10 末森城にて

 早朝。

 末森城。

 織田信長の弟、織田信行の居城である。

 信行はそこで、腹心である柴田権六勝家と話し込んでいた。

 信行は信長への対抗心に燃えており、信長がならと、信行は品行方正を心がけていた。

 その信行が、家臣であるとはいえ勝家の前で、片手の爪を噛みながら、いらいらとしていた。


「勝家よ」


「はい」


「兄上の使いが、確かにそう言うたのじゃな、この信行に兵を出せ、と」


「門番……と小者が言うには、そのとおりでござる」


 信長の使いと名乗る者は、末森城の門番に「まだ早すぎる」と城に入れてもらえず、門前で待機していた。

 それゆえに、勝家も門番からの(門番が門から離れられないため、さらにちがう小者からの)である。


「ふざけるな!」


 信行は怒鳴り、そしてまた爪を噛む。

 父の位牌に抹香を叩きつけるような輩――信長が、自分で戦うのはまだいい。

 しかし、さらにこの信行にも「兵を出せ、戦え」と命じてくるとは。


「あたかも……この信行が、兄上の下である、とでも言いたげではないか」


「…………」


 奇行奇癖で知られる信長では、弾正忠家だんじょうのじょうけに人が従わない。

 そう思ったからこそ、信行は「自分が弾正忠家の跡取りである」とふるまって、弾正忠家に人を従わせるようにしてきたのだ。

 そうすれば――やがて兄とて、自分の方が上だと認め、従うのは無いにしても、遠慮して、単なる独立勢力として孤立する道を選ぶだろう。


「そして弾正忠家はこの信行が盛り立てる。元通り、守護と守護代の忠実な家臣として、本来の在り方に戻る。さすれば、又代の坂井大膳どのとて――」


「手をゆるめる、とはなりませんでしょうな」


 それは勝家の発言ではない。

 突然、現れた第三者の発言だ。


「何奴!?」


 勝家が刀に手をかけると、その第三者は「久しいの、権六」と応じた。


「ひ、平手!? 平手政秀!?」


 これは信行の発言である。


「火急の件につき、この平手政秀、信長さまの命によりまかりこしました」


 両手をついての丁寧な挨拶に、信行も勝家も座り直して応じざるを得ない。


「……で、何用じゃ」


 しかし信行はすぐに爪を噛むことを再開する。

 政秀はそれを見て見ぬふりをして、「援軍を」と要請した。


「こたびの信長さま、そして信光さまの、弾正忠家としてのでござる。なにとぞ信行さまも合力ごうりきあそばして、共に織田伊賀守と織田信次さまをお救い……」


「さようなことにつきあういわれはないわッ」


 信行としては、先ほどいったとおり、守護代に恭順することこそが、弾正忠家の生きる道と考えている。

 だというのに、守護代とその又代に兵を向けるなど。


「できようはずがない。勝家、客人にお帰りいただけ」


「ははっ」


 勝家は立ち、その巨体を重たそうに動かし、政秀の真正面に立った。


「平手どの。聞いたとおりだ。帰ってもらおう」


「…………」


 沈黙する政秀の背後で――城内のどこかで、門番が怒鳴っていた。

 勝手に門をこじ開けて入った奴がいる、と。


「……門を破ってまで。いい加減にされてはどうか、平手どの。年寄りの冷や水が過ぎるぞ」


 勝家の苦言。

 そこまでは良かった。

 だが、そのあとにつづく、信行の嘲りが良くなかった。


「……まったく、主も主なら、家来も家来だ。こんな主従に後を任せるなんぞ、父上も病で焼きが回ったか」


「……おい、小僧」


 政秀の目がつり上がった。


「おみゃあ、いつの間に信秀のことを『焼きが回った』なんて言えるようになったのきゃあ?」


 政秀の尾張弁。

 朝廷や公家、他国の大名とのやり取りのある政秀は、常日頃、みやこ言葉を使うように心がけていた。

 その政秀が尾張弁を使うということは。


おりゃ、頭に来て。ええ加減にさらせよゥ」


 怒髪天を衝く怒りを意味した。

 信行をかばうように、勝家が信行の前に。

 だが。

 柴田勝家は後世に猛将として知られる武士である。

 その勝家が。


「か、勝家、何で退しりぞくのじゃ」


 信行は戦場に出たことが無い。

 だから、目の前の老人が怒るとは、どういうことかが、分かっていなかった。


「……お引きなされませ、信行さま。平手どの、否、平手の親爺オヤジを怒らせると」


 故・織田信秀以外は手が付けられぬ。

 沈毅な勝家も、震えが止まらないくらいの阿修羅の表情の政秀。

 その政秀が、一歩、前に出た。


 ずしん。


 信行の耳に、そんな音が聞こえたような気がした。

 つまり、今や信行も政秀の迫力に気圧けおされていた。

 そういえば思い出す。

 あの父・信秀が安心して尾張を空けて合戦に出たのも、この政秀が留守を守っていたからだという。


「……どけ、権六ゥ。そこな小僧に、弾正忠家を潰す気ィか、聞かせい」


「…………」


 勝家は死を覚悟した。

 脂汗を流しながらも、刀の柄に手をかけた。


「……ま、待て! いや、待ってくれ!」


 だが信行が音を上げた。


「す、すまぬ平手! わ、分かった。兵を出す! 出すから、どうかこの場は……」


「……あい分かり申した」


 それまでの態度はどこへやら、政秀は古式ゆかしく拝礼し、勝家を一瞥すると、きびすを返した。

 ついて来い、という意味らしい。


「……それでは、寄り騎に行って参りまする」


 寄り騎とは、援軍の意味である。

 ……こうして、織田信行は、家来の中で最も勇猛な勝家を、兄・信長への助っ人として、送り出す羽目になった。

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