第19話 もうそろそろ限界だから

 人生で初めてキスを体験した。

 ファーストキスはレモン味なんて迷信を信じていたわけじゃないが、あれはやっぱり間違いだったようだ。

 

 甘い、まるで溶けたチョコレートがそのまま口に注がれたような甘くドロッとしたもの。

 それが俺の知ったキスの味だった。


「相楽君、帰ろっか」


 彼女が嬉しそうな表情で言う。

 俺の意識はまだ、数秒前から止まったまま抜け出せていない。

 言葉では言い表せない程の快感。

 快楽ともいうべきあの感覚が、俺の口にこびりついて離れない。

 脳に焼き付いて、忘れられない。


「……」

「相楽君、どうしたの? 熱かった?」

「はっ……い、いえ……ええと」

「キス、初めて?」

「も、もちろんです……あの、せ、せんぱい、これって」

「あの時のお礼、だとしても足りないかな?」

「……」


 あの時、というのは多分俺が先輩を助けた時のことだろう。

 でも、人助けをした報酬が美人な先輩からの濃厚なキス、というのは何が何でもできすぎである。


 足りないどころかお釣りが出るレベル。

 いや、お釣りどころかこっちがお金を積んだって本来は得られないもの、だ。


「先輩……お、俺」

「帰ろう? 潮風で髪、べたついちゃった」

「は、はい」

「濡れちゃった……」

「は、はい?」

「ううん、相楽君も、元気になったね」


 少し目線を下げて笑う彼女の視線の先は俺の下半身。

 あんなことをされて反応しないわけがなく、無意識のうちに俺のそれはすっかり元気になっていた。

 慌てて、隠す。


「あ、す、すみません……」

「んーん、可愛い。照れる相楽君、可愛い。かっこいい」

「せ、先輩……」

「帰ろっか」

「は、はい」


 一切気持ちを切り替えれていない俺は、フラフラしながら立ち上がる。

 そして先輩と一緒に浜辺を歩いて、やがて海をあとにする。


 どうやって帰ったか、帰りの道中で先輩と何を話したか、イマイチ俺は覚えていない。

 気が付けば家の近くにきていて、そのまま本能的にアパートに戻ろうとする俺に対して、「やっぱり着替えほしいから家に戻っていい?」と先輩に言われたことだけは覚えていて。


 ようやく夢から覚めたのは、一人で静かな部屋に戻ってきた時だった。



 ……しちゃった。

 我慢できずに、しちゃった。

 しかも二回も、いやらしいのもしちゃった。


 どうしよう、どうしよう。


「どうしよう、円佳」

「何よその惚気話。さっさと後輩君と交配してこい」


 彼のアパートの前あたりで、私はもうずぶ濡れだった。

 今日は晴れだというのに。


 で、着替えを取りに帰ってきた。

 相楽君についてきてほしかったけど、その前に円佳に話がしたくて一人で家に帰って、部屋で着替えながらスピーカーで電話中。

 

「相楽君のがね、元気になってたの」

「そりゃなるでしょが。ていうかあんたもでしょ」

「うん……また彼のジャージ汚しちゃった」

「あー、ほんと病んでるわー。で、後輩君はどんな感じだった?」

「顔が真っ赤だった。可愛かったの。ううん、かっこよかった。ううんううん、どっちもかな。それにすごく美味しくてね」

「もういいお腹いっぱい胸焼けするから」

「円佳、胃の調子悪いの?」

「……はあ」


 呆れたようなため息のあと、円佳は少し間を置いてから。

 私に訊いてくる。


「でも、絆すだけじゃなくてちゃんと好きになってもらわないと、ダメよ千冬」

「どういうこと?」

「後輩君も男なんだから、美人なあんたにキスされたらそりゃ嬉しいだろうし、裸見せられたらもちろん欲情するだろうけど。でも、それとこれは別ってこと。あんたは好きな男にだけ抱かれたいって思ってるかもだけど、好きじゃなくてもそういうことができる人も大勢いるってことよ」

「それって……相楽君が私のこと、好きじゃないってこと? え、うそ、どうしよう、円佳、私死ぬ」

「落ち着けー。そうじゃなくて、ちゃんと好きって気持ち確かめときなってこと。安易にエッチさせたら、それこそ体だけの関係になるわよ」

「……相楽君はそんなひどい人じゃないもん」

「まあ、そうだとは思うけど。一応、友人としてあんたがいいようにされて傷つくのを見たくはないからね」

「円佳……うん、相楽君の次に好き」

「あ、そ」


 また呆れたように呟いてから、円佳は「何かあったら連絡してね」と言って電話を切る。

 やっぱり円佳は優しい。

 私のこと、よくわかってる。

 言われたことも、よくわかる。


 相楽君はそんな人じゃないって知ってるけど、でも、せっかく親友からのアドバイスだからちゃんと心に留めておこう。


 つまり、ちょっと焦らした方がいいってこと、だよね?


 私、もう焦らされ過ぎて限界なのに……。



 部屋で一人っきりなのが随分久しぶりのことのように思える。

 先輩がいない時間、先輩がいない空間、先輩の声が聞こえない今。


 まるで世界に一人取り残されたような虚無感だ。

 もう、何も考えられない。

 先輩のことで、俺の思考も記憶領域も埋め尽くされていく。


 頭を抱えながら、先輩が来るのを待つ。

 いや、来るなんて一言も言ってなかったからもしかしたら今日は来ないかもしれない。

 さっきのキスも、俺に対する礼だって言ってたし、あれで助けてもらった件はチャラだよってことで、もう俺に会いに来ないかもしれない。

 今度はそんな不安ばかりが俺を支配していく。


 胸が苦しくなって。

 息が苦しくなって。

 でも、そんな絶望の時間は終わる。


「ぴんぽん」


 玄関のチャイムが鳴る。

 俺は走って玄関へ向かい、慌てて扉を開ける。


「あ、相楽君……」


 そこには、いつぞやと同じピンクのスウェット姿に着替えた先輩がいた。

 ちょっと恥ずかしそうにしながら、上目遣いで俺を見てくる。


「……着替えてきちゃった」

「う、うん」

「お部屋、入っていい?」

「も、もちろんです。すみません迎えにいけなくて」

「ううん、いいの。相楽君、優しいね」


 よく見ると、この前のスウェットとは違って少しもこもこしたタイプのもので、それを着た先輩はいつもより少し幼く見える。

 でも、部屋に来るといつもの甘い香りを漂わせて。

 俺はその香りで、キスのことを思い出してしまう。


「……先輩」

「相楽君、そういえばお昼まだだよね」

「は、はい」

「……食べたいもの、ある? 私、なんでも作るから」

「な、なんでも、ですか?」

「うん、なんでも。リクエスト、ある?」

「……」


 頭に真っ先にうかんだ言葉は、「先輩を食べたいです」だった。

 もちろん却下、変態だと思われるので言うはずがない。

 ちゃんと考えないと先輩を困らせてしまう。


「ええと、今日はカレーとか食べてみたいかもです」

「カレー……うん、わかった。じゃあね、食材、買いにいこ?」

「は、はい」


 せっかく先輩と部屋で二人っきりだったので、外出はちょっと気乗りがしなかったんだけど。

 でも、先輩と一緒に買い物っていうのももちろん楽しいし。

 さっきのキスのせいで、随分と頭の中がピンク色になってるけどそんなことばかり考えていたら嫌われてしまう。


 なんとか邪念を振り払おうと、外に出ると空を見上げたり鳥のさえずりを聞いたり、すれ違う老夫婦に目をやったりしながら先輩の方を見ないように。


 でも、隣を歩く彼女は俺に寄ってくる。


「……今日も暑いね」

「そ、そうですね。でも、そのスウェット、暑くないですか?」

「うん、ちょっと。でも、これだとわかりにくいから」

「わかりにくい?」

「ううん、なんでも。手、繋いで」

「……」


 先輩は、俺の指にするりと細い指を絡めてくる。

 その感触にまた、いけない妄想が暴走し始める。


 ここが外でよかった。

 これを部屋の中でされたら俺は、もう止まらないだろう。


 早く部屋に帰りたい。

 帰って、先輩を抱きしめたい。


 そんなことばかり考えていたら、気が付けばスーパーの前に立っていた。

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