第10話 知識
郵便配達員になった僕は元の世界でコミュニケーション技術の本から得た知識を覚えている端から実践した。
元の世界にいたときは数回やってみて僕の心は修復不可能と思われるほどに折れたことだ。
もう一度やることへの恐怖心はあったが、悩んでいる暇もなく、仕事の時間はやってくる。
逃げる余裕も場所もない。
どんなことでも関わる人や達成条件の複雑さがあがるほど、罠にかけられたりミスも増えたりしやすくなる。
評判が悪くなれば処遇だって悪くなりかねない。
そして――施設長の顔にも泥をぬることになるのではないか。
僕は毎日窓ガラスを見た。
醜悪な自分の作り笑顔に耐え、少しでもマシになるように表情筋を鍛えた。
そのたびに、僕が謝罪や感謝の言葉を言ってもこれ以上状況は悪くなりはしないのだと自分に言い聞かせた。
どうせ汚れるし汚されるからと諦めていた身なりも整えるようにした。
施設長がくれたお下がりの服も丈を直してプレスし、背筋を伸ばして着る。
低身長の僕でも見れなくはない、役所に出入りできる程度の見た目にはなった。
依頼主の多くは当初、異世界人の僕を疑い、嫌悪していた。
仕事として事務的に対応してくれる人がほとんどだったが、僕の顔を忘れていない人も少なくない。宛先である受取人も然りだった。
悪辣な眼差しと言葉を向けられても、僕はその全てに笑顔……とまではいかないまでも、「口を閉じて少し口角をあげる」「目尻を下げる」「お礼と謝罪を言う」の三つだけを徹底して対応した。
最初は気味悪がられたし緊張と不安で爆発しそうだった。
だがそれも「やらなければならない状況下」ならばなんとかなって、次第に慣れられるものだ。
そのうちにお礼を言われることも増え、僕みたいなやつでもコミュニケーションスキルが少しあがったような気になれた。
ある日の配達中、五歳くらいの子どもが泣きながら僕についてきていた。
あまりにも静かに泣いているので気づかなかったのだが、どうやら迷子らしい。
逃げようかと思ったものの、通行人がちらちらとこちらを見ている。
僕は仕方なく、その子どもに話しかけ、根気強く自宅の場所を尋ねた。
送り届ける途中で僕は子どもと手をつなぎながら歌を歌った。
清掃の仕事をしていたときに、道を覚えるために歌っていた元の世界のアニソンの替え歌だ。
子どもを無事に送り届けた数日後、役人が鼻歌で歌っていたり道で遊ぶ子どもが歌っていたりした。
僕と目が合ったあの子どもが笑顔で僕を指差し、友達に何か言い、大声でお礼を言ってくれた。
顔から火が出るかと思った。
なんとか笑顔をつくって軽く手を振り、僕は急いで立ち去ろうとして転んだ。
背が低くて筋力もなく、顔も良くない貧乏で無抵抗な異世界人。
バッドステータス満載の僕は、気づけば警戒されない異世界人になっていた。
もちろん、蔑みの目で見られるよりはずっと良かった。
元の世界で得た知識をつかうことで仕事以外でも感謝されたりもした。
時々痴話喧嘩に巻き込まれてまた連行されそうになったり、郵便物にいたずらをされそうになったりしても、僕を守ってくれる人もいた。
僕にもやっと転移前の知識で異世界ライフを満喫する、異世界お約束パターンが始まる――なんてことはあるわけない。
知識と
「作り笑顔」なんて誰もがやっているコミュニケーションの基本が多少できるようになったばかりの僕に、そんなリア充ライフは難易度が高すぎる。
一人の時間と場所が手に入れば、もう言うことはない。
しかしそんなことを願っても叶わないのだから、現状で満足しなければならない。
少なくともこの仕事を続けていけば、彼女にお礼を伝えられる日は来るはずだ。
そうして欲深い自分を諌めたのに、神様は相当、僕が嫌いらしい。
夕食後、渋い顔をした施設長に呼び出されて渡された手紙に僕は絶望した。
「明日朝、異世界人庁に出頭せよとのことだ。
君は他に例のない無害な異世界人かもしれないと思ってたんだがな……。
拘束はしないが……逃げるなよ」
施設長の暗く重い声がさらに僕を沈ませる。
僕なりにではあるけれど、元の世界にいたとき以上に努力してきたと思う。
努力せざるをえない部分はもちろんあった。
だけど、特に最近は、それだけじゃなかったのに。
「……すみません、ありがとうございました」
僕は自分で思うよりもか細く小さな声で呟いて頭を下げ、手紙をポケットにしまって部屋に戻った。
施設長は眉根を寄せたまま、一度も僕を見てはくれなかった。
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