をやった。

 床に放置されていた黒色のカーディガンを手早く羽織り、そちらへ向かう。


 簡素な鉄製のドアを開けると、杖をついた一人の老人が立っていた。

 遠く後方、彼の背後にはいつもの通り巨大な塔がそびえ建っている。VR適正上位者が住まうタワー


「……なに?」

「ああ、嬢ちゃん。ここ最近、出て来ねぇからくたばっちまったかと思ってたよ。また潜ってたのかい?」

「うん」


 老人を玄関に招き入れ、扉を閉じる。

 彼は志道と同じビルに住む男だ。髪の薄い頭部。くたびれたフェイク・レザーのパーカーに、擦り切れたデニムを着用している。ぱっと見では浮浪者のような風貌はともかく、危険性はない。


 老人は苦笑いを浮かべると、志道の格好を見て眩しそうに片目を細めた。


「……俺が言うのもなんだっけどよ。嬢ちゃん、無防備だな。もう少し危機管理ってのを気をつけるべきじゃねぇのか?」

「急に訪ねて来たのはそっち。で、なに? またすぐに潜る準備するとこだけど」

「おう、悪ぃな」


 老人は手にした布袋をひょいと持ち上げ、志道の手に押しつける。


「裏のじゃがいもが食える大きさになったからよ」


 志道は苦笑した。彼はこのビルの裏にある庭とも呼べないような一角で、野菜を栽培するのが趣味だという。できあがった手製のそれを、他人に食べてもらうことが嬉しいらしい。


 無論だが、行政の許可をとった行動ではない。ナチュラル作物の栽培は、現在では国によって完全管理されている。

 まともな感性の人間ならば、プリセット通りの渋い顔を見せるだろう。


「あんがと。でも別に返せるものとかないよ。エナジー・バーの予備とか持ってく?」

「ああ? いや見返りが欲しくてやってんじゃねぇや。ただ俺ぁ、お前ら若ぇもんがちゃんと飯食ってんのか心配なんだよ。VRでも食わねぇらしいじゃねぇか、最近」

「コーヒーは飲んだよ。砂糖入れて」

「でも意味ねぇだろう」


 まるで太古の人情映画アバターが憑依したかのように、老人は「かーっ」と喉を鳴らして顔を歪めた。こうした問答をするところまで含めて彼の楽しみなのはわかっているので、会話の間に布袋を受け取っておく。


「またとこ潜んのかい? 無理しなくっても、俺らみたいなんは放り出されたって死にゃあしないぜ?」

「んー? 深い浅いで言えば今回は浅いよ。ってかイーさん。その言い方ちょっと古すぎる」

「あん? じゃあお前らの世代で「深いやべぇ」ってときにはなんて言うんだよ」

「「やべぇ」って言う」


 袋を持ってキッチンに向かう。イーさんはついて来なかった。『じーさん』がなまって定着したニックネームらしいが、志道の産まれる遥か昔の映画俳優を連想させる響きだ。――イーさんのような者たちの間では、本名を互いに教え合わないのが習慣らしい。


「芋茹でるけど、食う?」

「なんでやったもんいま俺が食うんだよ。お前が食え、背伸びねぇぞ」

典型的台詞テンプレートどうも。もうイーさんより高い」

「テンプレートのお返しどうもだ。俺はもう帰る。いつも


 ――別にいい。

 そう告げる前に、老人は杖をつきつつ志道の部屋を後にした。

 彼はあれでも、過去にはAランクのVR適応者だったらしい。仮想空間内での仕事の最中、事故により左足を切断した経験がフィードバックしてFフェイル判定者となった。……ヴァーチャル内での安全性は国が保証しているので、眉唾物の話だと思うが。


 市街地四十九区画二十三番四十二ビル。スラム街。

 VR適正格差によって社会から弾かれた者しか寄りつかないような放棄区画だ。そして彼らの住むこの廃墟ビルは現在、志道の所有物となっている。


 志道としては、別に彼らが勝手に住み着くことに対する感想はない。言ってみれば、前からそうであったこと。知っていて、だからこそ買い取った。


 仮に「住まわせてやっている」という所感を抱くのだとすれば、まず志道はオーナーとして彼らから家賃を徴収し、VRFPS初心者コースさながらの様相である裏庭周りを整備する責任があるだろう。


 イーさんの孫娘は今年で六歳。生意気だが可愛らしい子だ。初等教育にも通わせてやりたい。

 誰が言える? あなた方は不法入居者だから出て行って野垂れ死ねと。


 イーさん以外のVR不適合者たちも、みんな気の良い連中ばかりだ。「正しい意見が、常に正しくはない」と志道は思う。……少なくとも、まだ志道が幼かった頃、夜風に震えて蹲りながら「屋根があればどんなにいいか」と夢想したことは事実だ。

 そしてこれは、志道が決めた行動である。誰にも文句は言わせない。


 芋を貰ったことでその件については不問とし、志道は自作のコクーンポッドに近づいて、その側面のスリットからタブレット端末を抜き出した。


 物理ホログラムではない旧式のキーボードを繋ぎ、素早く指を這わせ作業を開始する。


「……んぐ。まっず。まあいいか。炭水化物は摂取したっと」



 ――カタカタカタカタカタカタ


 と、


 もらったばかりの芋を生で齧りつつ、志道はキーボードを叩き始めた。

 文字はうねり、やがてタブレットの表示限界を超え、志道がサブで呼び出した物理ホログラム・ウィンドウが部屋を覆い尽くす。そこでも、黒色の画面に津波のごとく文字列が表示され、また流れ去っていく。


 志道がいま作っているものは、リミの言っていた『フリッツFブリッツBノヴァレイドN』にアクセスしダイブするためのキーだ。

 これを正確に作れるかどうかが、グレイブディガーが仕事を始める、まず第一歩の前提となる。


「めんどいけど、お金稼がないとね」


 買い取ったとはいえ、志道が所有するこのビルを維持するのにはもちろんクレジットがかかる。

 文字列で埋め尽くされた部屋の中、志道はキーボードを叩き続けた。

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