第5話 異世界
眠ったのかどうかすらわからない眠りはじめに、階段を踏み外すような感覚で目覚めることがある。あれは眠りの世界に弾かれたみたいで、少しだけ悔しくなる。
そんな感覚で覚醒した僕は目を見開き、背中を強くぶつけてから地面に転がった。
「痛ってぇな、気をつけろガキ!」
「すみません……」
反射的に謝り、なんとか顔をあげた僕のそばに唾が吐かれる。
酒くさい中年の男数人が僕を見下ろし、なにかをわめきながら人混みの向こうへ立ち去っていった。
動こうとすると体のあちこちに痛みがはしる。
気をつけながら立ち上がろうと手をついた地面がレンガ造りの石畳だと気づき、違和感をおぼえた。
立ち上がってあたりを見回して、僕は目を見開く。
教科書や映画で見たコロッセオのような円形の広場に人々がひしめき、円の中心の方を向いていた。
その視線の先、処刑台にしか見えない台の上にボロボロの男が縛られ吊り下げられている。
生きているのか死んでいるのかわからないその男に見覚えがあった。
迷惑そうに僕を見る人垣の中を謝りながら無理矢理かきわけ、僕は人々の最前列に躍り出る。
「宇上……宇上君!」
叫ぶことなんてめったにない僕の声はかすれた。
それでも反響して、人々が一瞬に静かになり、磔の男が僕を見た。
殴られたのか、顔も痣だらけになっているけれど、間違いなく宇上君だ。
目があったことに僕はほっとした。まだ生きている。
しかし宇上君は驚いたように僕を見て口角を吊り上げ、歯をむき、凶悪に笑って叫んだ。
交差点で見た、あの顔に似ていた。
「俺が殺したんじゃない、そいつに騙されたんだ!」
無数の人々の視線が僕に集まる。
呼吸が止まり、心臓も止まるんじゃないかと僕は恐れた。
宇上君の言葉を頭で咀嚼しているうちに彼はキラキラした砂のようになり、またいなくなってしまった。
混乱する人々の怒号の中で、僕は逃げる間もなく捕らえられた。
囚人に与えられる環境はいつの時代だって良くはない。
なんとなく知ってはいたけれど、体験することになるとは思わなかった。
月明かりが漏れ込む夜の地下牢はとにかく寒かった。
宇上君はこちらの世界で、畑のトマトやらを盗み、農家の鶏を殺して食べ、怒った農家の人を殺して金品を盗み、さらに街で食い逃げも暴力事件もおこしたらしい。
それが取り残された僕に着せられた罪だった。明らかな冤罪だ。
にわかには信じられなかったが、宇上君が話していた異世界話は本当だったのだろう。
いずれログアウトできる世界だと知っていたから彼はそんなことをしたのかもしれない。
僕が見た圧倒的な好青年は、現実の彼がつくったキャラクターだったのだ。
僕の罪状について一応審議はされるそうだ。
しかし広場で目が覚めてから牢屋に入れられるまでに見たこの世界の様子や情報から察するに、僕のいた現実世界と同じ捜査水準は期待できないだろう。
ここは歴史的に中世から近代くらいの文化ではないだろうか。
僕は明日にでも処刑される自分の姿を妄想した。どう考えても痛そうだ。
「なあ、本当に『ハルト』に指示したのか?」
薄い毛布にくるまっていた僕の後ろで、しわがれた男の声がした。
同じ房に入れられている、髪も髭も真っ白な高齢の囚人だ。
僕が来ても何も言わず、挨拶にも無反応だった。
『ハルト』が宇上君であることに思い至るのに数秒かかり、返答が遅れる。
「宇上……僕は……」
どう答えたものかと逡巡する。
探しに来た、では、仲間だと言っているようなものだ。
飛び降りたらここにいました、も頭がおかしいと思われそうだ。
言いよどむ僕に老人の視線が突き刺さる。
「君は異世界人だな?」
「……多分?」
老人が小さく笑ってから咳き込む。
「大丈夫ですか?」
老人は座って壁にもたれ、中身のないズボンの足だけを月明かりに晒していた。顔は暗くてよく見えない。
「君は、逃げ出して彼にやり返そうとは思わないのか?」
「別に……その、一度自殺した直後なので、痛くないなら、それでも」
「それはそれは……まだ若いだろうに」
どこか楽しげに老人は言う。
返答に困った僕は、余計なことを言ったのだと後悔した。
「君が今までにした一番悪いことはなんだ?」
無表情の老人が顔を上げる。ぼさぼさに伸びた白い眉毛の隙間から大きな目が覗いた。
僕の罪といえば、直近でいえば自殺だろうか。
現実の体が残っていればきっと、あの赤い服の女性と同じことになったはずだ。
深夜の町に人はいなかったけれど、朝になれば誰かが見てしまうに違いない。
でも他にも、空き教室を無断で使っていたことや、誰かを不快にさせる性格や見た目を変える努力ができなかっただとか、可愛がりがいのある息子や孫になれなかっただとか、記憶を掘り返せば僕の罪は山ほど出てきそうだった。
誰かができていることを努力しなかったのも僕の罪かもしれない。
ちゃんとできる人もいるのだ。こちらの世界では罪人でも、現実では非の打ち所がなかった人がいるように。
「……自殺、ですかね。もっと人気のない場所でやればよかった、かも」
老人がまた笑う。今度は鼻で笑われ、そうか、と小さく呟くのが聞こえた。
そして骨と皮の指先が僕を指し示した。
「この国、いやこの世界では異世界人は簡単には死ねない。おそらく寿命もない。君が処刑されるのは民衆の娯楽と研究のためだ」
「……ずっと痛いだけっていうのはちょっと、かなり、だいぶ嫌です」
「その嫌なことが、気が狂うか釈放されるか、別の異世界人に殺してもらえるまで続くのがこの世界だ」
そんな地獄みたいな異世界は嫌だ。
最初はどん底でもハッピーエンドになるのが異世界モノの定番なのに、苦しいところだけが続くなんて。
けれど嘘とは思えない老人の語り口に喉がひきつる。
「別の、異世界人?」
「この世界には数年から十数年に一度くらいの頻度で異世界人がやってくる。
そしてどういうわけか『ハルト』のように異世界人は皆、この世界で人を殺し、法を犯す。
だが処刑しても死なないから、利用するようになった」
「でもそれなら、異世界人を一箇所に集めておけば、新しい異世界人が先にいた異世界人を殺してくれるんじゃないですか?」
「異世界人がいつも一人とは限らないし、結束すれば悪質になるだけだ。
捕まえても脱走してこの世界の人々の中に何年も逃げ込んでしまえば、見分けはつかなくなる」
「……お手上げですね」
言いながら、小学生の頃、地域のクリスマス会の椅子取りゲームでずっと座れない僕をみんながクスクス笑っていたのを思い出す。
椅子は増えも減りもせず、軽快な曲が流れるなかで僕はなかなか座れないまま時間がすぎるのを待つしかなかった。
確かに、ゲームに参加せず見ている側になれるなら、誰だってそうするだろう。
音楽も勝利判定もなく、ただ椅子に座らされ濡れ衣をきせられて死ねずに暴力を受ける。
それはもうゲームでもなんでもない、ただの拷問だ。
死ぬこともできない世界にきてしまったことに、僕は絶望した。
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