28 范可(はんか)
太原雪斎が、美濃国内某所にて斎藤道三と
稲葉山城。
城主の間。
事実上の城主にして、先の城主・斎藤道三の嫡子・斎藤義龍は、
だが、会ってみると、栴岳承芳はわりとあっさりと「今川義元である」と名乗り、その証拠にと将軍・足利義輝の
「義元どの」
「何じゃ」
義元は下座に座っているが、いざ面と向かってみると、義龍としては自分が下に座っているような気がした。
それだけ、義元には貫禄があった。
「義元どの……この御内書、
斎藤義龍は、それ以外は美濃の国主であると認めるなど、自分の望んだとおりの書状であり、文句はないと言った。
義元はそれを聞いて、こともなげに言い放った。
「ならば問題はない……問題があるのは、未だに『斎藤義龍』などと名乗っている、お手前である」
「何と」
まさか、そのような返しが来るとは思わなかった。
義龍の内心にかまわず、義元は話しつづける。
「まずは……范可、というところから説明しようかの」
范可とは、
「実在する、しないは問題ではない」
義元は将軍の御内書であるというのに、そのようなことは些末な間違いであると言わんばかりである。
「要は……義龍、否、范可どのがこれからそうあれば良いということじゃ……やむを得ず、父を、の」
「や、やむを得ず、ち、父を」
「そうじゃ」
大蛇の微笑みである。
見えない舌をちろちろとさせながら、義元は義龍の方ににじり寄った。
「范可どの、いや義龍どのでもいいが……あと、『一色』というのを忘れるな」
「い、一色」
「そうよ」
義元は調べ上げていた。義龍の母である、斎藤道三の側室・
「……痛快ではないか」
「何がでござる」
「側室の子だの何だの言われているそなたが、実は一色という貴種の血を引いている、と。今こそ……斎藤を越える時が来たようじゃ」
「斎藤を、越える」
「そうじゃ……一色ならば、斎藤など、物の数ではない」
飽くまでも足利家を頂点とする室町幕府という仕組みの中では、である。
「…………」
義龍は押し黙った。
実は義龍は、道三を殺すことまでは考えていなかった。道三に自分を認めさせて、嫡子として名実ともに認められれば、それで斎藤家の跡を継いで……。
「甘いのう」
義元は容赦ない。
そして誰にも内緒だと言って、己が半生を語った。
側室の子として生まれた。四男として。
当然のごとく寺に入れられ、そこで太原雪斎という傑出した僧侶と出会ったから良いものの、そうでなければ、どこかの寺のお飾り、あるいは人質として一生を終えただろう、と。
「そう――弟の氏豊ですら、生まれの良さから尾張那古野に城を持てたというのに……」
義元は、己を空恐ろし気に見る義龍に気づいた。
「……ああいや、すまぬすまぬ、こちらの話じゃ。それより……どうじゃ? 予の場合は母の血筋など、期待できなかった。そして、長兄と次兄が病で死ぬという奇禍が無ければ――」
そこでまた義元は笑った。
すでに義龍は魅入られている――その、魔性の笑みに。
仏陀を誘惑したという、悪魔の笑みに。
「……運良く、花倉の城にこもった三兄・
「今川」
「そうじゃ、
そしてそれ以上、義元は口を開かなかった。
あとは――義龍の脳裏で己の言葉が溶けて、ある種の作用を呼び起こすのを、じっと見て、待っていた。
「……義元どの」
義龍は、くぐもった声を上げた。
だがそこに、欲望という名の大蛇が鎌首を上げたのを感じた。
義元もまた、同じ大蛇を心の中に飼っているだけに。
「……義元どの、予は――一色となる、范可となるぞ」
「それはそれは……
義元は立ち上がって、義龍の肩を抱いた。
すると義龍はいとおしそうにその義元の手をさすり……そして言った。
「
すぐに近侍の者が来た。
「何か」
「うむ。弟らに……孫四郎と喜平次に使いを出せ。予は
「病、ですか」
「うむ。こちら、京から来られた
「ははっ」
近侍の者が急ぎ去って行くと、義龍は「わが病の薬が……弟らの命よ」とほくそ笑んだ。
「……義龍どの、否、一色范可どのよ。では斎藤なる叛賊への懲罰、期待しておるぞ。そしてそれが成った暁には」
「皆まで言うな、義元どの……むろん、わが一色は今川と盟す。共に足利幕府の名門として、力を尽くそうではないか」
今ここに、斎藤義龍は、一色義龍となった(范可は号であるため、名前としては一色義龍)。
一色という名がそうさせるのか、元からの義龍の野望がそうさせるのか、それは分からないが、今――一色義龍は今、父・斎藤道三から国を譲られるのではなく、国を盗るべく走り出す。
……その国盗りが、実は今川義元という策謀家の謀略の一環であることを知る
「
義元は哄笑する。
その哄笑が道三に向けてなのか、その実、義龍に向けてなのか、それは判然としない……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます