第5話 川
健人は謝音の導く方へついていった。
すると、壁(もちろん真っ白い壁だ)に行き当たった。その壁には人がひとり通れる程度のアーチ状の穴が空いていて、壁の向こう側に行けるようになっていた。その穴のちょうど上あたりに、『川』という字が彫ってあった。白い壁にただ彫ってあるだけの文字は、意識して見なければ見過ごしてしまいそうだった。
「マジか……」
健人は口をポカンと開ける。
「この壁の向こうに川があるよ」
謝音はにっこりと笑って、健人を導いた。壁をくぐると、うるさく響いていた人々の話し声が一部さえぎられた。
健人は、ふぅと息を吐き出し、視線を低めにして、じっとそこにあるものを見つめた。
本当に川があった。白い地面が均一な溝状に削り取られ、そこを水底がはっきり見えるような透きとおった水が流れている。明らかに人工的に作られたものであり、川というよりは用水路という感じだったが、『川』と表示されているのだから、それは間違いなく川なのだ。
「なんか、落ち着くな。川のせせらぎなんて、しばらく聞いてない気がする」
健人が水面を眺めながら言った。
「そうだね。ここで聞く音のほとんどは、人の話し声だからね。こういう自然のものに近い音を聞くと、なんだか癒されるよね」
「これで、虫や鳥の鳴き声なんかが聞こえると完璧なんだけどな」
健人の発言に、謝音は眉をハの字にして笑う。
「それは求め過ぎだね。今は川のせせらぎだけでも良しとしなくちゃ」
健人はひとつ短いため息を吐き出す。
「それもそうだな。人の話し声ばっか聞いてると、耳がおかしくなりそうだったぜ。今は川のせせらぎでも聞いて落ち着くとすっか」
「うん、それがいいよ」
謝音は自然にとびきりのさわやかさで、健人に微笑みかける。
ふたりは川辺に腰掛けた。
ふたりはしばらくそのまま何も喋らなかった。ただ、ぼうっと水の流れを眺め、優しい川のせせらぎに耳をすませた。この真っ白な空間では珍しく、ゆっくりと静かな時間が流れた。
「いいな、こういうのも」健人が口を開く。「なんで俺たちは、あんな狂ったように喋ってばっかなんだろうな」
謝音は顔面に貼り付いて離れないスマイルを少し控えめにし、思案するように上を向いた。
「どうしてかな。気付いたらここにいて、喋ることが当たり前だと思って疑わなかった。みんなそんな感覚だよね」
「ああ、そうだな。でも、本当はみんな、こことは違う世界にいたはずだろ? みんなはそれを外の世界って呼んでる」
「うん。不思議だね。元いた世界のぼんやりとした記憶はあるのに、そこに戻りたいという欲求は全然湧いてこない。まるで、外の世界がとてつもなく居づらい場所だったとでもいうように」
いつの間にか謝音のスマイルはどこかに消えていた。そこにあるのは、謝音の凛々しい真顔だった。
謝音は続ける。
「もしかしたら、みんな外の世界ではあまり喋ることができなかったのかもしれないね。だから、ここでは喋れるだけ喋り倒しているのかもしれない。…………僕も、そうだったような気がする。断片的な記憶しかないけれど、いつも喋っているのは周りの人たちで、僕は馬鹿みたいにただニコニコと相づちを打っていただけのような気がするんだ。健人くんはどうだった?」
健人は目を閉じた。記憶の断片を探り当てようとするように、眉間に皺を寄せ、うんうん唸る。
謝音はそんな健人をじっと見守った。川のせせらぎが静かに鳴り響く。
健人がようやく目を開けたとき、謝音の顔にはスマイルが戻っていた。
「どう? 何か思い出せたかい?」
「んー……、俺はそこそこ喋ってたような気がするな」
謝音は目を見開いて驚く。すると、それまで凛々しく見えていた謝音の顔に、少し幼さが宿った。
「そうなんだね。ここにいる人たちの中では、少し珍しいかもしれないね」
「さっきも武蔵っていう堅物に、同じようなこと言われたぜ」
健人は苦笑する。
「けど、外の世界で周りのやつらと比べて、俺がどんなキャラクターで、どんな立ち位置だったかは全く思い出せねぇんだよな……」
「まあ、みんなそんなものだよ。きっと焦って思い出す必要はないんだと思う。少しずつ思い出せば、それでいいんじゃないかな」
「どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく」
言って、謝音は極上のスマイルを健人に向けた。
「テキトーだな、お前」
「うん。この空間についてはわからないことだらけだから、テキトーにならざるを得ない。外の世界への戻り方だって、僕たちは知らないんだよ?」
「ははっ、違ぇねぇ」
そこで会話が途切れ、ふたりは川の水面を眺めた。木も植わっていなければ、草ひとつ生えていない、ただ真っ白な川辺に腰掛け、二人は静かな時間を過ごした。
健人がおもむろに立ち上がる。川の方へ歩いていき、腰をかがめて、川の流れに手を差し入れた。瞬間、健人が怪訝そうな表情を浮かべる。
「これ、水じゃねぇぞ……」
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