45 道三の「最後の」書状
かつて山崎屋おはるであった尼は――山崎屋庄五郎、つまり斎藤道三の妻であった女は、道三からの最後の書状を読み終わった。
「……ふぅ」
それはため息とも安堵の息とも判別がつかない。
京。
その小さな庵の中、尼が書状を読む間、尼の茶の師である
ずるいな、と書状を届けに来た明智十兵衛は思ったが、宗易なりの気づかいかもしれぬと、彼もまた己を一個の茶の客として念じ、座して待つことにした。
尼の言葉を。
「……帰って来られなくて、すまない、と」
「そうでっか……」
十兵衛は、もしかしたら道三は……嫡子の義龍(今は一色義龍)に家督を譲り、自身はこの京へ上洛して来るつもりだったかもしれないな、と思った。
宗易が茶を出して来た。
「ま、一服」
「あ、ありがとうございます」
尼は目じりに光るものを残しながらも、笑顔で茶碗を受け取った。
その時。
道三の書状より。
かさり、と。
中からまた書状が出てきた。
「……何や、大殿、他にもまだ
十兵衛のその素っ頓狂な声に、尼と宗易は驚いた顔をしたが、次の瞬間、大笑いした。
「え!? あの人、もしかして他の女の人にも
「えっらい
「え? そら、
十兵衛は手を振って、それでもいい機会かと思って、道三の最期を語った。
嫡子「一色」義龍との相剋により、合戦に及んだこと。
その合戦の前の、愛娘・帰蝶との再会。
帰蝶に託した、帰蝶の夫・織田信長への美濃の国の国譲り状。
「そっから先は、わいも聞いた話やけど……結局、義龍とがっぷり四つ、ぶつかり合いたかったんやないかな」
つき合わされた将兵はたまったもんやないけどな、と十兵衛は
「ま、それで……あとは察しのとおりや。言いたくないけど、大殿は
十兵衛が頭を下げると、宗易がひょいと茶を出して寄越した。
なるほど、これが宗易が居てくれてよかった理由かと、ありがたく茶を受け取った。
「ふぅ……それで、その『中から出て来た
もしや尼にも頼みごとをしているようだったら、この十兵衛が代わってやらねばという思いで聞いた。
すると尼は照れたような表情をした。
「う~ん……あの人が『お前に頼みたい』と言って来た用事なので……わたしがやりたいのですが……」
「何や、その道三はん、えっらい面憎いやっちゃのう」
宗易が平たい目で尼を見つめていた。
彼は尼のことを恩人として尊んでおり、尼にこのような言動を取らせる道三に、ちょっとした
尼はそのような宗易の胸中を知ってか知らずか、「とにかく」と言って、道三の頼みごとを話すことにした。
「何でも……わたしも、たまに思い出話として、何げなく聞いていたのですが……庄五郎さんはむかし、法蓮坊とか、長井新九郎とかいう名前で……諸国を放浪していて……その時の知り合いに、約束を果たせなくてすまない、と伝えて欲しい、と。あとはまあ……いろいろと」
それがその『中から出て来た
「ふ~ん、で、その知り合いって誰でっしゃろ?」
十兵衛が「失礼」と言って、その書状を手に取ると、表に「多治比どの」と書かれていた。
「う~ん、わいも諸国を流浪しておったけど……分からん! 雲をつかむような話やなぁ」
「……ほしたら、わてが手伝いまひょ」
ここで宗易が身を乗り出した。
狭い庵で、大男が乗り出すと、凄い迫力である。
「道三はんは、まだ山崎屋がある思て、その
今さらながら、それは道三の死を察したおはる――尼の意向ではないか、と十兵衛は気づいた。
それなら、
「せやから、この千宗易がその代わりや。任しとき」
尼に、十兵衛の沈黙を気づかせないようためか、宗易はどんと胸を叩いた。
「まあまあ……でも、わたしが……」
「この宗易、今があるんは、おはるはん、敢えておはるはんと言うで、おはるはんのおかげや……せやから、わてがやるんは、おはるはんがやるんと同義や」
今、堺で相当の力を持つと言われる宗易だが、若い頃は父が亡くなり、金銭が無くて法事もできないという有り様であった。
泣きながら墓の掃除をしていた宗易を、たまたま通りかかったおはるが見かけたのが、縁の始まりだという。
「その
宗易は勢いよく立ち上がり、「ほな」と庵を駆け出していった。
あとに残された尼と十兵衛は呆気に取られていたが、やがて笑い出した。
「……意外と、足、早いんでんなぁ」
「茶人ではなくて……商人の時は、いつもああです」
そして尼が口にあてた手を外すと、真剣な表情になった。
「十兵衛さま」
「何でっしゃ……いえ、何でございましょうや」
「その、帰蝶という娘、もしかして」
「お察しのとおりで」
「そうですか……」
尼のしばしの沈黙。
だが万感の思いを感じさせる沈黙だった。
尼は――山崎屋おはるは一度だけ美濃に来て、帰蝶を生んだ。
そして帰蝶を夫、庄五郎――斎藤道三に託して、美濃を去った。
そこにはどんな思いがあったことだろう。
女手ひとつで子を育てるよりは……という事情か。
あるいは、道三にせめて、自分たちの子の父として……という願いか。
もしくは、その方が帰蝶のためになる、良い将来が待つ……という気持ちか。
尼の目を見ると、そのどれもちがうようで、どれも合っている……そう思える目をしていた。
「……野暮はよしておきますわ」
「気をつかっていただいて、すみません」
「ええんや、ええんや、詮索したところでなぁ……もう大殿は
からかう相手がいないのでは、意味無いわ……と十兵衛は肩をすくめた。
その十兵衛に、尼は聞いた。
「娘は……いえ、帰蝶さまは息災ですか」
「そらもう……って遠慮せんと。この場はわいだけや」
「ありがとうございます。そうだ、もうひとつ……帰蝶は、どうです? その……生き生きしておられますか?」
「そらもう!
十兵衛が受け合うと、尼は笑った。
*
尼が「泊まっていかれては」という誘いをしてきたが、十兵衛は固辞した。
尼は最後に「これを」と言って、十兵衛に
「山崎屋はたたみましたが、まだ少し
何も財産は残していないので、これがせめてもの礼であると言われては、十兵衛も断れず、受け取ることにした。
そして細川邸へと赴き、顔見知りになっている門衛に挨拶して入れてもらうと、すぐ藤孝が出て来た。
「よう来た」
ちょうどいいので泊まり賃だと油徳利を渡すと、藤孝はくんくんと匂いをかいで、「ええ油でおすなぁ」と感歎した。
「そんなにか」
「そらもう……この細川与一郎藤孝、公方さまの
しゃあけど銭が足りひんさかい、苦労ばかりやと藤孝は苦笑して、そして十兵衛を客間へと案内した。
そのまま
「せっかくやから」と藤孝が例の油徳利から油を注いで、
「あっかるいわぁ。それに、ええ香りやわぁ」
言われてみると、たしかにそんな感じがする。
どこで手に入れたと藤孝が聞いて来るので、「山崎屋」と答えると、経緯を聞きたがるので、酒食で気持ち良くなってきた頃なので、互いに寝転がりながら、嵯峨の一件を語って夜を明かした。
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