05 揺れ動く濃尾

 織田信秀は、死んだ。

 自らの死を予言というか予期して、細々と指示を出し、最後の最後には、枕頭に嫡男の信長を呼び寄せ「後は任せる」と言いおいてから、逝った。

 さすがに尾張の虎と讃えられるだけあって、実に堂々たる最期だったという。

 また、その死の直前に、腹心の平手政秀を今川義元のいる駿府へと向かわせて、織田と今川の和睦を実現していた。


 そして今、尾張萬松寺おわりばんしょうじにて。

 信秀の葬儀が営まれていた。

 その寺の一室にて、信長と帰蝶は控えていた。


「……親父殿」


 信長はさっきからこの調子だ。

 奇行の多いこの人だが、その奇行を受け入れ、さしてとがめなかったという信秀の死は、相当こたえたのだろう。

 帰蝶がその背をさすってやると、「すまぬ」と言って、少し泣いた。

 だが、最後には涙をぬぐって立ち上がった。


「行ってくる」


「……おやりになるのですか」


「親父殿がと行っているのだ。やるしかあるまい」


 それにな、と信長はひそひそと話した。

 実は信長の奇行には、信秀の思いついたものも結構あった。

 何だかんだ言って、似た者親子であり、そういう悪だくみが大好きな二人だったらしい。

 帰蝶はふと、父・道三のことを思い出した。

 あの父も、似たような悪だくみが好きな人であった。


「では」


 気づいたら、信長はふすまを開けている。

 あわてて、「いってらっしゃいませ」と微笑んだ。


「……任せておけ」


 何が任せておけだと思ったが、こういう格好をつけるのが好きな人だ。

 帰蝶は拳をグッと握って応援の意を示した。


「……うむ!」


 駆け出さんばかりに廊下をと進んでいく信長に、多少は自分の応援も力になったかと安堵する帰蝶であった。



 三百人からなる僧侶の読経。

 その圧倒的な仏教空間に、信長が突き進む。


「あっ、兄上」


 ……そういうふうに信長の弟・信行が叫んだ時には、もうが終わっていたという。


「……抹香でも食らえッ」


 信長の手がしなる。

 すでに掴まれていた抹香が、祭壇に飛んだ。


「……あれっ」


 止めようとした信行の鼻腔に抹香が入り、信行は「げーほげほ」と鼻水混じりの咳を洩らした。


「すわ、信長さま、ご乱心」


 織田家中の重臣は立ち上がって信長を捕まえようとしたが、その前に一人の老人が、す……と立ちはだかったため、それはかなわなかった。

 その老人の名は。


「平手……政秀!」


「応よ。今、大殿の弔いの最中である。措け。葬儀を執行する」


 政秀は信秀から「秀」の一字をもらったほど、信秀から愛され、一の忠臣として知られていた。

 その政秀が「葬儀を執行しろ」と言うのであれば、それに従うしかない。

 織田の諸将は引き下がって、三百人の僧侶の読経に唱和するほか、無かった。



 一方、駿府。

 駿河の国主、今川義元は、腹心である太原雪斎相手に、二人きりで謀議をしていた。


「……しかるに、織田信秀どの、病死。葬式は萬松寺にて」


「嫡子信長、いや、今や織田家当主信長、抹香を投げつける、か……」


 義元は今、積年の野望である尾張攻略に向けて、今、いかに動くべきかを考えていた。

 そしてその尾張の織田は当主であった信秀が死に、「器用の仁」信秀が抑えていた諸勢力が噴出しようとしている。


「今、西に――尾張に打って出るか」


「…………」


 雪斎は不気味な沈黙を守っている。反対しているわけではない。他の可能性を検討したのか、と言いたげな沈黙である。


「尾張ではなく、北……甲斐ではなく、東か」


「さよう」


 雪斎はおもむろに懐から地図を出す。

 ただの地図ではない。

 雪斎が各地に忍びを放って調べた、言うなれば「勢力地図」である。


「北の甲斐、つまり武田家は武田晴信が家督を継いで、破竹の勢いで信濃を攻めておりまする……が、こちらにはその晴信の父、信虎の身柄が」


 武田晴信、すなわち信玄は、父・信虎を追放して武田家をおのれのものにした。

 その追放先が今川家であり(晴信の姉が義元の正室のため)、義元は晴信に対して弱みを握っていると言えた。


「ふむ……」


 義元はあごに手をやって、少し考える。


「だからこその、東、つまり北条家、か……」


 北条家。

 この時の当主は北条氏康といい、相模の獅子という二つ名を持つ。

 氏康は、かつて義元が山内上杉憲政と同盟しての、南北両方からの攻撃をしのいだことがあり、特に北――河越城において、山内上杉憲政率いる八万の軍勢相手に、河越城兵三千と氏康の八千、合わせて一万一千の軍で挑み、夜戦による奇襲で、山内軍を撃破したことで知られる。

 ちなみにこの河越城の戦いのことを河越夜戦といい、厳島の戦い、桶狭間の戦いとならび称して、日本三大奇襲という。


「で、その北条家が何故問題なのかな、師よ」


 義元はかつて寺に入れられており、その時の師が太原雪斎である。以来、義元は大名と成りおおせたあとも、雪斎を敬して「師」と呼んでいた。


「北条はの、まだ駿河を諦めておらぬ」


 雪斎は扇で駿河の東部――河東と呼ばれる地域を指す。

 河東はかつて、北条家の祖・北条早雲(本人は伊勢新九郎と称していた。北条早雲は後世の呼び名)が初めて城を得た地であり、北条と今川はその帰趨をめぐって争いを繰り広げていた。

 先に述べた河越夜戦の前哨戦、つまり南の今川と北条の戦いも、この河東をめぐっての戦いであった。

 そしてこの時――河東一乱という戦いのこの時、武田晴信の仲介により、今川義元は撤兵の代わりに河東を得て、北条氏康は河東は譲ったものの、南への憂いを無くし、北の河越へと傾注することができた。


「――その、河東を狙うておるというのかの、北条が。またしても」


 義元の目が胡乱な輝きを増す。

 かつて、「花倉の乱」という家督争いにおいて、四男という立場にありながら、兄を制して今川家の家督を手に入れた義元である。一代の梟雄というべきこの男には、侵略ということに敏感である。


しかり」


 雪斎はうなずく。そして、織田信秀が死んだ今こそ好機だと告げた。


「何故だ、師よ。北条と戦うというのか? されどその場合、あの油断ならぬ武田晴信めが、南へと目を向けるやもしれんぞ」


 海が欲しい、と言っているのを聞いたことがある。

 それは単なる夢物語のように言っているが、晴信自身の心に、駿河への、そして父・信虎抹殺への密かな野望という牙をちらつかせていると――義元は思った。


「つまり、三すくみなのじゃ、師よ」


「ふむ……」


 雪斎は、今度は扇を駿河、甲斐、相模の三国の間をとさせた。


「だからこそ……好機というたのよ、義元どの」


 雪斎は笑う。

 それは、黒衣の宰相としての、凄みを感じさせる笑みであった。


「仔細は分からぬが」


 義元もまた凄みを感じさせる笑みを浮かべた。


「何やら師には策があるらしいの……では、東? あるいは北もか? そちらは師に任せよう」


 義元とて、師である雪斎にこの三すくみに取り組ませておいて、自分は手をつかねているわけにはいかない。


「そうなると逆に西に打って出る……のではく、必要があるな」


 義元は立ち上がった。

 そして近侍を呼び、急ぎ息子の氏真を呼ぶように申し付けた。


「……では、師は東を、予は西を」


 そう言った時にはすでに、雪斎の姿は無かった。

 義元は目を見開いたが、次の瞬間には哄笑した。


「さすがは師よ。予も負けておれぬな」


 海道一の弓取り、今川義元の策動が、今、ここに始まる。

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