第二章 下天の章
第五部 因縁の僧
26 美濃へ
「……それで結局、今川、しかも太原雪斎禅師の手によるものらしいということですか」
「……で、あるな」
信長は那古野城と織田信光未亡人・北の方の今後について指示を下し、ようやくにして清洲城へ帰って来た。
そして帰蝶の差し出した湯漬けを食べながら、信光殺害について語った。
北の方や坂井孫八郎に「説法」できる相手など、太原雪斎禅師をおいて他にはいない、と。
「……そういえば」
「何だ?」
「父上は、京にて修行していた時、雪斎禅師と知り合った、という話です」
「話、というのは」
実の娘であるのに、何故間接的な言い方なのか。
それが信長の疑問だった。
「……父上は、あまり過去のことを語りたがらないのです」
あるいは修行僧であり、あるいは油売りであり、あるいは……と、斎藤道三の前身には枚挙にいとまがない。
妙な詮索を嫌って、道三は家族にすら、それをあまり語らない。
ただ、酒が入った時に、たまさかに同席した家臣や近侍の者に洩らすことがあるという。
「わたしが侍女に聞いた話ですが、法蓮坊と名乗って修行していた父上が、還俗して油売りになったのは、雪斎禅師と知り合って、その知恵に恐れ入って、僧侶の道を諦めたからだとか」
でも、酔った上での話であって、不確かなものである……とも、侍女は語っていた。
「そもそも、あの悪知恵日本一の父上が知恵で負けるなど、ありえましょうか」
「悪知恵日本一」
信長は湯漬けを吹き出しそうになった。
その言葉ではなく、その言葉で実の娘から呼ばれた時の道三の顔を想像したからだ。
「いやいや……いくら何でもそれは言い過ぎでは」
さすがの信長も気の毒になったらしい。
しかし帰蝶はにべもなかった。
「いや結構ほら吹きだし……この前も、そういえば
「毛利? あの
厳島の戦いとは、天文二十四年十月一日、安芸の厳島にて、
「……ね? いかにも流行りの小袖を着てみましたとばかりに、話題の毛利とわしは朋友とか抜かしているみたいでしょ?」
「い、いやまあ……」
実の父親相手だけに、遠慮ない。
信長としては、ひたすらに道三を気の毒に思うのみである。
「次会った時には、今度は今川義元と会った、などとうそぶくやもしれませぬ」
「いくら何でもそれは無いだろう」
「ですね」
帰蝶は舌を出し、信長は笑った。
そこで気がついた。
帰蝶は、信光を
それに気がついた信長は、その帰蝶の心根に、励まされる想いだった。
*
美濃。
某所。
斎藤道三は、家臣に三河への何がしかの指示を下したあと、茶を喫していた。
稲葉山城ではない。
城は、嫡子である斎藤義龍に譲った、否、譲らされた。
「……何とも滑稽なことよ」
かつての城盗り、国盗りの英雄が、城を譲らされるとは。
しかし、美濃の国人、豪族らが義龍への支持に回っていることは事実で、道三としてはその声を無視できず、斎藤家の美濃支配を潰さぬためにはと、身を引いた。
帰蝶には隠居したと書状を送り、以後は美濃に来ぬようにと告げたばかりだ。
「……ま、これで終わるつもりはない。それゆえの三河へのちょっかいよ」
嫡子である義龍が、急速に美濃国内の支持を取り付けたこと。
この動きの背景に、道三はある推理を下していた。
「今川義元か」
三河と美濃は、実は国境を接している。
その方面からの蠢動に気づいてはいた。
義元の狙いは尾張だ。
その心底は知れないが、少なくとも表面上は、尾張の織田信秀と積年争い、つい最近では信長と赤塚の戦い、村木砦の戦いを繰り広げ、その野心の炎を燃え上がらせている。
「で、あれば当然……信長の義父であるわしにも触手を伸ばすか」
道三は義元の動きをある程度把握しており、だからこそ三河の足助城・
義元の美濃における動きの目的は、義龍を中心にして美濃の争乱を起こすことにあると見て、逆に起こしてやったのだ……と思っていた。
「だが、まさか……城盗りとはな。隠居とはな。これは義龍の器量というべきか……そこまでやってのけるとは……ま、読めなんだわしも、焼きが回ったか」
「……正直でいいことだのう」
道三は瞬時に脇に置いた槍を手に取り、障子越しにその発言の主を刺した。
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