62 菩提山 後編

「国譲り状……」


 竹中半兵衛は帰蝶から手渡されたその書状をめつすがめつ見た。

 たしかに、あの時言っていた。

 あの時――長良川の戦いの時に、斎藤道三は言っていた。

 尾張の織田信長に、国を譲ると。

 それをわざわざ書状に残していたとは。


「書状」


 そうか、と半兵衛は膝を打った。

 美濃が双頭の蛇のひとつの「頭」と化す時。

 つまり、今川義元というもうひとつの「頭」が、尾張を食らわんとする時。

 この書状を使って、美濃をかき乱せ、美濃を「頭」でなくしてしまえ、と道三は策したのだ。


「大殿……」


 そしておそらく、そのかき乱すことを期待されたのは、この半兵衛。

 長良川の戦いの前夜のやり取りから、それを期待されるのは、この半兵衛とたどりつく。

 道三はそう考え、そしてこの半兵衛ならと。

 そう見込んだのだ。


「士は、己を知る者のために死す、と言います」


 半兵衛は謹直にそう言いながらも、頭の中ではある思いがむくむくと立ち上って来るのを、止めることができなかった。

 楽しくなってきた。

 のちの世の語り草となるべき活躍を見せる時は、今。

 ……そう、思い始めていた。


「その話、われらも一枚ませてください」


 気がつくと、庭にいる木綿の隣に、端然とたたずむ旅僧がいた。

 一徳斎である。



「……いやあ、何かのぞき見していて悪いなぁ、とは思ってたんですよ」


 そう言うわりには、悪びれない態度で上がり込む一徳斎である。

 木綿は仰天して声も出ない。

 半兵衛と小六は抜刀しようとしたが、帰蝶が「まあまあ」と抑えた。


「わたしたちを妨害したいなら、最初から国譲り状を奪えば良い……でも、一番この中で半兵衛どのに渡るのを黙って見ていた……そこは信頼していいんじゃないでしょうか」


 一徳斎はつるりと顔面をなで、そこまで考えられていたのか、と感歎の声を上げた。


「いやはやなかなか……なかなかのお方ですね」


「感心してないで、名を名乗れ」


 これは小六の台詞である。


「一徳斎と言ったはずだが?」


韜晦とうかいするな……では、『われら』とは誰のことだ」


 一徳斎は、ふむ、とあごに手をやって、「ま、いいか」とつぶやいた。


「あまり大きな声では言えんが、武田家だ」


 意外とそれは大きな声だったので、木綿が「わあわあ」とさらに大きな声を出して、打ち消した。

 半兵衛は知らぬ顔をしていたが、彼の犀利な頭脳は答えを導き出していた。


「たしか出家する前は……真田幸綱さなだゆきつなと名乗っておられた方かな」


「さよう。お見知りおきを」


 いっそ堂に入ったほどの挨拶を施す幸綱。

 真田幸綱。

 真田一徳斎幸隆さなだいっとくさいこうりゅうとして後世に名を残す知将にして、真田昌幸の父であり、真田信繁(幸村)の祖父である。



鬼弾正おにだんじょう・真田幸綱といえば、鬼美濃おにみの原虎胤はらとらたねや名軍師・山本勘助やまもとかんすけとならんで、武田家の柱と聞く。その柱がなぜ」


 いつの間にか帰蝶を守るように位置していた半兵衛が問うと、幸綱はため息をついた。


「いやまあ……実は信玄さまが、甲相駿三国同盟に基づいて、その双頭の蛇の一環として、一色義龍の後詰めにされて、それが気に食わないゆえに、何とかしろとのおおせで」


 かなり機密の情報をぺらぺらとしゃべる幸綱。

 これには冷徹な半兵衛も度肝を抜いた。

 帰蝶や木綿、小六も同様に唖然とした。


「そも、東美濃の方は何とかなるのでござる。あの辺は武田家ともよしみを通じておられる」


 たとえば東美濃の遠山家は、戦国のとして、各方面へをしており、それは斎藤家や一色家でもあり、武田家でもあった。


「でも、西美濃の方は堅い。西美濃三人衆なんてのまでいる……ま、どっちにしろ、西美濃にを入れるには、ちとひと苦労、と思っていたところでござる」


 やれやれ、と幸綱は竹筒を取り出して、水を飲んだ。

 ぷはあ、と息をついてから、幸綱は言う。


「そうしたら、ちょうど織田家が上洛からの帰りで、そこから何やら人影が分かれでた、という寸法で……」


「武田は今川を裏切るのですか」


 帰蝶の刃を突きつけるようなその問いに、さすがの幸綱も言葉に詰まった。

 裏切るというか、今川と織田がにせめぎ合って欲しい、というのが正確なところである。

 武田信玄としては、海道一の弓取り・今川義元が尾張を征服するまでは良いが、美濃までほしいままにするのは気に食わない。

 信玄には、美濃への征服欲があった。


「海道一の弓取りは、一の弓取りのままでいてもらおうか」


 そう言って信玄は、幸綱に美濃の調略を命じた。

 義元が尾張で戦っているうちに、あわよくば、美濃を盗ってしまうつもりである。

 それこそ、一色義龍が双頭の蛇の「頭」として役に立たないと称して。



「……ですがまあ、美濃全部を盗るのは無理でしょう。たぶん、東美濃がせいぜいでしょう。そこで提案です。手を組みませんか」


 幸綱は笑顔でそう言ってのけた。

 だがその目は油断なく、国譲り状に注がれている。

 断れば、盗るということか。

 幸綱はそれ以上は黙して言わない。

 あとは任せるということだろう。


「手を組みましょう」


 帰蝶はわりとあっさりと答えた。

 小六に木綿、半兵衛までが「えっ」と叫んだ。


「そ、そんな」


「性急にもほどがありますぞ」


「もう少し考えてから……」


「半兵衛どの」


 帰蝶の落ち着いた声。

 その声は、皆をも落ち着かせる効果があった。


「おそらく、この機を逃がせば、武田との縁が切れます」


「む」


 もし幸綱が甲相駿三国同盟に基づいて、武田の者だとして、一色義龍に告げ口したら、どうなるか。


「そうか……それはそれで、菩提山に一色軍討ち入り、となるわけか。すると、武田としては東美濃から西美濃へと触手を伸ばす機会となる……」


「それも分の悪い賭けでござるよ。何より、今川さまにたらだ」


 肩をすくめる幸綱。

 だがそういう賭けになってもかまうまい、という目をしている。

 半兵衛はため息をついた。


「どうやら幸綱どのと手を組んだ方が、のようだな」


と言うか」


 幸綱は手を伸ばした。

 半兵衛はその手に国譲り状を渡す。

 幸綱はほうほうと言いながら読み、終わると半兵衛に返す。

 帰蝶はそれをにこにこと見守っている。

 小六は動揺しているが、その横で木綿もうなずいている。


「お手前……この幸綱も、武田も計算に入れて、何かを思いついたのでござろう?」


 知らぬ顔をして、と幸綱が付け加えると、半兵衛は笑った。

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