73 静かなる戦い 中編
苗木城。
「……何故だ」
案の定、苗木城は空城となっているらしく、城門は開いたままで、人の気配は感じられなかった。
これで、弘就に大桑城攻め、すなわち竹中半兵衛による空城の計の経験が無ければ、もう少し警戒心を抱いたかもしれない。
そしてその経験が、弘就を後押しした。
もうあのような空城を相手に
あとは突撃あるのみである。
そこで、真っ先に城内に弘就が突入したところで。
「わっ」
何とも情けない声だが仕方ない。
上から、網が降って来て、弘就を包み込んだのだ。
ぎいい、という音がして、城門が閉じるのを知る。
「なっ、何だとッ! 何だとこれはッ!」
「……これはこれは。美濃にその人ありと知れた、日根野どのではないですか」
網の向こうから、にこやかな表情を浮かべた男がちがづいて来る。
男の兜には、六つの丸があった。上の段に三つ、下の段に三つの丸が。
その紋は。
まさか。
「六つの丸とは……もしや、六連銭だったのかッ。すると貴様、攻め弾正、真田幸綱かッ」
「さよう……以後、お見知り置きを」
うやうやしく一礼を施す幸綱に、弘就は吠えた。
約束がちがう、武田はこれ以上美濃に手を出さないはずだ、と。
「それでござる」
幸綱はさも気の毒そうな表情をして、遠山直廉の筆による書状を取り出した。
「遠山どの、城を開けるにあたって、以前から
そもそも、今川義元が武田信玄に美濃手出し無用を言い出したのは、その遠山直廉の尾張行きを知ったからである。
つまり、幸綱が苗木城に入ったのは、その今川義元の「要請」の前なのだ。
「すなわち……これ以上、と言われる前の出来事ですなぁ」
うんうんとしたり顔でうなずく幸綱。
詭弁だ、ふざけるなと弘就は怒鳴りたいが、よく見ると、幸綱のうしろに、油断ならぬ眼光をした十人ほどの男たちが立っている。
「ああこれこれ……さような目で睨んではいかぬ。こちらの方は、客人ぞ」
「客人!?」
一番驚いたのは弘就である。
今、捕まったばかりであるのに、「客人」とは面妖な。
「こちらの方は、不幸にも行き違いがあって、おそらく空っぽとなっているはずのこの苗木城を、山賊や野武士の手から守らんと、美濃の国主から差し向けられた、有為の士であられる」
「え」
こうなるともう、思考が追いつかない。
そんな状態の弘就を、網からそっと出してやる幸綱。
「……しかるに、われらとて、苗木城主の遠山直廉どのから、やはり山賊や野武士から城を守ってくれと頼まれた……やはり、行き違いでござるなぁ」
幸綱にぽんぽんと肩を叩かれる弘就。
いずれにせよ、幸綱の背後の十人の男たちがじろりと見ている以上、滅多なことはできぬ。
「弘就どの、皆まで言われるな。貴殿、以前に空城の計にてやられたことがござろう」
「う」
「そして今また、こうして空城と思いきや、突入した挙句にわれらに捕まったとなれば、弘就どの面目が立ち行かぬことに……」
「そ、それは……」
一色義龍の国盗りを手助けした日根野弘就であるが、ここまでの目に遭った以上、義龍の不興は免れないかもしれない。
……明智城の長井道利のように。
「弘就どの、ここは取引でござる」
「取引!?」
いつの間にやら幸綱が肩に手を回してにこにこと笑いかけてくる。
「われらは城を守りたい。弘就どのも守りたい……ならば、こういうのはどうでござろう」
幸綱は弘就を解放する。城外へ帰す。
そして弘就は城を囲むのである。
「そ、そこまでしてもらえ……いや、そうすると貴殿が不利になるのでは?」
弘就としては願ったりかなったりだが、囲まれた城の中にいる幸綱らはどうなるのか。
何か裏があるのではないかという思惑もあるが、とにかく弘就は、そこはどうするのかと問う。
「いやいや……適当な頃合いでわれら、逃げまする。弘就どのは、それを見逃がす。それだけで結構」
「ええ? いやいや、城を守れと頼まれたのでは?」
「まぁそうですが……その今川義元公の要請により、どっちにしろ信玄公より帰れとの命が下るでしょう。それまでの間、城を守りたいのでござる……それがしにも、武士の一分がござる。城を守れと頼まれたのに、そうほいほいと城を渡せませぬ。かといって、今川と武田の関係もある。そこで弘就どの、取引でござる」
日根野弘就は城を囲む。
真田幸綱は城を守る。
だが、それは武田から帰還命令が下るまで。
そうすれば、真田は「やむを得ない」ということで城を出ることができる。
そうすれば、日根野は「無益な戦いを避けて」城を接収することができる。
「しかもでござるぞ、弘就どの」
「な、なんだ」
気づけば城門を開けてくれて、日根野家の家臣たちが見える。
その家臣たちも真田の将兵の「説明」を受けたのか、ただ立って見守っているだけのようであある。
「弘就どの……ここを敢えて城を囲むに徹し、われらが城を出るのを見守れば、弘就どのは『戦わずして勝つ』を果たしたことになりますなぁ」
「た、戦わずして、勝つ?」
「さよう。兵法書、孫子に
そして幸綱は言う。
そうすれば……空城の計でしてやられた弘就どのの汚名も、これできっちり返上できますな、と。
……日根野弘就はこれに乗った。
ただし、誰が戦わずして勝ったかは、言うまでもない。
*
一方。
明智城。
城主・長井道利は、かねてから待ち望んでいた書状を得て、狂喜乱舞していた。
「やった! やったぞ! あの武田信玄が兵を出すと言ってくれた!」
……長井道利は、息子の長井道勝が斉藤道三を討とうとしたところを、横から小牧源太にその首を
「この長井道利が孫四郎と喜平次の刀を置かせるよう仕向けた。この長井道利が孫四郎と喜平次に酒を飲ませた。だというのに、何じゃ、これは」
今まで兄・斎藤道三の下で「雌伏」してきたのは、一色義龍に国を盗らせて
「ああも、謀殺したことを得々と語られるのも、困る。何とかせねば」
そうこうするうちに、道三についた明智氏の明智城を攻める手はずとなり、義龍は道利と道勝をこれの主将として派遣。多勢に無勢で明智城が落ちると、そのまま「功により」長井父子を城主として任命した。
「これでよし。手柄を認めてやったのだから、以後、慎め」
だが義龍が謀殺を行う
「このまま閑職に追いやるつもりか……あるいは、それ以上の沙汰もあるやも」
一度生じた猜疑心はそう簡単には払拭できない。
そこを、乗じられたのである。
当時、隣国信濃から東美濃を蚕食しつつあった、武田信玄に。
「ぜひ、
明智城の立地から、長井道利は中美濃と北美濃へと勢力を誇っていた。
その道利は、東美濃を手中にしつつあった信玄からすると壁だが、もし籠絡すればその壁は、信玄を守る壁となる。
「長井どの。何かあってからでは、遅うござるぞ」
抜け目ない信玄は、長井道利の猜疑心を見抜いて、さも同情に耐えないという振りをして接近した。
そして。
「長井どの。何やら西美濃がきなくさい。兵を集めているぞ」
それは、一色義龍が今川義元の「双頭の蛇」のひとつの「頭」として兵を起こそうとしているためなのだが、義龍から遠ざけられていた道利は、当然「双頭の蛇」のことを知らない。
一方で「双頭の蛇」を知る信玄からすると格好の餌で、彼はここぞとばかりに道利の猜疑心を
「
「かの項羽も言っているではないか、先んずれば人を制す、と」
「何やら菩提山城の竹中半兵衛や、苗木城の遠山直廉といったあたりが動くとの話が」
そこへもって、竹中半兵衛による国譲り状騒動であり、遠山直廉の尾張行きである。
むろん、信玄としては事前に知っており、自らも策動した結果であるが。
「これは、好機ではないか」
今、美濃は揺れている。
一色義龍が最も頼りにしている日根野弘就は苗木城に釘付け。
お膝元である西美濃三人衆も、国譲り状のからみで動きが鈍い。
「一朝ことあらば、武田が信濃から兵を出そう」
その書状が、最後のとどめとなった。
さらに書状には、信玄の腹心であり宿将である真田幸綱が苗木城にいる旨、記載されていた。
「時こそ、至れり」
……こうして長井道利は、一色義龍に対して離反を表明したわけである。
本人としては、敢然として。
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