0x0B 暗雲
「くぁ……」
午後四時すぎ、七時間目の授業中。
「では、次の文。『君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。』というのは――」
僕は古典の教員の呪文を聞きながら眠気と戦っていた。
「……すーっ」
幾度かの席替えの末、僕の目の前に陣取っている悠は突っ伏して爆睡している。
「えー、なので、この文の意味は『わが君主は既に都を出立されました。一門の運命は、既に尽きてしまいました』というような意味になります」
ただでさえ眠くなりがちな古典の授業、さらにこの先生はこちらに話を振るようなこともなく淡々と話をするだけの人だからなおさらだ。
「ここの一門というのはお分かりの通り、平家のことですね。また、君主というのは時の天皇である安徳天皇です」
何もお分かりの通りではないぞと思ったけど、今やってるのは平家物語だった。むしろそれで平家じゃなかったら困る。
ただ、ここまで眠いのにはもう一つの理由もあるかもしれない。
それは、今日が冬休み明け、授業再開の一日目だということ。
一月の七日、窓の外の曇り空を眺めていても面白い変化なんてない。ただただ眠気を倍増させるだけだ。
「では次、『撰集のあるべき由』――」
……部活の時も授業がある日と同じくらいに集まって、下校時間ギリギリまでやってもこんな眠気は感じなかったな。
つまりは、概ね授業のせいだった。
それでも黒板の板書はとりあえず取っているだけ、去年の今頃とは間違いなく変わっている。
去年は本当に色々と変化があった。僕のことも、僕を取り巻く環境も、そして――蒼との関係も。
年末年始は早瀬の家で過ごし、だいぶ楽をさせてもらってしまった。
お正月は初詣に行った先で思わぬコスプレをしている砂橋さんを見つけてひと悶着あったりもした。
そんな年末も今は昔。福音にさえ聞こえるチャイムが鳴ると、僕は宏たちと部室へ向かう。
これも去年僕にあった大きな変化だ。色々ありすぎて、九か月が一年にも二年にも感じるくらいの。
「おいーっす、準備は出来てる?」
「お兄ちゃんお疲れ様、ラボの方はもうばっちりだよっ」
「あれ、朝はもうちょっと掛かりそうって言ってなかったっけ?」
「えへへ……実はお昼に終わらせちゃった」
オフィスエリアに入ると、道香と砂橋さん、それに星野先輩が既にパソコンとにらめっこしていた。
そう、今日はクリスマスの日に流した二度目の試作、Sky LakeのBー0ステッピングのパワーオンの日なのだ。
といっても、状況を見る限り今は待ちの状態らしい。よく考えなくても当然だ、授業が終わってからまだ二十分も経っていない。
「なんだか悪いな」
「いいの、わたしがやりたかっただけだから」
「シリコンの方は……って、狼谷さんに聞かないとわかんないか」
「あー、それならアタシ聞いてるよ」
「何だって?」
「もうモノはパッケージングとテストまで終わってるって。後は持ってくるだけだってお昼に言ってた」
「わかった、じゃあすぐに取り掛かれそうだな」
「狼谷ちゃんならもうファブに入ってると思うよ。あたしと一緒に来たから」
「おっと、そうなんですね。火曜の最後は選択授業だっけか」
「そそ。だから、蒼の授業はまだ伸びてるんじゃないかな」
であれば居ない蒼もすぐにやってくるだろうし、今のうちに最終確認まで済ませてしまおう。年も明けて、いよいよ時間が貴重だ。
「宏、BIOSは?」
「もう準備できてるぜ。今回はちゃんと検証も終わってるから一発で動くはずだ」
「ROMにも焼いていただけましたか?」
「おうよ。えーっと、これだな」
「ひゃあっ、とっ、とっ、ありがとうございますっ」
宏がプラスチックのケースに入ったフラッシュROMを道香に放ると、道香はお手玉しながらそれを受け取った。
「じゃあお兄ちゃん、わたしは最後の準備してくるね。ラボで待ってる」
「わかった。頼む」
「んじゃ、アタシも手伝いましょうかね」
「お願いしますっ」
道香と砂橋さんは連れだってラボに向かう。あの二人にお願いすれば、ボード周りは万全だろう。
「悠もコンパイラは出来てるんだろうな?」
「もち、こないだのよりよっぽど良くなってるぜ。もっとも、コアの挙動も色々変わってるから実機でのすり合わせはまた必要だと思うけど」
そうして状況確認と、各々の仕事に取り組むこと十五分ほど。
「ごめんなさい、遅くなったわ」
「おまたせ」
遅れていた蒼と、ファブに入っていた狼谷さんもオフィスエリアへとやってきた。
これで準備は万端だ。
「よし、じゃあパワーオンやりますか!」
「おーっ」
というわけで全員でラボへと入り、最後の準備を整えていく。
「今回使うCPUの装着方法について一応復習しておきますね。まず、『リテンション』右側、一と番号が振ってある方の棒を起こすと片方のロックが緩みます。その状態で二のレバーを上げるとこの金属の板が浮くので、それを起こします」
「おお、見たことある取り付け方法だな」
「はい、これはIntechの商用CPUでも使ってるIPを使ってるので」
「下手したらライバルのIntechとも同じソケットかもね」
「あはは、『ピンアサイン』は全然違うので互換性は無いと思いますけどね」
「ちなみに、うちのボードにIntechのCPUは付くのか?」
「あー、物理的には付いちゃうかな。でも電源から信号線から何から違うから、多分ボードか石が壊れちゃうと思う」
「それは恐ろしいな」
「なので、みなさんもこれから大会が終わるまではIntechのこのソケットの石は持ち込み厳禁でお願いしますっ」
まずは、ボードまわりを全部担っている道香にCPUの取り付け方をみんなで習う。形だけのCPUもどきとソケットだけのボードを使って習いはしたけど、やっぱり実物を初めて扱うとなればミスをなくすために復習は必要だ。
今までのCPUを差し込んでレバーを下ろすだけ、というよりも若干面倒になっているし、壊すわけにはいかないからなおさら。
「……ここまでくれば、後はさっきの逆の手順、二番から一番の順にレバーを倒して終わりです。一番のレバーが結構固いんですが、ソケットとCPUが密着するように圧を掛けるためなのでそれで正常です。あとはCPUクーラーを付けて、終わりですね」
「届いた時も思ったけど、さらに凶悪になってるよな? その形」
「多分ひとたまりもないよねえ」
「鈍器じゃありませんよっ、放熱特性をさらに改良したらこうなったんですっ」
今回のために新しく設計したのだというクーラーは、さらに鋭利な部分が増えていた。どうも放熱する部分の表面積を稼ぐための工夫らしい。放熱する表面積が大きくなればなるほど、放熱能力は高くなるんだとか。
ちなみにクーラーだけの試運転をしたときには騒音のすごさに皆で驚いた。道香曰く、
「大口径な高静圧ファンを超高回転仕様のモーターで回すので、普通のマザーボードに繋いだらファンの消費電力でボードのファン制御回路が燃えると思います」
との逸品だ。これには皆も
「何アンペア喰うの?」
「全力で回すと四アンペアくらいでしょうか?」
「どうりでファン用なのにデカいFETを使ってるわけだ」
「ファンだけで四十八ワット使うの? ヤバいね」
「下手なデスクトップパソコン用のCPUより、電気を喰う」
と大好評。
相変わらず道香らしいアメリカンなパワフルさに任せた解決策ではあるけど、一応これでも規定内だ。冷却性能は間違いないだろう。
グリスを塗って、その上にCPUクーラーを乗せてねじ止めすれば、ボード側の準備は完了だ。
「BIOSのROMは乗ってるよね?」
「はい、載せました」
「オシロも記録開始して、っと……」
「シリアルは繋いだし、ログの準備もできてるわ」
データを取るための諸々の準備も終われば、あとは電源を入れるだけ。
「よし、じゃあ電源入れようか」
「行きまーすっ」
道香がコンセントにケーブルを差し込む。
緊張の一瞬。次の瞬間、緊張もろとも吹き飛ばすような爆音が耳をつんざいた。
「うわ」
「うるっさ」
「……これは、すごい」
試運転に立ち会っていなかった面々が耳に手をあてるほどの騒音の中、ログは初回の試作の時のように止まることもなく初期化の状況を吐き出していく。
五秒、十秒、二十秒と止まることなく流れ続け。
「波形も大丈夫そうだね、電源投入のシーケンスも大丈夫そう」
「画面来ますっ」
「よーし、さすがオレ。一発で上げてやったぜ」
「おおー、本当に一発じゃん」
「メモコンも大丈夫そうだね、いやーよかった……」
Sky Lake用のボードから、見慣れた画面が出力された瞬間歓声が上がる。
なんと、初めての実装箇所だらけなのに一発で起動に成功してしまった。
前回試作の時はここまで来るのにも結構時間がかかったから、非常に順調と言えるだろう。
もしかして、このままいけるんじゃないか。あとは性能さえ出れば問題ないし。
……そう、この時までは思っていた。
他の試作CPUとボードも次々と電源を入れ、地獄のような騒音に包まれながらLinusのセットアップも済ませ。
「このままここで作業してたらみんな耳が聞こえなくなっちゃいそうだ、あとは遠隔でやったほうがいいな」
「さんせーい、気が狂いそうだよ」
「じゃあみんな、ネットワークケーブルを刺して『ssh』が有効なことを確認したらIPアドレスだけ控えておいてね。内部線だからユーザー名とパスワードはいつものでいいよ」
というわけでLinusをネットワーク越しに操作するための仕込みを済ませたらテストの準備は万端だ。
オフィスエリアに全員で逃げ帰ると、オフィスエリアの方のホワイトボードにチェック項目の表を貼りだして。
それは、みんなで手分けして評価を始めてから三十分ほどして起きた。
「あれ、ハングした? うげー、あの爆音の中直しに行くの嫌だなあ……」
初めは、砂橋さんのなんてことない呟き。
「デバッガーいるか?」
「んー、とりあえず画面に何か出てないか確認してくる」
「わかった、いってらー」
いつものように、面倒くさそうにしながらラボに向かった砂橋さん。だが、オフィスエリアに飛び込むようにして戻ってきたときには、その顔を青くしていた。
「杉島くん、デバッガ!」
「うお、わかったけど……そんな顔してどうしたんだ?」
「CATERRのLEDが点いてるんだよっ」
その一言で、部は一気にざわつく。
CATERRとは、Catastrophic Errorという名前の通り致命的なエラー。CPUの中、または周辺回路において何らかの理由で回復不可能なエラーが発生したことを示すものだ。
しかも、それはソフトウェアがループして抜け出せなくなっているなどのソフト的な問題ではなく、ハードウェア側で致命的な問題が発生していることを示すもの。
背筋に、冷たい汗がばっと走る。
「げ、マジか」
「それは本当?」
「まずはログを取って見てみるところからだな。頼む」
宏を連れてラボに入っていく砂橋さん。でもその宏さえも、十分もせずにオフィスに戻ってきた。
「弘治、やべえぞ」
その顔は、見たことが無いくらいに憔悴している。
この時点で、僕の見込みは甘かったことを思い知らされた。
「どうも、メモリーコントローラーがリセットされてるらしい」
「リセット!? どういうこと?」
「条件はまだわからないんだが、突然メモコンがリセットされてハングしちまってんだよ」
「メモリの負荷かしら」
「ありうる話だな」
「高負荷が掛かった時に挙動がおかしくなるのは、あるあるって言いたくはないけどあるあるだからね。IPの時点ではそんな話なかったんだけどなあ」
メモコンのリセット。つまり、メモリと通信中に突然メモリーコントローラーが初期化されてしまうということだ。
当然通常の通信はできなくなるから、CPUが致命的なエラーと判断して動作を停止するのも理解できる。
メモリーコントローラーはIPだから、ほぼ論理設計の問題は除外できるだろう。つまり……砂橋さんと道香の場所に何かしらの問題が潜んでいるということ。
「よし、宏と砂橋さん、後は……」
「もしかしたら伝送まわりかも、わたしも手伝わせて」
「わかった。悠と蒼、星野先輩は引き続きチェックリストの消化をしてください、別のところで何かわかるかもしれないので。狼谷さんは引き続きプロセスの改良に専念しちゃって、そっちも大事だから」
「わかった。ごめん」
「謝ることじゃないよ~、プロセスは一番の肝だから。こっちもハングしたら教えるねん」
「おう、バグだしなら任せろ」
慌てていても、問題は消えてくれるわけではない。
一回深呼吸をして緊張を落ち着けると、とりあえずいつものように調査班と引き続きの評価班にわけて、調査班の方で重点的に問題の調査を進めてもらうことにした。
だが、上がってくる報告は芳しくない。
「とりあえず個体不良じゃないところまではわかった。全部の個体でメモリの負荷が高い時、ランダムに発生する」
「ランダム?」
「今のところはそう見えてるの。メモリの負荷を掛けてても、起きるときと起きない時があるんだよ」
「それは……困ったな」
ランダム、ということは発生条件がわからないということになる。
発生条件がわからないことには原因を追究することも難しい。
「どうすりゃいいんだ……?」
開発チーム全員の表情が曇る。
今まで、苦労しながらも何とか順調、と言っても問題ない状況だったSky Lakeの開発。
それが、ついに暗礁へと乗り上げた瞬間だった。
――――[To be continued in Over the ClockSpeed! C-1 Stepping]――――
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