61 菩提山 前編

「濃」


 馬上、織田信長は帰蝶を呼んだ。

 濃とは、美から来た帰蝶の愛称である。


「何でしょう」


「美濃については、濃に任せて良いか」


「それはもう……」


 元より、そういう手はずである。

 そのための「仕込み」もしてある。

 今、場所は美濃の、西美濃のあたり。

 そろそろ、決行するかと思っていたところだ。


「実は」


 信長は、今川義元へのを思いついたという。

 ……人の悪い笑顔を浮かべて。


「そのためにも、一刻も早く尾張へ戻りたい。ぜひ、をやりたい」


 だから、帰蝶はこのまま美濃にて潜伏し、信長もやはりこのまま尾張へ帰り、二手に分かれて、それぞれでし、時を稼ぎたいとのことである。


「承知いたしました」


 帰蝶の「仕込み」は、信長のその目論見を可能にする。

 否やは無かった。



前田又左衛門利家まえだまたざえもんとしいえ


 そう呼ばれると、利家はと体を震わせた。

 とうとうこの時が来たか、と言いたげな悲壮感溢れる表情をして。


「何だその顔は」


 信長にそう言われると、利家は分かっているくせにと口を尖らせた。


「主命でござるから、やるのでござる……その心情きもち、ご承知おきくださいませ」


「分かった分かった」


 信長が「しばし休むぞ」と言うと、同朋衆どうほうしゅう十阿弥じゅうあみが手早く幔幕を設営した。

 そして幕で仕切られた場所へ、利家が十阿弥と共に入り、しばらくすると、女装した姿で出て来た。

 化粧までしていた。


「……なかなかですね」


 一方の帰蝶は、別の仕切られた場所で着替えを済ませ、男装していた。

 そして芝居がかって信長に一礼する。


「それではわたし、ではなく、それがし斎藤利治さいとうとしはるは、これより密命により、美濃に潜ります」


 斎藤利治とは、帰蝶がかつて、長良川の戦いにおいて、父・斎藤道三より賜った「戦場での名乗り」である。


「うむ」


 信長が満足そうにうなずくと、利家を抱き寄せた。


「ここなと共に、おぬしの無事を祈っておるぞ」


「応、ではない、はい……いってらっしゃいませ、お方さま、ではない、利治さま」


 微妙に裏声まで使って「帰蝶」を演ずる利家に、信長と帰蝶は失笑してしまった。

 それは十阿弥も同様だったらしく、彼は甲高い声でけけけと笑ってしまい、利家に「うるさい。斬るぞ」と凄まれてしまう。


「おいよせ又左またざ、じゃない濃……あまり十阿弥をいじめるな」


 誰がお前の化粧をすると思ってる、と信長はささやいた。

 それを言われると利家は黙るしかなかった。


「これはのう……美男のおぬしじゃからこそ、濃との入れ代わりが成り立つとしてやっておる。名誉なことぞ。ゆえに、励めよ」


「はあ……」


 励めと言われても、と利家は思ったが、これから帰蝶の挑むを考えると、そうそう不満を唱えるわけにもいかない。

 利家は懐中からこうがいを取り出した。笄とは、もとは髪を整える棒状の用具だったが、この頃にはいわゆる刀の装具という扱いになっていた。


「利治さま」


「何です」


「これ……妻女のが、お守りに、とのこと。ぜひ持って行ってくだされ」


「まあ」


 当時、利家はと所帯を持ったばかりで、その仲の良さは早くも評判となっていた。

 

「嬉しい……ではなくて、ありがたき幸せ。あと」


「何でござ……何です?」


「近すぎ。もっと、離れなさい」


 帰蝶は利家の肩をにぎる信長の手を、平たい目で見つめた。

 あわてて信長は手を離す。

 そして利家は扇を取り出して顔を隠した。

 照れたわけではない。

 主君の妻女に嫉妬されるという理不尽さ、それを歎く顔を見られたくなかったからである。



 信長と別れた帰蝶は、かねてからの手はずどおり、蜂須賀小六と木綿藤吉を供にして、一路、菩提山ぼだいさんという山に向かった。 

 菩提山。

 そこには――竹中半兵衛という男が城をかまえていた。


「なかなかに大きいですね」


「西美濃では最も大きい、とのことです」


 帰蝶のその問いへの回答に、小六が美濃中の城を踏破したことが透けて見える。

 木綿もそれを悟ったらしく、うんうんとうなずいている。


「さすがに――今孔明といわれる方が縄張りしているらしく、結構な城ですね」



 今孔明。

 竹中半兵衛の二つ名である。

 かつて、長良川の戦いにおいて、半兵衛は主君・斎藤道三より大桑城おおがじょうを託される。

 そして長良川で道三が一色義龍と激突したその時、半兵衛は、敵将・日根野弘就ひねのひろなりの大軍を相手に籠城戦を繰り広げていた。

 敵の兵数に物を言わせた攻めを頑として撥ねつけ、半兵衛は大桑城を守り抜く。

 極めつけは、弘就が道三討ち死にを得意げに告げたときのことである。

 そのことをすでに知っていた半兵衛は、夜、密かに、道三から教えられていた脱出口から兵を撤退させ、己のみが残っていた。

 半兵衛はわざとらしく弘就を挑発し、城を攻めさせ、敢えて陥落させたところで、悠々と例の脱出口から脱出した。


「空城の計だと?」


 弘就は憤然とし、「可惜あたら孺子こぞうに名を成さしめたか」と悔しがったという。

 以来、半兵衛は今孔明と称せられるようになった――。



「……しかし、今では一色義龍に臣従しているそうです。まあ、国人の立場なら仕方ないでしょう」


 小六が肩をすくませる。

 彼とて国人である。

 転向するのはやむを得ない。

 だがそう転向した相手を、転向しろというのは、いかがなものか。


「そこはくしかないでしょう。何とかなると思います」


 帰蝶は朗らかに笑った。

 すると、近くを歩いていた旅僧が「いい笑顔じゃ」と拝んで来た。


「観音さまの笑顔じゃ」


 一徳斎と名乗ったその旅僧は、と言って、手を合わせた。

 何だかそう言われるといい気分になって、これからやることに自信が出て来た帰蝶は、旅僧にやはり笑顔で手を振って別れた。

 小六は意味ありげに木綿に目配せし、木綿はしばらくの間、じっと旅僧を見て、その姿が見えなくなるまで視線を外さなかった。


「どうしたのです?」


「相当の手練てだれの間者か……あるいは名のある武士のようです。努々ゆめゆめ、ご油断なきよう」


「そうでしょうか」


 そうこう言っているうちに、城門が見えて来た。



「お断りします」


 その男――否、少年とも言っていいぐらい、幼さを感じさせる竹中半兵衛は、にべもなく断って来た。


「たしかに私は大殿に……故・道三さまに味方しました。だが今は、一色義龍さまの臣です。臣として、主を裏切るのは、いかがなものか」


 つよい視線である。

 若いゆえか、それゆえにつよい。

 そんな目をしていた。


「お説ごもっとも。けれどもこの帰蝶、いえ、斎藤利治は父上より斎藤家の家督を継いだものです。臣とおっしゃるのならば、わたしの言うことに従うべきでは?」


 帰蝶は懐中から「利治」と大書された紙を取り出す。

 それは、斎藤道三の筆跡である。


「…………」


 半兵衛は黙然として、帰蝶から手渡されたその紙を見ていた。

 小六は帰蝶のうしろからその様子を眺めつつ、周囲への警戒を怠らなかった。

 先ほどの一徳斎とやら、気にかかる。

 そんな表情である。

 万一に備えて、敢えて木綿は城の庭に待機させている。


「……たしかに大殿の手によるもののようですが」


 そう言う半兵衛も知ってか知らずか、たまに周囲へ鋭い視線を向ける。


「だがそれだけだ……貴殿が斎藤利治と名乗られても、斎藤家を家督したと言われても、この美濃の国主は、今や一色義龍さま。今さらそんなことを主張されても、どうなると言うのです?」


 帰蝶は莞爾かんじとして笑った。


「それをどうにかしていただきたいのです、半兵衛さまが」


「これは異なことを言う……」


 半兵衛は苦笑した。

 こんなことを言ってくる帰蝶という人は、たしかに斎藤道三の子なのだろう。

 しかし、そうだと言ったところで、今や一色義龍が美濃のだ。

 やりようによっては、それを覆すまではいかなくとも、かき乱すことはできそうだが……。

 そこまで考えて、半兵衛は頭を振った。

 いけないいけない。

 つい、こういうことを考えてしまうのが、悪い癖だ。


「ともかく、武士の情けとして、貴殿がお見えになったことは伏せておきましょう。お帰りなされませ」


 半兵衛は立ち上がった。

 先ほどからこの城をうかがう気配も気になる。

 見送りがてら、少し探るかと思ったその時だった。

 帰蝶が口を開いた。


「双頭の蛇、あるいは卒然そつぜん


「何ッ」


 半兵衛だけでない。

 さっきから感じるも、動揺している。

 卒然。

 双頭の蛇。

 それは、兵書に親しむ半兵衛なら必ずや反応するであろう言葉である。

 孫子いわく、く兵を用うる者は、たとえば卒然のごとし。

 帰蝶は、そういう文言を思い出せと言っているわけではない。

 今孔明・竹中半兵衛に、そこから考えろと言っているのだ。


「…………」


 長良川の戦い。

 あの時、大殿は、斎藤道三は、稀代の謀将は何と言った。

 何を考えていた。

 何を気にしていた。


「今川義元……」


 まさか。

 双頭の蛇とは。


「美濃と……海道……挟撃……」


「そうです。あの長良川の戦いなど、今川義元にとって、尾張乱入のに過ぎません。ゆえにこそ、です」


 帰蝶はを取り出した。

 国譲り状である。

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