第4話 夏の夜空
期末試験中にもかかわらず、宇上君は翌日、欠席していた。
僕は放課後、職員室に呼び出された。担任の谷本先生が座ったまま僕に問う。
「天橋、昨日宇上と一緒にいるのを見たって生徒がいるんだが、何か知らないか?」
「……知りません」
宇上君が欠席すること自体が珍しい。
さらに昨日の飛び降り自殺を無断撮影した動画はニュースに取り上げられ、SNSなどでも拡散された。その一部に僕と宇上君が小さく映っていて、気づいた人たちはひそひそと話していた。
午前中に出回った動画はほとんどがすぐに消されたようだ。
それでもみんなが僕に向ける視線が落ち着かなかった。多分宇上君が戻ってくるまで続くのだろう。
あの後、警察や救急車でさらに騒がしくなった人混みの中や駅に向かう道の途中も宇上君を探したが、とうとう彼をみつけることはできなかった。
「友達じゃないのか?」
「……はい」
そう呼べるほど、仲良くはないはずだ。
けれど昨日のように、祖父母以外と食事をしたのは久しぶりだった。
なぜか後ろめたさを感じながら職員室から出た僕のスマートフォンが震える。
祖父からの電話着信だった。
慌てて取り、刺々しく責められる前に、今から下校しますと早口で言って切った。
昨日の僕の帰りが門限を過ぎていたことをまだ不満に思っているに違いない。
両親の葬儀まで会った記憶がない母方の祖父は一見朗らかだが体面を気にする、時間やルールに厳しい人だった。
資産家で教育に厳しく、試験期間中は自室で勉強するよう言われていた。
少々疲れるが、わずかな自由を取り上げられてはたまらないのでなるべく従った。
僕から見れば祖父と母は似ている。
だが祖父は母以上に細かく人を管理したがる人だった。祖母は祖父の言うことに逆らわない。
帰宅すると祖母はいなかった。買い物だろうか。LINEで祖父への帰宅報告と着替えを済ませる。
勝手に清掃されるので最低限のもの以外捨てた部屋で、読みかけの本を開く。
勉強をするつもりはない。目立たないためには、試験も及第点が取れればいい。
しかし今日は集中できなかった。
僕は前の家からもってきた自分用のノートパソコンで昨日の事件を調べ始めた。
自殺したのは二十代の女性、即死だった。
消されていない動画を探し出して端から見ていく。
宇上君が消えた瞬間のものがあれば、手がかりになるのではないかと思ったのだ。
だがさすがにその瞬間のものは見つからなかった。宇上君が消えた瞬間は凄惨な現場ができた瞬間だから、当然と言えば当然だ。
諦めて宇上君との会話を思い出す。
彼は生き物の死の瞬間を見ると異世界に飛び、強制的にこっちの世界に戻されるなどと言っていた。
形やモチーフは変わっても異世界モノの物語は幅広く存在する。
異世界「転生」ならば、現実の世界では主人公が事故死することが多く、「転移」ならなんらかの条件やアイテムをきっかけに現実と異世界を移動することが多い。
宇上君の言っていたことは本当だったのかもしれないが、にわかには信じがたい。
異世界転生モノのアニメを再生しながら、宇上君の話と異世界モノについて思いつくことをノートパソコンのメモ帳に書きなぐってみた。脈絡のない単語の羅列は、宇上君を見つける手立てにはなりそうにない。
そもそも学校や警察や大人たちが探している。僕がつまらない妄想を広げても、無意味でしかない。保存せずにメモ帳を閉じた。
画面右下の時計で時間を確認する。夕食まであと三十分というところだった。
まもなく祖父も帰宅して小言を言いに来るかもしれない。
明日の試験科目の確認をしているふりだけでもしようと、放り出したままの本を片付け、僕は床の上の教科書を手にした。
祖父が部屋の扉を開けたのはその時だった。
「呼ばれたら返事をしろといつも言って……」
体格のいい、神経質な本性を穏やかさで覆ったような容貌の祖父が、僕のノートパソコンの画面を見て硬直する。
いわゆるラッキースケベなシーンが画面に映っていた。
やってしまった。僕はワイヤレスイヤホンを外して祖父に弁明する。
「すみません、イヤホンをしていて、聞こえていませんでした」
問題はそこじゃないと気づくも遅かった。
恐怖と動揺を隠すほうに意識がもっていかれたらしい。
言葉を継ぐ間もなく僕は祖父に張り倒されて床に転がる。背中や腕をぶつけて熱を感じる。
祖父母と暮らすようになって半年、殴られたのは初めてだ。
「学生が勉強を放り出してこんなものを見るとは何事だ! 時間を無駄にするな!」
祖父の手が僕の胸ぐらを掴む。まだ殴られる、と構えたところで、パソコンから場違いな音声がそこそこの音量で漏れ出した。ワイヤレスイヤホンの接続か充電が切れたのだろう。
祖父の顔がさらに赤くなる。
最近の祖父の世代は元気だといわれているのを何かで見たのを思い出す。
そのとおりだと思った。他人にキレて拳を振り上げるほど、僕は元気じゃない。
祖父といい、昔のいじめっ子といい、なぜみんな殴るのか。
誰も助けてはくれないが、傷を見て噂はする。それが嫌だ。だからせめて、顔はやめてほしい。
逃げ場所のない虫のように体を丸めたところで、階段を駆け上がってきた祖母が祖父を止めた。
日頃は無口でおとなしく、小柄な祖母が叫ぶのを今日、初めて聞いた。
祖父が所有する十五階建てのマンションの屋上から、深夜のベッドタウンを見下ろして僕は高揚した。
夏の始めの夜の空気は濃密な湿度でまとわりついてくる。
けれど空高くまでは登って来られないらしい。
学校や通学で感じるものより乾いた、頬をなでる風が心地いい。
祖父母が寝入った後、僕はたびたび屋上に来ていた。
誰も見ていないだろう場所から、いつもと違う視点から世界を見ていると、その瞬間はただ息をしていることを許されるような気がしたのだ。
昨日の女性がなぜ飛び降りたのかは知らない。
いざとなれば、ここからどうにでもできると思っていたのではないだろうか。
僕は地上を見下ろした。街頭が灯る道には誰もいない。
高度一万メートルから落下しても生き延びる人もいる。
でも僕にそんな強運はないだろう。
僕に残っているのはもう、いろいろなことへの煩わしさと、ほんの少しの好奇心と命だけだ。
柵の外に腰掛け、素足をぶらつかせてスマートフォンのデータを消す。
結局、僕から宇上君には連絡しないままだった。
少しだけ迷って、僕は彼の連絡先も消した。
もしかしたらこのあと会えるかもしれない。
けれど他人のふりをしようと思う。
昨日のあの現場で、僕は彼の腕を力いっぱい引っ張った。
その腕を彼は自身の方へ――というか、僕の腕をつかんで、そのまま横断歩道の方へ押し出そうとしたように僕には感じられた。
つまり僕は、彼に殺されかけたのではないか。
人々が混乱していたあの状況なら、自殺に巻き込まれたとしても車にひかれたとしても事故で済まされただろう。いつか読んだ小説のお話のように。
消えてしまう直前の宇上君の言葉を思い出す。
彼は僕を事故に見せかけて、人が死ぬところを見たくて、僕に近づいたのではないか。
もちろんこれは全部、宇上君の異世界話が本当だったら、の話だ。
当然そんなことはあり得ない。
宇上君だってパニックになっていて、間違えて僕の腕をつかんだのかもしれない。
だけど、少しでも現実から逃げられるなら。
どう考えたって宇上君より僕のほうが何度も異世界に行くことを願うような人生だったのに、神様はいじわるだ。
「君だけ、ずるい」
僕は呟いて立ち上がる。
壁にぶつけて青くなった腕が鈍く痛んだ。
下を見ると足がすくんでしまう。
だから僕は体を反転して、背中を道路側へ向ける。
田舎のように澄んでいない濁った夏の夜空を見ながら、僕は宙へ飛んで落下した。
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