第八部 生死の別

44 交差する人々 ― 京 ―

 京。

 かつて、山崎屋という油商人の屋敷があったところに、明智十兵衛はいた。


「何や、もうたな、やってないんかいな」


 そこはもう普通の町家であり、十兵衛はそこに住んでいる町人に聞くと、ついこの間、店を閉めたという。


「えらいこっちゃ。大殿、何でそないな大事なこと、教えてくれへんのんや」


 十兵衛は天を仰いだ。

 大殿つまり斎藤道三から頼まれた、山崎屋のおという女性に書状を届けるために、京に来た。

 ちなみに、明智城での戦いにおいては、城主・明智光安から住民の避難を頼むと言われてしまい、つまりていよく落ち延びさせてもらうかたちで、生き残った。


「どいつもこいつも……頼めば何とかなる思てるねん、腹が立つ」


 言うほど怒っておらず、むしろ悔しいという表情をにじませる十兵衛。

 その十兵衛の背に「もし」と声をかける者がいた。


「何や」


「うわっ、すっごい仏頂面ぶっちょうづら


「わいは今、機嫌が悪いんや……お?」


 十兵衛が振り返ると、そこには若い男が立っていた。

 よく見ると、見知った人物だった。


「何や、与一郎やないか!」


「ひっさしぶりやの、十兵衛はん!」


 与一郎、つまり細川与一郎藤孝、のちの細川幽斎である。生粋の文化人であり、そして武将として知られることになる彼であるが、今は室町幕府の幕臣として励んでいる若者である。

 そして漂泊の十兵衛と知り合い、馬が合い、たまにふみをやり取りする仲となっている。


「そんで十兵衛はん、何や悩みごとでっか?」


「せや与一郎……ちょいと教えて欲しいんやけど……」


 十兵衛が山崎屋のおが、その後どうなったか知りたいと聞くと、藤孝は即答した。


「そんなら嵯峨さがの方にるで。何でも尼さんになったと」


「尼さん!?」


「せや、何ゆえか知らんけど、たなをきれいにたたんで、そんで嵯峨にいおりむすんで住んどる」


 藤孝は、いにしえの和泉式部みたいに﨟長ろうたけた美女やったのに、もったいない……とこぼした。


「そないなこというて、和泉式部見たことあるんか?」


 十兵衛のその突っ込みに、藤孝は「無い無い」と笑って答え、十兵衛の手刀を避けながら、それでも誰がになるのか、といううわさ話はあったと言った。

 平井保昌とは、和泉式部の夫で、求愛に際して、式部の「紫宸殿の梅の枝を取ってきて欲しい」という願いをかなえ(北面の武士に矢を射られたが)、それで受け入れられたという逸話の持ち主である。

 ちなみに、この故事を題材にした山鉾やまほこ(いわゆる山車だし)が、今日でも祇園祭で「保昌山ほうしょうやま」として見られる。


「与一郎な」


「何や」


「残念ながら……もうるで」


「えっ!? 何でそれを十兵衛はんが知っとるねん!?」


「正しくは、『った』、やけどな……」


 十兵衛の黄昏たそがれた表情に、藤孝はそれ以上聞くことはしなかった。

 藤孝は十兵衛に嵯峨への道行きを教え、「泊まるんなら、細川邸ウチに寄ってや」と言い残して、去って行った。



「ここやな」


 十兵衛が嵯峨で見つけたのは、小さな庵だった。

 やはり小さな門と垣根に囲われたそのきれいなたたずまいは、好感が持てた。


「やれやれ……やっと肩の荷ぃが下りる」


 門の前に立つ十兵衛は、懐中の道三の書状を服の上からぽんぽんと叩きつつ、「御免」と来意を告げた。

 はいはいと返事をしながら、庵の中から非常に品の良い、清らかな老女……というか年齢不詳の尼が出てくる。


「どちらさんでっしゃろか……初めてですえ?」


「せや、あ、ちゃちゃう、はい、お初にお目にかかります。手前、明智十兵衛光秀と申す」


 十兵衛は作法にのっとった礼を施す。

 それだけの雰囲気を持つ尼であった。

 尼は妙鴦みょうおうですと答えると、十兵衛をいざなった。


「ご丁寧に……立ち話も何ですし、とりあえず中へどうぞ」


「あ、いやいや……来客中でっしゃろ」


 十兵衛はそれとなく、庵の前にあるものを見た。

 もう一足見えたそれから、誰か来ていると察したのだ。

 尼は笑った。


「ほほ……わたしの茶の先生せんせが来てますけど……こういう不意の来客も面白いと言われますし」


 尼に袖を引っ張られて、気がついたら十兵衛は庵の前まで歩いて来ていた。


「参ったなぁ……わい、ではない、拙者、書状を渡すよう仰せつかっただけでござるからして……」


足音でんな」


 その通った声は、庵の中から聞こえた。

 思わず十兵衛は身がまえる。

 それだけの迫力を持った声であった。

 少し空いた庵の戸の隙間からのぞくと、そこには大男がいた。


「何や、そんな、かまえんといてや……ただ、あんさんの足音が言うただけでんがな」


宗易そうえきさんたら、茶の時のが抜けてませんよ。だからでしょ」


 尼にそう言われると、宗易と呼ばれた禿頭とくとうの大男は「オイヤ」と驚いた顔をした。

 次に宗易は破顔して、「これは、あやまった」と述べた。


「えろうすんまへん……せや、名乗ってなかったわ。わて、千宗易せんのそうえきいいますねん。堺で魚屋ととや、やっとります」


 千宗易。

 のちの千利休せんのりきゅうであり、この頃は堺で商人と上がり、茶人としても大成を遂げる時期であった。

 十兵衛もまた名乗ると、「美濃の方でんな」とすぐに出自を言い当てた。


「まあまあ……遠方からはるばる、お疲れ様です」


 尼は笑顔でどうぞ中へと言う。

 そう言われると、もう十兵衛も中に入らざるを得ず、一礼して、庵に入った。



 宗易は若い頃父を亡くし、貧窮に苦しんだが、そこを妙鴦みょうおう、つまり山崎屋おが、何くれとなく援助したという。


「だって、何となく……あの人に……庄五郎さんに似てて……面白そうなお方でしたから」


 尼はそう言って笑った。

 庄五郎とは山崎屋庄五郎であり、斎藤道三の商人時代、つまり尼の夫としての名であった。

 かなわんなぁ、と宗易は頭を掻いて、そして十兵衛に「どうぞ」と茶を出した。

 その無骨な手で出されたそれは、意外に繊細で美味であった。


「うンまい! ……ではうて、結構なお点前てまえでござる」


「はは、十兵衛どの、お楽にお楽に。急に客としてしょうじ入れたんは、わてらですさかい」


「いやいや恐縮恐縮」


 十兵衛はふぅと息をつくと、思い出したように懐中から書状を出した。


「恐れ入ります。こちら、わが主、斎藤道三入道利政さいとうどうさんにゅうどうとしまさ儀、山崎屋庄五郎どのより、ふみでございます」


 何やら大袈裟な感じになったなぁと十兵衛は思ったのだが、やはりこれは道三への最後の礼儀だろうと思い、押しいただきながら、書状を尼に渡した。

 尼はまあまあと言って、やはり頭を下げて、受け取った。

 そこで宗易は席を外しまひょかと、腰を上げた。

 その目を見ると、どうやら道三のを知っているようだった。


「……いえ」


 尼もまた伏し目がちであったが、知っているような目であった。


「何というか、身も世もなく、泣いてしまいそうなんです……そうすると、あの人のふみを読めないでしょう? だから、お二方とも、居て下さい……ほんと、十兵衛さんが持って来てくれて……宗易さんがいてくれて……そういうで、幸いでした」


 かさり、と音を立てて、尼は書状を開いた。

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