第3話 友達未満

 僕は誰にも宇上うがみ君のおかしな話を言わなかった。

 そもそも相手がいない。信じてもらえる話でもないだろう。


 宇上君とはさらに距離を置いていたつもりだけど、彼は毎朝僕に挨拶するようになってしまった。他の人の視線の中、無理矢理無視することもできないので、ごくたまに短い会話もした。そのたびに僕は人目が怖くてしかたなかった。


 宇上君も空き教室に僕がいたことを誰にも話していないようだった。

 それでも僕は念のため、空き教室に行かなくなった。また話しかけられたりしたら面倒だ。


 居場所がなくなった僕は通学定期券で行ける範囲のファーストフード店を転々とした。

 小遣いをもらってはいるが、フードや高価なドリンクを注文することはできない。安いコーヒーや紅茶に砂糖とミルクをたっぷり入れて店の隅の席で過ごした。コーヒー一杯で数時間過ごす僕の近くを店員が通ると緊張し、心の中で謝罪した。


 だからイヤホンをして読書に集中していた僕の向かいの席に人が座ったときは、死ぬほど驚いた。


「試験勉強しに来たんだけど席空いてなくてさ。

 ここいい? ポテト半分食べていいから」

「……宇上君……」


 驚いて椅子の背もたれに背中を押し付ける僕の前で、ポテトをこちらに向けた宇上君がハンバーガーに齧りつく。

 席を立ちかけたが、輝くポテトの誘惑に負けた。いただきます、と手を伸ばす。甘ったるいコーヒーに慣れた舌に塩気が染みわたる。


わたるがいてよかったよ。なあ、LINE交換しない?」

「……なんで? っていうかその名前呼び、いい加減……」

「俺が航と友達になりたいから」

「……君にはもう十分、友達いるだろ」


 卑屈さを伴った自分の声が惨めったらしい。

 学校に友達がいなくても死にはしないとわかっているはずなのに。


 だがコーラを飲み下して続いた宇上君の声は僕より軽くて重かった。


「……そうでもないよ」


 結局僕は宇上君に好物のダブルチーズバーガーをご馳走してもらう代わりにLINEのIDを交換した。そして途中まで一緒に帰る羽目になった。


 学校から会社から帰宅する人々の群れが大都市の交差点を行き交う。

 ビルに張り付いた画面に流れるCMや信号の音声が騒がしい。

 普通の人なら何でも話のネタにできるのだろう。


 だけど僕は、何をしゃべっていいのかわからない。

 沈黙が、頭の中で広がる陰口が怖い。だったらひとりでいい。

 この帰り道も、宇上君とわかれた途端に肺から鉛を吐き出すようなものになるだろう。


 そう思っていたけれど、宇上君との会話は苦痛ではなかった。

 僕が必死に話さずとも彼は話題をつなげ、沈黙を責めることもなく、たまにはこういうのも落ち着くよな、とリラックスした様子で人混みを眺めたりしていた。

 僕も本で会話術を勉強したことはある。だが日々実践を重ねている人にはかなわない。

 男子にも女子にも好かれ、先生たちからも高評価。

 圧倒的な光は、嫉妬すら焼き尽くして他人を変えるのかもしれない。

 さらには運にも恵まれ、どこにでも自分の席が用意されている。


 何とはない会話と沈黙を繰り返しながら、僕たちは騒々しい駅前のスクランブル交差点で信号を待つために立ち止まった。


 久しぶりに感じる、浮つくようで穏やかな感情がもやもやする。

 普通の人が普通に感じるだろうポジティブな感情に慣れていない僕は、それを押し流そうと目の前の光景と物語の世界の記憶を重ねていた。


 確かこういう場所で背中を押して、事故死に見せかけて殺す話があった。

 本のタイトルを思い出そうとしていたら、周囲がざわめいて悲鳴が上がった。

 白黒の横断歩道の向かいから、僕たちの左右の人混みから、無数の視線が僕らの頭上高くに向いている。その先は数年前にできた商業ビルの最上階だ。


「え……おい、何やってんだよ……!」


 見上げる僕の隣で青褪めた宇上君も呟く。

 日暮れ時、照明が照らす看板の前に赤い服を着た女性がいた。


「……僕たちも、避けたほうがいいんじゃない?」


 信号が変わるまでの時間を示す目盛が一つ減る。

 横断歩道のこちら側にいる人々が狭い歩道を逃げる。

 向かい側では僕らの頭上に向けてスマートフォンを構えている人もいた。撮影しているのだろう。


「宇上君?」


 動かない宇上君に、少し大きく声をかける。


「……俺さ、異世界に行けるんだよ」

「とりあえず逃げようよ。危ないし、撮られてるし」


 早口になる僕の言葉が聞こえていないように、宇上君は真顔で上を見ている。


「動画とかじゃダメなんだよ。蚊ですら、叩いたらあっちにとんじゃうのにさ」

「わかったから、ほら」


 たまらず宇上君の腕を掴む。

 その口元が裂けたように笑っていて、僕は一瞬呼吸が止まった。


「人が死ぬのを見たら、どれくらいあっちにいられるんだろうな」


 我に返った僕が宇上君を歩道の方に引き寄せようとしたのと同時に、ひときわ大きな悲鳴が一斉に上がる。スマートフォンの群れは上から下へと滑る。

 爆発するような音と女性が地面に激突したのは同時だったように思えた。


 間一髪、僕はビルの入口に逃げこんだ人々の中にいた。


「宇上君、」


 悲鳴を上げ続ける人々の喧騒にもみくちゃにされながら僕は宇上君を探す。

 彼はどこにもいなかった。

 飛び降りた人の下敷きにもなっておらず、その周囲にもいなかった。



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