0x09 残ったひとかけら

 キーンコーンカーンコーン。

「よーし、筆記用具を置けー」

 先生が発したその福音に、僕はペンを投げるように置く。

 後から回ってきた答案に自分のものを重ねて置き、前へと回す。空になった机の上がなんだかすがすがしい。

「四十二、と。よし、じゃあ終わりだ。帰るやつは気をつけて帰れよ」

 たっぷりと時間をかけて枚数を確認した先生が教室を出ると、教室の空気は一気に弛緩した。

「だーっ、終わった」

「どっちの意味だ? 俺は正しい意味で解放感を感じているが」

「俺もそっちだ」

 その解放感にあてられて、宏がさっそく遊びに来た。成績がよさそうな顔しているが、こいつが解放感を感じるレベルは赤点回避ということをよく知っている。

 一方、隣の奴は突っ伏したまま動かない。本当に生きてるか?

「おーい、悠はどうだったんだよ」

「追試じゃないことを祈ってくれ……」

「やってんねえ」

「ついにやっちまったか」

 どうやら無事に散ったらしい。冬休みに入った直後の二度目の試作に向けて人手は当然のように足りていないから正直困るんだが……何とか赤点は回避していることを祈るくらいしかできることはないだろう。

 十二月十三日、金曜日の昼下がり。後期中間試験を終えた僕たちは、解放感にひたるのもそこそこに外へと飛び出した。

「お、晴れてんな」

「全然暖かくはないけどな、昨日みたいに雨に降られるよりはよっぽどマシだ」

「……今から幾ら積んだら追試なしにしてくれるかな」

「教員を買収しようとするなよ」

「手口が単純すぎる、悪党ですら二秒で却下するぞそんな粗悪な手法」

 曇り空の隙間から日がちらちらと顔を覗かせる空の下、産業廃棄物みたいな会話をしながら向かうのは当然のように部室。

 ちょうどこのテスト終わりに合わせて初回の試作が終わるようにスケジュールを組んだから、今日はパワーオンの日だ。大きく手を入れた初めてのプロセッサだから、僕たちの期待も高い。

 冷たい風が吹く中を歩いて部室に向かうと、オフィスエリアからは既に声が聞こえてきた。

「おいーっす、早いな砂橋ちゃん」

「やっほー柳洞くん、計算機工学科組はもう揃ってるよん、星野先輩と道香ちゃんはラボでボードとインターポーザ―の準備してる」

「おお、マジか。あの先生かなりゆっくり数えてやがったからな」

 ドアを開けると、砂橋さんと蒼の姿が見えた。次の試作に向けての開発を続けているのは知っていたけど、そっちを優先してくれているようだ。

「早瀬は何やってるんだ?」

「FPGAでロジックの検証をしてるの、これが終わったら合流するわ」

「次の試作もすぐだもんな。わかった、助かるよ」

 画面と、パソコンに繋がれたボードに目を向けたまま答える蒼。ちらりと横顔を覗くと……少しだけ疲れたような、それでいて思いつめたような表情をしていた。

「さ、ラボ行こ。道香と星野先輩が待ってるよ」

「狼谷さんは?」

「今ファブで最後のチェック中。多分素敵な良品率のデータがもらえると思うよ」

「それは嬉しくないなあ」

 今までのテスト同様、テスト中でも半導体工学系の部活は活動が許されていた。一年の五十二週のうち四週間、実質一カ月もテストで活動できないのはダメージが大きすぎるからだ。

 そして製造の前工程が終わった段階で、狼谷さんからは既に良品率の話を聞いていた。HKMGを適用していない現段階で、良品率は二十パーセント。そのうえ、動く周波数もかなり低いらしい。

「さすがにこれだけトランジスタを詰め込むと、リーク電流がバカにならない」

「まあ、だろうとは思ったよ。何ワットくらい食いそうだ?」

「リークだけで六十ワット近い。端的に言えば、爆熱」

「ばくねつ」

 狼谷さんらしくない砕けたスラングが飛び出して、思わずオウム返ししてしまった。

 逆に言えば、それくらいに消費電力と発熱がひどいということだろう。

「ウエハーテストを通った良品率は三十パーセント程度。後工程の不良率も考えると、良品は二十パーセント強になると思う」

「歩留まり二十パーセント……まあ、ゼロじゃないならオーケーか」

 狼谷さんは小さく頷く。歩留まり二十パーセントは今までを考えればかなりひどい数字だが、良品がゼロの試作をしていたのが一カ月前と考えればかなり良くなったと言えるだろう。

「わかった。初回だしまあ十分だろ、引き続き頼む」

「次の試作は、HKMGを適用するけどSADPの方は改良されてる。歩留まりは、多分同じくらい」

 狼谷さんからの報告を思い出していると、いつの間にかバカ二人はラボへと向かっていた。一方、砂橋さんはむむむ、と蒼の方を見て顎に手を当てていた。

「ねね、鷲流くん」

「どうした?」

「ちょっと耳貸してよ」

 軽くひざを折って耳を近づけると、砂橋さんも声を潜める。

「なんか今週さ、ずっと変じゃない? 蒼」

「……砂橋さんも気づいたか、さすが長い付き合いなだけあるな」

 そう、蒼の様子が普段とは違うのは今週の頭からだった。ずっと何か悩んでいるような、考えているような表情をしている。

 開発は今のところ順調だし、思いつめたように考えることの心当たりは……そう、多くはない。

「後で落ち着いたらちょっと聞いてみるよ。今は忙しそうだし」

「りょーかい。夏みたいに無理してる感じはなかったから杞憂だとは思うんだけど、念のためね」

「ありがとう、そっちも何かわかったら教えてくれ」

 だけど、それを僕の口から言うのもなにか違う気がして曖昧にごまかした。

 だけど、砂橋さんは満足げに立ち上がるとラボへと足を向けた。

「よっし、アタシもラボに行ってるよ。鷲流くんも準備できたら来てよね」

「わかった」

 賑やかなドアの向こうに砂橋さんも消えると、残るのは僕と蒼だけ。

 蒼はふと画面から目を切ると、部屋を小さく見回した。

「ね、シュウ。ちょっと来てよ」

「どうしたんだ?」

 それから蒼に呼ばれて、デスクへと向かう。蒼も同じように声を潜めて、僕だけに聞こえるように言った。

「今日の夜、何か予定ある?」

「いや、無いよ」

「はあ、よかった……」

 そう言って大きく息をつく。かなり安心しているみたいだ。

「ちょっと時間をもらえるかしら? 夕飯を食べた後くらいに行くわ」

「わかった。待ってるよ」

 普段ならこういう時は、夕飯にお呼ばれすることが多い。だけど自分から夕飯を食べた後に行くと言うってことは、できれば家でしたくない話なのだろう。

 ……覚悟を決めた。話すなら、今日の夜だ。

 今週末にはと思っていたし、今日の部活が終わった後にでも声を掛けようと思っていた。

 だけど、こんなチャンスを逃すのはもったいなさすぎるだろう。

「さ、シュウもラボの方を手伝ってあげて。私はもう少しかかるから」

「わかった。行ってくるよ」

 そう言って僕は蒼のデスクを離れる。

「……ふう」

 僕がラボに入る直前、ぎりぎり耳へと届いた蒼のため息がやけに気にかかった。

「おーい、BIOSのROM付けといたよ」

「わかりましたっ、前のMelon Hillのマイクロコードも入ってますよね?」

「ああ、どっちでも起動できるようにはしてあるよ」

「じゃあ柳洞先輩と杉島先輩のお二人は前の石でボード三つの起動確認をお願いしますっ」

「道香ちゃーん、こっちプローブ付いたよー」

「メモリのプローブも準備オッケーだよん」

「ありがとうございますっ、念のためチェックしますね」

 だけど、ラボに一歩入ればそこに広がっているのは戦場。その戦場を仕切っているのは道香だ。

「あっ、お兄ちゃん! いいところに! グリスがなくなっちゃったから倉庫から持ってきてもらってもいい?」

「任せろ」

「ごめんねー、よろしくっ」

 気付いた瞬間、道香は早速仕事を振ってくる。その笑顔に影がないことを確認して、僕は廊下に出てから安堵のため息をついた。

 あの日の後も、道香は自分で言っていた通り……今まで通り僕と接してくれている。気にしていないか聞くのもなんだか違うし、僕は感謝をしながら今まで通り振る舞っている。

 何より、道香もきっとそれを望んでいるだろう。

 倉庫でグリスを発掘し、持って戻って準備を進め。

「お待たせ。出来立てほやほや」

「遅くなってごめんなさい、早速始めましょ」

 蒼と狼谷さんが、CPUの乗ったトレイを持って入ってきた。ついに最後のチェックも終わったらしい。

「よし、じゃあやりますか」

「今回はインターポーザが挟まってちょっと取り付けが面倒だから、わたしがやっちゃうね」

「じゃ、その間にBIOSの初期値だけ修正するわ。狼谷ちゃん、どれくらいで動きそう?」

「とりあえず1.5ギガヘルツ、トランジスタ的には余裕だけど発熱がシビア。電圧は1ボルトちょうど」

「りょーかい、っと」

 ボードに繋がっているパソコンをカタカタと操作して、BIOSを修正する宏。

 一方の道香は、慣れた手つきでCPUを取り付けていく。自分で設計しているとはいえ実際に組み立てるのは数えるほどしかしていないはずなのにさすがだ。

「星野先輩、トルクレンチ取ってもらえますか?」

「トルクレンチ?」

「そ、このドライバーみたいなやつ。はいな」

「ありがとうございますっ」

 トルクレンチといえば、車のタイヤ交換の時とかに使っているイメージがある。昌平さんが冬タイヤから夏タイヤに変えるときに使っていた記憶だ。

 確か、ネジを締めすぎないようにある程度の力を加えると滑って力を逃がす道具……だったはず。

 だけど、あの時使っていたのは長い棒のような形だった。今星野先輩が渡したドライバーのようなものとは似てもつかない。

 道香は、その道具でそのまま普通のドライバーのようにネジを締めていく。だけど、ある程度回していると、コキン、という小気味いい音が響いた。

「トルクレンチなんて使うのか」

「今回使うのは、ピンの代わりに板バネの接点を使ったLGAっていうのは話してたよね?」

「ああ、そう言ってたな」

「だから、上からある程度の力で押し付けてあげないときちんと接点が接触しないのっ。次の試作からはちゃんと専用の仕組みを作るけど、今回はネジの締める量で押し付けてあげないといけないんだ」

「強く締めすぎると壊れたりショートしたりする原因になるし、逆に弱いと接触不良で動かないんだよねー。その締める量が適切になるように使うのがトルクレンチ、ってわけ」

「なるほど、初回試作ならではって感じですね」

「さーて、電源入れるよ。いい? 道香、杉島くん」

「はいっ、こっちは準備完了です」

「クリップは外したし……よし、オーライだ」

「じゃ、いっくよー」

 砂橋さんがコンセントを刺すと、ボードのLEDがちかちかと光り始めた。半導体が燃えたような匂いもしない。

「BIOSログも来たよ、って、止まっちゃった」

「ありゃ? 何かしくじったか」

 だが、起動は途中で止まってしまった。悠と宏がいつぞやと同じデバッガーをボードへと繋ぎ、何が起きたのかの調査を始めている。

「ありゃ、一発じゃ上がらなかったか」

「これだけの規模のCPUで独自回路もいっぱい入ってるし、まー仕方ないよね。とりあえず電源は入ったから安心だ」

「ですね。はあ、チェックしたとはいえ緊張しました」

「青いなあ早瀬ちゃん、蒼だけに?」

「今何か言いましたか? 星野先輩」

「ごめんって、自分でも面白くなかったって反省してるからっ」

 緩やかな、でもどこか緊張感のある会話をしながら二人の調査を待つ。途中何度か蒼と仕様の確認を挟んで、三十分もせずに問題の箇所はわかった。

「ごめん、BIOSの設定間違ってたわ」

「よかった、すぐ直せるか?」

「ああ、もう直した。『コールドリセット』しよう」

「んじゃ、落とすよ」

 僕はコンセントを引っこ抜くと、数秒待ってボード上のLEDが完全に消えるのを確認して再び差し込んだ。

 すぐにLEDは灯り、ファンも勢いよく回り始める。BIOSのログが流れるパソコンの画面も、さっきより長い間流れ続けている。

「ありゃ、また止まっちゃった」

「げ、今度はなんだ?」

 もちろん一筋縄ではいかない。結局、三回ほど同じようなBIOSの修正を繰り返し。

「今度こそ……来ましたっ」

「よーし」

「はあ、よかった」

「やったね早瀬ちゃんっ」

「安心した」

 皆から歓声が上がった。そこに表示されたのは、見慣れたBIOSの画面。

 でも、一つだけ今までとは違う。

 CPUの型名には、Sky Lakeの文字が輝いている。

 そこに何とも言えない感動を覚えていると、お疲れな馬鹿二人に肩を叩かれた。

「さすがにバグなしとは行かなかったなあ」

「お疲れ、さすがの修正の早さだな」

「ま、オレたちで組んだプログラムだしな」

「宏のミスが二つ、俺のミスが一つだぞ」

「仕方ないだろ、起動の根っこに関わるようなとこは大体オレが書いてるんだ」

「誰にでもミスはあるさ、直せばいいってことよ」

「いっこはシリコンバグだったしな」

「あれは不幸な事故だった、まあこのステッピングではマイクロコードで塞げたから大丈夫だろ」

「だな。さ、検証を始めよう。チェックしないといけないことは星の数ほどあるんだ」

「呼んだ?」

「星野先輩は呼んでませんっ」

「滑ったネタで、天丼」

「勇気がいるわね」

「冷静に批評しないでっ、後生だからあーっ」

 そんな適当な星野先輩のボケにみんなで笑いながら、改めてほかのボードにも電源を入れていく。

 間違っても、直せばいい。

 Linusをインストールしながら、なんとなくその言葉は、自分にも言い聞かせた言葉だと思い返した。

 人生はCPUに近いのかもしれない、とぼんやりと思う。確かに、過去という名のハードウェアはもう修正することはできない。でも、未来というソフトウェアは変えることができる。

 たとえハードウェアに問題があったとしても、今の設計ならソフトで普通に動かすくらいなら出来るようにまで修正できることも多い。

 だけど……今までたくさん間違え続けてきてしまった蒼とのことも、彼女はそう言って赦してくれるだろうか。

 答えが出ない問題に考えを取られつつも、手は動いて作業を進め。

「おーし、今日は終わり! 結構進んだし、何よりもう帰る時間だぞ」

 自分の受けるテストは全く気が乗らないのに、こっちのテストは楽しみなのが人間の面白いところだ。気が付けば下校時間を迎えていた。

 ラボのホワイトボードに張り付けられた評価項目のチェックリストは、既に半分弱が埋まっている。

「もうそんな時間かあ、続きは明日だな」

「明日は一日時間取れるからね、運が良ければチェックリスト埋まるかも」

 そんな前向きな皆と一緒に部室を出て、列車に乗って。

「おつかれー、また明日」

「またね、悠」

「おやすみ」

 家の前で悠と別れると、残るのは僕と蒼だけ。空は雲に覆われており、今にも雨か雪が降りそうだ。

 びゅうっ、とやけに冷たい風が吹く。今晩降るのは雪だな。

「じゃ、後でね」

「ん、後で」

 蒼とも、手を降って一度別れる。別れ際の表情は、やっぱり……何かを抱えているような、苦しそうな表情に見えた。

 家に入ると、改めて何も手に付かない自分に驚く。何かをしようとしても蒼が来てからのことを考えてしまい、ぼーっとしてしまう。荷物を置いて着替えるだけのことなのに、やけに時間が掛かり。

「やべっ、やっちまった」

 それは夕飯の準備をしている時も同じ。ぼーっとしていたら、弱火で炒めていたのに野菜炒めを焦がしてしまった。

「はあ、仕方ない」

 そのままほろ苦い夕飯を食べて、片づけを終えれば手持無沙汰だ。

 何かを出来るわけでもなく、ただ不審者のようにリビングをうろつくだけ。いや、傍から見たら完全に不審者だ。

「……こんなに不安になるとはなあ」

 もちろん、色々な気持ちが入り混じってはいる。緊張や期待もしているし、何て言うかも考えないといけなかった。

 だけど僕をこれだけ突き動かしているのは、やっぱり不安が一番大きいのだろう。

 蒼に嫌われては……いないと思う。でも、気持ちはその時までわからない。

 ひとしきりうろうろして、リビングの三人分のソファーにぼすっと体を沈めたところで。

 ぴんぽーん。

 チャイムが来客を告げる音を鳴らした瞬間、今までで一番俊敏なんじゃないか、と思うくらいの反射速度で立ち上がった。

「はーい」

 来客は99パーセントわかっているから、そのままドアを開ける。

 果たして、そこにはコートを着こんだ蒼が立っていた。

「こんばんは、シュウ」

「待ってたよ。どうする? 上がってく?」

「いや……よかったら、散歩に行かないかしら?」

「わかった」

 僕はすぐに上着とダウンコートを着こむ。今日は冷えるから、携帯カイロも持って行った方が良いだろう。

 鍵と財布をコートのポケットに突っ込むと、玄関へと舞い戻った。

「お待たせ。行くか」

「ええ。行きましょう」

 靴を履いて鍵を閉めると、明かりで見えなかったあることに気が付く。

「ありゃ、雪が降ってきてたんだな」

「この寒さだしパラパラしてるし、積もる雪ね」

 外はひらひらと雪が舞っていた。まだひらひら、という程度だから積もりはしないだろうけど、もっと強くなったら簡単に積もるだろう。

 雪の舞い散る街中、蒼の一歩だけ後ろを歩いていく。お互いに何かを話そうとして、でもその勇気が出ない、そんなもどかしい雰囲気のまま無言で。

 ぽつぽつと立っている街灯は、無言で二つの影を作り出す。

 母さんの最期を看取った病院の前を通り、普段使うスーパーの近くまで来る頃には少しだけ雪が強くなっていた。

 でも、まだ蒼が向かうのはまだ先のようだ。ここまで来ると、僕が思い当たる場所は……一か所しかない。

「ねえシュウ。全部、思い出したのよね?」

 比較的大きな道路の交差点で信号待ちをしていると、ついに蒼はぽつり、と言葉を発した。

「……ああ、全部。そのはずだ」

「じゃあ、どうして今まで忘れていたのかしら」

 ……それは、僕も引っかかっていたポイント。

 母さんが居なくなった後、最初の正月の記憶は前からあった。でも、母さんが亡くなるシーンははっきりと覚えていなかった。

 それが意味するのは、この一カ月の間に僕の記憶をあいまいにさせる何かがあった、ということ。

 でも、何があったのかは思い出せていない。そこだけ、ぽっかりと穴が開いているかのように。

 つまり、この記憶には……まだ、続きがあるということなのだろうか。

 そして、蒼はそれを知っているのだろうか。

 信号が青に変わる。一歩先に歩き始めてしまったから、蒼の表情は伺えない。

 さらに無言で、蒼の後ろを歩くこと数分。

 やってきたのは、白く染まり始めた……思い出の河原だった。

「ここ、か」

 蒼も足を止めた。目的地はここで間違いなさそうだ。

「シュウはここを、例の河原って呼んだわよね」

「ああ。蒼との思い出の河原だな」

 二人で並んで、川べりの階段に座る。雪で濡れているのも、今だけは気にならなかった。

 特に何があるというわけでもなくコンクリートで歩道と階段が整備されている、洪水になったらあっという間に水没してしまうであろう川べり。

 ここで、蒼と何かがあったことは覚えている。

「じゃあ……思い出、って何かしら」

「それは……」

 そう、蒼と何かがあったことだけは覚えている。でも、思い出せるのはそれだけなのだ。

 具体的に何があったのか。助けてもらったような感覚こそあるけど、具体的なことは何も出てこない。

 その思い出が、僕の思い出に関係している――そういう、ことなのだろうか。

 蒼は立ち上がると、僕に向き合った。

 わずかな雪あかりに照らされて、どこか幻想的に見える。

「いまから、最後の記憶の一ピースを……シュウに返すわ」

 胸元でぎゅっ、と手を握る姿は、僕に手を引かれていた時によく見た……勇気をふり絞っている時の仕草。

 その日が、穴の開いた記憶の中の『あの日』とどこか重なった気がして。

「六年前の今日、何があったのか――」

 蒼は降りしきる雪の中、ゆっくりと語り始めた。



 最初は、こわいと思った。

 知らない人は、みんな怖い人だと思っていたから。

 だから、お母さんが家を出た時にも私は玄関の陰に、翠と一緒に隠れて様子を伺っていた。

「久しぶりね、本当に痩せちゃってるじゃないですか」

「お久しぶり、病院暮らしは美味しいものが出てこないのがよくないよ」

「もう、またそんな風に冗談言って」

 一人は、とっても綺麗な女の人。お母さんが聞いたことないくらい、まるでお友達みたいに話しかけていたし、せんぱい、とも呼んでいた。お母さんのお友達なのだろうか。

「あらあら! この子がお子さん? お名前は?」

「鷲流、弘治です。よろしくお願いします」

 そしてもう一人は、同じ年くらいの男の子。

 男の子は、怖い。乱暴だし、私の話し方を変だっていう。

 一人同い年の男の子が近所に住んでいるらしいけど、その子ともちゃんと話したことはなかった。きっと、同じように馬鹿にされるから。

 お母さんとお母さんのお友達の話から、その子が同い年だっていうこともわかった。

 ちょっと緊張したような男の子は、あんまりこの辺りに住んでいる人には見えない雰囲気だ。

「ほら蒼、翠、隠れてないでご挨拶しなさい」

「ひうっ」

「お、おねえちゃん……」

 母さんに声を掛けられて、びくっ、とすくみ上がってしまう。

 でも、呼ばれてしまったなら行かないわけにはいかない。翠の手を引いてお母さんの背中に走っていき、その影に隠れた。

「もう、引っ込み思案なんだから。お隣に越してきた天さんと弘治くんよ」

「鷲流弘治です、よろしく……君は?」

 お母さんの背中から様子をちらちらと見ていると、男の子が私のことを見ながら挨拶をしてきた。

 さすがに、ここまで来たら返事をしないほうがよくないことは私にもわかった。できるだけの勇気をもう一度ふり絞って、その男の子の前に出る。

「早瀬、蒼、です。よろしく」

 できるだけみんなが話す訛りに近くなるよう、頑張って話す。うちはお父さんもお母さんも標準語で話しているし、訛っているのはおじいちゃんだけだったから私の話す言葉もあまり訛っていない。だから、都会かぶれとか、変だとか、色々言われるのだ。

 でも、その男の子はそんなことは言わなかった。代わりに彼は、片手を差し出してくる。

私は、その意味がわからず。思っていた反応とも違って、思わずぽかん、と立ち尽くしてしまった。

 だからだろうか。彼は頬をかきながら、それでもどこか自信げにその意味を教えてくれる。

「握手だよ、握手。アメリカ式の挨拶なんだって」

「そ、そうなんだ……」

 恐る恐る、その手に自分の手を伸ばす。ある程度のところまで伸ばすと、男の手は優しく私の手を握ってくれた。

 男の子の手なんて、初めて触った。どきどきとも、びくびくともつかない鼓動が胸で暴れている。

 その男の子は満足したらしく、得意げに言った。

「ん、これで友達だ。握手も済ませたしな」

 私は、いまだに混乱していて。友達になった、のだろうか?

「よ、よろしく?」

 結局手を離して、ささっとお母さんの背中に隠れるまで不思議だった。

 だけど、一つだけわかったことがある。

 この男の子は、悪い人ではなさそうだ、と。



 それからの毎日は、急に日常の速度が上がったかのように感じた。

 学校に行けば、彼は人気者だった。頭もいいし、運動も一番じゃないけど悪くない。それに、都会から来たのだというのだから当然だ。

 そして、彼はいつも引っ込み思案で臆病な私の手を引いてくれた。私が行ったこともないような場所にも平気で行くし、大人と話すことも難なくこなして見せる。同級生のケンカに巻き込まれた時には、痛い思いをしながらも助けてくれたことさえあった。

 一度だけ、私は彼に聞いてみたことがある。

「ねえ、弘治くん。なんで、いっつも私も連れて行ってくれるの?」

 それは、わりと心からの質問。出会ってからそんなに長くを一緒に過ごしたわけじゃないのに、どうして弘治くんはここまでしてくれるんだろう。

「そりゃ、あたりまえだろ」

 そんな私の思いは間違いなく伝わっていない気がするけど、彼は笑顔でこう言ってのけた。

「友達なんだから、一緒に遊ぶだろ? もちろん蒼が嫌ならやめるけど、嫌って言ってなかったし……」

 きっとこの時から、私は……弘治くんのことが好きになっていたのだろう。



 でも、そんな弘治くんにも転機が訪れた。

 弘治くんが来て、大体一年が経った夏の日。

 最初に一緒にうちを訪ねてきてくれた、綺麗な女の人。お母さんの親友であり先輩、そして彼のお母さんなのだという彼女、天さんが、ついに長期入院をすることになったのだという。

 今まで、天さんがいない日には私の家にご飯を食べに来てくれることもあった。

 そんな時には、お母さんと一緒に楽しそうに台所に立っている姿も見たことがある。

 でも……長い間お母さんと離れ離れにならないといけないのだ。

 私には考えられない。お母さんとそんな長い間離れ離れになるなんて。

 だから、私は勇気を出すことにした。初めて自分から、彼のお家を訪ねたのだ。

 お母さんの目を盗んで、寝る時間のしばらく後。

 眠かったし夜の闇は怖かったけど、弘治くんのためなら頑張れると思えた。

 インターホンを押してしばらくすると、ドアがゆっくりと開く。

「はい、どちら様ですか?」

 そう言って彼が出てきた。その後ろには……私の家では考えられないくらい。吸い込まれそうな静寂が広がっている。

「弘治、くん? くぁ」

 それなのに、呑気にあくびが出てしまう私が自分で恨めしかった。弘治くんは、こんな暗い夜を過ごしているのだ。寂しくないはずがないと、私でもすぐにわかるくらいなのに。

「蒼!? どうしたんだよ、こんな時間に」

 結局、この時は怒ったような弘治くんにすぐに家に連れ戻されてしまったけど……この時初めて、私は無力感というものを知った。

 私がもうちょっと、何か出来れば……彼のことを助けてあげられるのだろうか。

 そして、何も出来ない自分が嫌にもなった。

 だから次の日の朝、私は早速お母さんにお願いをしてみることにした。

「ねえお母さん、これから、料理とかお掃除とか、いろいろ教えて」

「あらあら、どういう風の吹きまわしかしら?」

「……弘治くんに何もしてあげられないのが、いやだから」

 それを聞いたお母さんは、とても優しい笑顔を見せたのを今でも覚えている。

「そう。確かに、弘治くんは何でもできちゃうものね……。わかったわ、厳しくいくわよ?」

 それから、お母さんに色々なことを教えてもらった。料理のことも大体教わったし、お掃除のやり方、洗濯の仕方なんかも全部身に着けた。



 でも、やってきてしまったその日に……私はやっぱり、なんの役にも立てなかった。

 天さんが亡くなった冬の日、弘治くんは涙をひとぬぐいしただけで、それから大人たちに混じって忙しく話をしていた。

 それまでも、どこか大人びたところがあるとは思っていた。

 でも、この日は大人びて……というよりも、大人たちの中で対等に振舞っているようにさえ見えて、私はちょっと怖かった。

 そんな彼に、私は直接声を掛ける勇気すら出ず。

「ねえ翠、弘治くんに何か手伝えることはないか聞いてきて貰えない?」

「いいけど、お姉ちゃんが直接行けばいいんじゃないの?」

「いいから、お願いね」

 そう言って翠に行ってもらったけど、やっぱり弘治くんは大丈夫だよ、と言うだけ。

 お葬式が終わった後、彼のお父さんが旅立ってしまう時さえも、聞き分けのいい子のように振舞っていた。

 自分では、気付いていないのかもしれない。だけど、外から見るとやっぱりどこか無理をしているように見える。

 その夜、同じように見かねたのだろうお父さんが弘治くんに提案をした。

「弘治くん、今日から一緒に暮さないか?」

 でも、彼は首を縦には振らない。今まで見せてくれていた元気さは鳴りを潜めて、どこか力のない動きだった。

「いいえ、ありがたいですが……遠慮させてもらいます。あの家には、色々な思い出があるので」

 彼の中で、大きな何かが崩れ去ってしまったのは間違いない。

 だから……そんな姿を見て、私は何かをしてあげたいと思った。

 一日一回は、彼の家を訪ねよう。たとえ何も手伝えることが無かったとしても、一人で寂しそうにしている弘治くんは見たくなかったから。



「ここまでは、多分シュウが覚えてることと同じ……よね」

 ひとつ、ため息をついた。周囲の雪化粧はいよいよ進み、寒さに耐えている草の上に白い覆いをかぶせ始めている。

 山から吹き下ろす冷たい風が雪を横に流す。いよいよ雪は本降りになってきた。

 そして蒼の言う通り、ここまでは前提だ。

 僕の記憶の、蒼視点での復習。

「ああ。……そんなに、無理しているように見えてたんだな」

「正直見てられなかったわ。明らかに虚勢を張ってて、張り詰めた糸で綱渡りをしてるみたいだった」

 そう言って微笑む蒼の表情にも元気はない。まさに、その時の僕を見ているかのようだった。

「でもね、ここからが今日話したかった本番」

 蒼が大きく吐いた息は、もう一つの白となってゆっくりと消える。

「ここからが、多分シュウが思い出せていない……不幸せな夢の、不幸せな終わり」

 そう呟くと、蒼はさらに過去を紡ぎ始めた。



 それからの弘治くんは、明らかに変わっていた。

 普通に学校には来ていたけれど、やっぱり元気はない。ぼーっとしている時間が圧倒的に増えて、授業にも全然集中できていないように見える。

 私は放課後、どこかに遊びに行くこともなくなった弘治くんと、一緒にいることにした。

 夕ご飯までのわずかな時間だけど、少しでも一人で居る時間が短くなるように。

 そんな状態で、一週間が過ぎた。

 十二月十三日、いつもと同じように弘治くんと一緒に下校すると、わたしはそのまま彼の家に入った。一人だというのに広い家の中は綺麗に保たれていて、一週間前と全く遜色ない状態。

 当然と言えば当然で、天さんが長期入院してからずっと一人でこの家を守ってきたのだ。天さんが帰ってくることがなくなってしまっても、ある意味変わらない。

 あの日以降、放課後は家の中で宿題をして、終わったらぼーっとしている弘治くんと話をするのが日常になっていた。

 話をすると言っても、今までのように会話が弾むわけではない。誰かがそこにいることを確かめるだけのような、シンプルで寂しいお話だった。

「あっ、そろそろ帰る時間」

「そっか。また明日ね」

「うん……何かあったら、いつでもうちに来てね」

 日が落ちてしばらくすると、私は帰らないといけない。毎日一緒にご飯を食べようと誘ってはいたけれど、今日までその首が縦に振られたことはなかった。

 夕ご飯を食べて、お風呂に入って。いつも通りの夜を過ごしていると、なんとなく弘治くんのことが心配になった。私がこうやってお風呂に入っている間も、彼は一人で寂しく過ごしているのだろう。

 そう気付いてしまうと、こうして過ごしていることがなんだか悪いことのようにさえ感じてしまって。

「ちょっと弘治くんの様子見てくるっ」

「わかったわ、暖かくしていくのよ」

「事故には気を付けて」

「はいっ」

 お父さんとお母さんに一言だけ告げて、私は家を飛び出した。

 外は吹雪いてこそいないけど、しっかりと雪が降っている。その積もった雪が吸音材になって、街はやけに静かだった。そういえば、あの日から雪が積もったのは初めてだ。

もしあの恐ろしい静寂のままだったら、今日は一緒に夜を過ごしてもいい。そう思って彼の家の玄関にたどり着いたけど。

 ぴんぽーん。玄関の呼び鈴を鳴らす。

 そうすれば、前みたいに元気……じゃなかったとしても、玄関まで出てきてくれるはず。

 だけど、一向に返事がない。

「……?」

 もう一度、玄関のチャイムを鳴らす。でも、やっぱり出てくる気配はない。

 試しにドアに手を掛けてみると、迎え入れるかのようにあっさりと開いた。

「あれ、鍵掛けてなかったのかな」

 普段はちゃんと鍵をかけていたような気がする。室内は暖かくて、暖房の音も聞こえている。

 その違和感をたぐるように、明かりのついているリビングへと向かうことにした。

「弘治、くん?」

 だけど、普段ならそこにいるであろう弘治くんの姿はない。慌ててリビングを出ると、階段を駆け上って二回の彼の部屋へと飛び込む。

「弘治くん、どこっ!?」

 頑張って声を出してみても返事はない。昔家の中でかくれんぼをした時のことを思い出しながら色々なところを見てみるけれど、どこにも姿は見当たらず。

 私はその時、初めて背筋が凍る、という感覚を体感した。

 弘治くんが、居なくなった?

 そうはっきりと認識した瞬間、運動はあんまり得意じゃなかったけれど、間違いなく人生イチの速度で彼の家を飛び出す。

 家に飛び込むと、そのまま両親が居るであろうリビングへと走った。

「お父さん、お母さん! 弘治くんが居ないのっ」

「何っ!?」

「本当なの!?」

 慌ててお父さんとお母さん、それに翠を連れて、弘治くんの家へと駆け戻る。

 四人でくまなく探したけど、やっぱりその姿は無くて。

 それからは、一大事だった。

 近所の大人たちを巻き込んで、大捜索が始まる。

「そっちはどうかしら?……そう、わかった。こっちも続けるわ」

 私は、お母さんと車に乗って近くを探して回ることにした。

 だけど、すぐには見つからない。雪が降る中、一人の男の子を探すのはとても難しかった。

 私は泣いてさえいられない。私が見つけなくちゃ……と、自責の念に駆られて、目を皿のようにして探す。

 そして、車がとある川沿いに差し掛かったとき。

 積もった雪の上でぽつんと立ち尽くす一つの人影を見つけ……ヘッドライトに照らされはっきりと浮かび上がったその姿に、私は叫んだ。

「あっ、あそこ!」

 慌てて車を止めてもらい、撥ねるように駆け出した。その髪には雪が積もり始めていて、それなりに長い時間ここにいたことが一目でわかった。

「弘治くんっ」

 私があわてて駆け寄ると、彼は震えている。

 その震えは、この寒さと……彼の冷たく冷えきってしまった心から来ているのかもしれない。

「弘治……くん?」

 弘治くんは、私がたどり着いてもぼーっと真っ白な空を見上げていた。

 ただ、定期的に口元から立ち上る白い吐息だけが、彼がまだ生きていることを告げている。

 その目は舞い落ちる星のような雪を見ているようで、もう何も見えていないのかもしれなかった。

「……なあ、蒼。知ってるか? 誰もいない家ってさ、すっごい静かなんだ」

 彼が初めて口にしたのは、どこまでも寂しい一言。私は心がぎゅーっと締め付けられるような感覚を覚えた。

 この同い年の少年は今、心が壊れそうなほどの寂しさに打ちひしがれているのだ。

 それでいて、私たちの手を取れない何かもあるのだろう。寂しさとトラウマに板挟みにされ、今でも助けを求めているのだ。

「雪が降るとな、もっと静かになるんだよ。時計の音と、自分の心臓の音と、暖房の音だけしか聞こえないんだ」

 涙すら流すことのできないほどの静寂。それは、どんなものなのだろうか。

 目からは涙が出てきそうになるけれど、ぐっとこらえた。

 泣くべきなのは弘治くんだ。私じゃない。

「なんで、こんな、静かなんだろうな。僕は何か悪いことをしたから、こうなっちゃったのかな……」

 静かに、懺悔するように言葉を紡ぐ。

「僕は、これからもずっと、一人なのかな――」

 あまりにも寂しい言葉に耐えられなくて、私は思わず弘治くんを抱きしめた。

 その体は冷えきっていて、熱らしき熱が伝わってこない。

 私のほうがほんの少しだけ背が高かったことを、この時ほど感謝したことはなかった。

 これが……初めて弘治くんに何かを返してあげられたことだから。

「私がいるっ、私がいるもんっ。今までいっぱい手をつないでもらった分、今度は私が引っ張るからっ」

 どうしても声は涙声になってしまった。弱くて泣き虫な自分が嫌になる。

 でも、これだけは言わないといけないと信じて言葉を続けた。

「だから、だからね、泣いてもいいんだよ……」

「べっ、別に泣きたいわけじゃない」

 弘治くんの口から紡がれたのは、今までみたいな素直じゃない言葉。

 それを聞いて、少し安心してしまっただからだろうか。

「うそっ、絶対嘘だよおっ! じゃあ、なんでそんなに寂しそうな、うっ、ううううっ」

 今までこらえてきた涙が溢れだす。

「蒼が泣いてどうするんだよ、お前まで泣いたら、僕だって、うっ、ぐすっ」

だからだろうか。弘治くんも、つられるように涙を流し始めて。

「いいのっ、もう強がらないでもいいんだよ」

 それから弘治くんは、私の前で初めて泣いた。小さい子供のように、大きな声を上げて。

 きっと、お母さんを失ってから一週間以上我慢し続けたのだろう涙を流し続けた。

 受け止めながら、私もあらためて覚悟をする。

 今まではたくさん手を引いてもらった。だから、今度は私がその手を引いてあげないと。

 だけど、そこで私は大きな間違いをした。

「……そう、忘れちゃえばいいんだよ。大変なことも悲しいことも、思い出さないように深くしまって……」

 泣き続ける弘治くんに伝えたのは、今思い出せば残酷な一言。

 この一言がどんな影響を与えてしまうかなんて、当時の私には全く分からなかった。

 ある程度落ち着いた、寒さに震える弘治くんを車に乗せて家に帰って。

 さすがに一人にはしておけないからうちの客間に泊まってもらい、一晩経った翌日の朝。

「おはよう、蒼」

「お、おはよう弘治くん。風邪ひいてない?」

「ああ、体は大丈夫みたいなんだけど……ごめん、なんで蒼の家に泊まったんだっけ?」

「……えっ?」

「昨日何があったのか、なんか思い出せなくて」

 昨日、寒い中立ち尽くしていたからかもしれない。

 あわててお母さんと一緒に病院に行き、色々な検査を受けてもらって。

 わかったのは……弘治くんの家族のことだけが、綺麗に抜け落ちているということ。

「特に、体に異常は見られません。……直近の出来事からも、解離性健忘の可能性が非常に高いでしょう」

 ついたのは、解離性健忘という病名。ストレスなどが原因で、ある特定の時期の記憶だけが無くなってしまうというものだった。

「喫緊で思い出す必要もないのであれば、まずはみなさんで支えてあげるのが一番です。しばらくすれば、自然に……少しずつ思い出すことが多いですから」

 まだ心身ともに育ち切っていない子供に色々な治療を施すのはよくないというのだという。

 私は、もう一度背筋が凍った。

 昨日、私があんなことを言ったから……忘れちゃえばいいなんて、無責任なことを言ったから。

 自分の言葉で、弘治くんのことをめちゃくちゃにしてしまった。

 だから、私は彼の手を引いていくことに決めた。彼が一人で歩いていけるようになる、いつかその日まで。

 同時に、私は自分の淡い恋心に封をすることに決めた。

 これは、私が背負っていくべき罪だから。そんな気持ちは、許されるものじゃないから。



 ぱちりと、音を立ててはまり込んだような感覚。

 押し寄せてきたのは、あの日の――自分さえもどこかへ連れ去ってしまいそうな寂しさと、冷たさ。

「これが、弘治くんにあったことの全て」

「……ありがとう、蒼。なんとなく自分の中にあった情報の全てが繋がったよ」

 蒼は白い息を大きく吐いた。その綺麗な髪にも白い雪が積もり始めている。

 欠けていた最後のピースは、蒼の手によって戻った。

 自分の身に起きていたことを改めて知ると、蒼には感謝してもしきれない。

 予想通り、僕はずっと蒼に手を引いてもらっていたのだ。

「それから、二週間くらいでぼんやりとは記憶を取り戻していたみたい」

「つまりは、この間までの状態には戻っていたってわけか」

「そうよ。でも、それと同時に元の一人暮らしに戻ったの。この時だけは、何て言っても聞いてくれなかったわ」

「だから、蒼は……少なくとも朝は欠かさず、僕のところに来てくれてたんだな」

 毎朝、大体の日は放課後も。土日も一日一回は顔を出してくれていた。

 そんな蒼には……僕の記憶に対する贖罪の気持ちがあったのだ。

「毎朝起こしに来て、部屋で寝ているシュウのことを見て安心してたの。ああ、あの日みたいに居なくなってない、って」

 蒼は柔らかく笑った。きっと……僕が起きる前、部屋にやってきた蒼は僕のことをこんな表情で見守ってくれていたのだろう。

「それに、わたしの人見知りもいつの間にか治ってたわ。だって、シュウの手を引いてたら怯えてる場合じゃなかったから」

「そう、か。六年前とかの何にでも怯えてた蒼からは、今の蒼が全然想像できないもんな」

「そういう意味でも、シュウには感謝しているの。私が色々なことに挑戦できたのも、結果的にはシュウのお陰だから」

 軽く冗談めかして話す蒼だけど、最初はどれだけの恐怖があったのだろう。

 自分の性格を押し殺してまで、僕のことを支えてくれていた蒼。

 顔を見ているだけで、自分の心がまた一段と熱を抱えるのが手に取るようにわかった。

「僕に言わなきゃいけなかったことっていうのは、もう終わり?」

「……ええ。私が伝えないといけなかったことは、全部話したわ」

 少し寂しげに笑う蒼。でも僕が見たいのは、その笑顔じゃないんだ。

「そっか。じゃあ、次は僕から伝えたかったことがあるんだ」

 大きく息を吐く。

 伝えられた最後の思い出は、僕の心拍数を上げるのに十分すぎた。

 緊張してのどが乾く。静かな雪の夜に、自分の鼓動の音だけがやけに大きく感じる。

 でも……僕は、これを伝えたい。

 立ち止まって動けなくなっている僕の手を引いて走ってくれた、一番大切な幼馴染に。

「僕は、蒼のことが好きだ。ただでさえ好きだったのに、今日の話を聞いてもっと好きになった」

「っ……」

 蒼が大きく目を見開いて固まった。僕は、勢いに任せて続ける。

「僕と、お付き合いしてくれませんか……?」

「本当に、私で、いいの……かしら」

 不安そうに目を伏せる蒼。今までだとなかなか見られない姿ではあったけど、むしろこっちが本当の蒼なのだ。

 だから、僕は蒼の冷たくなっていた手を取って言う。

「もちろんだ。最初は僕が手を引いてて、あの日からは蒼に一杯手を引いてもらったから。全部を取り戻した今からは……二人で、一緒に歩んでいきたい。……なんて、キザっぽいな」

「ううん……かっこいいわよ、シュウ」

 とすっ、という柔らかな衝撃。

 次に感じたのは、暖かくて柔らかな感覚だった。

 キスされたのだ、と僕が理解した時には、蒼の綺麗な瞳が僕のことを見つめていて。

「私も、シュウ……いや、弘治くんのことが好き。ずっとずっと、好きでした……!」

「ありがとう、蒼……」

 柔らかくその体を抱きしめる。

「泣くなよ」

「だってっ、今日の最後の思い出を話したら嫌われるかと思ってっ、ずっと不安で、苦しくって、でも話さないのはもっとあり得ないから、それでっ」

 涙に濡れる声で、切れ切れに胸中を話してくれる蒼。なんだかあの日の前に戻ったみたいでほっとしたし、何よりこうやって全部を吐き出してくれるのが嬉しかった。

 だから、もう一度抱きとめた腕に力をこめる。

「僕は、とっても嬉しかった。蒼が僕のことをそれだけ考えて、今までずっと支えてくれてたんだから。好きにこそなれど、嫌いになんてならないよ」

 何も言えずに、すがりついて泣く蒼。僕はその頭を柔らかく撫で続けた。

 あの日と同じ、降りしきる雪の中。

 違うのは、二人の温度と関係性だけ。

 そのことが、とても嬉しかった。

「そろそろ帰ろうか。風邪引いちゃうし」

「……うん、帰る」

 蒼が落ち着いたところで、僕たちは家路へとつく。

 ここに来るまでのように、蒼に手を引いてもらうのではなく二人並んで。

 冷たい雪の中ぎゅっと握った手の温度は、一生忘れないだろう。

 二人で居れば、流れる穏やかな無言さえも幸せだった。

「……ねえ、シュウ」

「なんだ?」

 ふと、蒼が聞いてくる。蒼はどこかいたずらっぽい笑顔で、僕のことを見上げていた。

「今更だけど……私の気持ち、気付いてたの?」

「はっきりとはわからなかったけど、少なくとも嫌われてはいないってのは判ってたよ」

「そう」

 安心したようなため息は、白い帯になって雪に消えた。

「むしろ、あの時からずっと好きだったのか?」

 踏み込んだことを聞いてみる。冗談めかすのは、まだ恥ずかしすぎて真剣には聞けないからだ。

「……今まで、弱気だったり、つらそうな所だったり、もちろんかっこいいところも見てきたわ。もともと好きだった、って言ってたのにそんなのを見せられたら……わかるでしょう?」

「そ、そっか。ありがとう」

 でも返ってきたのは、もっと恥ずかしい赤裸々な言葉だった。上手く言葉を返すことすら出来ず、思わず目をそらしてしまう。

 ……そんな顔を真っ赤にされると、なおさら顔なんて見られない。

 しばしの気恥ずかしい沈黙の後、嘆くようにため息をついたのも蒼だった。

「そんな資格は無いって思って、抑えてたと思ってたんだけど……みんなにも言われたわ」

「えっ、皆も知ってるのか」

「見てればわかる、って口を揃えて言われたわ」

「マジか。わからなかったなあ……」

「ふふっ、シュウに伝わってなかったならセーフね。朝起こしに行くのも、さっき言った理由は半分よ」

 それから、蒼は大切なものを慈しむように笑う。

 今まで見たことのない、そのどこまでも優しい笑顔に……あらためて、胸が熱くなるのを感じた。

「シュウに会いに行くのが楽しみだったのが、残りの半分」

「そっ、か。じゃあ、もし迷惑じゃなければ、また明日からお願いしてもいい……か?」

「いいのかしら?」

「こっちこそいいのか、って思っちゃうよ。恋人に起こしてもらうなんて、贅沢過ぎて」

「……いいに決まってるじゃない」

 二人並んで歩けば、雪の中でも寒ささえ感じない。

 いつの間にか、家の前まで戻ってきていた。

「じゃあ、また明日」

「また明日。布団の中で待ってるよ」

「もう、起きててくれてもいいんだからね」

「蒼の貴重な朝の楽しみを奪っちゃいけないからな」

「……もうっ!」

 拗ねたように笑う蒼。その手を離すと、ひらひらと手を振りながら家の方へと歩いて行った。

「おやすみ、蒼」

「おやすみ、シュウ」

 姿が見えなくなるまで見送った後、玄関に入ってドアを閉める。

「……まいったな」

 思わず言葉が口をついた。今も、脳裏にはあの短い時間で蒼が見せてくれた色々な表情が焼き付いている。

 改めて思うのも変な話だが、あんなに色々な表情をする奴じゃなかったはずだ。

 ……いや、今までは抑えていたのだろう。それが今、表立って出すことが出来るようになったというわけだ。

「一体僕はどうなっちまうんだろうな」

 ため息をついてはみるけど、口角が上がるのは避けようがない。きっと今、他人には見せられないような緩んだ顔をしているのに違いない。

「……ほんと、道香には感謝してもしきれないな」

 そして次に浮かんできたのは、道香への感謝だった。

 道香にもちゃんと話をしないといけないだろう。……間違いなく背中を強く押してくれたのは、あのかわいい妹なのだから。

「よしっ」

 とりあえず立ち上がり、廊下の電気を点ける。明るくなった廊下を、リビングへ向けてゆっくりと歩き始めた。



 つん。

 なんだか頬に刺激を感じる。

「……たく……だから」

 つんつん。

 さらに刺激を感じて、僕の意識はようやく浮上を始める。

「ふふっ……私も……ね」

 蒼の声が聞こえて、ようやく目が開けられるくらいに意識がはっきりとした。

「ふぁ、おはよう蒼」

「あ、起きた? おはよう、シュウ」

 目を開けると、映し出されたのはドアップの蒼。とても幸せそうな笑顔で僕の顔を覗き込んでいらっしゃる。

 脳は一瞬で覚醒した。

「うおっ!?」

「な、何よ。びっくりしたわね」

 その顔の近さに飛びのくように頭をそらすと、蒼は少しだけ不服そうに目じりを上げる。

いくら恋人とはいえ、その距離は心臓に悪い。朝から顔が緩んでしまいそうだ。

「いや、単純にびっくりしただけだ。寝起きでその距離は……なんというか、びっくりするって」

「同じこと二回言ってるわよ……? じゃ、準備して降りてきてね」

「ああ、わかった。ありがとう」

 ばたん、とドアを閉めて降りていく蒼。僕は早速暴れる心臓をなだめるのに精一杯だった。

 そうだよな、もう蒼とは……そういう距離感でいいんだよな。

 自分に言い聞かせながら、制服の袖に腕を通す。二回失敗した。

 鞄とコートを持ってドアを開けると、いい香りが漂ってきた。どうやら、朝ごはんも準備してくれているらしい。

 洗面台で顔を洗ってリビングに顔を出すと、二か月前と同じようにキッチンに立っている蒼がいた。制服にエプロンを着けている姿は今まで見慣れていたはずなのに、どこか可愛らしく見えてしまう。

「ありがとう、準備させて悪いな」

「いいのよ、気にしないで。冷蔵庫の中の下ごしらえまで終わってるのを適当に使っちゃったけど、いいかしら?」

「ああ、バッチリだ。まさに朝ごはんに使おうと思ってた奴」

「ならよかったわ」

 そう言って、上機嫌に準備を進めていく。

 僕のために料理も金江さんから教わったと言っていた。その事前情報があるだけで、さらに嬉しさは増してしまう。

 相変わらず口に馴染んだ味付けの朝食を食べ、歯を磨き。

「じゃ、行きましょうか」

「だな。あ、そうだ蒼」

「何かしら?」

「僕たちのこと、皆に言うか?」

「……改めて言うことでもないし、言われたらでいいんじゃないかしら」

 頬を軽く染めて、恥ずかしそうに言う蒼。やっぱり地の臆病が出てしまうのかもしれない。

 もっとも、僕も皆に大々的に言うのは恥ずかしいからそれでいいと思う。

 でも、真面目な顔に戻って蒼は続けた。

「でも、道香にはちゃんと話しておきたいわ。それはいいわよね?」

「わかった。僕も道香にはちゃんと話しておかないと、って思ってたんだ」

「そうね、あの子には……本当に、感謝しかないわ」

 てっきり僕だけかと思っていたら、蒼の方にも何か協力をしていたようだ。

 そう考えるとなおさら道香には頭が上がらない。

 本当に……出来すぎたくらいにいい子だ。

「さ、行きましょ。今日も部活が待ってるわ」

「ああ、そうだな」

 蒼が靴を履き終わったことを確認して、ドアを開ける。

 そこに広がっていたのは、一面の銀世界だ。昨晩の時点で雪が積もっていたから、ある意味当然の景色。

 そして……僕たちは二人して浮かれていたことを思い知った。

「おお、おはよう、ゆ、う……」

「どうしたの、シュウ? って……」

「おや? 蒼まで……ふーん、なるほどね?」

 そこに居たのは悠。毎朝待ち合わせしていたのだから当然いるだろう、ということをすっかり忘れていた。

 今までは僕が訳アリで蒼に来てもらうのを遠慮してもらっていたことも知っている。何なら、一番情報を知っている奴だ。

 僕たちがフリーズしていると、奴はスマホを構えて一枚写真を撮った。その数秒後、僕たちのスマホも震える。

 そのあと、スマホの通知音が止まらなくなった。あいつ、WINEに今の写真を流しやがったな?

 僕たちは顔を数瞬見合わせて、同時にため息をつく。

「はあ……まあいいわ、隠さないといけないわけじゃないし」

「まあ、それもそうだな。仕方ない」

 蒼の言う通り、隠したかったわけでもない。思わぬ形で拡散されてしまったが、こうなっては仕方ない。

「およ、雪に一発投げ込まれるくらいは覚悟してたんだが」

「それはやる」

「やるんかーい! っておいおい、その投げ方はマジな奴じゃね?」

 それはそうと、こいつには相応の報いを与えなくてはいけないと思う。写真を撮って流すのはさすがにやりすぎだ。

 ひょい、とお姫様抱っこのような形で抱き上げる。こいつ、小さくて軽いから簡単なんだよな。

「一晩分しか雪はないから、痛いと思うぞ」

「いや待て、話せばわかる、俺はただ――」

「うりゃっ」

「おあーっ!」

 一番雪が深そうなところを狙って、その体を放る。

 ぼふっ、という小気味いい音をさせて悠の体は雪に着弾した。

「……ほら、行くわよ? 馬鹿やってないで」

「ああ、行こう。悪いのは全面的にアイツだ」

「くっそ、コート着てても雪まみれだ」

 雪の中から這い出てきた悠と一緒に、いつもの通学路をいつも通り歩く。

 本当は蒼と並んで歩きたいと思ったけど、その前にやることがある。

 馬鹿をやっている間に、スマホの通知は鳴りやんでいた。

「なあ、悠」

「おう、なんだ?」

 小さく耳打ちすると、さっき投げられたのを何とも思っていないような元気な返事が返ってきた。

 ……実際、お互いに何とも思っていないからな。ただのプロレス、じゃれ合いの一環なのは僕たちが一番よく判っている。

 いや、写真を流したことだけは本当にやりすぎだと思うけど。

「……一応言葉で言っとくわ、蒼と付き合うことになった。ありがとよ、悠」

「ああ、よかったよ。おめでとう」

 小声で伝えると、満面の笑みで祝福が返ってきた。

 すっかり忘れてたけど、こいつにも伝えないといけないよな。僕たちのことをなんだかんだ心配して見守ってくれてた奴だ。

 だけど、学校に着いたらそんな気持ちは微塵も消えた。

「おはよーっす」

「自分だけ、早瀬ちゃんと幸せになろうだなんて……!」

「うおぁ!? 一ミリも怖くねえ!」

 ドアを開けた瞬間待っていたのは、まるでネットで見た寿司漫画のコラ画像のような表情で明らかにおもちゃな包丁を持った宏の姿だった。

 ってかそのおもちゃの包丁、多分幼稚園児がおままごととかで使うやつだよな? どこから持ってきたんだこいつは。

「何やってんのよ……」

 ああ、蒼も頭痛がするように額に手を当てている。その気持ちはわかる、僕も奴から殺意を向けられていなければ同じようにするか、もしくは呆れて無言で通り過ぎていただろう。

「かーなーしーみのぉー、むこおーへとぉー」

 悠も便乗してよくないBGMを歌い始めやがった。お前本当にそういうところだぞ。

 去年のクリスマスに皆で徹夜して見たアニメの最終回、その不穏なBGMを背景に僕と宏は対峙する。

 そのままゆらりと近づいてきた宏が、突然ダッシュで突っ込んできた。僕はそのままなすすべなく包丁を腹に突き立てられる。当然のように痛くない。当たり前だ。

「ううっ、ぐぅっ、あがぁっ」

「酷いよっ……!」

「ぐふっ、がはぁっ」

 そのまま奴は裏声でセリフを叫ぶ。元ネタだと女の子のセリフで結構ビビった記憶があるけど、オタクが言ってもただただ残念なだけだ。

 とりあえず乗って反応を返してやると、宏はそのまま動きを止めた。

「……で、満足したか?」

「ああ、満足した。ふう」

「ふう、じゃないんだよ」

「んじゃ、テスト進めとくな。なんかあったらメッセ飛ばすわ」

「お前の情緒どうなってんだ?」

 どうやら本当に満足したらしく、宏は手をひらひらと振ると二階へと去っていった。

 いや本当に、あいつの情緒はどうなっているんだ。友人としてだいぶ不安になるぞ。

「何だったのかしら」

「アイツのことだ、気にするだけ無駄だろ」

「それはそうね」

 悠と蒼の間でも結論は出たらしい。哀れな男だ。

 僕たちも二階へ上ろうとすると、今度は蒼の手がぱっ、と取られた。

「きゃっ」

「我らは異端審問会。早瀬蒼、貴様からは聴取が必要だ」

 今度は暗幕をかぶった四人がD会議室から出てきた。声と見た目からして首謀者が砂橋さんなのは確定だ。

 ってか、どっちの元ネタも古い作品なのによく知ってたな、星野先輩あたりが吹き込んだんだろうか。うちにはFまで会議室はないけど。

「えっ、結凪?」

「……朝から暇なのか?」

 当然蒼にもバレバレだ。背丈と声から一発で判ってしまうのは当然だろう。

 というか、隠す気があるかどうかすら怪しい。

「うるさーいっ、開発の気晴らしぐらい許してよ」

「まあ、いいけど……三十分くらいで頼むな」

「そりゃもちろん、遅れて苦しむのはアタシだしね。二階で待ってて」

「りょーかい」

「よし、連れていけ!」

「ちょっ、残りは氷湖と道香と星野先輩ねっ!? きゃっ、ちょっ、持ち上がって、あああぁーっ」

 体を抱えあげられるようにして、蒼は暗幕をかぶった四人に会議室へと連れ去られた。

 というか、悠が写真を送ってからそんなに時間は経ってないのによくみんな集まってたな。

 ドアがばたりと閉じられた会議室からは、きゃいきゃいという楽しそうな声が漏れている。

「お前の彼女、連れていかれちまったぜ? 白馬の王子様にならなくていいのか?」

「どう考えてもそっちの方が無粋だろ、マジでつるし上げられそうだ」

「確かに、それもそうだわ」

「ってか、お前のせいだからな」

「ま、皆もお前たちに何かしてあげたいんだろうよ。ワケありなのはなんとなく伝わってたし」

「……それはまあ、なんとなく伝わったけど。特に宏のアレは何だったんだ」

 確かあの元ネタは、何股か掛けてた主人公がヒロインの一人に殺られるシーンだったはずだ。明らかに祝福はしていない。

「あれは、単純に発作じゃないか? チョイスが最悪なのは悪意だろ」

「最悪じゃねえか」

……とまあ、手荒い祝福を皆から受け。

「うぅ……何なのよ本当に」

「お帰り蒼、お疲れ様」

 蒼の方も、ジャスト三十分くらいで部室に帰ってきた。その表情は早速疲労の色が濃い。

後で労ってあげよう。

「ふぅー。さ、テストの続きしよーっと」

「あ、昨日の時点で判ってたシリコンバグのリストってあったっけ?」

「ありますよっ、共有フォルダのチェックリスト、二つ目のタブです」

「ありがと道香ちゃん、こっちはもう修正に入っちゃうね」

 一方の三人は、つやつやした顔で戻ってきて既に今日の互いのやることの話を進めている。

 プロマネとしてはありがたいことではあるけど、こちらもこちらで情緒がどうなってるんだ。

「狼谷さんは?」

「お兄ちゃんおはよ、HKMGのプロセスの試作をもうちょっとやる、って言ってファブに入ったよ」

「ありがとう、了解。道香は引き続きテストの方頼むな」

「任せてっ」

 狼谷さんの所在を確認すると、道香が笑顔で応えてくれた。その笑顔は辛そうなあの笑顔ではなく、心からの笑顔に見える。

 それから、とたたっ、と僕のところに駆け寄ると、耳打ちをしてきた。

「お兄ちゃん、おめでとう。蒼先輩とお幸せにね」

「ああ……本当にありがとう、道香」

「ふふっ、ほんとによかった」

 それだけ言って、道香は再び駆け出すとラボの中に消えていく。

 きっと、蒼は上手いこと道香と話せたのだろう。その表情は、本当に晴れやかなものだった。

 結局のところ、ここからの日常はどこまでもいつも通り。

 夕方には予定を巻いてテストが終わり、良いところも悪いところもたくさん見えてきた。

 いったんみんなをA会議室に集めて、情報共有のための開発会議を開く。

「論理設計チームはどんな状況?」

「うーん、やっぱり性能は伸びなかったねえ」

「クロックがクロックですし、仕方ないと思います。それにしても微妙ですが」

 蒼と星野先輩が早速ぼやいた通り、今回の試作チップの性能はお世辞にもよくはなかった。

 今まで通りのプログラムで測って、だいたい50GFLOPSほど。

 動かすクロックが1.5GHzと前回のMelon Hillと比べて半分以下で二倍以上の性能が出ているのは驚きだけど、コア数が二倍になっているのである意味当然。

 目標にはこの数字を四倍にしないといけないというハードルで失神しそうだ。

「どこがまずいかは杉島くんたちの調査待ち、かなあ」

「まず言えるのはメモリだな、帯域幅が本当に足りてない」

「それはまあ、次のステッピング以降だな。メモコンが入れば状況は変わるだろ」

「詳しくはすまんがもう少し待ってくれ。年末までには一次報告するわ」

 ソフトの性能が出ない、というのは色々な問題が絡み合う。

 悠の作るコンパイラがCPUを使いこなせず足を引っ張ってしまうこともあれば、逆にCPUのコア側のどこかの処理性能が足りずに全体の性能が出ない、なんてこともある。

 だから、悠と宏のソフトチームはそこの解析を血眼になってやっていた。

 もしコア側の設計に問題があったとすると、その結果を反映するのは三度目の試作であるCステッピングになりそうだ。

「ですね。その間に私たちは次のBステッピングの準備を終わらせちゃいましょう、星野先輩の方はどうですか?」

「まず、SMT4は実装が終わってチェックもできてるよ」

「おおっ、出来たんですね。どうなることやら、ですが」

「一応効くアプリなら二、三十パーセントは上がると思うな。効かないアプリだと逆に遅くなるけど」

「そこは前日試走で確認ですね」

 念のため、大会運営から届いているメールを開いて再確認。うん、間違いなく二十四日にテストが出来ると書かれている。

 今回は、ありがたいことに前日に試走の時間が取られていた。到着した翌日が設営日で、設営が終わり次第実際に走らせるアプリを使ってテストが出来ることになっている。

 実際に走らせるアプリごとの最終調整は、その日になんとか出来るだろう。

「それがいいと思うな。デコーダーの方はちょっとマシになりそう、余計なものがいくつか入ってたからレイテンシは二桁クロックは減らした実装ができたよ。キャッシュコントローラーは改善の余地があることはわかったけど、今日は間に合わなかったなあ」

「締め切りは来週月曜ですが、何とかなりそうですか?」

「難しいかな……頑張ってはみるけど」

「わかりました、回路さえおかしくなければCステップで実装しても問題はないと思うので確実に行きましょう。今回見つかったシリコンバグの修正優先で」

「わかった、ちょっと頑張ってみるねー」

「私が見てたところだと、マイクロOPキャッシュの実装が間に合わないわ。L0キャッシュは出来たから、それはBステップで入れるわね」

「やっぱりそっちは難しかったか」

「ええ、メモリーコントローラーとの接続にも思ったよりも時間かかっちゃったのがまずかったわね」

「相手がIPだしな、仕方ないだろ」

「メモコンのサポート無し実装は人間じゃ無理だって」

「だな。まあ、もともとダメ元みたいな感じだったし気にしなくていいと思うぞ」

 IPの難しい点として、自分で作る側の動作に応じてIPの挙動を変えられないことにある。

 JCRAから提供されるソフトIPは一応人間も読める書式で書かれているから、星野先輩がデコーダーに手を入れているように相当詳しければ不可能ではない。

 だけど、砂橋さんが言っている通り変更を加えた後は当然JCRAに助けを求めることは不可能。基本的にはありものをそのまま使うことを想定しているからだ。

 というわけで、ハイリスクなうえにリターンはあまり大きくないからあまり好まれる手法ではない。初めて使うIPなのだからなおさらだ。

「逆にこれで手が空くから、Cステップには入れられると思うわ。論文とか読んで勉強はしてたから」

「了解、じゃあとりあえず論理設計は月曜に向けて順調ではあるんだな」

「ええ。形になったものは出来ると思うわ、今回判った問題もある程度つぶせると思うし」

「物理設計の方は?」

「メモコンは六日にシャトルを出してあるから、来週には実際のシリコンでチェックできるはず。物理設計の方もどう変わるかは聞いてたから、準備はできてるよ」

「おお、余裕がありそうだな」

「今はね、使うIPの大体は今回の試作で実装できたし。いきなり64キロバイトのSRAM増やすから、って言われたときは殺意が沸いたけど」

「ちゃんと何とかしてくれたんだから、さすがだわ」

「フロアプランから手を入れなきゃで結構大変だったんだからね」

 砂橋さんはきっと追加されたL0命令キャッシュのことを言っているのだろう。

 64キロバイトということは、トランジスタの数に直せば三百万個以上になる。それだけの設計変更が出たなら、確かに文句を言うのも頷けた。

「ともかく、状況としては悪くない感じってことで」

「わかった。道香は大丈夫だよな?」

「うんっ、ボードの設計は大体終わったよ。今『伝送特性』の最終確認中」

「まあ今使ってるボードも道香の設計だし、大丈夫でしょ」

「インターポーザーも使わなくなるし、サブストレートは前回と設計同じでいいように砂橋先輩と頑張るよっ」

「いつ頃発注に回せそう?」

「来週半ばには確実に『ガーバーアウト』すると思う」

「よし。ソフト組は?」

「うーん、いまいち。性能が出ないのは悠のコンパイラが腐ってるとこが多そうだってことは見えてきたから手直し中」

「腐ってるのは事実だけど、お前に言われると釈然としないな」

「BIOSの方も、設定項目決め打ちでコードに入れちゃってるところが多いからもっと色々と変えられるようにする予定だ」

「それは助かるわ」

「ってわけで、まあぼちぼち頑張ってるよ」

「了解。最後に狼谷さん、シリコンは?」

「今はIPシャトルを製造中。出来たものから試してるけど、やっぱり良品率は今回のSADPだけのものと同じくらいになる見込み」

「特に動かないとか、変な挙動をするとかはなかった?」

「今のところない。引き続き確認を進める」

「それなら十分だな。引き続き頑張ろう、時間ありがとう」

 パソコンのカレンダーを見ると、残りは三か月と二週間。

 思ったよりも時間があるようで、思ったよりも時間がない。

 少しの焦りを感じる自分と焦っても仕方ないと思う冷静な自分の戦いに蓋をして、僕も会議室の椅子を立った。

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