05 揺れ動く濃尾
織田信秀は、死んだ。
自らの死を予言というか予期して、細々と指示を出し、最後の最後には、枕頭に嫡男の信長を呼び寄せ「後は任せる」と言いおいてから、逝った。
さすがに尾張の虎と讃えられるだけあって、実に堂々たる最期だったという。
また、その死の直前に、腹心の平手政秀を今川義元のいる駿府へと向かわせて、織田と今川の和睦を実現していた。
そして今、
信秀の葬儀が営まれていた。
その寺の一室にて、信長と帰蝶は控えていた。
「……親父殿」
信長はさっきからこの調子だ。
奇行の多いこの人だが、その奇行を受け入れ、さしてとがめなかったという信秀の死は、相当こたえたのだろう。
帰蝶がその背をさすってやると、「すまぬ」と言って、少し泣いた。
だが、最後には涙をぬぐって立ち上がった。
「行ってくる」
「……おやりになるのですか」
「親父殿がやれと行っているのだ。やるしかあるまい」
それにな、と信長はひそひそと話した。
実は信長の奇行には、信秀の思いついたものも結構あった。
何だかんだ言って、似た者親子であり、そういう悪だくみが大好きな二人だったらしい。
帰蝶はふと、父・道三のことを思い出した。
あの父も、似たような悪だくみが好きな人であった。
「では」
気づいたら、信長はふすまを開けている。
あわてて、「いってらっしゃいませ」と微笑んだ。
「……任せておけ」
何が任せておけだと思ったが、こういう格好をつけるのが好きな人だ。
帰蝶は拳をグッと握って応援の意を示した。
「……うむ!」
駆け出さんばかりに廊下をどたどたと進んでいく信長に、多少は自分の応援も力になったかと安堵する帰蝶であった。
*
三百人からなる僧侶の読経。
その圧倒的な仏教空間に、信長が突き進む。
「あっ、兄上」
……そういうふうに信長の弟・信行が叫んだ時には、もうことが終わっていたという。
「……抹香でも食らえッ」
信長の手がしなる。
すでに掴まれていた抹香が、祭壇に飛んだ。
「……あれっ」
止めようとした信行の鼻腔に抹香が入り、信行は「げーほげほ」と鼻水混じりの咳を洩らした。
「すわ、信長さま、ご乱心」
織田家中の重臣は立ち上がって信長を捕まえようとしたが、その前に一人の老人が、す……と立ちはだかったため、それはかなわなかった。
その老人の名は。
「平手……政秀!」
「応よ。今、大殿の弔いの最中である。措け。葬儀を執行する」
政秀は信秀から「秀」の一字をもらったほど、信秀から愛され、一の忠臣として知られていた。
その政秀が「葬儀を執行しろ」と言うのであれば、それに従うしかない。
織田の諸将は引き下がって、三百人の僧侶の読経に唱和するほか、無かった。
*
一方、駿府。
駿河の国主、今川義元は、腹心である太原雪斎相手に、二人きりで謀議をしていた。
「……しかるに、織田信秀どの、病死。葬式は萬松寺にて」
「嫡子信長、いや、今や織田家当主信長、抹香を投げつける、か……」
義元は今、積年の野望である尾張攻略に向けて、今、いかに動くべきかを考えていた。
そしてその尾張の織田は当主であった信秀が死に、「器用の仁」信秀が抑えていた諸勢力が噴出しようとしている。
「今、西に――尾張に打って出るか」
「…………」
雪斎は不気味な沈黙を守っている。反対しているわけではない。他の可能性を検討したのか、と言いたげな沈黙である。
「尾張ではなく、北……甲斐ではなく、東か」
「さよう」
雪斎はおもむろに懐から地図を出す。
ただの地図ではない。
雪斎が各地に忍びを放って調べた、言うなれば「勢力地図」である。
「北の甲斐、つまり武田家は武田晴信が家督を継いで、破竹の勢いで信濃を攻めておりまする……が、こちらにはその晴信の父、信虎の身柄が」
武田晴信、すなわち信玄は、父・信虎を追放して武田家をおのれのものにした。
その追放先が今川家であり(晴信の姉が義元の正室のため)、義元は晴信に対して弱みを握っていると言えた。
「ふむ……」
義元はあごに手をやって、少し考える。
「だからこその、東、つまり北条家、か……」
北条家。
この時の当主は北条氏康といい、相模の獅子という二つ名を持つ。
氏康は、かつて義元が山内上杉憲政と同盟しての、南北両方からの攻撃をしのいだことがあり、特に北――河越城において、山内上杉憲政率いる八万の軍勢相手に、河越城兵三千と氏康の八千、合わせて一万一千の軍で挑み、夜戦による奇襲で、山内軍を撃破したことで知られる。
ちなみにこの河越城の戦いのことを河越夜戦といい、厳島の戦い、桶狭間の戦いとならび称して、日本三大奇襲という。
「で、その北条家が何故問題なのかな、師よ」
義元はかつて寺に入れられており、その時の師が太原雪斎である。以来、義元は大名と成りおおせたあとも、雪斎を敬して「師」と呼んでいた。
「北条はの、まだ駿河を諦めておらぬ」
雪斎は扇で駿河の東部――河東と呼ばれる地域を指す。
河東はかつて、北条家の祖・北条早雲(本人は伊勢新九郎と称していた。北条早雲は後世の呼び名)が初めて城を得た地であり、北条と今川はその帰趨をめぐって争いを繰り広げていた。
先に述べた河越夜戦の前哨戦、つまり南の今川と北条の戦いも、この河東をめぐっての戦いであった。
そしてこの時――河東一乱という戦いのこの時、武田晴信の仲介により、今川義元は撤兵の代わりに河東を得て、北条氏康は河東は譲ったものの、南への憂いを無くし、北の河越へと傾注することができた。
「――その、河東を狙うておるというのかの、北条が。またしても」
義元の目が胡乱な輝きを増す。
かつて、「花倉の乱」という家督争いにおいて、四男という立場にありながら、兄を制して今川家の家督を手に入れた義元である。一代の梟雄というべきこの男には、侵略ということに敏感である。
「
雪斎はうなずく。そして、織田信秀が死んだ今こそ好機だと告げた。
「何故だ、師よ。北条と戦うというのか? されどその場合、あの油断ならぬ武田晴信めが、南へと目を向けるやもしれんぞ」
海が欲しい、と言っているのを聞いたことがある。
それは単なる夢物語のように言っているが、晴信自身の心に、駿河への、そして父・信虎抹殺への密かな野望という牙をちらつかせていると――義元は思った。
「つまり、三すくみなのじゃ、師よ」
「ふむ……」
雪斎は、今度は扇を駿河、甲斐、相模の三国の間をうろうろとさせた。
「だからこそ……好機というたのよ、義元どの」
雪斎は笑う。
それは、黒衣の宰相としての、凄みを感じさせる笑みであった。
「仔細は分からぬが」
義元もまた凄みを感じさせる笑みを浮かべた。
「何やら師には策があるらしいの……では、東? あるいは北もか? そちらは師に任せよう」
義元とて、師である雪斎にこの三すくみに取り組ませておいて、自分は手をつかねているわけにはいかない。
「そうなると逆に西に打って出る……のではく、抑える必要があるな」
義元は立ち上がった。
そして近侍を呼び、急ぎ息子の氏真を呼ぶように申し付けた。
「……では、師は東を、予は西を」
そう言った時にはすでに、雪斎の姿は無かった。
義元は目を見開いたが、次の瞬間には哄笑した。
「さすがは師よ。予も負けておれぬな」
海道一の弓取り、今川義元の策動が、今、ここに始まる。
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