0x0A クリスマス・イブ

「ふんふんふーん、ふふーん」

 昼下がりの部活中、部室には砂橋さんの楽しげな鼻歌が響いている。

「ご機嫌じゃない、結凪」

「うん、何しろ順調だからねー」

「あ、そこタイミング違反してるわよ」

「げっ」

 蒼が様子を見に行くと、一つだけタイミング違反があったらしい。

 渋い顔をしながら直し始めたけど、修正までそうそう時間はかからないだろう。

「って言っても、本当に順調ね。今日中に終わっちゃうんじゃない?」

「アタシはこれで最後だけど、道香はどう?」

「一か所、一か所だけ遅延入りシミュレーション掛けると不定値が出ちゃうんです……そこだけ何とかできれば終わりです」

「なになに、タイミング制約入れるとおかしくなる感じ?」

「はい、こっちに回ってくるってことは論理合成のタイミングでのチェックは通ってると思うので不思議な話なんですが……」

「うーん、なんだろ? ちょっと見せてよ」

 一方、道香の方には星野先輩がふらりと向かった。相変わらずどこかふわふわしている感じだけど、あの様子だと星野先輩の方の開発も順調なようだ。実際、蒼から聞いている開発状況だと今のところ致命的な問題には当たっていない。

「はい、ここなんですけど……クロックもパワーも『ゲーティング』してるんですが、電源とクロックが入るときの『グリッチ』で不定が出ちゃうんです」

「あ、そこ不定で大丈夫だよ。むしろ規定動作、その『ステート』なら一クロック捨てられるようになってるから」

「ありがとうございます……女神……」

「そんな拝まないでよ、伝え漏れてたのはあたしなんだし!?」

 どうやら出ていた問題は無視して問題なかったようだ。星野先輩を道香が拝み倒している珍妙な様子に、苦笑いを三人で交わす。

「向こうも終わりそうね」

「最後に結合テストを仕掛けたら、もう明日の準備は終わりだね」

「だなあ。思ったより順調だ」

 今日は十二月二十四日、クリスマス・イブ。

 福島県の高校は、大体昨日が終業式だった。うちの学校も御多分に漏れず昨日で授業は終わり、今日からは冬休み。

 朝からきっちり時間を取って開発を出来たおかげで、思ったよりもいい感じに物理設計が進んでいる。

 道香のボードは少し前に製造してくれる会社へとデータを回してある。来年の始業式の日には届くらしいからこちらも万全だ。

 狼谷さんの方はどうだろう。そう思っていると、オフィスエリアのドアが音を立てて開いた。狼谷さんも戻ってきたみたいだ。

「評価、終わった」

「おお、早かったな」

「朝からがっつり出来るのは、長期休みの特権」

 表情こそ変わらないけど、どこか楽しげな雰囲気を感じる。一日中出来るのが楽しいと思うあたり、やっぱり狼谷さんも生粋のエンジニアだ。

「で、結果はどうだった?」

「全部のIPで問題なさそう。課題だったメモリーコントローラーもちゃんと動いてる」

「よかったあーっ、助かった。これでリスピンが必要だったら泣くに泣けなかったよ」

「シリコンに『針』を当てて基本的なチェックをしただけ。パッケージにいれてちゃんと動くかどうかはまた別」

「針当てて動かないシリコンはパッケージに突っ込んでも動かないから。第一段階突破だよ」

 ここで言う針とは、『テスター』の『プローブ』のこと。前工程が終わった切り分ける前のウエハーに上から金属の針を当てて、そこから信号や電源を与えて期待通りの動作をするかチェックをするというわけだ。

 もちろん本番のように全てをシリコンの配線で繋ぎ終わったわけじゃないし、入力される信号も本番とは微妙に違う。だけど、砂橋さんの言う通りテスタの段階でまともに動かなければCPUに統合しても当然動かないということになる。

「HKMGの方はどうだ?」

「前回と同じロジックで試作したものは、消費電力が劇的に落ちてクロック特性が若干改善」

「ってことは、もっと高いクロックで動かせるってことか」

「そう。安定すればコア周波数4GHzくらいならいけそう」

 とまあ、狼谷さんからも製造の準備がほぼ整ったという報告が入り、さらに安心のため息をつく。

 こちらも今のところ順調だ。逆に順調すぎて不安になるほどに。

「道香ー、プッシュした?」

「今しまーすっ」

 カタカタとキーボードを叩き始める道香を見て、僕は自分の席に戻る。すぐに、蒼が隣の空席に座ってきた。なんとなくくすぐったい気持ちになって、二人で笑い合う。

「ようやくひと段落ね」

「だな。って言っても、Cステップが一月末に控えてるけど」

「コアの改良はそこで止めて、最後のC-1はバグの修正に特化させるのよね?」

「その予定だね。もちろん、性能が目標に達してることが条件」

「はーあ、私も頑張らないといけないわね」

「実際、いけると思うか?」

「……全部の実装が終わったタイミングでクロックが3.2GHzまで伸びれば、理論上は届くわ。実際のプログラムを走らせることを考えると4GHzくらいまで伸びないと厳しいかもしれないけど」

 だけど、やっぱり話題は部活になる。僕たちは恋人である以前にプロマネと部長でもあるからだ。

 ……それ以上に、二人で一緒に夢中になってることだから、という理由の方が大きいかもしれないけど。蒼とこうやって話しているのは、少なくとも僕にとってはとても楽しい。

「二倍以上、か」

「一番大事なのはメモリね。理論値では今の構成、周波数でも96GFLOPSは出てほしいのよ」

「半分強だな」

「実行効率に直すと五十二パーセント。まあ、前回Melon Hillの時点で実行効率が三十六パーセントと少しだったから予想はできたことではあるわ」

「コア数が増えてるのに、改善はしてるんだな。データと命令を取ってくるスピードが足りないんだろ? コア数が増えたら悪化しそうだけど」

「それは全コア共用のL3キャッシュが16メガバイト乗ったからね。前のMelon HillだとコアごとのL2キャッシュが2メガバイト、それが四つで8メガバイトだったから二倍に増えてるの」

「その分メモリをアクセスに行く必要性が減った、ってことか」

例えてしまえば、一時的に覚えておける量が増えたということ。そうすれば、何かをするときにわざわざ本を机まで取りに行く頻度を減らせるというわけだ。

「そういうこと。L2キャッシュも全コア合わせて4メガバイト乗ってるし、キャッシュを増やしたのは大正解だったわ」

「とはいえ、か」

「ええ。悠からのレポートにも目を通したけど、やっぱり増やした実行ユニットが遊びがちみたい」

「星野先輩のSMT4が結構効くかも、ってことだな」

「あとはデコーダー周りの改良ね」

「なるほど」

「とりあえず方針は見えてる、とだけ言っておくわ。あとは実際に出来たもの次第ね」

「よしっ!」

 話がちょうどひと段落するのとほぼ同時、砂橋さんが立ち上がったのだろう、ばん、

と机に手をつく音が聞こえてきた。向こうも最後の結合後のチェックを流し始めたのだろう。

 お疲れ様、と声を掛けようと思って椅子を回すと、

「パーティーしよっ、副部長命令!」

 立ち上がった砂橋さんが突然叫んだ。

 ……今日がクリスマスイブだから、ということだろうか。

「強権発動していきますねえ」

「楽しそうなことならオレはなんでもいいぜ」

 こういうお祭りごとが好きな宏は既に乗り気だ。それを聞いた砂橋さんはさらにヒートアップする。

「いいこと言うじゃん杉島くん、ってわけで今から準備しよ。いいよね、蒼?」

「どこを見たらいいって言うと思ったのかしら」

「完全に置いていかれてるんですけど」

「だーかーら、今日はクリスマスイブでしょ! そんなまったりしてる暇なんてないんだよ、人生に一度しかない今日を楽しまないと!」

「かわいそうに、発作が出ちゃったんですね」

「お薬出しておきますねー」

「いいんじゃないかなあ、物理側も目途が立ったみたいだし」

「信じてました星野先輩!」

「ってわけで、いいよね?」

 プロジェクトマネージャーとしては、進められるうちに進めてしまいたい気持ちはある。

 何しろあと三か月、性能はまだまだ目標には遠い。焦りがないと言えば嘘になる。

 でも、ここで根を詰めても逆に良くないだろう。逆に言えば、あと三か月は開発に専念しないといけないのだから。

 どうする、シュウ?

 蒼から無言のアイコンタクトが飛んできた。僕は小さく頷いて見せる。

「はあ……まあいいわ、ご褒美と慰労会も兼ねてってことで」

「よっしゃっ」

 苦笑いする蒼を尻目に、砂橋さんは満面の笑みでホワイトボードに走った。

「はーい、じゃあクリスマスパーティーは開催決定でーす」

「んで、何するんだ?」

「食べる」

 食い気味の提案の声は狼谷さん。さっきお昼ごはんも結構な量を食べていたように見えたけど、まだ食べるのか。

「相変わらず貪欲ですね、氷湖先輩」

「そっか、狼谷ちゃんのびっくり人間がまた見れるんだ」

「電工研でもあんな感じだったんですね」

 星野先輩も苦笑いをしている。普段から食べる量も多めだけど、わりと細かく分散して持ってきているから食べてる感じはしない。だけど、こういう会の時にはどかっと食べたいだけ一気に持ってくるからいつぞやの祝勝会みたいなタワーが建築されるのだ、という結論に至ったのは最近だ。

 いや、たまに学食に行くときも二人分頼んでるのに驚かなくなった時点で僕たちの感覚が麻痺してるところはあると思うけど。

「まあ、確かにパーティーだもんね。まずはご飯、と」

「お菓子とジュースも欲しいところです」

「ん、確かにそれは欲しいね。採用」

 ペンをくるりと回してから、相変わらずご機嫌にホワイトボードに書きつけていく。

「プレゼント交換とかありがちだと思うけど、流石に突発だと厳しいな」

「売店で売ってるお菓子を交換するくらいしか出来ないですね」

「ずいぶんと寂しいプレゼントね……」

「逆に寂しくなりそうだから却下! あとは何かあるかなあ」

「クリスマス要素が全然無いな」

「今のところ、普通の打ち上げ」

「う~~ん……」

「何かアイデアあります?星野先輩」

 話を振られた星野先輩はうーん、と顎に手を当てると、数秒うーんと悩んでからぽん、と手を叩いた。何か思い出したらしい。

「倉庫に何かあったような気がするんだよぉ……一年の時のクリスマスパーティーの時、先輩方があそこから何かを引っ張り出してたような」

「何でもあるんだなあそこ」

「段ボールまみれだもんなあ」

 倉庫は確かにごちゃごちゃとしていた記憶はある。あの中にそんなイベントグッズが入っていたのか。

「まあ、クリスマスっぽさは後々何とかなるでしょ」

「後々って」

「開催はこの後って言い出したのは砂橋さんだろ」

「い、いいんだよ! クリスマスイブにパーティーをした、この事実が重要なの!」

「寂しいこと言うなあ」

「言いたいことは理解できなくもないのがちょっと腹立つわね」

 砂橋さんのぶっちゃけた発言は、生暖かい笑顔で受け入れられた。

 確かに、去年はそれどころじゃなかっただろう。何しろ蒼と砂橋さんしか居なかったのだ。

 部員の皆で何か遊びたいという気持ちは、出来るだけ大切にしてあげたいと思う。

「ってわけだから、三つのチームに割ります!」

そう言うと、砂橋さんはペンをきゅきゅっとホワイトボードに走らせた。かわいらしい丸文字がホワイトボードの下の方に書かれていく。

「まずは買出し班、いつものスーパーで食材の買出しに行くチームだね」

「バスあるかしら?」

「あと十五分かな」

「ならいいタイミングになりそうね」

 学校が立っているのは田んぼのど真ん中だから、学校の中の売店以外に店はない。

 最寄りのスーパーは一時間に一本のバスで十分と少し掛かるからタイミングは重要だ。

「行く」

「ん、まあ言うと思ったよ。氷湖と……そうだな、蒼も行ってよ」

「いいけど、さすがに部費は使えないわよ」

「ダメかあ」

「狙いが汚いなあ」

「まあそれでも氷湖の監視ってことでさ。あとは鷲流くんと杉島くん」

「荷物持ち要員だな、任せろ」

「オレみたいなもやしに優しくないなあ」

 ぶつくさ言っている宏のことはスルーして、砂橋さんはホワイトボードに名前を書いていく。

「この四人で決まり! 次がお菓子・会場班、売店に行ってお菓子と飲み物を買ってきたあと、会場の準備をするのが仕事」

「スーパー組に飲み物まで買ってきて貰っちまうのは酷だしな」

「そうそう、荷物増えちゃうからね。ここは……アタシと柳洞くんかな」

「俺もついに荷物持ちか」

「そんな重くなるほど購買で何を買い込むつもり?」

「んで、最後が捜索班。倉庫を漁って面白いものが出てこないかチェックするのが仕事」

「わたしと星野先輩ですね」

「よろしくね、桜桃ちゃん」

「頑張りますっ」

「何でその人選なんだ?」

「星野先輩はともかく、道香はなんかセンスありそうだなって」

「雑ねえ」

 蒼が少し呆れたように言うけど、砂橋さんの感覚もなんとなく判る。

 道香なら盛り上げるのも上手だし、いい感じに面白いものを見つけてくれそうな謎の期待もあるな。

「ってわけで、行動開始! 開始目標は一時間半後、三時半からだかんね」

「はーい、じゃあ買出し組はもう行ってくるわね」

「よろしくー」

「行ってら」

 というわけで、僕たちは部室を出た。バスの時間があるからゆっくりはしていられない。

 学校の入口にあるバス停で二、三分待つと、四人でバスに乗り込む。

 歩くと三十分ほどかかるからさすがに歩くのは大変だ。

「さて、行きましょうか」

 スーパーの近くのバス停で降りると、入口で蒼はカートを持ってくる。瞬時に狼谷さんはそのカートにカゴを二つ乗せた。確かに八人分の食事だからそれくらいにはなるかもしれない。

「待った、まだ」

「?」

 と思ったら終わらないらしく止められる。どうしたんだろう? と全員で疑問符を浮かべていると、さらに狼谷さんはカゴを二つ持ってきた。

 男どもでそのカゴを受け取りはしたけど、こっちにまで入るほどの食べ物を買うつもりなんだろうか。いや持ってきたってことは買うつもりなんだろうなあ。

「お待たせ」

「……マジか」

「さ、行きましょ。帰りのバスまであと四十分くらいしか無いんだから」

「だな」

 早速カートを押して惣菜コーナーに向かうと、パーティーっぽい料理を入れていく。

「唐揚げとかは必須だよな」

「揚げ物系ね。いいと思うわ」

「ポテトフライも入れようぜ」

「レンジで作れるピザとかもよさそうだな」

「いいわね、採用」

「ってか、クリスマスって言えばチキンだよな」

「どこかにあるかしら?」

「……あった」

「うおっ、いつの間に!?」

「こっちもいつの間に!?」

 僕たちは話しながらひとパックずつくらいカゴに入れていたはずなんだけど、視線をカゴに戻すと既に二つのカゴが埋まりそうになっていた。

 狼谷さんが静かだと思ったら大量の料理を持ってくる作業に勤しんでいたらしい。

 というかいくつか入れた記憶のない料理も入っている。三パック分のチャーハンは果たしてパーティー向きなのだろうか。

 ……いや、あればなんだかんだで食べるか。なんなら狼谷さん一人で食べかねないな。

「料理はこんなものかしら」

「いや、十分すぎだろ。オレらですら食いきれるか怪しいぞ」

「ってか狼谷さんステイ!流石に死んじゃうから」

「……もう、十分?」

「十二分だと思うよ」

 さらにはお菓子コーナーでも袋のスナック菓子をどんどんカゴに放り込んでいき、結局カゴは三つ半が埋まってしまった。

「こんなに食べられるかしら」

「袋菓子はまあそれなりに日持ちするから、残ったらミーティングの時のおやつにするしかないな」

 会計を済ませ、ビニール袋に詰める。袋の数は六つまで膨らんだから、僕たちの両手は一瞬で埋まった。

 バス停まで戻る道すがら、狼谷さんと宏が並んで前を歩き、その後ろを僕と蒼で並んで歩く。

「シュウ、一つ持つわよ」

「いやいや、いいよ。僕の仕事だから」

「いいから」

 両手に三つ袋を下げて歩いていると、ふと温かなものが手に触れた。ちらりと右を見ると、そこには顔をほんのり赤くした蒼。

 袋を一つ手渡すと、僕の手は両手にひとつづつ袋を下げているだけ。蒼は、そのまま静かに上からぎゅっと僕の手を握ってきた。

「……っ」

 蒼の顔は、恥ずかしさからか今にも発火しそうなほど赤い。でも、それくらい恥ずかしかったのだとしても手を取りたいと思ってくれたことが素直に嬉しかった。

 ……二人で一つの袋を下げて帰るのは、確かに今までやったことはなかったな。

「ってか、狼谷ちゃんの方もあんなにあっさり進むもんなんだな。もっと苦労すると思ってた」

「いつか使う機会が来るかもしれないと、勉強はしていた。ここまで早く立ち上がったのは運」

「それが凄い、って話よね。正直かなりぎりぎりの勝負になると思ってたわ」

「実際、まだ完成系じゃない。酸化膜の厚みも検証が不十分だしイールドもいまいち」

「完成系が出てくるのが楽しみだなあ」

 四人でやいのやいのと話しているけど、こっそり繋がれた手からは柔らかな暖かさを感じる。

 今度蒼と一緒に買い物に行くときには、今度は僕から手を取ろう。

 そんな密やかな恋人らしい時間を過ごした後は、やってきたバスに乗って学校へと戻る。

「うーっす、帰ってきたぜー」

「あら? 思ったよりも静かね」

 部室玄関のドアを開けると、想像していた馬鹿騒ぎは聞こえてこない。

 準備だけでテンションが上がりきったみんながいろんな意味でお出迎えしてくれるものだと思ってたんだけど、予想は外れたようだ。

「どこでやるのかしら」

「普段だとA会議室だと思うけど」

「とりあえず、行ってみる」

 おなじみのA会議室のドアを開けてみると、そこはきちんとパーティー風に準備がされていた。椅子をどけて、机をいくつか合わせて並べた島が出来ている。

 折り紙の輪を繋げたような装飾もある。霜月祭でも使ったものを引っ張り出してきたらしい。

 だけど……思ったよりも、普通だ。不安になるくらいに。

「おいおい、悠の奴サボってんじゃねえのか?」

「買出し組も、戻ってるはず」

 狼谷さんの言う通り、机の上にはいくつかのお菓子が既に置いてある。部室に置いてあったおやつじゃないから、購買組もちゃんと買って帰ってきているのは間違いない。

「……ゃーっ、ちょっ……!」

 と思ったら、製造室の方へ繋がるドアの向こうから小さな声が聞こえてきた。これは道香の声だろうか?

「お、上にいるのか」

「電子レンジ、持ってくる」

「本来なら持ち運ぶものじゃないんだよなあ」

「何かあるのかもしれないし、手伝いに行きましょうか」

 というわけで、僕たちもドアを開けて二階へと向かう。

 この時僕たちは気付いておくべきだった。ドアを貫通してくるほどの声を道香が上げている事態なんて間違いなくロクでもないということに。

 とりあえずまずはオフィスエリアのドアを開けると。

「お、帰ってきたか」

「は?」

 そこでは悠が一人、準備を進めていた。

 ……かわいらしい、サンタをモチーフにしたのだろう赤いワンピースを着こんで。

 さらには長髪のウィッグまでしているから、一瞬誰だかわからなかった。

「また攻めてんなぁ。お前はやっぱりオレの見込んだ逸材だよ」

「宏はそれでいいのか?」

「柳洞くん、すごい」

「そのウィッグとか、どこから持ってきたのよ」

「どっちも部庫にあったぜ。正気じゃないよな」

「その格好のお前に言われてもなあ……」

 白いタイツがまぶしく突き出した足元から目をそらす。肩から掛けられた、同じく赤く可愛らしいデザインのケープが、どうしても出てしまう体形の男らしさを微妙に隠している。

 そのおかげで、非常にコメントに困る完成度の高さになっていた。

 褒めるべきなんだろうか。いや、こいつの趣味からすれば褒められた方が嬉しいんだろうけど、男子としての自分が褒めていいのかどうかと葛藤している。

「ほらーっ、みんな戻ってきてるし行くよ」

「さすがに恥ずかしいですっ、こんな格好」

「だいじょーぶだいじょーぶ、さあお披露目しよ」

 一方、ラボの方からは道香と星野先輩の声が聞こえてきた。

 と思うと、ラボに繋がるドアがガチャリと開く。

「うう……恥ずかしいです」

「ほらほらっ、胸を張るっ」

「そんなことしたらボタンが飛んじゃいますっ」

「は~い、サンタさんのお披露目でーす」

 そこから出てきたのは、悠と同じ衣装に身を包んだ道香と星野先輩、そして普段通りの制服姿の砂橋さんだった。

 星野先輩の方はわかる。浮かない程度に着こなせているからだ。

 問題は道香の方。どうもサイズが合っていないらしく、かなりぱつぱつになってしまっていた。……特に、胸元が。ケープで必死に隠そうとしているけど、どうにも隠れていない。

「あら、あらあらあら。かわいいじゃない」

「すごいよねー、桜桃ちゃんかわいくない?」

「おお……」

「これは……」

「まじまじと見ないでくださーいっ!」

 恥ずかしさが限界に達したのだろう、しゃがみこんでしまう道香。それから、きっ、と蒼の方を見るとそそくさと駆け寄ってくる。

「蒼先輩っ」

「な、何よ」

「来てくださいっ」

「わっ、ちょっと、どこに連れて行くのよ、というかこの間も思ったけど力強いわね道香っ」

 そのまま蒼を連れて廊下へと去っていく道香。一体蒼に何をするつもりなのだろうか。

 想像できなくはないけれど、戻ってきた時を楽しみにしておこう。

「……行っちゃったね」

「道香が、限界だった」

「ってか、砂橋ちゃんは何でそのままなんだ?」

「あー……やっぱ気になっちゃうよね」

「あのテンションの砂橋さんなら間違いなく着たがるよな」

 一方取り残された僕たち。ふと宏が疑問をぶつけると、星野先輩は苦笑いを見せた。

 当の本人の砂橋さんはうつむいてこぶしを握っている。

「……かった」

「?」

「アタシだって、ほんとは着たかったんだよ! でもね、アタシが着れるサイズが無かったの!」

「「あぁー……」」

「三人して納得しないでよっ!」

「えぇっ」

「正解が、見えない」

「多分正解は無いと思うよ、狼谷ちゃん」

 悔しかったらしく地団駄を踏む砂橋さん。確かに、星野先輩と道香ちゃんは着るものがあるのに一人だけ仲間外れになってしまうのは寂しいだろう。

「でもほら、着れるのもあったじゃん。あれ着たらいいと思うな」

「アレは逆に死ぬほど似合っちゃうのが自分でもわかるからぜっったいに嫌ですっ」

 星野先輩がフォローをするけど、どうも気に入らないものだったらしい。トナカイとか、そういうマスコット系だったのだろうか?

「なんだ、砂橋さんが着れるのもあったのか」

「着てみりゃいいじゃんか」

「あったよっ、何でか知らないけど園児服がっ!」

 その瞬間、オフィスエリアに沈黙が満ちた。間違いなく、どうコメントしても爆雷を踏み抜くのが見えている。この部屋はゼッフル粒子か何かで満ちているに違いない。

 というか、何でそんなものが部室にあるんだ。砂橋さんが着れるってことは、誰かが幼稚園児の時に本当に着ていたものではないだろう。

 この部室で園児プレイに勤しむ誰かが過去にいたということだろうか。頭痛がしてくる事実だ。

「……大丈夫。きっといいことある」

「その明らかに適当なフォローはフォローになってないんだよぉ!」

「あはは……まあ、アレでいいんじゃない? 早瀬ちゃんが準備してくれてたメイド服」

「園児服よりはマシかもしれませんが、そもそもコスプレが趣旨じゃないのでやめときます……」

「確かに」

「ハロウィンじゃないしな」

「お待たせしましたーっ」

 ようやく空気が弛緩し始めたタイミングで、ラボから飛び込んできたのは制服に着替えた道香と、さっきまで道香が着ていたサンタ服を身にまとった蒼だった。

「どうして私がこんな恰好をしてるのかしら……」

「おおー、似合ってる似合ってる。丈も早瀬ちゃんが着るとちょうどよかったね」

「私だとちょっとだけ長かったので!」

 道香とは違い、どこにも無理はないように見える。本当に、蒼のために準備されたみたいだ。

 道香より少し背が高い蒼だから、スカートの丈がさらにミニになっていることくらいだろうか。正直悠と宏の目を潰したくなるくらいに。

「……道香だと、あんなにぱつぱつだったのに」

「アタシの気持ちがわかった?」

「謎の敗北感ならたっぷり味わってるところよ」

 確かに、道香だとぱつぱつだった胸周りは余裕があるように見える。というか、蒼がそういうことを気にしているとは思わなかった。

 あと砂橋さんは完全に面白がってるな。あれは間違いなく温かな声かけではなく煽りだ。

「ってわけでー、一番感想を貰いたいのは決まってるよね?早瀬ちゃん」

「ふえっ」

「鷲流くん、どう?」

 あの狼谷さんにまで言われてしまっては、僕も答えるしかない。

 皆に押し出されるように僕の目の前に連れてこられた蒼は、恥ずかしそうにうつむいたまま。

 改めて蒼を見ると……かわいさで脳が破壊されそうだ。言葉も出てこない。

「っ、弘治くん、お願い、あんまり見ないで……」

 さらには蒼も恥ずかしさで頭が一杯になっているらしく、呼び方が昔に戻ってしまっている。喋り方もどこか懐かしい感じだ。

 真っ赤な顔の上目遣いとか細い声でのお願い、さらに弱っている様子まで乗っかってしまうと脳内で倍々ゲームが始まる。多分このインフレは止まらないだろう。

「に、似合ってるよ、蒼」

「ば、馬鹿じゃないの。こんな格好で……」

 何とか日本語に出来た感想を告げると、蒼は少し冷静さを取り戻したのか普段の様子に戻って、素直じゃない言葉を紡ぐ。

 僕もなんだか直視できなくて目をそらした。

 気恥ずかしい沈黙が流れる。二人してこの状況を打破出来ずに目をそらし合っていると。

「あのー、お二人さん? そろそろいいですかね?」

「たはー、あっつーい」

 冷ややかな砂橋さんとどこか恥ずかしそうな星野先輩の声が聞こえてきて、僕たちは我に返った。

 そうだ、ここは部室。しかも皆が見ている前だ。

 部員の皆はといえば、生暖かな優しい視線を向けていた。恥ずかしすぎて窓を割って飛び出してしまいそうだ。

「も、もももちろんいいわよ! さ、早く準備して始めましょう!」

 蒼も珍しくどもっている。蒼もきっと同じくらい恥ずかしかったに違いない。

 その言葉でいち早く動いたのは狼谷さんだった。

「部長命令。行く」

「本当に氷湖先輩はストイックですねえ……」

「電子レンジ、忘れないで」

「えっ、これ私の仕事なんですかっ!?」

「氷湖のマイペースさに助けられたね、蒼?」

「何も言えないわ……」

 砂橋さんの茶々にも蒼はまともに答えることは出来ず。

「まったく、お前がこんな風になっちまうとはなあ」

「うるせえよ」

 僕もにやにや笑う悠の野次にまともに答えられないのだった。

 皆でA会議室に集まれば、パーティーの始まりだ。

「それじゃ、メリークリスマース!」

「メリークリスマース!」

 クリスマスパーティーとはいっても、砂橋さんが言っていた通りパーティーをしたという事実が大事、というレベルのもの。

「まーた氷湖は高層建築を始めて……」

「?」

「いやきょとん顔でアタシを見られても」

「? 美味しい」

「味の感想を聞きたいわけでもなくて、あー、もう何も言わないよ……」

 狼谷さんはいつも通り砂橋さんがツッコミを諦めるほどの速度で惣菜の容器を開けていき。

「これ美味しいですっ」

「ねー。はい桜桃ちゃん、あーん」

「はぐっ、むぐむぐ」

「ふふ、本当に美味しそうに食べるね」

「でしょうか?」

「うん。一杯食べるのは狼谷ちゃんだけど、あっちは何というか、淡々と消滅させていく感じだからさ」

「消滅」

「表情も変えないで、けろっとしたまま食べちゃうじゃん?」

「あー、確かにそうですね。……さっきのあーん、必要ありました?」

 道香は星野先輩に餌付けされ。

「覚悟は出来てんのか? オレにケンカを売るなんて」

「ふっ、俺はサンタだぜ? 負けるわけねえだろ」

「サンタ関係なくない?」

「チャーハン完食RTAの二人レース、レギュレーションは食べきってごちそうさまでした、って手を合わせるまでだかんな」

「あ、僕の疑問はスルーね」

「オーケー、じゃあ行くぜ悠? 合図は早瀬ちゃん頼んだわ」

「え、私?」

「三二一、グッドラック、だからな」

「はあ」

「よーし。じゃあスリーカウント頼む!」

「三、二、一、グッドラック!」

「最悪なRTAだなあ」

「というか、なんで私がスタートのコールさせられてるのよ」

 そして僕と蒼はと言えば、宏と悠の突然始まったフードファイトの見届け人をさせられていた。

 あまりのめちゃくちゃさに頭痛がするほど。

 だけど。

「ふふっ、美味しいねえ」

「? はいっ!」

「これも、お勧め」

「ああっまたカロリーが高そうな……」

「美味しいものはカロリーで出来てるんだよ、にしし」

「ううっ、わかっててもやめられません! 引けない戦いがあるんです! 今日だけですから!」

「すごい言い訳だね」

「自分を守るにはそうするしか無いんだと思いますよ」

「あはははっ」

「よっしゃあ、俺の勝ち! 何で負けたか、明日までに考えといてください!」

「何でそんなに食うの早いんだよ、胃は小さいくせに」

「何でだろうな?」

「うっわ、杉島くん死んでるじゃん」

「敗者は、潔く散るまで……」

「一つも、恰好ついてない」

 この部屋には笑顔が溢れていて。

 僕はそれが、どこまでもかけがえのないものに感じた。

 そんな楽しいパーティーも、二時間もすれば主に狼谷さんの働きにより日持ちのしないものは全て消滅し。

「およ、飲み物もこれで終わり?」

「ああ、残念ながらこれで終わりみたいだな」

「もう、動けない」

「制服が見たことない膨らみ方してるよ狼谷ちゃん」

「胃があるところが丸わかりですね」

「少しでも衝撃を与えると、テレビに映せない光景が広がる」

「最悪な宣言だな」

「あーあ、もう終わりかあ」

「名残惜しいけど、片付けを始めないとね」

 みんなのお腹も満足したところで、お開きの運びになった。

 ゴミを集めて、飾りを箱に入れてから倉庫に戻す。お祭りの後の一抹の寂しさを覚えながら、三十分ほどでA会議室は片付いた。

「あとは自由ってことにするよ。最終下校まで残ってもいいし、やることが無い……人はいないだろうけど、明日でも大丈夫な人は帰っちゃってもいいよ」

「うーん、アタシは帰ろうかなあ。どうせ待ちだし」

「私は、帰る」

「いや本当に苦しそうだし、狼谷さんは部屋でゆっくり休んで?」

「よし宏、久々にガチバトルするか」

「お、いいぜ? さっきのリベンジマッチと洒落こもうじゃねえか」

「お前らは明日も部活ってことを忘れんなよー」

 あとは自由という形にすると、残ったのは半分ほど。

 さっきまでの騒がしさはどこへやら、一気に静かになったオフィスエリアで残務組は仕事を進めた。

「ねえ、シュウ?」

「ん、どうした?」

「今晩暇かしら」

「ご存じの通り、ばっちり暇だな」

「じゃあ、ウチに遊びにこない? お母さんとお父さんも顔を出してほしい、って」

「そういうことなら是非、お邪魔させてもらおうかな」

 どうやら金江さんと昌平さんからのお誘いだったらしい。それなら行かないわけにはいかないな。

 ……僕と蒼がちゃんと付き合い始めてから早瀬夫妻と会うのは初めてだ。なんだか緊張するな。

「よしっ」

 だから、蒼が二つ隣の席で小さく呟いたのは聞かないふりをした。きっと、何かを考えているのだろう。

 結局、僕たちは普段ならあり得ないと言っても過言ではない最終下校の一時間前くらいに学校を後にした。

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 早瀬のお屋敷に帰ると、蒼はリビングに向かわず廊下を歩き始めた。

 普段ならリビングに寄って、帰ったことを伝えてから着替えに戻ってたんだけど。

「今日は直接部屋に戻るのか? なら僕はリビングに行ってようか」

「いや、シュウも来てちょうだい」

「? いいけど」

 少し歩けば、たどり着くのは蒼の部屋。

「入ってちょうだい?」

「わ、わかったよ」

 こうやって元気な蒼と部屋に入るのはいつぶりになるだろうか。

 僕が部屋に入るのは、蒼の元気がなかったり体調が悪かったりするときばかりだ。

 蒼の後に続いて部屋に入ると、そこは相変わらずきちんと整頓されている小綺麗な洋間。

「ちょっと待っててもらえるかしら?」

「えっ?」

「いいから。ね? お願い」

 でも、蒼は鞄を手にしたまますぐに部屋から出て行ってしまった。

「……どういうことなんだ?」

 一人ぽつんと取り残された僕は、思わず言葉を漏らす。どういうことなのだろう?

 とりあえず適当な床に腰を下ろすと、ふと柔らかな香りが鼻をくすぐった。

「これ……蒼の髪の匂いか」

 多分シャンプーとかコンディショナーの類なのだろうか、野郎からはしない匂いに落ち着かなさが高まった。

 そうだよな、今は彼女の部屋に一人という状況なのだ。改めてその事実を認識してしまうと心臓が早鐘を打つ。

 何度も見たことのある蒼の部屋でこんな風になる日が来るなんてなあ。

 感慨に浸ることで煩悩を封殺しようと試みていると、ドアががちゃりと開く音。

「……お待たせ」

「お帰り、あお、いっ!?」

 そして、そこに居たのは。

「どうしたんだよその服!?」

「……借りて、来たの。その、弘治くんが、喜ぶかと思って」

 クリスマスパーティーの時に着させられていた、あのサンタ風ワンピースを身にまとった蒼だった。髪は下ろしていて、普段とは違う雰囲気でさらにどきっとさせられる。

 さらには、あまりにも恥ずかしいからなのだろうか。懐かしい蒼の話し方に戻ってしまっていた。

 昼も戻っていたし、たまに僕の前では本来の臆病な蒼が出てしまうようになってしまったらしい。

 ……いや、ここまで来ると臆病というのもまた違う気がするけど。

「すっごい、恥ずかしいんだけど……でも、あのっ」

「ありがとう蒼、とってもかわいいよ」

「えへへ……よかった」

 声を掛けてあげると、蒼は心から安心したようにふにゃり、と表情を崩す。

 その笑顔にドキドキさせられていると、そのまま蒼は座っている僕の胸元へと飛びついてきた。

 上半身が蒼の柔らかく、温かなぬくもりに包まれる。様々な衝動を理性で押さえつけると、そのまま優しく抱き返した。

「……これくらい、いいよね?」

「ああ、大歓迎だ」

「ふふ、心臓の音凄いよ?」

「っ、当たり前だろ、蒼がこんな風にくっついてきてるんだから」

 あまりにもかわいいことを言うから、何とか返事をするだけでも精一杯だ。柔らかな感覚から何とか意識をそらすべく、気になったことを聞いてみることにした。

「でも、どうしたんだ? 珍しいというか、初めてじゃないか? こんな風に甘えてくれるのは」

「嫌、だった?」

「むしろ大歓迎なんだけどさ」

 そう、甘えてくれること自体は大歓迎なのだ。今まで一人で頑張らせてしまったのは僕だし、なにより甘えてくる蒼の破壊力はすごい。

 どちらかといえば僕の心臓が持つか不安になってくるくらいだ。

「今まではね、出来るだけ気を張ってたの。私が弘治くんのことを支えなきゃ、って思ってたから」

 すると、蒼は少し不安げに僕のことを見上げてきた。小さい時は蒼の背が大きかったし、それからはこうやって見上げてくれることはなかった。

 ここ数週間で何度も食らったこの上目遣いに、僕はなすすべなく連戦連敗だ。多分、何をお願いされてもうん、と応えてしまうだろう。

 いや、蒼のお願いを断ることなんてよっぽどじゃない限り考えすらしないんだけど。

「でもね、一緒に歩いていこうって弘治くんが言うから……だったら、私も、本当の私でいいのかな、って」

「もちろん。かまわないよ」

「言葉遣いもね、あの時から頑張って変えてたの。おばあちゃんが喋ってたお嬢様言葉みたいにすれば、ちょっと頼りがいもあるかなって」

「蒼は実際お嬢様だしな、あっちの喋り方も好きだよ」

「だけど、今日みたいな特別な日は……気を抜いちゃっても、いいよね?」

「ダメって言うわけ無いじゃないか。本当に嬉しいよ」

 思っていることを全部口にしてくれる蒼。いくら恋人で、よく知っている僕が相手とはいえどれだけ勇気が必要なことなのだろう。

 でも、その勇気を出してこうやって話してくれることが、そして甘える対象として僕を選んでくれたことが、思わず叫びだしそうなくらいに嬉しいのだ。

「ふふっ、ありがと。クリスマスプレゼントを準備する時間はなかったけど……」

「いいんだよ、開発の方で忙しいのは知ってるし。こうやって過ごす時間だけで僕は幸せだから」

 クリスマスプレゼントを準備する時間は、お互い文字通り無かった。部室に製造担当以外は入れない日曜日も、Sky Lakeの開発を始めてからはお互いにずっと開発に勤しんでいるのは更新履歴を見たらすぐにわかる。

 だから、こうやってゆったりした時間を一緒に過ごせることだけで僕は幸せだった。

 だけど蒼は、それだけじゃ満足していないらしく。

「だから、プレゼントは私……じゃ、だめかな?」

「……自分で言って、顔を赤くしないでくれよ」

 顔を真っ赤にして、さらに強く抱きついてくる。

 お互いに顔を赤くしながらそんなことを言う蒼が、どこまでも愛しく感じ。

 ……だからだろうか。聞こえてもおかしくない足音にさえ気付かなかったのは。

「姉さーん、帰ってるんですかー? 父さんと母さんが呼んで――」

「えっ」

「きゃっ」

 突然ドアががちゃり、と開いた。そこに立っていたのは翠ちゃん。

 青天の霹靂だった僕たちは、当然さっきの恰好のまま。

 時間が止まった数瞬ののち、翠ちゃんは困ったように笑った。

「……明日はお赤飯がいいみたいですね。母さんに言わないと」

「ちょっ、ちょっとまって翠! 誤解だからっ」

「あっ、蒼! その格好のままは!」

 かわいらしい恰好のまま蒼は部屋を飛び出していき、その数分後。

 僕たちは重苦しい沈黙の流れるリビングにいた。

 当然、僕たちの前には金江さんと昌平さん。僕を挟むように翠ちゃんと蒼が座っている。

 完全に早瀬家の家族会議の様相を呈しており、その空気の重さに思わず唾を飲み込んだ。

 特に昌平さんから流れる無言の圧力が凄い。さすがは政治家をやっているのだというだけある。

「……その、なんだ」

 そんな現実逃避さえ始めていると、その昌平さんが重苦しく口を開いた。

「蒼と弘治くんは……付き合っているのか?」

 いきなり核心に迫る質問。でも僕も男だ、ここでたじろぐわけにはいかない。

「はい。二週間前ほどからお付き合いをさせていただいてます」

「……ふぅー、そうか」

「でも、生半可な気持ちで付き合ってるわけじゃありません! 蒼を支えて、支えられてきたから……今度は、これから歩んでいく未来は、蒼と並んで進みたいと思っています!」

 自分でも青臭くて恥ずかしいことを言っていることはわかる。でも、きちんとここで筋を通しておかないといけない。

 何しろ、ここで昌平さんにダメ、と言われてしまったら明るい未来は暗いものに真っ逆さまだ。

「……」

 さらに流れる沈黙。はい、ともいいえ、とも言われないのがやきもきする。

 その沈黙を破ったのは、金江さんだった。

「ぷっ、ふふふっ、もうこれ以上は趣味悪いわよ昌平さん」

「あはは、弘治くんの顔が真っ白になってしまうな」

「へっ……?」

 耐えられない、というように笑いだした金江さんに、つられたように表情を崩す昌平さん。

 状況が飲み込めずにうろたえていると、昌平さんは笑顔で言った。

「もちろんどこの馬の骨ともわからない奴なら考えることもあるが、弘治くんなら安心だ。蒼は知っての通りすぐ頑張りすぎてしまうところがあるから、ぜひ近くで支えてあげてほしい」

「は、はい……?」

「で、でもお父さん、翠はさっき私に話したいことがあるって」

「それはまた別件だよ。むしろ父さんは悲しいぞ、そんな嬉しい話を真っ先に報告してくれないのは」

「だ、だって、恥ずかしくて……」

 どうやら僕と蒼の関係のことではなかったらしい。安心で気が抜けて、僕は長い息をついた。

 隣で顔を真っ赤にしている蒼も同じらしく、早とちりした恥ずかしさだろう顔を手で覆っている。

 気持ちはよくわかる。僕も恥ずかしくて、今にでもこの場から逃げ出したいくらいだ。

「いやー、弘治くんもそこまで言えるようになったなら話も無用だったかな?」

「そ、そう! 話って何かしら? 何か話があるのよね?」

「ええ。弘治くんにちょっと話したいことがあるから、どこかのタイミングでうちにご飯でも食べに来てちょうだい、って伝えようと思ったのよ」

「なので、びっくりしちゃいました。その兄さんが早速釣れていたので」

「その言い方やめてっ」

「僕に話、ですか?」

 話というのは、僕にらしい。改めて座りなおすと、昌平さんはがははと笑った。

「そんな取って食おうなんて話じゃないから安心して欲しいな。……弘治くん、年末年始くらいはうちで過ごさないか?と思ってね」

 それは、数年前にはお断りしてしまった提案。

「弘治くんの家にも思い出があるというのは重々承知だから、前みたいにうちに住まないか、とまでは言わない。だけど、君のことを実の息子のように心配して、寂しくないかと気にしてしまうお節介な隣人がいるんだ」

「ありがとうございます。是非、よろしくお願いします」

 でも今なら、その手を取りたいと思えた。もちろん蒼と年末年始をずっと一緒に過ごせるなんて願ってもないことだし……今なら、その心配も受け入れることができる。

「よし、いい返事だ。知っての通り客間は一杯空いてるから準備をさせておくよ」

「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

「そんなにかしこまらないでくれ、さっきも言った通り実の息子だとさえ思うくらいだ。当然だよ」

 今までは、怖くて取ることのできなかったその手。でも怖さを克服した今、握ったその手はどこまでも温かくて、頼りになるものだった。

「さて、話はこれで終わりだ」

「蒼から聞いてたけど、部で食べてきたのでしょう? 夕飯はいらないって聞いてたけれど、何かつまむ?」

「いえ、僕は大丈夫です。本当に限界まで食べないといけなかったので」

「私も大丈夫よ、シュウと一緒」

「そう、じゃあお茶を持ってくるわね」

 金江さんが席を立つと、改めて気が抜けて思わず机に突っ伏した。蒼も同じらしく、顔に机をつけている。

「……じゃあそのうち、兄さんは本当の兄さんになるんですね」

「ちょっと、翠っ!?」

 でも、突然翠ちゃんによって投げ込まれた爆弾で蒼は跳ね起きた。

 ……確かに、もし結婚したらそういうことになるのか。

「おお、そういえばそうだ。実の息子と言っても過言じゃなくなるんだな」

「お父さんまでっ」

「さっきの弘治くん、かっこよかったわよ? お母さん安心しちゃった」

「若気の至りなので触れないでください……」

「もうっ、もう……!」

 さらには早瀬夫妻まで乗っかって、もう僕は顔を上げることさえ出来ない。蒼は言葉にならないのか、顔を赤くしてうつむいたまま。

 もはや収拾がつかなくなったリビングで、僕たちはしばらく話の種にされ続けた。

「ねえ、シュウ」

「何? 蒼」

 ふと、オフィスチェアに座って画面を見つめていた蒼が声を掛けてくる。

 リビングから解放された後、僕たち二人は蒼の部屋へと戻っていた。

 それからはなんだか気恥ずかしくて、蒼が甘えてくれるような雰囲気でもなく。

 だから僕は、その声にひどく安心した。

「さっき、リビングで言ってくれたことだけど……本気?」

「どれのこと?」

「一緒に未来を、って話」

「恥ずかしいけど……本心だよ」

「そう」

 そう言った蒼は、伸びをしながら立ち上がる。さすがにあのサンタの恰好は恥ずかしかったらしく、もう部屋着へと着替えてしまっていた。

 ……残念だなんて思っていない。

「ふふ、素敵なプレゼントを貰っちゃったわね」

「あれくらいでよければ、いつでもプレゼントするよ」

 そう言うと、蒼はとたた、と駆け寄ってきて。

 優しく、慈しむようなキスをされた。

「お返しよ。じゃあ私、お風呂に行ってくるわ。待ってて」

「あ、ああ。行ってらっしゃい」

 まるで何事も無かったかのように部屋を飛び出す蒼。ちゃんと顔を見せてくれなかったのは、彼女なりの照れ隠しなのだろう。

 再び部屋に一人取り残された僕は、帰ることさえ許されずただただ悶々としながら座っていることしかできず。

 二度目のキスは、リビングで飲んだ香り高い紅茶の味がした。

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