第25話 再生

 夏休みのさなか、僕は大学病院の集中治療室で目覚めた。

 宇上君が言っていたとおり、僕は意識不明の状態だった。


 どういうわけかケガは右腕の骨折と頭を少しぶつけただけで済んだが、自力で呼吸ができず、意識も戻らないまま眠っていた。


 いつ死んでもおかしくなかったのだと面会に来た祖母が泣きながら教えてくれた。


 約一ヶ月眠っている間に僕の少ない筋肉も多めの脂肪も減って痩せていた。

 自力で食事がとれず、動けもしないとこういうことになるらしい。

 すぐに元の生活に戻るなんて、どう考えても無理だ。


 僕なんてこれ以上悪いことになりようがない人間だと思っていた。


 それが大学受験において非常に重要な高校三年の夏休みを入院して過ごすことになり、失望した。


 下には下の状況がある。

 本が読めていたこと、とりあえず健康であることにもっと感謝するべきだった。


 祖父はとうとう僕を見放したのだろう。

 面会に来ることはおろか、連絡さえなかった。


 一般病棟に移ってからは憔悴した様子の祖母が毎日面会に来た。

 祖母は当初、面会時間が終わるギリギリまで僕の個室でただ座っていた。


 ほとんど話したことのない誰かと同じ空間にいるなんて地獄だ。

 かつての僕にとっては。


 リハビリから戻った僕を祖母が「おかえり」とだけ言って出迎える。

 そうした日々が続くうちに僕からも話しかけるようになった。


 最初は長続きしなかった会話もごくたまには、少しだけ、笑い合うことすらできるようになった。


 祖母は迷いながら、僕の両親のことを話してくれた。

 母は厳しい祖父母と折り合いが悪く、若くして父と駆け落ちしたそうだ。

 生活が苦しくても祖父母を頼らなかったのだという。


 祖父母は一人娘の息子である、会ったことがない初孫の僕を憎からず思っていた。

 可哀想に思って引き取ったが、どう声をかけていいかわからなかったと祖母は僕に謝罪した。


 僕も有能でないどころか平凡以下の孫で申し訳ないと謝罪する。

 祖母は元気で生きていてくれればいいと力なく微笑んだ。



 退院の日には祖父が運転手つきの車で迎えに来た。


 蝉が鳴き、日差しが肌を焼く。

 あの世界の夏より暑くて陽光が痛い気がした。


 車に忘れていた菓子折りを祖母が持って病院に戻る。


 玄関ロビーで待っている間に、僕は祖父に声をかけた。


「御迷惑をかけて、すみません」


 祖母が消えていった廊下の先を見たまま祖父は何も言わない。

 場所が場所だから怒鳴れないのかもしれない。


 あの家でまた息がつまる日々が始まるのかと思い、僕は小さくため息をつく。


 それが聞こえたのかもしれない。

 向けられた視線に体がこわばる。


 しかし祖父は低く静かな声で言った。


「生きていて良かった」


 初めて聞いた穏やかな言葉に僕は驚く。

 見上げると祖父は照れたように鼻で笑ってから顔を強張らせた。


 何もすることがない病室で、何度も思い出したあの世界での上司が頭をよぎる。


「……なんだ」

「いえ……あの、大学受験、頑張りますが、落ちたら、すみません」

「受けたいなら受ければいい。

 状況が状況だ、一年程度浪人しても追い出すつもりはない。

 ……まずは体の回復に努めろ」

「……はい、ありがとうございます」


 僕は祖父を見てお礼を言う。

 少し緩んだような目元が僕を凝視した。


「……お前、人の目が見れるようになったんだな」


 殴られるのは痛いけど、焼かれるのはもっと痛い。

 とりあえず祖父は僕を焼かないだろう。


 必要以上に恐れるべき他人など、この世界にはあまりいない。


 それでも返答に困った僕は――祖父に向けて作り笑顔を向けてみた。

 今度は祖父が目を丸くして、僕から視線をそらした。


 こっそり一人のときに鏡を見て練習していたけれど、表情筋の低下もあって僕の作り笑顔はまだまだひどいものだったことを忘れていた。



 新学期が始まっても僕の体力は十分には戻っていなかった。


 急いで学校に復帰したいわけではない。

 しかしせっかく痩せた体にただ脂肪がつくだけなのはもったいない。


 医師に指示された自宅療養の間に、僕はリハビリをしつつ少しずつ筋トレなどをして体を鍛えた。


 何をするにも体は資本だ。

 体も頭も、今は特にやりたいことがなくても必要なときに使えないのはとても困る。


 自分を守れなくても耐えればいい。

 でも守りたい誰かを守れないのは耐えられない。


 めきめき回復した僕は治療予定より少し早く復学できることになった。

 中間試験の後でも良いと言われたが、あえてテストの初日に復帰した。


 今まで目立たないようにテストは中の上の点数を狙って加減していた。

 普通に授業を受けられていないのできっと今回は狙わずとも散々だろう。


 それでも今の自分がどのくらいできるのか試してみたかった。


 

 教室に入った途端、試験対策をしていた皆の空気が変わった。

 僕を認識したあとに「復帰? なんで今日?」という声すら聞こえる気がする。


 でもそれは戸惑いであって敵意ではない。

 あの世界で注がれたものに比べれば取るに足らないものだ。


 クラスメイトたちはすぐにまた教科書に向き合う。


 これ以降も以前と同じく、僕に関わろうとする人はいなかった。


 中間試験が返されたあとに復学した、宇上君を除いては。



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