第44話 新しい日々のはじまり
「ハッピーバースデイだねえ明日は」
デザートの果物を食べながら、円佳さんはそう言ってさっき持ってきた紙袋を取り出す。
「これ、千冬にあげる。寂しい時はこれを読みなさい」
袋を開けると、そこには一冊の本が。
「これは?」
「私がね、寂しい時によく読んでたの。なんてことない恋愛小説だけど、なんか落ち着くのよね。なくなったお父さんにもらったものだからってのもあるけど、内容がいいのかねえ」
「そ、そんな大事なもの、もらえない」
「いいの。私は千冬のおかげでもう寂しくないから。でも、千冬はまだちょっと、寂しいって思う時あるんでしょ? だったらそれ読んで、心を落ち着かせることね」
「円佳……うん、円佳のこと、一生忘れない」
「なんか死んだみたいになってるけど大丈夫なのかな」
あははっと、円佳さんは笑ってりんごを頬張る。
「……これ、読む。斗真君がいなくて寂しい時は、これ読んで待ってる」
「うんうん。それじゃ私はそろそろ帰るね。あ、お母さんにお土産もあるから、それは渡しといて」
もう一つの袋にはお菓子やスイーツがたくさん入っていた。
千冬のお母さんはこういうものが一番喜ぶそうで、円佳さんはそれを置くとさっさと玄関の方へ。
二人で見送りに行く。
そこで、千冬が少し前に出て。
靴を履く円佳さんに言う。
「あのね、私たち、結婚の約束したの」
「あら、それはそれは。でも、今更驚かないけどねー」
「円佳……いつもありがと」
「いえいえ。私の方こそありがとね、千冬。後輩君ほどじゃないにしても、ずっと一緒よ」
「うん。大好き、円佳も」
笑顔のまま円佳さんが出て行くと、さっきまでの賑わいが嘘だったかのように家は静まり返る。
「……楽しかったね、千冬」
「うん。こういうのも、好き」
「だね。ずっと二人もいいけど、たまにはみんなでって言うのもいいよね」
「……不思議。今まで、こんな風に思ったこと、なかったから」
「ちょっとだけ、俺も千冬も成長したんだよ。多分これからも、変わってく。なんであの時はあんなこと思ってたんだろって、不思議に思う時がくるんだよ」
「うん。でも……斗真君への気持ちは変わらないから」
「俺も。千冬が大好きなことだけはずっと変わらないよ」
そっと彼女の肩を抱いて。
さっきまでの楽しかった時間の余韻に浸るようにしばらく玄関を見つめたまま佇んで。
その後、二人で一緒に片付けをしてから部屋に戻った。
◇
「斗真君、いってらっしゃい」
バイトの日。
玄関先で俺を見送る千冬は、満面の笑みで俺に手を振る。
「うん、行ってきます。今日からちょっと長くなるけど、ゆっくりしてて」
「バイト五時までだよね? そのころ、迎えにいっちゃう」
「待ってる。いってきます」
キスをして、そのまま俺は一人出かける。
千冬はもう、俺の後を追うことも絶望的な顔をすることもなくなった。
まだ、ちょっとは無理をしてるのかもだけど。
それでもずいぶん変わったと思う。
「いらっしゃいませー」
仕事中、俺も千冬のことばかり考えることはなくなった。
仕事がおわったら彼女が迎えに来てくれるし、家に戻ったらずっと一緒だし。
だから今は頑張って仕事して。
来週に控えた引っ越しとそのあとから始まる二学期のことも楽しみだ。
千冬ともう一年一緒に過ごす高校生活。
体育祭や文化祭、それにクリスマスや正月、バレンタインも。
ずっと一緒だと思うと、その時を楽しむためにいまやれる精一杯を頑張れる。
お昼時から絶えないお客さんの対応に慌ただしくしながら、気が付けば夕方。
いつものように千冬が迎えにやってくる。
「斗真君、お疲れ様」
買い物袋を下げた彼女が、俺ににっこりと笑いかけて。
ちょっとその姿に見惚れて作業の手が止まる。
「うん、もうすぐ終わるよ」
「じゃあ、買い物してくるね」
ちょうど五時になるころにレジに並ぶ千冬の会計を済まして。
そのあとバイトをあがって一緒に買ったものを袋に詰めて。
荷物を俺が持って一緒に外に出ると、千冬が傘を広げる。
「暑いね、まだ」
「そうだね。でも、もうすぐ秋だから。夏休みもよかったけど、二学期も楽しみだね」
「斗真君と一緒に文化祭回りたい。あと、体育祭の時は、すっごく応援するの」
「あはは、恥ずかしいよ」
千冬と家に帰る。
もう、引っ越し間近ということもあって荷物の大半は段ボールに詰められていて。
ちょっと殺風景になった部屋を眺めながらベッドで並んでいると、千冬は甘えてくる。
「斗真君……ちゅう」
「うん……んっ」
「……おいしい。斗真君ってね、すごく甘い味がするの」
「そうなの? 千冬の方が甘い香りするけど」
「ううん、とっても甘いの。斗真君の味も匂いも、全部大好き。私、斗真君が大好き」
「ありがと。千冬、大好きだよ」
「……布団、入ろ?」
「うん」
まだ寝るには少し早い時間から電気を消して。
俺と千冬は会えなかった時間を埋めるように体を重ねる。
夕食を食べることも忘れて盛り上がり、夜になってようやく腹の虫が目を覚ましてから、二人で一緒にベッドを出る。
「おなかすいたね」
「うん……でも、いっぱいしてもらったから私はお腹いっぱい」
「じゃあ、なんかあっさりしたものにしよっか」
「私、そうめんでも作る」
こんな毎日が続く。
特別なことをしたわけでもない彼女と日々過ごすだけの夏休み。
でも、この夏は俺にとっても千冬にとっても、特別な時間だった。
そして、そんな特別な時もゆっくりと過ぎていき。
引っ越しの日を迎えた。
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