ニートの空 カップラーメンの夏
6月下旬。ナメクジのみが喜ぶ、ジメジメとした梅雨は1週間ほど前に終わっていた。今や7月を待たずに初夏の太陽が照っている。
異常気象。異常気象。ニュースでは毎年そう騒いでいる気がする。異常も続けば平常だろう。恐竜だって異常気象を何回も繰り返していくうちに生きていける環境ではなくなって絶滅したに違いない。うん、私たち人間が絶滅するまであと何回、異常気象と騒ぐのだろう。
■■■
「それはそれとしてあちぃ~」
せっかく煎餅布団にマットレスを追加して、寝心地良い睡眠環境を手に入れたと言うのに、結局寝苦しさで朝の7時に起きてしまった。
会社員時代よりも30分だけ早い起床時間。
ニートになっても、いつかやって来る社会復帰のために生活リズムは崩さぬようにしてはいるけれど。だからこそ、早起きもしたくない。社会人にとって一番癒されるのは夢を見ている時。それを削るなんて言語道断。よくも私を目覚めさせやがって。ファック太陽。
4階のベランダから少し遠くの方を見下ろす。
この辺のメインストリートがある方向。皆、その道を通って駅へと歩いていく。
「あ、丹田さんだ」
ビシッと黒いスカートスタイルのスーツで歩いているのは、隣に住む丹田さん。齢は確か、私と同い年。
「もう出勤か」
彼女は確か、職場が遠い。通勤に1時間半ほどかかると言っていた。
煙草に火をつける。朝の澄んだ空気を紫煙で汚す。排気ガスより先に私の煙草が環境汚染。
颯爽と遠ざかっていく丹田さんの後姿。カツカツとヒールが聞こえてくるようだ。
実際は、トラックの武骨な音だけだけど。
「マズい……」
夏に吸う煙草は美味しくない。そのせいか、丹田さんの後姿を見つけてから胸を覆う雨雲みたいなモヤは消えてくれなかった。私が選んだ生き方なのに。心はどこかで真っ当を望む。
■■■
フィルターまで距離を残したまま、煙草を灰皿に押し付けて部屋へ戻る。
虫が怖くて窓は締めっぱなし。そのせいで空気は籠って、部屋の中の方がモワッと嫌な空気だ。
「昼なら大丈夫か」
網戸に虫が来なくなるスプレーを吹き付けて、カーテンを閉める。
ああ、冷涼効果よりも換気効果に期待だ、これ。風で部屋の中の嫌な空気を変えてくれ。梅雨を喜べないナメクジ予備軍の住処を20代女子の部屋にしてくれ。
さて、今日はどうしようか。
いつでも社会復帰できることを心掛けながらも、毎日行っていることはこれと言って存在しない。暇があればPCの前にこうしているか、散歩が基本。
久しぶりに図書館にでも出かけるのもありか? あそこはクーラーも効いている。
我が家に取り付けられているエアコンを一瞥。
こいつに働いてもらうとなると電気代と言う給料を支払わなくてはいけなくなる。
雇い主としては避けたい。人件費がかかる働き手と、人件費のかからぬ働き手。
答は一瞬だ。
家電による奴隷解放運動が起これば、私も憎むべき人間として睨まれたりするのだろうか。働きもせず、手持ちの労働者には賃金惜しさに仕事を与えず、他者の奴隷の労働に頼る。労働を不当に奪うのは人権侵害に当たるからね。ここに働きたくなくて働いていない輩もいるのに。人類は不平等だ。ま、今、引き合いに出しているのは家電なんだけど。イルカがメーデーを起こす方がまだ現実的な想像だ。
そういう訳で。
今日も今日とて、軽いメイクで家を出る。
■■■
最後に図書館を利用したのは確か、高校生のときだ。その時も別に本が借りたかったわけじゃない。ただ、時間を潰したかった。それ以上でもそれ以下もなく。元から本が好きだったわけだから、まあ自然と足を運んだってやつ。これが、私が家電好きの家電オタクであれば、近所の家電量販店へ足を運んでいただろう。あそこも冷房はガンガンに効いている。
そんなわけで、図書館。
「おぉ?」
なにこれ? 改札? ゲートがある。いや、うん、わかるよ。電車の改札みたいに、タッチするところが光っている。逆か? 光っているところがあるから、あそこに何かタッチするってわかるんだ。
なんだろうか。ついに公共施設の利用にはマイナンバーカードが必要になっていたのか。くそお、管理社会め。……すみません、面倒くさがって作らないのは私です。
「初めての方はこちらへどうぞ~」
「あ、はい」
改札前で右往左往する私を見かねてか、職員の人が声をかけてくれた。
よく見たら『初めての方はこちらへ』という貼り紙がある。予想外の事態に焦って周りを見逃していたのは私か。恥ずかしい~。
「貸し出しにはカードが必要になりますので、住所がわかる身分証をお持ちでしょうか?」
「免許証でもいいですか?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃ、これで」
青色のトレーに最近更新したばかりの免許証を置く。無事故を示すゴールドの帯。ほとんど運転していないので、いわば、張りぼての勲章。
貸し出しを利用するつもりはない。けど、ここへ入るためにはカードの登録が必要。やっぱり管理社会じゃないか。私は最後まで抵抗する所存でございます。あ、でも、給付金は喜んで受け取りますし、使用できる社会福祉は遠慮なく申請させていただきます。
登録はすぐに終わった。
私が記入するものはほとんどなし。
金銭のやり取りが発生しないからこんなもんか。住所の登録は返却を延滞している輩への督促を送るためだろうか。
借りない私には関係ないか。
■■■
借りてしまった―。
借りないからって、気になる本は全て読もうとして失敗したー。閉館時間になっても、読み切れなくなって、持ち帰りだ。
気が付いたらもう夜9時。朝の10時ぐらいから来ているから約1日の半分はいることになる。とんだ暇人だ。その通りなのだけど。
しかし、見つけた本が悪い。
何となく初心に帰って、ティーン向けエリアに足を踏み入れ、おススメにピックアップされていた【それ】が目に入った瞬間、私の「私好み!」センサーが反応した。
青みがかった銀髪の少女が儚げに振り向いている。その横に大きくタイトル。
タイトルは2つのフレーズを並列的に並べている。
でも、よくある対極的ワードを置いて興味を惹く──【熱い夏。冷たい恋】とか【真っ白な邪悪。漆黒の雪】みたいなものじゃない。
2つのフレーズはそれぞれ独立している・文字列だけを読み取れば、意味の持つ位置関係は見出せないところに存在している。
しかし、心惹かれた。
5文字のセンテンスが2つ。
合計10文字にも満たないタイトルが持つ強力な引力に惹き付けられ、そしてそれは間違いではなかった。
私の一目惚れに間違いはない。
うん、間違いはない。
■■■
全4巻のうち、最後の1冊がどうしても読み切れず、早速貸し出しカードを使用した帰り道。
私は今日の晩御飯をどうしようかと悩んでいた。
6月の終わり。少し蒸し暑い。
いつものようにスパゲッティでもいい。が、それじゃ物足りない日がある。
今日がそんな日。いいんだけどね。いいんだけど。
どうしようかな。
悩む。
冷たいそうめん? 何か違う。
あえて辛くて熱いキムチ鍋? それも違う。
今、食事に空腹を満たす以上を求めている。
これは欲望のままにドカ食いコースか……?
それは違うのだと胃袋に住む私が言ってるんだよなあ……。
求めるのは良質かつ低価格な食事。そして、私のこの未だ表面化されていない欲望を叶えてくれる食べ物。
なんだろうな……。
悩んでいる間に家に着いてしまいそうだ。
もう、あと数メートルの距離。道中のコンビニやスーパーは全て通り過ぎている。
家には何もない。
スパゲッティと数種類のパスタソース。それにペットボトルのお茶。あとは少しの調味料。
「思いつかないなら仕方ないか」
このままいつもの食事か。
それもやむなしと心に決めた時、イヤホンの外音取り込み機能が2つの音を拾う。
1つは空から。空気を震わす轟音。羽の下に取り付けられたジェットか。それとも大きな2つの羽が空を切ることで巻き起こしているのか。もしくはその両方か、どれとも違うのか。
この辺では珍しく、ジェット機が低い空を飛んでいる。
そして、もう一つの音。
アスファルトを突くヒール。
この音の持ち主は、
「丹田さん、お勤めご苦労様です」
「ちょっと、刑務所上がりみたいに言わないでよ」
朝、ベランダから見かけたときと同じスーツ姿の丹田さんだ。
彼女の手からはコンビニ袋が下げられている。
「今から夜ご飯ですか?」
「そうなのよ。今日は特別な日だからね」
「ん? なにかご予定でも?」
特別な日なのにコンビニ飯? あ、おつまみとか買い込んだのかな? それにしては袋が小さい。
「違う違う。今日はそう、夜空を見ながらカップラーメンを食べる日なのよ」
私が頭の中に【?】マークを広げて、戸惑っていると丹田さんはごめんごめん、と謝って、
「どう? 一緒に。奢るわよ。カップラーメンだけど」
尾の長いポニーテールにバリバリのスーツ。スラっとしたスタイルに高いヒール。キャリアウーマンの見本みたいな人が勧めるカップラーメン。それも夜空の下で。
正体不明だった欲望が叶えられる。そんな予感に、私は首を縦に振った。
■■■
「今日は誘ってくれてありがとうございます!」
「いいですよ。大家さんもこんな時間までお待たせしてしまってごめんなさい」
「大丈夫ですよ! 私もさっきまで仕事をしていたので」
アパートに帰り、私と丹田さんはお互いの部屋に荷物を置いてから、このアパートの大家である新井田さんの住む部屋の前で合流した。
どうやら、丹田さんは彼女へ事前に約束をしていたみたいでスムーズに、そして大家さんも一緒に屋上へ上った。
4階建てアパートの屋上。
「私たちが無理をせず、できるだけ近くで空を見れる場所……」
「お、詩人だね。ご隠居さん」
「それで飯が食えたらいいんですけどね」
「その時は職業欄を詩人って書き直して、申請をもう一回通して貰わないとね」
「ぶっちゃけ、今の私、不動産オーナー的にどれくらいの信用度です?」
「うーん、ランクで言えば下から3番目ぐらい?」
全体はいくつのランクで分けられているのだろう。怖くて訊けない。
廊下のコンセントからコードリールを引っ張り、電気ポッドを繋げる。
そこに、私がせめてもと持ち寄りさせてもらった、2リットル入りペットボトルの天然水を注ぎ、スイッチを入れる。
その間にカップラーメンを開封。
「そう言えば、どうして今日が屋上でカップラーメンを食べる特別な日なんです?」
「え、知らないの⁉」
「そ、そんな驚きます? 丹田さん個人的な特別なのかな、と……」
「ふふふ、ご隠居さん……」
見当がつかずに困惑する私に、丹田さんは腕を組み、ほくそ笑む。
そう、それはまさに長年いつか言いたいと心に決めていた名セリフを披露できる。その場面についぞ出会えた。そんな顔をして、
「おっくれってるぅーーーーーーーーー!」
「…………あ、それって」
一瞬、意味が分からなかった。遅れている? この日、こうやって屋上でカップラーメ食べることが流行りなのか。それを知らない私は遅れている。そういうことなのか、と。
でも、違う。この日、カップラーメンを食べるのだと知らないと遅れているのではない。
今日、この日がどういう日か知らないことが遅れているのだ。
そして、私は遅れてなどいない。
今日、追いついた。
「そっか、今日か。UFOの日」
「あれ、もしかして知ってた?」
同じ趣味を見つけた同級生のように丹田さんの瞳が輝く。
丹田さんが今日を特別だと言うきっかけになった作品を私も知っている。
「実は今日、初めて読んだんです。図書館でおススメコーナーにあって」
運命的な出会いとはまさにこのこと。
私が無職で。なるべくお金をかけたくなくて。快適さを求めて。図書館に出かけて。そして、あの本がレコメンドされていた。今日は6月24日だ。
逆引きすれば、当たり前のこと。当たり前が折り重なって、偶然が出来上がった。
そのおかげで、屋上でカップラーメンを食べるなんて奇抜な誘いにも喜んで参加できた。
「今日が特別だと思っているのは私たちだけかもね。あの子たちが出会ったのは夏休み最終日でしょ?」
「そうですね。でも、」
と、新井田さんがお湯を沸いたことを合図してくれるので、蓋を開けたカップラーメンを持って、近づく。
「私は、今日が好きです。好きになりました」
彼女の空と、未確認飛行物体の夏。
手に包んだカップラーメンの容器が、気温よりも熱くなる。
まだ、夏至は遠い。
夏の終わりも。まだ少し先だ。クーラーを点けるにも早い。
これから毎年、6月24日が特別となった。そんな1日。
今日の出費。
食費:0円(丹田さんの奢り)
水代(カップラーメン用):108円
合計:108円
残高:5,543,348円
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます