04 器用の仁(ひと)、織田信秀

 織田信秀は病にせっていた。

 なかなか姿を見せなかった理由はこれか、と帰蝶は思ったが、いきなり敵国(だった)美濃から来た者に、そうほいほいとこのようなことを洩らすわけもない、と得心とくしんした。


「隠すつもりはなかったのじゃ」


 信秀は、床で薬湯を飲みながら詫びた。

 いずれ、復帰するつもりでいたので、平手政秀や息子の信長にまで、知らせなかったという。

 枕の脇の信長が言う。


「また、親父殿は城を変える支度をしているかと思うた」


 信秀は勢力を拡大するたびに居城を変えることで有名で、その傾向は、後の信長にも引き継がれていく。


「そうよのう……今川の攻めがゆえ、もそっと東へ移るのも良いか」


 白髪交じりの髪をいて、信秀は笑った。力なく。

 織田信秀。

 尾張の守護代、織田家の分家ともいうべき家に生まれ、一代で尾張を代表する勢力にまでのし上がった男である。

 ただ晩年の近くは、美濃の斎藤道三に敗北を喫し(それが織田・斎藤の和睦、つまり信長と帰蝶の結婚につながるが)、三河では今川の智将・太原雪斎に城を奪われ、かなり追い込まれていた。


「……政秀」


「……はい」


 それだけで通じたらしく、政秀は近侍の者らに目配せし、彼らと共に、信秀の床の間から退出していった。

 今、この部屋には信秀と信長、帰蝶だけになる。


「信長」


「……何じゃ、親父殿」


「そう、かまえるな。わしの体のことじゃが……」


 信長は嫌そうに首を振った。


「泣き言なら聞きとうない。泣く子も黙る、織田信秀の泣き言など、洒落にもならん」


 そう言いつつも、信長は察するものがあったのか、袴を掴んでいる手がぶるぶると震えていた。

 信秀は微笑むと、ではと帰蝶の方を向いた。


「……帰蝶どの」


「はい、義父ちち上」


「わしはもうたん」


「……滅多なことをおっしゃいますな」


 今度は帰蝶の手が震えてきた。

 織田信秀は、斉藤道三に手痛い敗北を食らったことがある。だが、信秀はそれを毛ほども感じさせないくらい、平然とした態度で帰蝶に挨拶し、わりと気さくな態度で話をしてくれている。

 そして今、信秀は実に申し訳なさそうな物腰で、信長と帰蝶に頭を下げた。


「……すまん。もう少し、お前たちに今の暮らしを過ごさせてやりたかったが、そうもいかなくなったようだ」


「親父殿!」


 信長はいつもの闊達な態度をかなぐり捨てて、信秀にむしゃぶりついた。

 信秀も信長を抱き、そして二人は――泣いた。


「今少し、今少し生きられんのか、親父殿」


「京まで薬師を求めたがの――らちが明かん」


 それより、と信秀は信長から体を離した。


「よう、聞け。わしが死んだら、必ずや今川は攻めて来よう。また、尾張国内の各地の織田――お前の弟の信行も含めて――必ず牙をいて来よう」


 信秀の織田家、弾正忠家だんじょうのじょうけは、信秀一代でのし上がった家である。そして信秀はのし上がる過程において、特に下克上はせずに、守護代の織田家(大和守家やまとのかみけ)や守護の斯波家を排除しないでおり、これらに加え、信長の弟・信行も信長に反目しており、信秀が生きていればその威光で抑えることもできたが、亡くなってしまえば、それは不可能となる。


「信行は置いといて、あとの奴らは消しておけばよかったかのう……」


「じゃがな親父殿、あの今川義元のことじゃ、を口実に攻めて来よう」


「そうじゃのう……」


 信秀はまぶしそうな顔をして、信長を見た。

 どうやら、信長のの正しさを認め、めているつもりらしい。

 だが帰蝶は何とも言えない気分である。

 信秀と信長、この二人だけの世界があった。

 二人にしか、分からない想いがあった。

 席を外しましょうか、と言いかけたところで、信秀が「すまんすまん」と頭をいた。


「帰蝶どの、帰蝶どのをけ者にするつもりは毛頭ない」


 器用のひとうたわれる信秀だが、そこは不器用に、無骨に頭を下げた。

 帰蝶としては、恐れ入るしかない。


「……で、だ。信長、は今川と和すぞ」


「何と」


 人の度肝を抜くことが好きな信長だが、その信長が度肝を抜かれたらしい。


「おれと濃が夫婦めおとになって、美濃の方は安泰じゃ。今こそ今川に……」


「わしが生きておれば、戦場に立てれば、それでええ」


 信秀の目が鋭くなる。


「ハッキリ言うが信長、お前では力不足よ。尾張国内の信行を始めとする連中を押さえて、あの海道一の弓取り、今川義元と合えるか?」


「…………」


 信長は勇敢ではあるが無謀ではない。彼我の、義元と自身の戦力や求心力を比べて、それはできないと断じた。


「親父殿の言うとおりじゃ。おれには無理じゃ……まだ」


「じゃろう」


 信秀は顎を撫でながら、笑う。

 それはまるで、虎の笑みだった。


「ゆえに、わしは今川と和す」


「…………」


「そんな顔するな、信長。そこでじゃ……お前は今川との和に反対せよ」


「親父殿?」


 信長の不審げな表情に、信秀は判らぬかと言った。


「わしはもう死ぬ。死んだら、正しく言うと、わしが死んだあと、、和を破れ。元々、反対じゃったと言うてな」


 信長は目を見開いた。

 そして神妙にこうべを垂れた。

 今の信秀の言葉は、いわば、遺言。そして、遺産だ。

 つまり――織田信秀は死期が近くなったからと理由を立てて、今川義元に哀れを乞うように、和を求める。

 義元とて、そういう事情で和睦をと交渉されれば、無下にはできない。世間体もあるし、何より、この時代、意外と評判は大事でもある。

 現に、信秀は守護代や守護を除かずに今までやって来た。そのの最期の願いと言われては、義元はともかく、その周囲が「そうした方が良い」という雰囲気を生み出すだろう。


「ところが、だ」


 信秀は笑う。今度は声を上げて。


「信長、お前はをひっくり返せ。今からに反対しておけば、ひっくり返すのは是非もない、と思われよう」


 わしの位牌に抹香を投げつけるとかしてみると面白いやもしれぬぞ、と信秀は得意げに言った。

 信長は下を向いたままぶるぶると震えていた。

 帰蝶がその肩に手を置くと、「ありがたし」と言って握った。


「……親父殿はそれでいいのか?」


「いいではないか。これはの、信長。わしとお前……それに政秀のよ。誰がシテでアドかは判らぬがな」


「爺もか?」


「ああ。政秀はな、京の帝とのやり取りも任せられる口八丁。こたびの義元との和睦も、大事ないと言うておった」


 まあいずれにせよ、それでもあった時は、政秀がするだろうよ……おそらく。

 そう信秀はさりげなく付け加えていたが、信長は感極まったのか、聞き逃したのか、それについてはよく覚えていなかった。

 帰蝶も同様であり、そしてがあった時、信長と帰蝶は後悔することになる。

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