第14話 初恋
メイラの新居は僕の家から歩いて十五分ほどのところだった。
庁舎職員の居住地域の外、橋を渡って少し歩いた先のアパートの4階だという。
都市部かつ庁舎近くなので比較的治安は良い方だが家賃は高い。
彼女は身内の伝を使って安く住まわせてもらっているのだと教えてくれた。
庁舎とアパートの間にある人気のパン屋で働いていることも。
それから僕はほぼ毎日、その店のパンを食べることになった。
昼食ではなく、彼女と共にする夕食のときに。
彼女より少し遅く帰宅する僕の家の前で、売れ残ったり味は良くても商品にできなかったりしたパンと手作りの料理を携えて彼女が待っている。
何度も遠慮したけれど、「ひとりで食べるのは寂しい」と言う彼女に押し切られた。
ついでに甘いパンとジュースばかりで適当に食事を済ませていたことを知られ、とても怒られた。
重要な資料や書類はガルム部長の魔法で僕以外開けられないようにされている本棚にあったし、見られたりなくなったりして困るものも僕の家にはほとんどない。
家の前で待たれる方が危ないし目立つ。
真冬ではないとはいえ夜は冷える。
彼女に合鍵を渡すまで、そう時間はかからなかった。
ずっと会いたかった人と過ごす時間は楽しかった。
ほどよい緊張感と、彼女の手料理で一日が終わる。
彼女と二人で夕食を食べて、少し読書をして、彼女をアパートに送り届ける日々が日常になった。
メイラとの再会はガルム部長にあっさりバレた。
毎日僕の家に女子が来ていれば誰かの目につくのは当然だ。
左手首が燃えなかったので悪いことではないのだろうけども、厳罰をくらうのかもしれない。
部長室に呼び出されて緊張していた僕は、困惑を押し殺すような彼の雰囲気に違和感をおぼえた。
「お前には残酷かもしれんが……後悔させたくないなら、深く関わるな。
何ヶ月、何年と存在した異世界人が突然消えた事例はお前も知っているだろう」
異世界人の僕は普通には死なない。
もしも僕が彼女だったら。
「必要があれば他の地域への異動も検討はできる。
……いつでも言いに来い」
「……はい」
ガルム部長に返答した僕の声が小さく掠れたのは、胸のあたりから込み上げてくる苦しさのせいだったに違いない。
それは以前の僕が知らなかった感覚だった。
自分が消えるときのことを考えると宇上君のことを思い出す。
彼の話が本当ならば宇上君はおそらく元の世界であの飛び降り自殺を見て、他人の死を見てこの世界に来た。
滞在期間は一週間ほどだったと牢屋で出会った老人は言っていた。
蝉の死では異世界で三時間、元の世界では三十分が経過する。
人の死では異世界で約一週間、元の世界では二日ほどが経過する。
これは宇上君の場合だけに起こっているのかもしれないが、死を迎えた生き物の大きさによって転移時間が決まるのだろうか。
僕が読むことを許可されている本をどれだけ読んでも異世界人がどうしてこの世界に来るのか、どうして消えるのかについて信憑性のある情報は書かれていなかった。
ただこの世界の人と同じように生きること死ぬことはできない。
それは確実らしかった。
僕は自分の死を見てはいない。
夏を超え初冬を迎えても僕が消えないのは、助かっていないから、ではないのか。
今の生活に慣れるにつれ、ここの暮らしの方が楽しかった。
仕事をきちんとして静かに暮らしていれば僕の世界を踏み荒らす者はいない。
悪意の言葉や視線を向けられても仕事であれば対価がもらえるのだ。
こういうのを社畜根性というのかもしれない。
だが学校でのいじめや世間の目に対価はない。
同じ「どこにも行けない」ならば、こちらの方がマシな気がした。
羊肉のパイやスープ、根菜のホットサラダといった贅沢な夕食を食べ終え、僕は食器を洗う。
メイラは僕のソファで本を読んでいた。
彼女はどちらかというと恋愛や童話のような物語の本を好む。
仕事やこの世界の歴史に関する本ばかり並んでいた僕の本棚には、それら専用のスペースができた。
彼女が読み終わる前に時々買い足しておくと、彼女はとても喜んでくれた。
僕が淹れたお茶を飲みながら読書に没頭している彼女を盗み見る。
宝石にも思える彼女が僕の家にいることには慣れたつもりだ。
けれど宝石だからこそ、僕が触れてはいけない美しさがあった。
彼女がお茶を飲み終える頃合いを見計らって片付けを終える。
いつもなら彼女が望めばお茶のおかわりと自分の分を用意して、僕も読書をした。
だけど今日は、そっとポケットの中身を確認してから彼女に近づいた。
よほど物語が面白いのか彼女は僕に気づかない。
彼女の隣に僕はしゃがんだ。
「メイラ」
少しだけ驚いたような顔で彼女は僕を見る。
「あ、すみません、夢中になってました。
……ワタルさん?」
肩口から落ちた髪の一筋にすら僕はいまだに見とれてしまう。
本を閉じる所作にすら、彼女という甘い魔法がかかっているように錯覚した。
僕は視線をさまよわせて手の中のものを握りつぶしそうになる。
女神を前に挙動不審になるなと言う方が無理だ。
僕は彼女をなんとか見て、震える両手で小箱を差し出した。
「あの……よかったら、もらって、ください……」
小箱と僕を見てから彼女は小箱を自分の手に載せる。
「開けてもいいですか?」
「う、うん……」
彼女の指先が箱をそっと開く。
小箱の重みがなくなった置きどころのない手を降ろし、僕は視線をさまよわせた。
箱の中から桜の花をかたどった、小さな金色の髪飾りが現れる。
許可をもらって街に買い物へ出たときに見つけたものだ。
十歳くらいのころ、母の日に本を贈ったときのことを思い出す。
僕は本が好きだった母に、母が好きそうな恋愛小説の本を贈った。
母は笑ってお礼を言ってくれたが、本は棚に置かれたままだった。
今なら忙しくて読む暇がなかったとわかる。
だが当時の僕は母にとっていらないものを選んだのだと思い、ひどく悲しかった。
髪飾りを見つめているメイラとの沈黙に耐えきれず、僕は頭の中でつんのめる言葉を吐き出してしまう。
「あ、あの、もしいらなくても、多分そこそこで買い取ってもらえると思うから、あっ、でもそれも面倒だったら……」
いやメイラはそんなことしないだろう。
頭の中で突っ込むも、遅い。
どう? って普通に感想を聞くことがどうしてできないのか。
僕は顔だけでなく中身もスマートになれない。
呆れられるに違いない、と落胆する僕の前でメイラは手早く髪を結い直し、髪飾りを丁寧に扱って髪に挿した。
「どうですか? 似合いますか?」
それはもう、とても。
変な言葉が出る前に口を引き結び、僕は何度も頷く。
この世界にあると思わなかった桜の形の髪飾りをみつけたとき、元の世界の春を思い出すと同時に思い浮かんだ笑顔が目の前にあった。
「ありがとうございます!
……あの、ワタルさん」
彼女を直視できず立ち上がり、ひとまず離れようとした僕の手を彼女がつかむ。
手汗を知られたくなくて引っ込めたかったが、彼女の力は思うより強かった。
「――今日も、帰らなきゃダメですか?」
椅子に座ったままの彼女が僕を見上げる。
視線と言葉が頭の中でなんとか意味をつくる。
何を言われているのか理解してはならない。
理解してはならない……と必死に本音から目を背ける僕と、意味も本音も理解した僕が戦を始めた。
僕は力を込めて彼女の手から逃れようとする。
が、メイラの手は離れない。
立ち上がった彼女からもっと距離をとるために、手を握られたままで僕は一歩後ずさる。
彼女はそのまま近づいてきてしまう。
僕がまた一歩後ずさる。
彼女も近づく。
狭い家の中で五歩くらい、これを繰り返した。
とうとう彼女が口を開く。
「……ワタルさんは、私が嫌いですか?」
「そんなことあるわけない!
……です、けど……、」
弱くなった彼女の手から自分の手を引っこ抜いて、僕は自分の両頬を両手で思いきり叩いた。
「あなたは据え膳じゃなくてもっと大事なものだからもっと自分を大事にして下さい!」
一気にまくし立てた僕を見て彼女が目をしばたく。
今日も僕の思いはおかしな方向で、おかしな言葉で漏れ出していく。
「すいません違うんです大事に思ってるんです初恋なんです……」
両手を覆い、消え入りそうな声で恥ずかしいことまで付け加えて釈明する僕に彼女はわかりました、とだけ言って離れた。
傷つけた、嫌われた、恥をかかせた。
今からでも「やっぱり泊まってください」と言うべきではないのか。
いやその方がかっこ悪いし彼女を傷つけるのではないか。
ぐるぐると僕の中で走り回る言葉は口からは出ず、彼女に伝わることはない。
ただのちっぽけな後悔になって、部屋の片隅に転がるだけだ。
結局、気を遣ってくれたのはメイラの方だった。
いつもの帰り道を、僕が贈った髪飾りをつけて、今日は僕の片手を握って、明るく楽しそうに歩いてくれた。
宇上君みたいなスマートイケメンに生まれたかった。
罪を他人にふっかけるような性格はともかく、きっと彼ならかっこよく彼女の期待に応えられただろう。
僕はどこまでも、どこにいても、情けない。
これ以上惨めな気持ちになりたくなくて、その夜、僕は初めてこの世界のお酒と呼ばれるものを買って帰宅した。
元の世界では飲んだことがないので同じものかはわからない。
喉を焼いて胃を焦がすような味はあまりおいしくはなかったが、無理矢理眠ることはできた。
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