第18話 あったかいよ?


「……ん?」


 目が覚めると、部屋はすっかり明るくて。

 しかし昨日眠る時に感じていた先輩の感触はなく。


 振り向くとそこには誰もいなかった。


「……先輩?」


 先に起きて帰ってしまったのか。

 そう思うと、言葉では言い表せない喪失感に襲われる。

 慌てて布団を飛び出して、廊下へ。

 すると、


「あ、おはよう相楽君」

「先輩……おはようございます」

「どうしたの? 変な夢、見た?」

「い、いえ……」


 キッチンで料理をする先輩がいた。

 それだけで、俺は心底安堵した。


 もう、随分と先輩に依存している自分がいることを自覚させられる。

 ダメだ、もう先輩がいないと俺は……。


「朝ご飯、目玉焼きにしたけど嫌い?」

「大好きですよ。それに、先輩の卵料理なら目玉焼きでも期待大です」

「うん……昨日、先に寝ちゃってごめんね」

「そ、そんな……疲れてたんですね、きっと」

「うん。それに……ううん、なんでも」


 何か言いたそうにする先輩は、しかし目を逸らすとそのまま料理を続ける。

 俺は、顔を洗うために洗面所へ。


「……なんか、手がパリパリするな。なんだろこれ?」


 寝てる時によだれでも垂らしたのかな?

 だとしたら問題だ。 

 横で先輩が寝てたというのになんと汚いことを。


「……よし、綺麗になった」


 今日は日曜日。

 この後、先輩は一度家に帰るのだろうか。

 できることなら一緒にいたいけど。

 疲れてるみたいだから、無理ない程度に誘ってみよう。


「先輩、今日の予定は?」

「特にないよ。相楽君は何か予定、あるの?」

「いえ、特に。よかったら今日も、どこか行きますか?」


 断られるかもしれないけど。

 昨日の夜、先輩への気持ちを自覚したおれは思い切って誘うことを決意した。

 すると先輩は、目を丸くしながら俺を見る。


「……誘ってくれるの?」

「え、ええ。なんか先輩といると、その、楽しい、ので」

「うん……じゃあ、今日もデートしたい」

「は、はい。どこか行きたい場所あったら、言ってくださいね」

「うん」


 にこっと、先輩の表情が崩れる。

 その笑顔を見ると、気持ちが抑えられなくなる。

 このまま、抱きついてしまいたくなる。

 さすがに、そんな度胸はないけど。


「じゃあ、ご飯できたら呼ぶね」

 

 そう言われて、俺はさっさと部屋に戻る。

 こうして毎日先輩がいる生活に、少し慣れてしまって依存してしまっている自分がいる。

 たった数日だけど、先輩がいない日なんて考えたくもない。

 随分と、メンヘラみたいなこと考えてるな俺って……。

 女性に優しくされた経験がないから、すぐに絆されてるだけなのかもしれないけど。


「できたよ」


 うれしそうに朝食を持ってきてくれる先輩を見ると、ますますその気持ちは加速する。

 

「おいしそう。いただきます」

「うん、いっぱい食べて」


 先輩を助けて以来、俺に随分と尽くしてくれるのはやっぱり恩人だからなのかと思っていたけど。

 でも、普通に考えてそれだけの理由でここまでしてくれたりするだろうか。

 やっぱり先輩も、俺のことを……。


「どうしたの、相楽君? おいしくない?」

「い、いえ。とてもおいしいです」

「よかった。でも、難しい顔、してる」

「す、すみません。ええと……」


 でも、どう聞いたらいいのか。

 まさか先輩に「俺のこと、好きなんですか?」と訊くことはできないし。

 

「相楽君、朝ご飯食べたらもう出かける?」

「そ、そうですね。どこ、行きます?」

「人が少ないとこが、いいかな」

「じゃあ、駅の方じゃなくて海の方にいきます? この時期ならまだ、人も少ないでしょうし」

「海……うん、いいよ」


 出された目玉焼きは、ただの目玉焼きなのに塩加減も半熟加減も抜群で驚くほど美味しくて。

 出されたサラダと一緒にあっという間に平らげてしまうと、先輩は当たり前のように食器を持ってキッチンへ。


 こういうのって、亭主関白っていうのかな。

 何もかも先輩にさせて、俺は部屋でテレビを見てる。

 それっていいのかな? でも、先輩がそうしたいっていうんだからいいんだろうけど。

 やっぱり、俺も何か先輩の為にしてあげたいけど。

 ……今日こそ、何かほしいもの、プレゼントしたいな。


「相楽君」


 洗い物を終えた先輩は、扉の向こうからひょこッと顔を出す。

 何か困った様子だけど、お皿でも割ったのか?


「なにかありました?」

「……このジャージ、着たままでかけてもいい?」

「あ、そういえば洗濯物出すの忘れてましたね。すみません、着替え取りに帰ります?」

「んーん、このジャージでいいよ」

「で、でも」


 俺が貸しているジャージは、中学の頃から使ってる無地の少し色あせた家着だ。

 先輩みたいな綺麗な人にそんなものを着させて外出させるのはさすがに躊躇う。


「いいの、これで。私が相楽君の服着て歩いてたら、困る?」

「そ、そうじゃないですけど」

「けど?」

「……先輩がいいなら、いいですよ」


 ならそうする。

 先輩はそう言って笑うと、俺を手招きする。


「来て」

「? どうしました」

「トイレ、行くから」


 廊下に出ると、彼女はそのままトイレに入る。

 そして中から「相楽君、そこにいて」と。

 でも、さすがに近くに立っていると中の音とかが聞こえてしまう。

 寂しがりやなのはわかるけど、これはちょっと……。


「相楽君、いる?」

「い、いますよ」

「うん、そこにいてね」

「……」


 なるべく意識を逸らそうと頑張るが、なにせ廊下は静かで。

 少し水のしたたるような音が聞こえると、俺は変なことばかり考えてしまう。

 ヤラシイことを考えまいとするほど、頭の中は先輩のことでいっぱいになっていく。


 やがて、先輩がトイレから出てくる。

 すぐに俺がそこにいることを確認してにこっと笑いかけてくれるが、俺はその顔は見れなかった。



「今日はいい天気だね」


 ほどなく、部屋を出た。

 今日は日差しがまぶしい。

 ようやく梅雨もあけるころか。

 夏が来ることを予感させるいい天気だ。


「ですね。海の方にいけば涼しくて気持ちいいかも」

「……相楽君は、海とか、好き?」

「まあ、前に住んでたところが海から遠かったので、近くにあるのはいいなって思いますね」

「そっか。誰かと行ったことは?」

「もちろんないですね。友達とも学校で絡む程度ですし」

「そっか」


 海が見えてくると、潮風が気持ちよく頬に当たる。

 先輩の長い髪がなびいて、それをすこし鬱陶しそうにする。

 その仕草がまた色っぽくて。

 昨日、こんな美人と同じ布団で寝たなんてまだ信じられない。

 でも。あれは夢なんかじゃなかった。

 あの時、先輩がもし起きていたら俺は……。


「……」

「相楽君、今日どうしたの? なんか暗い」

「え? す、すみません……ちょっと考え事というか」

「女の子のこと?」

「お、女の子? いや、まあ」


 考えてるのはずっと先輩のことだ。

 先輩がどういう気持ちなのか、先輩にどう気持ちを伝えたらいいか、なんなら昨日の続きはまた開催されるのか、とか。


 ずっと先輩のことが頭を巡っている。

 でも、そんなことを知らない先輩は俺の方を睨む。


「……女の子?」

「あ、いえ違うんですよ。ええと、昨日の、こととか」

「昨日……相楽君の隣、すごくあたたかかった」

「は、はい。夏になると蒸し暑いかもしれませんけど」

「んーん、汗、びっしょりかきたい」


 そんなことを先輩が行った時、波の音が聞こえた。

 まだ閑散とする浜辺に、少し強い風が吹いて波が傍の防波堤を叩く。


「あ、海ですね」

「風、気持ちいいね」

「ええと、俺、そこの自販機で飲み物買ってきます」


 ちょっと先輩の目が怖くて、逃げるように自販機へ走る。

 慌てて小銭を取り出して、ジュースがいいのかコーヒーがいいのかと迷っていると、後ろに人の気配を感じる。


「相楽君?」

「あ、せ、先輩。待っててくれてよかったのに」

「どうして離れるの?」

「い、いえそういうつもりは」

「ヤダ? こんな私と一緒に歩いてるところ、見られたくない?」

「そ、そんなわけないじゃないですか。俺は先輩と……」


 先輩と、付き合いたい。 

 そんな言葉がそのまま言えたらいいのだけど、やっぱり言葉が出てこない。

 人生で、告白なんかしたこともされたこともない俺にとって、それがどれほどハードルの高い作業か。

 

「私と、どうしたの?」

「……いえ。すみません、置いていって」

「ジュース、買ってくれる?」

「は、はい。何がいいですか?」

「んー」


 お金を入れると、先輩はなぜかあったかいコーヒーを押す。


「あ……いいんですか、あったかいので」

「うん、いいの。私、手も冷たくて」

「寒いなら移動します?」

「んーん、大丈夫。相楽君、優しいね」


 海辺の風が気持ちいいとはいえ、もう夏前ということもあって随分と蒸し暑いのにホットコーヒーを手に取る先輩は、それを大事そうに両手で包んで顔を赤くしていた。


 俺は冷たいコーラを買って、二人で浜辺へ。

 並んで座ってから、海を眺めながら俺は缶の栓をあける。


「ん、ん……ふう、おいしい」

「……あったかい」

「せんぱい、飲まないんですか?」

「飲めないの、これ」

「え、それなら別のものを」

「そうじゃないの。相楽君の買ってくれたもの、だから」


 まるで割れ物を扱うかのように大事そうに缶コーヒーを持つ先輩は、その栓をあけることなく。

 缶の側面に口をつける。


「……あったふぁい」

「せ、せんぱい?」

「私、唇も冷たいから。あっためてる」

「そ、そうですか」


 冷え性、ってやつなのか。

 確かに先輩の手は冷たくてひんやり気持ちいいが、寒がりなんだとしたら海というチョイスはちょっとナンセンスだったろうか。

 なんてことを気にしながら、俺はちびちびとコーラを飲む。

 先輩は、しばらく同じ姿勢のままコーヒーの缶を口に当てていて。

 しばらくしてからそっとそれを口から話すと、こっちを見て笑う。


「私の唇、あったかくなったよ」

「そ、そうですか」

「確かめてみる?」

「え?」


 先輩は、俺に向けてさっきまで缶コーヒーにキスしていた唇を向ける。

 少し目を細くして、目尻を下げながらトロンとした表情で俺を見て。


「……冷めちゃうよ?」


 そう呟く。

 この状況は、まさかキスを求められているのだろうか。

 いや、そうとしか考えられない。

 キスなんて、もちろんしたこともないけど多分これはそういうことだ。

 先輩が俺にキスを迫っている、はず。

 で、でも、違ってたら……ああ、くそ。どうしたらいいんだ?


「……相楽君」

「は、はい」

「ん」

「っ!?」


 躊躇う俺の唇を彼女の唇が包む。

 食べる、という表現の方が正しいくらいに、彼女は小さな口で俺のかさかさの唇を潤していく。


 先輩の息遣いと、いやらしい音が直接脳内に届いて。

 それは多分一瞬の出来事だったのだろうけど、俺にとっては数十分くらいそうしていたような感覚だった。

 頭が、真っ白になる。

 やがて、先輩は俺から唇を離す。


「あ……」

「あったかかった?」

「え、あ、えと、あの」

「わからなかった?」

「あ、あれ、これって」

「相楽君……」

「んっ!?」


 もう一度、唇を押し当てられて。

 今度は、探るようなした舌使いで俺の口の中に舌が入ってくる。


 味わったことのない、にゅるりとした感触が俺の思考を壊す。

 感じる快感のまま、俺は自然と目を閉じて。

 その快楽に身を委ねる。


 ちゅっ、ちゅる、っという音が波の音を消す。

 甘い味がする。

 先輩の味がするのに、食べているというよりはむしろ食べられているという奇妙な感覚だ。


 やがて、その時間も終わる。

 そっと、俺から顔を離す先輩は俺の方を見てクスリと笑って。


 放心状態で、言葉もリアクションも何も出てこない俺に対して、そっと呟いた。


「相楽君、美味しい」


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