第2話 やっぱり傘がない


「千冬、昨日は大変だったみたいね」


 恩人である彼を探し出し、お礼を伝えて教室へ戻ってすぐ。

 親友の円佳まどかが私のところへやってきた。

 ギャルって感じの派手な見た目だけど、とてもいい子。

 可愛いし、私の話を昔っからなんでも聞いてくれる。


「うん、ほんとうに。でも、いいこともあったから」

「それ、助けてくれた後輩君のこと? まあ、命の危機から救ってくれたらちょっと運命感じちゃうよね」

「運命……そうね、運命ね。あの人は、私の運命の人」

「あら、それはそれは。千冬なら後輩男子くらい転がせそうだし心配ないけど」

「そんな。私は……転がされたい」

「う、うん? そうなの……ってその傘、どしたの?」

「ああ、これ? 彼の席の後ろにあったから持ってきたの」

「な、なんで?」

「だって」


 だって。

 この傘はもう必要ないもの。

 

 彼は、私の傘に入ればいいんだから。



「……なんか曇ってきたなあ」


 昼休みになると、天気が一変する。

 ゴロゴロと雷の音が聞こえ始め、外は一気に暗くなり、放課後になると雨が降り始める。


 昨日よりも激しい雨。 

 天気予報では今日は晴れ後曇りだったはずだけど、やっぱり予報はあてにならない。

 こんな時の為に、やはり備えあれば憂いなしというやつだ。

 今日は傘をちゃんと用意して……あれ?


 席の後ろに置いてあった傘がない。

 誰かが、間違えて持っていった?

 でもいつ? まあ、確認してなかった俺も俺、だけど。


「しかし参ったな」


 これでは昨日の二の舞だ。

 教室を出て、靴箱のところまできたものの土砂降りの雨のせいで校舎の外は何も見えない。

 それに今日は予報を見て雨は降らないだろうと思ってか傘を持ってきていない連中も多く、結構な数の生徒が足止めを喰らっていた。


 と、そこに。


「あ、茅森さんだ」

「わあ、綺麗だなやっぱり」


 昨日と同じように、廊下の奥からゆっくりと優雅に歩く彼女の姿が見えた。

 そして右手には傘を持っている。

 

「……あら、君は」

「ど、どうも先輩。雨、ひどいですね」


 今日は向こうから声をかけてくれた。

 そして、黒い傘をバッと広げると。


「傘、入ってください」


 と。

 小さな声で俺に言う。


「え、でも」

「嫌?」

「い、いやなわけないです、けど」


 戸惑ったのにはいくつか理由がある。

 まず、結構な生徒が俺と茅森先輩に注目していたから。

 そんな中、相合傘で帰るというのはどうなんだと。

 当然、躊躇する。

 あと、先輩は男嫌いだとも聞いている。

 だから昨日、一人で傘をさして帰っていったのは納得だったけど、そんな人がどうして男を傘に入れようとするのか。

 恩人だから、といえばそれまでだが。

 昨日のことを気遣って、本当は嫌なのに手を差し伸べてくれてるのだと思うと、やはり戸惑う。


「……俺は、止むのを待ちますよ?」

「ダメ、入って。これがお礼です」

「……じゃあ」


 そうすることで彼女の気が済むのならと、俺は遠慮気味に傘の中へ。

 その時、周囲がざわつくのを感じたがそのまま外に出ると激しい雨が傘を叩く音で何も聞こえなくなり。


 雨の匂いと、隣の彼女の甘い香りに頭をクラクラさせながらずぶ濡れの校庭を抜けていった。


「すみません、気を遣わせて」

「いいの、私がこうしたかったから」

「今日はちゃんと傘を持ってきたつもりだったんですけど、なくしちゃいまして」

「傘なんか、いらない。君は傘なんか、必要ありません」

「?」


 つまりどういうことだろう。

 俺は雨が降ってもずぶぬれで帰るのがお似合いっていうこと、か?

 だったらちょっと失礼な話だけど。


「それより、名前教えてくれる?」

「俺の? ええと、相楽斗真さがらとうま、ですけど」

「相楽君……相楽、千冬」

「え?」

「いえ、なんでも。ねえ、今日のお詫びに食事、ご馳走させていただけない?」

「お詫び? いや、むしろ俺の方がお世話になってますけど」

「いいの。悪いのは私だから」

「……?」


 時々、よくわからないことをこの人は呟く。

 まあ、雨のせいで聞き取りにくいのもあるが、しかし傘に入れてもらっただけでなく食事までご馳走になるなんて、さすがに昨日助けたからといっても図々しい。

 ただ、


「私に食事をおごられるのは、迷惑?」

「そ、そんなわけないですよ。迷惑なんかじゃ」

「ならよかった。行きましょう」


 彼女の透き通った声でそう聞かれると、とても迷惑なんて言えず。

 戸惑う俺とは対照的に、終始落ち着いた様子で彼女は、ゆっくりと歩き進める。

 時々水たまりがあると、俺はそれをよけようとするのに彼女は気にも留めず。

 そのまま水の中に足を突っ込んで何事もなかったかのようにその中をパシャパシャと歩いていく。


「あの、濡れてますよ?」

「え、どうしてわかったの?」

「ん? いや、足が水たまりに」

「あ……そっちの話、か」

「?」


 少し照れる様子で、彼女は傘を持っていない手にあったバッグを体の前に。

 もじもじする姿は、可愛らしくて思わずドキッとさせられる。


「はしたない……私ったら、我慢できない」

「あの、先輩?」

「い、いえ。それより、あなたの家はどちら?」

「ええと、このまま真っすぐいって……それこそ、昨日の事件があった路地の近くですよ」

「へえ」


 くすっと笑うと、少しだけ先輩の歩調が速くなる。

 雨脚も強くなる。

 視界がどんどん悪くなる中、一点だけを見つめるように真っすぐ前を向いて静かに、それでいてしっかりと歩を進める先輩についていくと。


 昨日、事件のあった場所の近くまで来た。


「そこの角を曲がらずにまっすぐいけば俺の住むアパートなんですけど……この辺りに飲食店はありませんよ?」

「相楽君、一人暮らし?」

「え、ええ。実家はちょっと離れた場所にあって」

「自炊は?」

「ま、まあやりますよ。仕送りは少なくて外食なんてとても」

「そっか」


 何かに納得したようにうなずくと、彼女はそのまま真っすぐ歩いていく。

 ようやく、雨が弱まり始めたその頃、俺の住むアパートに到着した。


「ここが、相楽くんのおうち」

「まあ、そうですね。ええと、それじゃあ俺はここで」

「ご飯、食べるでしょ?」

「え、いや、それはまた今度の機会で」

「私が作るものは食べられない?」

「え、先輩が作る?」


 そう聞いた時、弱まりだした雨がまた強く降りだす。

 傘をさしていても肩や足元がずぶ濡れになっていく。

 このまま立ち話ともいかず、慌ててアパートの階段の陰に入る。

 ようやく、先輩のさす黒い傘が閉じられた。


「ふう……ええと、先輩が作るってのは」

「私が、相楽君のおうちでご飯を作るという意味だけど」

「そ、それはさすがに……」

「さすがに?」

「えと、そこまでしてもらうのは、ちょっと……」


 いくらなんでもやりすぎだ。

 彼女はきっと昨日のことを心底気にしてるのだろう。

 だからといって、俺がその弱みにつけ込むようなマネをするのはよくない。

 一人暮らしの部屋に女の子を連れ込むのは夢だったけど、こんなやり方は違う。


「先輩、昨日のことなら気にしないでください。あれは俺じゃなくても助けに入ってましたし、もっとスマートに犯人を捕まえれた人だっていたと思いますから」

「でも、普通の人はその後で見返りを求めるものだから。例えば、ほら、私の身体とか」

「そんな下衆はあの犯人くらいですよ。俺は当然のことをしたまでです」

「ポッ……」

「せんぱい?」

「あ、ごめんなさい。いえ、でも、まだ雨は止みそうもないし、濡れた体を乾かしたいのだけど」

「まあ、それは……」

 

 その時、まるで彼女が帰ることを拒むように雨音が強くなる。

 滝のように流れる雨を見て、この中を一人で帰らせるわけにもいかないなあと。

 仕方なく、部屋に彼女を連れて行った。


「あの、狭いところですけど」

「相楽君の、部屋……」


 まだ夕方なのに外の天気のせいで部屋の中は真っ暗。

 急いで玄関の明かりをつけて、彼女を廊下の手前にある風呂場へ案内する。


「ええと、タオルはここにあってドライヤーはそこに。あと」

「シャワー、借りてもいい?」

「え?」


 明るいところで見ると、彼女の肩口から水がしたたり落ちていた。

 傘を半分こしたせいだろう、随分と半身が濡れていて。


「あ……」

 

 慌てて目を逸らした。

 張り付いた制服は、彼女の大きな胸や細いくびれをくっきり浮かび上がらせている。

 上着を脱げば、シャツが透けて下着が見えそうだ。


「ダメ?」

「いえ、それは……構いませんけど」

「そう。あと、服が渇くまでの着替えも貸してもらえると嬉しいのだけど」

「まあ、俺のでよければ」

「相楽君のがいい」

「え?」

「ううん。じゃ、お風呂、借りるね」


 靴を脱ぐと、俺がまだそこにいるというのにするすると服を脱ぎ始める。

 慌てて、俺は奥の部屋に逃げ込む。


 全く、無防備極まりない人だ。

 俺がもし悪い人間だったらどうする気なんだ。

 でも……あの茅森先輩が俺の部屋でシャワーを浴びてるなんて、変な気分だ。


 いや、ダメだ。

 彼女はそんなはしたない人じゃない。

 勘違いして、エロいことをしようなんて発想は昨日の変質者となんら変わらない。

 平常心、平常心……。


「相楽君」


 息を整えてから、俺も濡れた服を脱いで部屋で着替えていると扉の向こうの廊下から俺を呼ぶ声がした。


「は、はい」

「シャワーのあと、お料理を作る予定だけど、リクエストは?」

「え、それは別に……食材も大してないので、できるもので」

「そう。では、私に任せて」

「お、お願いします」

「あと……作るのは料理だけでいい?」

「……え?」

「な、なんでもない……じゃ、また後で」


 ペタペタと、足音が奥の方へ消えていく。


 やがて、シャワーの音だけが静かな部屋にサーっと聞こえてくる。


 

 

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