第一章 人間の章
第一部 美濃の姫
01 長良川(ながらがわ)の鵜飼(うか)い
「死のふは
――死ぬのは、きっと定まっている。ならば、その死を、人生をしのぶ語り草に何をしよう? きっと語り起こされる、何かをしよう。
太田牛一「信長公記」
「……まだ、
永禄三年五月十九日。
尾張。
桶狭間。
もう、幾度めかの問いであろう、その問いは、誰ともなく発せられた。
織田軍は、今川軍の
こうしている間にも、時間が惜しい。
もうすぐ雨が止む。
視界が広がる。
ややもすると、丸根と鷲津の砦、そして大高城から援軍が来るかもしれない。
背中がひりひりとする焦燥感。
その焦りを感じ取ったのか、今川軍の宿将・蒲原氏徳は「かかれ」と突撃を命じた。
「敵は焦っておるぞ! 浮足立っておるぞ! 今ぞ! 今が好機! かか……」
「かかれはおれが言う! 貴様ではない!」
ここで柴田勝家が手勢を率いて
勝家のみにやらせるなと叫び、林秀貞も果敢に氏徳に飛びかかる。
「……ぐっ、貴様! 貴様ら! 離れ……」
「河尻秀隆、推参!」
勝家と秀貞の躰の隙間を縫うように、秀隆が槍を突き込む。
織田家の宿将三人がかりの攻撃に、さしもの猛将・蒲原氏徳も膝をつき、そしてそのまま絶命してしまった。
「蒲原氏徳、討ち取ったり!」
秀隆が叫ぶ。
だが首を取っている暇は無い。
そんな暇があったら――
「……まだ、
今川義元の本陣が。
常には鷹揚な河尻秀隆ですら、焦りを顔ににじませている。
ひとり、織田信長のみが、超然としている。
そういう風に帰蝶には見えたが、その信長の握った拳に、彼もまた焦り、かつ、恐れていることを知った。
そして帰蝶は思うのだ。
わけもなく。
「父上……どうかわが
――と。
『
……月日はさかのぼる。
天文十七年。
夏。
かがり火が輝いている。
ホウホウ、というかけ声が響いている。
ここは
真夏の夜、かがり火をたいて、
鵜飼いの鵜を使う漁師たちを、鵜使いという。
その鵜使いたちのかけ声が、ホウホウというかけ声。
それを聞いて鵜は落ち着いたのか、おもむろに水中に沈みこんだ。
「あッ」
次の瞬間、鮎を呑み込んだ鵜が水面に飛び出す。
鵜使いが、鵜ののどから鮎を出す。
しばらくすると、串に刺さって焼かれた鮎が、帰蝶と父――
さっそく鮎にかぶりつく。
「……おいしい」
「うん。うまい」
塩が利いていると道三は褒めた。
また、鵜がひと呑みで鮎を仕留めているため、旨味が落ちず、骨が柔らかくなるとも言った。
帰蝶はその話を黙って聞いていた。
というのも、はふはふ言いながら鮎を食べていたからだ。
しかしそれも、次の道三の台詞で中断される。
「――お前とこうして鮎を食べるのも、これで最後だな」
「え? それは……」
来るべきものがついに来た、と帰蝶は思った。
夕刻、急に「供をせよ」と言われ、ついてきた、この長良川の鵜飼いである。
いや、急だと感じていたのは帰蝶だけで、実際は道三はきちんと支度をした上で――お膳立てをした上で、このふたりきりの
何せ、相手は斎藤道三――一代の
一介の僧侶から、あるいは
このような、小娘など掌中の上に転がすなど、造作もなきこと。
「……ちがうぞ、帰蝶」
杯を片手に、道三は片目をつぶる。
そうやって人の心を読んで、答えてくるところの、どこが「ちがう」というのか。
そのような帰蝶の胸中をさらに読んだように、道三は杯を傾けつつ、言った。
「……ふぅ、本来はな。本来はな、
ふぅという息は、もしかしたらため息かもしれない。
斎藤義龍。
道三の長男であり、側室の
この義龍と道三の間は、最近うまくいっていなくて、帰蝶をはじめとして、他の兄弟――孫四郎や喜平次らも気を揉んでいた。
「では兄上とふたりきりで」
「そうよ。だが、断られた」
正室・
「……どうやら、側室の子ということを気にしているらしいのう」
道三の酒が進む。
この時代、武士は、特に大名は正室という妻のほかに、側室という、ちがう妻を持つことが多かった。
理由は、その妻の実家とのつながりを深めるためだったり、子どもを多く持つためだったりする。
そして子どもが多くいた場合、正室の子の最年長のものが跡継ぎになることが多かった。
「つまり、義龍の兄上は、父上の跡を継げないかも、と」
「……いろいろ、気にし過ぎだ、
大体考えても見ろ、他ならぬわしがどのように国をいただいたか、知らぬわけでもあるまい。
そう言って道三は、串に刺さった鮎の塩焼きにがぶりと行った。
謀略、だまし討ち、数々の悪知恵を尽くして、国を盗ったと言われる斎藤道三。
その跡目を――正室の子でない自分はと気にするのは。
「
道三は口から少し、鮎の身をぽろぽろとさせながら言った。
常に
それだけ、本心である苛立ちが隠せない、ということだろうか。
道三は帰蝶の視線に気づいたのか、「そんなことより」と言いながら、鮎のいなくなった串を放った。
「帰蝶、おぬし――また嫁に行ってくれんか」
「わたしは――鵜ではありませんよ」
現在、少女とも言うべき年頃の帰蝶であるが、さらに幼く、童女の頃に嫁に行ったことがある。
当時の美濃国主、つまり美濃守護・
そして頼純は帰蝶と結婚してすぐに死んでしまう。
その死は、道三の手によるものと言われている。
何故なら――頼純の死後、道三は美濃を制したからだ。
そのことを帰蝶は「鵜」と皮肉った。
道三という鵜使いに操られた、帰蝶という鵜が、頼純という鮎を獲った、という意味合いで。
「……次は、どの鮎を獲れと?」
「これは手厳しい」
だが道三は、頼純の死について、少しも弁解しなかった。
あるいは、何ら関与していないからかもしれない。
妻である帰蝶――実際には人質としてずっと一室に閉じ込められていたが――も、気がついたら重臣から「死んでおられる」と告げられて、初めて知った死であり、何が原因かまったく分からないまま、今に至る。
「……
道三の目が鋭くなる。
国盗りをした男の目だ、と帰蝶は思った。
こういう目をした男を、道三以外には知らない。
「
簡にして要を得る。
そういう話し方の道三は、本気の道三だ。
「お前の相手だ」
「……本当に、義龍兄上との席だったのですか?」
「義龍が来たら、この話は無かったことにした」
「……もしや、兄上と」
「…………」
道三と義龍。
この二人は、このあと確執を深めていき、それは斎藤家に大いなる悲劇をもたらす。
道三はそれを予見して、帰蝶を尾張へと送り出すことにしたのかもしれない。
帰蝶が口を開こうとすると、道三はそれを目で制した。
「……門出じゃ。唄おうぞ」
道三は立ち上がり、朗々と唄い始めた。
「死のふは
――死ぬのは、きっと定まっている。ならば、その死を、人生をしのぶ語り草に何をしよう? きっと語り起こされる、何かをしよう。
元々は僧侶だったという道三の声は、まるで名僧の
「わしの……いや、おれの好きな小唄よ。門出に持って行け」
その小唄には、今度こそ帰蝶にとって「かたりをこす」何かになるだろう、という意味が――込められていたのかもしれない。
……そう帰蝶は、のちに振り返ることになる。
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