第16話 武蔵のときに言った言葉

「ほらな、言わんこっちゃねぇ」


 空間が静まり返る。しばらくの間、誰も何も口にしなかった。宗教にのめり込みすぎて頭がいかれてしまった、狂信者のような謝音を、誰もが怯えるような目つきで見ていた。

 そんななか、おもむろに立ち上がる男の姿があった。

 黒縁のメガネをかけた、インテリっぽい男だ。健人はこの男のことを知っていた。


「武蔵……」


 健人はそう呟き、深いため息をついた。うつむき、首を振り、大きく息を吸い込んだのち、先よりも更に深いため息をつく。


「また、めんどくせぇやつが出てきたぜ」

「皆の衆。もう少し頭を働かせたらどうだね。お前たちは、揃いも揃って無能なのかな?」


 何があってもぶれぬ男の口調は、やはり欠片もぶれていなかった。健人は眉間に深い皺を刻む。

 武蔵は更に続けた。


「おっと、すまない。挨拶がまだだったね。私はトムだ」


 武蔵は、どこからどう見ても和製の顔を少し歪めて言った。


「トムだって。どんな漢字書くんだろね?」


 明日香が目を丸々とさせて言った。


「騙されるな明日香。あれは偽名だ。あいつは気分で自分の名前を自在に変えやがる。前に俺と話したときは武蔵って名乗ってた」

「へ……?」


 明日香は健人の言葉の意味がつかめず、目をぱちくりさせる。

 健人が苛立ち気味に明日香を睨んだ。


「あのなあ。いちいちそんな不思議そうな顔すんな。ここにいる奴らは意味不明なやつばっかなんだ。理解しようとしたら、頭おかしくなるぞ」

「あ、そ、そっか……」


 状況になかなか付いていけない様子の明日香を尻目に、健人は武蔵……、ではなく、トムの演説に耳を傾ける。


「それにしても、皆の衆。きみたちの首に乗っかっているそれは、空気で膨らんでいるのかね? 違うだろう。働きは鈍いかもしれんが、脳みそがちゃんと入っているはずだ。さあ、その無能な頭でよく考えろ」


 トムの演説で、空気がまた変わりつつあった。濃密な不快感が辺りを満たしていった――


   *


 人々がただひたすら会話を交わすだけだった空間が、今は少し様子が違った。


 少し前まで、人々はフラットな関係だった。多くの場合、1対1で会話をし、飽きたら次の話し相手を探す。会話に後腐れは無しだ。激しい言い争いになろうが、とても親密になろうが、会話が終了すればお互い忘れる。それが、この白い空間の暗黙の了解だった。人付き合いが苦手の変わり者たちの処世術とも言えた。


 しかし、今は誰かが大声を張り上げ、1対多数の会話が行われている。それも、どちらかというと一方通行的に、一人が個人的な意見を大勢に投げつけている。大勢からの返球は無視だ。キャッチボールをする気は、はなから無いとでもいうように。


 トムの言葉(武蔵のときに言った言葉)を借りるなら、この空間にはどんなユニークさも許容する大きな度量がある。どんな変わり者でも、そういうものだとして認める度量だ。その度量が、どこまで機能しうるかが、今試されていた。ひとつのユニークさがことさらに主張を始めたとき、この空間の度量がどこまで耐えうるかということだ。


「き、君は、僕のことを信じてくれるのかい? 神様なんか信じて、バカだと思わないのかい?」


 謝音の声が震えている。理解者が現れたことへの喜びと、しかしまだ警戒心を解くことはできないという、微妙なバランスが感じられた。


「ああ。信じるとも」道を踏み外しかけた戦友を励ますような勇ましい笑みが、トムの顔面に貼り付いていた。「どんな思想も信心も、頭ごなしに否定するのは違う。客観的にどれほど馬鹿げて見えようとも、その者は本気なのだ。他者に不利益を与えさえしなければ、本気とはそれだけで真実と捉えて構わないものだと考える」


 トムの言葉に触発されたか、謝音は目を裂けんばかりに見開き、その中にかろうじて収まる眼球は血走り、涙を湛えていた。


「うおおおおおおおおおおおお!!!」


 謝音の雄叫びが白い空間に響いた。それはまごうことなき、歓喜の雄叫びだった。

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