41 津々木蔵人(つづきくらんど)
……少なくとも、織田信行はそう信じた。
信じてしまった。
寵臣・
末森城。
城主の間。
「先手を打つのです、信行さま」
蔵人によれば、すでに岩倉織田家にも今川義元は手を回しており、信行が
「それだけではありませぬぞ、信行さま」
蔵人の甘言はつづく。
それは、ただ聞くだけなら悪くない話であるが、何か大掛かりな罠の存在が、その仕掛けがちらついて仕方ないのだ。
「今の守山城主・
「あ、兄をか」
織田安房守。
織田信時あるいは秀俊として伝えられる人物である。
詳細が知られていないので、兄弟関係はあまりよく分かっていないが、織田信秀の次男として伝えられており、そうすると信長と信行の兄ということになるが、おそらくは庶子であるとされる。
そして、ここで重要なことは、この織田安房守が、信長派とされていることである。
「安房守の年寄衆の
もしや、と信行は思ったが、蔵人の饒舌を止めることはなく、黙っていた。
「……その角田新五が、このたび、城の塀や柵の
「こ、好機、とは」
「簡単なこと。普請に乗じて、こちらの軍勢を入れまする」
「何と」
段取りが、
あまりにも巧すぎて、このまま乗ってもいいのかどうか、逆に信行は戸惑った。
戸惑ったが、次の蔵人の一言が、とどめとなった。
「やらなくても良うございますが……後になって悔やまれても知りませぬぞ……信長さまに討たれるその時に。あの時、戦っておけば良かった……と」
信行の手が、故・織田信光の北の方の書状を持つ手が震えた。
*
弘治二年六月。
その計画は実行され、角田新五の手引きにより守山城内に「謎の軍勢」が入り、織田安房守は切腹に追い込まれ、果ててしまう。
そして新五は守山城に籠城し、自立を目指しているかのように見えた。
これにより、今や、織田弾正忠家の有力者は、信長と信行、ふたりのみとなった。
「……表面上は、角田新五なる者の恨みを晴らすための行動と見える」
清洲城。
城主の間にて、織田信長は、守山城の事件の詳細を謀臣である
「しかし」
信長の隣の帰蝶は憂えた。
これでは、信長の戦力減である。いかに角田新五の「暴走」とはいえ、守山城にいた織田安房守が死し、城は新五が占拠しているのだ。
しかもこのままだと、信行側として守山城とその兵力が信長に敵対するかもしれない。
「濃」
濃とは濃姫であり、帰蝶の愛称である。信長からの。
「濃……城の今後については策がある」
「策、ですか」
ただし守山城の兵力については、しばらくは諦めざるを得ないだろう、と信長は言って、簗田政綱に目配せした。
政綱は帰蝶に一礼してから、告げた。
「守山城の……元の城主であった、織田信次さま。この方の行方を、つかんでおりまする」
織田信次とは、信長の叔父である。かつて、萱津合戦において守護又代・坂井大膳が攻めてきたときに、人質となった人物である。
その後、信次の兄(信長の叔父)・織田信光が那古野城に移ると、その居城であった守山城に信次が入った。
そこで信次の家来が、信長と信行の弟・秀孝を諍いを起こし、秀孝を射殺してしまうという事件が起きた。
……信次は処罰を恐れて逃走して、今に至る。
「……元々、われは秀孝にも非があるとして、不問に付すと言っていた」
「なるほど。であれば、信次さまをこの機に守山城に戻す、と」
帰蝶は手を打った。
信長もうなずく。
「そうよ。角田新五なるもの、元は信次の家臣であったと聞く」
ただし、新五が信行と裏で手を結んでいるとなれば、いかに旧主・織田信次の到来とはいえ、そう
「まあせいぜい……守山の城が敵に回らなければ良い、そこが落としどころだろう」
信長は楽観しない。
そもそも、岩倉織田家という後背の脅威の存在も忘れてはならない。
岩倉織田家は、あの長良川の戦いに際して、「待ってました」とばかりに信長に対して敵意を示し、具体的には清州城付近の下之郷へ焼き討ちをおこなっている。
「今川義元の差し金であろうが、何とも小憎らしいことよ」
しかし、信長は諦めない。
元々、岩倉織田家の織田信安とは親しい間柄であった。
「もしかして……和解に務めようというのですか?」
「ちがう、ちがう」
帰蝶の思いもかけない方向からの問いに、信長は片目をつぶって否定する。そして説明する。
岩倉織田家の内情は察しが付く、と言いたいのだ。
「岩倉織田家の織田信安はな、長男の
「まるで……どこかで聞いたような話ですね」
「そうだな」
帰蝶と信長はそろって苦笑する。
帰蝶の実家、斎藤家では嫡子・義龍が他の兄弟を殺し、父・道三と合戦になった。
織田弾正忠家では、現在、信長が弟の信行と対立している。
「ま……その辺に付け込む余地がある、と言いたいのだ」
「……ですね」
むろん、信長は岩倉織田家の内紛発生に期待するだけでなく、
織田信清は、岩倉織田家を補佐していた織田信康(織田信秀の弟)の子であり、犬山は岩倉の近くにある。
信清が信秀と領地をめぐって争いを起こしたこともあり、仲違いしていたが、そこを信長は歩み寄りを見せ、岩倉織田家への抑止力としたのである。
「これで、岩倉織田家への方は、何とかなろう……だが、信行の方を、どうするか」
信長は悩む。
帰蝶も悩む。
そこで帰蝶は思いついた。
信長と信行の母である
「せめて……その津々木蔵人の暗躍を日の目にさらして、
「……だな。そうすれば、蔵人の動きをある程度抑えることができよう。よし、
現在、土田御前は信行と共に末森城に住んでいる。
もしかしたら信行の蠢動に関与しているかもしれないが、信長も母の子として頼めば、少なくとも土田御前は清州に来てくれるかもしれない。
しかし、信長と帰蝶の読みは、甘かった。
土田御前についてではない。
信行と……津々木蔵人の動きについて、読みが甘かったのである。
*
「……篠木三郷を信行が押領だと?」
押領とは、他者の領地を侵し、年貢などを奪うことを言う。
篠木三郷は、信長の直轄地である。
「くそっ、何と言うことだ。信行……これではいくさじゃぞ、判っているのかッ」
兄弟であるという点でも、弾正忠家の相剋になるという点でも、信長と信行のいくさは避けたいところである。
切歯扼腕しながらも、信長は家臣の佐久間盛重に命じて、名塚に砦を築かせた。
信行が篠木三郷に砦を築かせていたからである。
時に、弘治二年八月二十二日。
世にいう「稲生の戦い」の、二日前の出来事であった。
*
……津々木蔵人が、信行の背後からささやく。
「岩倉織田家など、
信行と信長の戦いを邪魔しなければ、それでいい。
そして、信行が信長を追い詰めていく先に「壁」として
蔵人はそう言うのだ。
「そ、そうか」
「安心なさいませ」
蔵人の貼りついた笑顔が、信行の肩に乗る。
その妖しさに、信行は抗えない。
「この蔵人……実は義元さま、否、太原雪斎さまより手ほどきを受けておりまする……いろいろと」
そして蔵人は、信長打倒の軍略を告げる。
信行には、判らない。
それが必勝なのかではない。
こうして、兄・信長と対決することが、本当に良いのかどうか、が。
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