65 輿上(よじょう)の敵 後編

 織田信長(が化けた商人)のいる背後に、釣り人の侍がささやく。


「……おい、そんな目で見るな。本当だぞ。それも、あいつの言っている今川治部大輔が相手だったんだぜ」


「……わけのわからぬことを!」


 とうとう痺れを切らしたのか、山口教継やまぐちのりつぐは一斉に襲いかかろうとした、その時。


「お~い、義父上ちちうえ~」


 妙に、間延びした声が響いてきた。

 見ると、何やら、中折れ烏帽子えぼし腰蓑こしみのといった、漁夫の格好をした大柄の男が、こちらに向かって駆けて来ていた。


義父上ちちうえ、こちらにいらしたんですか。探しましたよ」


「お、婿むこどの! ちょうどよいところに来た」


 侍は漁夫の格好をした男と肩を組み、さああいつらをやっつけようと呼びかけた。


「ええ!? 何ですかこの人たち? やたら剣呑けんのんな感じじゃないですか」


「イヤこちらの御仁が追われていてな……で、こちらの御仁、婿どのへの手土産を釣るのを手伝てつどうてもろうて……」


「おお~! 見事な鯉ですね~」


 聞いているこっちが引きずられて間延びしたしゃべり方になりそうな、そんな不思議な雰囲気を持った男だった。

 だが、おそらく侍にちがいない。

 骨格や体幹、足さばきとかがそれを物語っている。


「いいから……新当流、披露してやれ!」


「仕方ないなあ~」


 侍のに根負けして、漁夫の格好をしていた大柄の男は、すらりと刀を抜いた。


「あ~あ、せっかく漁夫の格好が……刀なんて抜いたら台無し……」


 大柄の男としては、侍と釣りを楽しむつもりでこんな格好をしたのに、竿ではなく刀を振る破目になるとは、というところである。


「あの、おれ、いや、私はもう逃げますので……」


 そして信長がさすがに悪いと思って申し出るが、もう聞く耳を持たないらしい。


「もう、怒った! せっかくの義父上との釣りが! このの剣の腕前を見よ!」


「えっ」


 その声は、山口教継のものだった。信長も驚いていたが、教継の方が動揺が激しく、声に出てしまったらしい。


「えっ……それじゃお前じゃないあなたさまは……」


「だから今川彦五郎いまがわひこごろう! 彦五郎氏真ひこごろううじざね! ……えっ、今川家の臣なのこの人たち?」


 氏真が目を丸くして教継らを見るが、知らないなぁと教継らが地味に傷つく発言をした。

 教継の方は、さすがに現当主である氏真の顔は遠くから見ていたので、今にしてようやく、思い出していた。

 漁夫の格好などしているから思い出せないのだ、と言わんばかりの渋い顔をして。


「…………」


 一方で信長の方は急いで頭を回転させる。

 この漁夫の格好をした間延びした言い方の大きいのは、今川氏真。

 とすると、その氏真を「婿どの」と呼ぶ相手のこの侍は……。


「それにしても義父上こそ北条家の当主だって、最初から言えばいいじゃないですか。小田原の北条新九郎氏康、ここにあり! な~んて」


「……言ったって信じないだろ? だって婿どのだって知らない輩じゃないか、いわんや、おれをおいておや……ってなもんよ」


 北条氏康は肩をすくめた。

 実を言うと、北条水軍を率いての尾張入りについて、「詰め」をするために駿府に来たところである。

 ところが斯波義銀なる足利幕府の権門意識けんもんいしき権化ごんげのような男が駿府大路を徘徊していたため、敬遠して川原で釣りをして待っていることにした。

 婿である氏真には、その旨を家臣の清水小太郎を通じて伝えていた。

 そして氏真はそれならと漁夫の格好をして氏康に会いに行くことにしたため、その着替えに手間取って、遅れていたのである。


「……山口とやら」


 氏康が一歩前に出ると、声をかけられた教継は一歩退いた。


「最初に言ったが、目が合って逃げただけで、ここまでやる必要は無かろう? そなたらは何か盗られたのか? ちがうだろう?」


「……は、はい」


「なら、見逃がしてやれ。この者はおれの釣りを助けてくれた。だから、おれが頭を下げよう」


「い、いや! そこまでは! そこまでは!」


 さすがに今川義元と三国同盟を結び、その息子の氏真に娘を嫁がせている北条氏康に頭を下げさせたとあっては、


「ではこれにて! 御免!」


 教継らは、そそくさと去っていった。

 あとに残された氏康と氏真、そして信長は、誰からということもなく笑い合った。



「おかげで、いや、おかげさまで助かっ……りました。ではこれで」


「そなた」


 氏康の射るような視線。

 氏真は氏康に渡された釣り竿で早速に釣りに興じているらしく、こちらに関心はないらしい。


「……何でしょう」


「身分を偽るなら、商人よりも僧の方が良いぞ。侍らしい仕草やしゃべり方をしても、それは出家の前がそうだったからと言える」


「………どうしてそれを」


「聞いたとおりだ。ま、大体が勘だけどな」


 氏康はそれ以上追及するつもりはないらしく、微笑みながら、氏真の隣に座った。

 信長はそれを黙ってみていたが、ひとつだけ聞きたいことがあったので、氏康の背中に聞いた。


「……何で助けてくれた?」


「追われているというのに、寝ていたおれのために釣りを助けてくれた。それで充分さ……ちがうかね?」


「……いや、ちがわん」


「なら、ね。さっきの奴らがまだうろちょろしているやもしれん。早く帰れ、へ」


「…………」


 氏真は「かかった」と言って竿と格闘している。

 熱中しているらしく、氏康と信長の会話に気づかない。


「おっと、言い過ぎたな……まあ知多の山口教継や斯波義銀を見て逃げ出すなんざ、限られていると思うがね。いや、詮索はよそう……そうだな、これだけは言っておくか。もし織田上総介おだかずさのすけどのうたら伝えといてくれ」


「…………」


「人間、策なんてものは大体が思いつくものだ……だが、問題はだ。ともいうがね」


 それじゃおさらばだな、と氏康は一瞬だけ顔を見せ、そして次の瞬間には、氏真の竿を握って、引っ張るのを手伝っていた。

 もう何も言うことは無い、貸し借りは無しでということか。

 信長はそう納得して黙って頭を下げ、そして場を離れて行った。

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