第15話 一夜
夜も深い街は暗くて静かで少し寒くて、メイラの手の柔らかさと温もりがとても幸せなものに思えた。
そこだけ空間を切り取られたように明るい三階建てのアパートの玄関灯の下。
いつもここで、メイラの部屋に明かりが点き、彼女が窓ごしに手を振るのを確認してから帰宅する。
けれど今日は、メイラを抱きしめた。
僕より少し背の低い彼女は僕の腕の中にすっぽりおさまる。
香水ではない彼女の甘やかな匂いが僕の肺を満たす。
見上げる彼女の目を正面から見つめて微笑み、僕は彼女の額にキスをする。
同じく嬉しそうに笑う彼女が抱きしめ返してくれる。
強く、強く……かなり強く……強いな?
内蔵が圧迫され骨が軋むほどの力に息ができない。
「ちょ、苦しい……」
そう呻きながら僕は深夜に目を覚ました。
夢だと気づいて起きようにも体が重くて仕方ない。
初めてお酒を飲んだせいかと思ったがそれだけではなかった。
僕の体の上に人が馬乗りになっている。
寝起きでぼやけた視界がはっきりしてくると、それが見慣れた人物だとわかった。
まだ暗い寝室の天井を背景に、全身を黒い服で包んだメイラがいた。
無表情で僕を見下ろすその腕は僕の首を絞めあげている紐につながっている。
――彼女に殺されるなんて、なんて幸せな夢だろう。
と頭では思ったはずなのに体は飛び起きて彼女を突き飛ばしていた。
大きな音を立てて彼女はベッドから転げ落ち、僕は咳き込む。
「メイ、ラ……なんで……?」
まだ足がふらつく。
カップ半分も飲めなかったお酒が体に残っているのだろうか。
マットレスに手をついて体を支えながらベッドの足側に回ると、メイラがぐったりと倒れていた。
首が変な方向にまがっている。
まさか、僕は、
「メイラ!?」
首を損傷している可能性があれば動かしてはいけない。
知っていたはずなのに僕はメイラを抱き起こした。
だらりと垂れる腕や頭が人形のようで恐ろしかった。
「……通報とかは、しないから」
椅子に座ってうなだれたメイラはホットミルクに手を付けないまま赤く腫れた目でカップの中を見つめている。
僕も向かいに座り、はちみつを溶かしたホットミルクをすする。
メイラは気絶していただけだった。
脳震盪だろう。
医者を呼ぶべきか迷っているうちに彼女は目を覚まし、もう一度襲いかかられた。
なんとか避けて抑え込んだらベッドに押し倒す格好になってしまった。
諦めたように体の力が抜けた彼女は泣きだし、とりあえず僕は彼女をなだめた。
ひとしきり泣いたメイラは放心状態になっていた。
そんな彼女を僕はとても冷たい目で見てしまいそうで直視できなかった。
好意的に思う相手の首を絞めることは普通、ない。
様子を見るに彼女の特殊性癖とかそういうものでもないだろう。
常々僕の体を強張らせる恐怖や緊張……そして、好意。
そうした感情が削ぎ落ちてしまえば、頭の中では知識の連鎖が始まるらしい。
彼女から事情を聞き出すための会話技術と計画を思い浮かべる。
どうでもいい他人なら通報して関わらなければいい。
ややこしいことになりそうなら情報を得た上で離れればいい。
それが最適解だとわかっている。
だけど心を無にするのはとても難しいことだった。
少し前の自分にはそれができていたのかもしれないと今頃気づく。
メイラがやっとカップに両手を伸ばす。
弱々しい指先を僕は美しいとまだ思った。
一口啜って小さく息を吐き出す彼女。
襲われたのは僕の方なのに、彼女は手負いの猫みたいだ。
そっとカップが置かれる。
「メイラは、」
「ごめん、なさい……」
下を向いたままの声は消えそうなほど掠れていた。
それを聞いただけで僕は言葉を続けられず、立てた会話の計画は崩壊する。
彼女はたどたどしく、やっと本当の話をしてくれた。
遠くに住んでいるはずの両親はとっくにいなかった。
両親は彼女が六歳のときに惨殺された。
僕が誘拐されたあの家で、近所の人の助けを借りながら一緒に暮らしていた兄は僕がこの世界に来る前に殺された。
畑の作物や家畜の鶏を盗んだ犯人を捕まえようとして返り討ちにあったらしい。
どちらも犯人は異世界人だった。
前者の犯人はもうこの世界にいない。
後者の犯人は『ハルト』だった。
自分の手であなたを拷問して痛めつけたかった。
はっきりそう言われても、「そうか」としか思えなかった。
僕はどこへ行ってもこういう運命なのだと、とっくに思い出して納得もしていた。
なのに、苦しい。
「異世界人なんか、みんな……!」
「……ごめん」
僕のせいではないはずだけど、それしか言えなかった。
時計の秒針の音が響き、夜風が時々窓を揺らす。
彼女の目からまた涙が溢れる。
差し出したタオルに彼女は顔を埋めて嗚咽する。
「……なんで、死んでくれないんですか……」
くぐもった声は理不尽な問いだとわかって訊いているみたいだった。
なんでみんな仲良くできなきゃいけないんですか。
なんで朝は来るんですか。
なんで人は、簡単に死ねないんですか。
僕も何度も世界を呪った。
でも彼女みたいに怒る前に、人生なんて永遠に本番のない消化試合だと僕は諦めた。
「あなたなんか、放っておけばよかった……!」
「……そうだね」
人に憎悪を向け続けることはとても苦しくて疲れる。
自分に感情はないのだと思いこみ、諦めて楽になることは諦めてしまえば、諦めたことにしてしまえば現実は少し楽になる。
でもそれは、あくまで僕の場合だ。
色づかないようにしていた僕の世界まで染め上げる彼女には似合わない。
「……あなたと、話さなければよかった」
そしたら、好きになんかならなかったのに。
絞り出された言葉は多分、幻聴だ。
僕はカップをもって立ち上がり、わずかに残っていた中身を捨てて洗った。
口をすすぎ、ぐしゃぐしゃのベッドを整えて寝室の鍵を開けたままにする。
椅子に座ってカップをもったまま動かないメイラの肩に毛布をかけた。
「外はまだ暗いし寒いから、今日は泊まっていって。
嫌じゃなければベッドも使っていいよ。
どうしても夜のうちに帰りたいなら、送るから起こして。
……おやすみ」
彼女から離れてひとりがけのソファに座り、もってきた自分の毛布に包まる。
思うより早くやってきた睡魔に応えながら僕は彼女のすすり泣く声を聞いた。
初恋は甘酸っぱいなんて大嘘だ。
胸焼けも胃もたれもひどくて、そんな感覚を感じるどころじゃない。
もしかしたらもう一度襲われるかもしれない。
痛いのも苦しいのも嫌だけど、彼女がそれで納得するならそれでもいい。
彼女が僕と同じように足を縮こめて毛布に包まるのを見つつ、僕は眠りに落ちた。
翌朝、彼女はいなくなっていた。
それは想定の範囲内だった。
誘拐されているとまでは思わなかった。
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