雨の止まない放課後に助けた美人な先輩が完全に病んでいた件
天江龍(旧ペンネーム明石龍之介)
第1話 傘がない
「雨、かあ」
六月。
梅雨の時期になると毎日こうだ。
朝はいい天気なのに放課後になると学校から帰るなと言わんばかりに雨が降り出す。
天気予報くらい見ろよと言われたらごもっともなんだけど、傘って結構荷物になるし忘れること、多いんだよなあ。
恨めしそうに黒い空を睨む。
でも、雨は降り止む気配を見せない。
俺と同じような生徒がたくさんいたのだろう、置き傘や職員用のレンタルのものもゼロ。
ま、しばらく待つか濡れて帰るかの二択だな。
一度教室に戻るという選択肢もあったが、小雨になったタイミングで一気に帰ろうと考えて靴箱の前で待機することに。
すると目の前から、ゆっくり歩いてくる女子生徒の姿が見えた。
静かに、廊下の奥から優雅に表れるそのしなやかな肢体に目を奪われる。
「
赤茶色の髪をなびかせながら、ピンと背筋を伸ばしてその長い足でこちらにむかってくる彼女のことを、この学校で知らないやつはいないだろう。
大きなつり目、綺麗な鼻梁線、麗しい口元。
まあ、美人なのはいうまでもなく、スタイルも抜群。
それでいて学校一の秀才とくれば、人気が出るのもうなずける。
家が近所なため、朝や帰りの時に何度か偶然会って挨拶をしたことがある程度だが、いつも気さくに「こんにちは」と言葉を返してくれる彼女に、少し惹かれている自分がいた。
でも、学校で会うのは意外にも初めてだ。
ひとつ学年が違うと、すれ違うことも珍しい。
まあ、声をかけるくらいならいいだろう。
「……おつかれさまです」
「おつかれさま。雨、ひどいわね」
挨拶を交わして終わりかと思ったが、意外にも彼女は話を広げてくれた。
慌てて、俺も会話を続ける。
「え、ええ。傘、なくて困ってるんです」
「そう。生憎、一本しか持っていないの。ごめんなさいね」
そう話すと、彼女はカバンの上に横に向けて置いてあった黒い傘を一本、バッと広げて。
「それではお先に。雨、止むといいわね」
そう言い残して先に行ってしまった。
あわよくば、というか。
奇跡的にあの茅森先輩と相合傘、なんて展開を考えなかったわけではない。
が、現実はそう甘くない。
そういや、こんな話を聞いたことがある。
茅森千冬は、どんな男の誘いも絶対に受け付けない、と。
社交的ではあるが、根は男嫌いだそうだ。
そんな人が、名前もろくに知らないであろう後輩男子を傘に入れるなんてこと、するはずがないよな。
また、雨が強くなってきた。
止む気配を見せないどころか、どんどんと空が暗くなっていく。
もう、帰ろうか。
帰ってすぐにシャワーを浴びれば問題ないだろう。
「……よし」
校舎を飛び出すと、強い雨が体を打つ。
すぐに全身がずぶぬれになり、段々と濡れていることも気にならなくなるほどに雨は降り続ける。
重くなった制服に体力を奪われながらもしばらく走っていると、急に雨が弱くなる。
もうすぐ家に着くというタイミングでこれは随分な嫌がらせだ。
「……ずぶぬれだなあ」
制服が体に張り付いて気持ち悪い。
それにこれではどこにも寄り道できないし。
傘、ちゃんと用意しとこ。
そんな反省をしながら帰路につく。
もうしばらく歩いたところの角を曲がると、小さなアパートがある。
二階建ての古い建物。
その二階の二〇三号室での一人暮らし。
実家からは電車で一時間くらいかければ通える程度の距離だけど。
親の意向で一人暮らしをさせてもらって早三カ月目。
最初は料理や生活費の管理に四苦八苦だったが、慣れれば自由気ままな貧乏生活ってのも悪くない。
あとは彼女でも出来たら楽しいだろうなと。
毎日そんなことを考えながら家と学校の往復だ。
ようやくこの不快感ともおさらばだと、帰りを急いでいると。
「あ」
遠目に、黒い傘が見えた。
大きな傘に半身が覆われていて姿は見えないが、多分茅森先輩だろうと。
なぜかそう直感して、歩を緩める。
なんとなく、さっき学校で会ったばかりの先輩に追いつくことが、気まずかった。
追いかけてきたとか、思われたくなかったってのもある。
もちろん偶然だけど。
こういうのでストーカーとかって思われるのは嫌だし。
もうすぐ家が見えてくるのにとんだ足止めだなと。
雨上がりの冷たい風に体を冷やして身震いしていると、横の路地からスッと。
見知らぬ中年が姿を現して彼女のすぐ後ろを歩く。
ただの通りすがりか。
でも、なんとなく奇妙な感じがした。
雨なのに傘も持たず、誰もいない通りなのにやけに彼女に近いところを歩いている。
不審な動きの男に注視していると、やがて先輩が曲がった角をついていくようにその男も曲がる。
嫌な予感がまた。
慌てて小走りになって、小雨を浴びながら角を曲がる。
すると、
「は、離してください」
「へへ、いい女だ。ラッキー」
茅森先輩は男に腕を掴まれていた。
男は俺に背を向けた状態で、必死に彼女の腕を引っ張っていて。
その背後には開いたままの黒い傘が転がっていた。
「さ、叫びますよ」
「別にいいぜ、俺はどうせつかまるんだし。最後にいい女、抱いてやる」
「だ、誰か!」
反対側は住宅街だが、こっちの路地は公園や空き家しかないひと気のない場所。
声は届かない。
でも、俺は彼女の叫びを聞いてしまった。
すうー……。
やる、か。
そろっと忍び足で近づくも、男は先輩に夢中で俺に気づいていない。
黒い傘に、手が届いた。
「おい、触らせろ」
「うらーっ!」
「へ?」
傘を閉じ、おもいっきり男の頭めがけて傘をフルスイングした。
「がっ!?」
高級な傘というのは意外に重く、男の頭を振りぬくと大きな体が吹っ飛んで水たまりに倒れこむ。
「あ……」
「先輩、大丈夫ですか? 早く逃げてください」
「え、えと」
「いいから、早く!」
小学校の時に野球をしていた程度の俺のスイングでは、男の意識を失わせるほどの威力はなく。
起き上がろうとする男を見て、俺は彼女を逃がそうとするが。
しかし恐怖のせいか、彼女はその場から一歩も動かない。
「……こっち、来てください」
仕方なく、手を引いて一緒に大通りを目指して逃げる。
足元が悪く、うまく走れない。
やがて、
「おい、待てこらあ!」
男が立ちあがり、こっちへ走ってくる。
人を一人連れた状態で、しかもずぶぬれの体ではもちろんすぐに追いつかれる。
大通りに出る手前で、捕まった。
「捕まえたぞ、ガキ!」
首元を引っ張られ、男に押し倒される。
「いてっ」
「邪魔しやがって。お前みたいなガキはぶっ殺してやる」
馬乗りになった男は、俺の首を掴む。
「があ……」
本気で殺す気なのが伝わってくる。
必死で手を退けようとするが、全力で締め付けにくる力は強く。
俺は、もがきながら死を覚悟した。
ああ、こんなところで変質者に殺されるなんて、思ってもみなかった。
傘……持ってたらこんなことにはならなかったのかな。
今度生まれ変わったら、ちゃんと傘を……。
「死ね」
「ぐはっ!」
意識が飛びそうになったその時、目の前の男が吹っ飛んだ。
そして、茅森先輩の姿がその後ろから現れて。
慌てて、俺のところに駆けよってくる。
「だ、大丈夫!?」
「げほ……だ、大丈夫、です。そ、それより犯人は」
「おい、何してるんだそこで!」
大通りから、大人が数人こっちへ来た。
そして起き上がろうとする男を何人かが取り押さえ、ずぶ濡れで倒れる俺たちはその後やってきた警察官に保護されて。
警察署へ向かうことになった。
◇
先輩を襲った犯人はストーカーや通り魔の常習犯だったそうで、余罪が多くしばらくは出てこれないだろうという話だった。
俺と先輩は一度着替えに帰らされて、その後で再び警察署に呼ばれて事件の経緯を説明させられた。
まあ、傘で殴ったことは不問とされたし擦り傷程度の怪我しかなく、質問を終えるとすぐに解放された。
先輩は、直接の被害者だったせいか別室でまだ質問を受けていたようで。
俺は先にパトカーで家まで送り返された。
まだ、雨は強く振り続けていた。
◇
「おい、英雄。大変だったみたいだな」
翌日、登校してすぐに俺の元へ友人が冷やかしにくる。
「英雄とかやめろ。俺は通りすがりでたまたま」
「でも、あの連続通り魔を捕まえたんだろ? 結構、話題になってるぜ」
「まあ、傘があってよかったって話だよ」
「傘?」
「こっちの話。まあ、今日はばっちりもってきてるけどな」
今日は朝から晴天。
でも、天気の変わりやすい時期だし、それに昨日は傘に悩まされて傘に助けられた。
朝飯を買う時に、ついでに傘を買っておいたのは昨日の反省を活かした賢い選択だろう。
これでいつ雨が降っても大丈夫だと、雲一つない空を見上げていると教室がざわざわと騒がしくなる。
「お、おいあれ」
「うそ、茅森先輩よね、あれって」
何の騒ぎだと教室の方へ視線を戻すと、入り口のところに綺麗な女子生徒が一人、前に手を組んで立っていた。
茅森先輩だ。
昨日、あんなことがあったのに今日も学校に来てたんだ。
「……あ」
きょろきょろと誰かを探すように教室を見渡して。
俺と目が合うと、大きな切れ長の目を丸くさせてからちょっと間の抜けた声を出して、歩いてくる。
「え?」
「よかった、やっと会えた」
と、驚く俺をよそに少し嬉しそうにほほ笑みながら近づいてきて。
俺の席の前までくると、深々と頭を下げる。
「昨日はありがとう。私、あなたがいなかったらどうなっていたか」
「え、いやいやそれを言いにわざわざ? ええと、まあ、無事でなにより、です」
人気者の先輩が突然下級生の教室に来て、皆戸惑っている。
俺も当然、どうしたらいいかわからない。
「あの、顔あげてください。あれは偶然、ですから」
「そ、そうだけど。でも、何かお礼をさせてください」
「お礼?」
まあ、偶然とはいえ昨日俺が彼女を助けた事実に変わりはない。
だから礼をしたいと言ってくれるのはわかるけど、別に見返りがほしくてやったわけでもないし。
困ったなあ。
「うーん、俺は別に」
「そうはいきません。何かさせてください」
「……じゃあ、茅森先輩が思ったことで、いいですよ」
その気持ちだけで充分だし。
ジュースでも、お菓子でも、なんでもいいってつもりで、そう言った。
「私の、思うこと……」
「はい、なんでもいいですよ俺は」
「じゃあ、子供……」
「こど、も?」
「い、いえ、考えておきます。ではまた」
もう一度深々と頭を下げてから、茅森先輩は静かに教室を出て行く。
彼女のいた場所、通った道に残る甘い香りに誰もが酔いしれて、余韻に浸るように静まり返った教室に担任がやってきて、やがて何事もなかったかのように授業が始まった。
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