0x08 デート
十二月の八日、日曜日の朝九時。
明日から後期の中間試験だというのに、僕は会津若松の駅前に立っていた。
天気はどん曇りだけど、逆に雲があるお陰でそこまで寒くもない。
なぜこんなところに立っているかと言えば、話は四日前に遡る。
あの夜にメッセージを送った翌日の朝、スマホのアラームを止めたその手でWINEを確認すると、道香からの返事はなかった。
「返事はない、か」
そう思ってベッドを出ようとした瞬間、ぴんぽーん、と玄関のチャイムが間抜けな音を立てた。
「なんだぁ?」
寝間着から着替えることもせずに、インターホンの画面すらも見ないでそのまま玄関へと走る。蒼だろうか、こんな早い時間にどうしたんだろう?
「はーい、どちら様――」
「お兄ちゃん、おはようっ」
「おわっ、道香!?」
だけど、そこに立っていたのは道香だった。
そんな道香はいたずらっぽく笑って、僕にしっかりと目を合わせてくる。
「寝巻のお兄ちゃんも新鮮だねっ」
「いやまあ、そりゃそうだろうけどさ。どうしたんだよ、こんな時間に?」
「ちょっとお話ししたくて。この時間なら蒼先輩も居ないでしょ?」
「いや、確かに最近は居ないけどさ」
「じゃあいいよね。お邪魔しまーす」
「はあ……まあいいや、リビングで待っててよ。着替えて朝の支度をしてきちゃうから」
「わかったーっ」
フローリングから響く、蒼のものともまた違う軽い足音。
小さくため息をついてから、僕は朝の支度を再開することにした。
着替えをして、顔を洗って、体育の授業で使うジャージを鞄に叩き込んで。
荷物を持ってリビングに向かうと、道香はテレビを点けてくつろいでいた。ここまでくつろがれてしまうと、逆にいろいろ言う気が失せてしまう。
「道香、朝ごはんは食べてきたの?」
「ううん、朝はあんまり食べないんだ」
「そうなのか? 今から作るけど、食べる?」
「お兄ちゃんの手料理なら、もちろんっ」
「わかった」
今更一人分も二人分も変わらない。むしろ、蒼が来てくれていた時を思い出しながら二人分の朝食を作っていく。今日は……残りの材料的に和食にしようか。
仕込みだけは済ませてあるから、五分もすれば湯気の立つ朝食が出来た。
「出来たよ、多いとか足りないとか言ってね」
「わっ、こんなに本格的なのを食べてるの?」
「そうかな、わりと普通だと思うんだけど」
「いやいや、これはもうプロの技だよ」
「持ち上げすぎて逆に怪しいって」
「ほんとにそう思ってるんだけどなあ」
手を合わせてから、道香と二人で食事を取る。相変わらず美味しそうにご飯を食べるなあ。
狼谷さんほどじゃないけど、道香も女の子にしてはよく食べる方だ。
「ふう、美味しかった……じゃないよっ!」
「いきなりどうしたんだよ」
「わたしはここにご飯を食べに来たわけじゃないのっ」
「あれ、違うのか?」
「ちがーうっ! お話をしに来たって言ったよねっ」
「確かに、そういえば」
朝のばたばたと朝食ですっかり忘れていた。そういえば、玄関でそんなことも言ってた気がする。
可愛らしくふくれた道香は、そのままむすーっとしながら話し始めた。
「昨日の夜のメッセージ、見たよ。話があるって言ってたけど……」
「そうなんだ。実は」
「待ってっ」
僕が続けようとした言葉を、道香は鋭く制止した。
もちろん最後までこの場で言うつもりはなかったんだけど。
「ね、来週末、って言ったよね?」
「あ、ああ」
「じゃあさ、日曜日とか……空いてるかな、お兄ちゃん?」
「残念なことに、僕の日曜は概ねいつでも暇だよ」
そう茶化すと、道香は――ほんの少しだけ、寂しそうな表情をしたように見えた。
「そっか、今はそうなんだよね」
道香の小さなつぶやきの後、数秒の沈黙が流れる。
お互いに何て言うべきか探りあっているような静寂。それを破ったのも、また道香だった。
「日曜日だけど、朝九時に若松の駅前に集合。いいかな?」
「ああ、道香がいいなら僕は大丈夫」
「よーし、決まりだねっ」
ようやく満足そうに立ち上がった道香は、そのまま荷物を手に取った。
「あれ、もう行くのか? 一緒に行けばいいのに」
「ううん、蒼先輩も来るんでしょ? 変に誤解されちゃっても嫌だからね」
「あっ、おい!」
「じゃ、後でねっ」
そう言って家を飛び出していった道香。追いかけようとしたときにはもう、玄関のドアが閉まる重い音が聞こえてきていた。
「……何だったんだ」
ぽつんとリビングに取り残された僕は、ただ立ちつくすことしか出来ない。
道香が何のつもりだったのかは、当日わかるのだろうか。
そう思って今日の日を迎えたんだけど。
「来ないな」
言われていた九時になろうとしているけど、まだ道香の姿は見えない。
……と思っていると、正面の信号に見慣れた姿が駆け込んできた。信号が青になった瞬間猛然と走ってきた道香は、そのまま飛びついてきた。
「お待たせーっ、お兄ちゃーん」
「よかった、時間通りだな」
「ごめんねっ、ぎりぎりになっちゃって……」
「それにしても……今日はおめかししてきたんだな」
ちゃんと立ち上がった道香を改めて見る。今まで見てきた私服とはまた違う……なんというか、落ち着いた服だ。薄いけどメイクも施されていて、普段よりも幾分か大人びて見える。
もっとも飛びついて来ちゃうあたり、行動はいつも通りだったけど。
でも、僕のコメントはご不満だったらしい。
「ちっちっちーっ、そんなんじゃダメだよお兄ちゃん」
もう、とふくれて見せる道香。それから、胸を張ってこう言った。
「何しろ、今日はデートなんだから」
「おお……言われてみれば、休日に一緒に出かけるんだから世間からすればデートか」
「そうだよっ」
確かに世間一般から見たら間違いなくデートだ。言ってくれれば準備したのにとは思ったけど、そういう意識はすっかりと抜け落ちていた。
今日伝えないといけないことを考えると気が滅入ってしまうけど……表情に出しちゃいけないと、道香の楽しそうな表情を見ていると思った。
「ごめんな、何も考えてなかったよ」
「だとは思った。だからね、今日はわたしがちゃーんとデートプランを考えてきたの」
「準備万端じゃん、今日は甘えちゃう形になるな」
「ふふんっ、成長したところを見せちゃうんだから。……ふあぁ」
「かわいいあくびだな、寝不足か?」
「う、ううんっ、そんなことないもんっ」
可愛らしく首を振った道香は、それからスマホを開いた。どうやらメモを取っていたらしい。
「えーっとね、九時半の快速に乗るよ」
「ってことは、郡山に出るのか」
「うんっ、定番でしょ?」
「確かに、遊ぶようなところも街中にあんまりないからなあ」
会津若松には、観光名所を除いてしまえば大して遊べるようなところもない。こういう時の定番は郡山に出ちゃうことなんだけど、今日はそれを踏襲するみたいだ。
「というわけで、早速行こっ」
「わかった、わかったからそんなに引っ張るなってっ」
言われた通り安い往復切符を買って改札を通ると、もはや出かける定番になりつつある電車に乗り込む。
「ここ取っちゃおっ、そんなに混んでないみたいだしっ」
そのまま道香はボックスシートに座る。その向かい側に座ると、道香に腕を引っ張られた。
「違うよっ、デートなんだからこっちに座らないと」
そう言って引っ張られるままに座らされたのは、道香の隣。電車の椅子はそんなに広くないから、嫌でも距離は近くなる。
「えへへっ、楽しみだなっ」
「僕も楽しみになってきたな。なんだかんだで、郡山に遊びに出るのは久しぶりだ」
真横で幸せそうな、それでいて楽しそうな笑顔を見せる道香。そんな表情を見ていると、僕まで楽しみになってくる。
それからスマホのメモを見ていた道香。一体何をするんだろう?
「だーめっ、これは内緒なの」
「そ、そうか。ごめん」
気になって覗き込もうとしたら、すぐにバレて怒られてしまった。今日は僕には全部シークレットらしい。
「えーっと、電車の中では……くぁ」
小声で何かをつぶやきながら、スマホを見ている。どうやら何を話すかまで考えてあるみたいだ。
ちょうど発車メロディーが賑やかに鳴り、列車のドアが閉まる。電車が動き始めると同時に、こてり、と柔らかな重みが肩に乗ってきた。
「道香?」
道香の方を見ると、どうやら寝落ちてしまったらしくスマホを握ったまま僕の肩に頭を預けている。きっと昨日の夜は色々準備して夜が遅かったのだろう。今日の朝の感じだと、寝付けずに朝方まで起きてたりしたのかもしれない。
画面を見ないようにそっとスマホの画面を切ると、そのまま寝かせてあげることにした。穏やかな寝顔を見ていると、僕まで少し笑顔になる。
同時に、胸の奥が痛む。こんなに僕に心を許してくれている子を、僕は振らないといけないのだ。
……とりあえず今日は楽しもう。それが、道香のためにもなるだろうから。
そんな僕の気持ちはつゆ知らず、というように電車はどんどん進んでいく。
僕たちが乗っている快速電車は、一時間もせずに郡山に着く。
標高が若松よりも少し高い猪苗代の雪景色を抜けてしまえば、あっという間に景色は街中に差し掛かった。
乗っている人も多くなってきて、僕たちの前にも別の人が座っているほどだ。
「道香、起きて。もうすぐ郡山に着いちゃうよ」
「……ふぇ」
「おはよう道香、ちょっとは寝れた?」
「お兄ちゃん……? っ、もう郡山!?」
「あと数分だね」
「ああぁ……ごめんね、一人だけぐっすり寝ちゃって」
見てわかるくらいにがっかりする道香。
本当は色々考えていたのかもしれないけど、道香が寝不足で十分に楽しめなければ意味がない。ちょっとでも休めたみたいで安心した。
「いいんだよ、寝不足みたいだったし。楽しめるようにしなきゃもったいないよね、せっかくのデートなんだし」
「……うんっ、そうだね。ありがと、お兄ちゃん」
電車はゆっくりと速度を落とし、ホームへと静かに滑り込んだ。
ドアが開くと、今まで何度も使った新幹線の乗換改札ではなく地上の出口に向かう。
切符を改札機へと滑らせると、思ったよりも広い駅の中に出た。行きかう人の数は当然会津若松の何倍も多くて、商都という定評の通りの景色が広がっている。
「結構都会なんだねっ」
「道香は遊びに来るのは初めて?」
「そうそう、今までは若松から出る用事もなかったし。一人で遊びに来るのはちょっと怖くて」
「わかるよ、部活も忙しかったしなあ」
「そういう意味では、製造待ちの今日はいいタイミングだよねっ」
「テスト直前であることさえ考えなければね」
「あはは、お兄ちゃんいっつもギリギリの常習犯だったもんね」
「今回は、というか前期末当たりからまともに授業は聞くようになったから、多分大丈夫だと思うよ」
「じゃあ、早速行こっ」
「最初は何をするんだ?」
「えーっとね……」
そう言ってスマホのメモを再確認する道香。すぐにお目当ての場所を見つけたのか、地図アプリを開いたのがちらりと見えた。
「よしっ、行こっお兄ちゃん」
「着くまで内緒、ってことなんだな」
「そうそう」
機嫌を戻した道香と駅の外に出ると、空は若松と同じどんよりとした曇り空。同じ県なだけあって気温はそこまで変わらないけど、風が少し弱いだけ寒さはマシだ。
道香のナビに従って歩くこと二、三分ほど。僕たちがたどり着いたのは、街中の映画館だった。
「まずは映画か」
「そっ、昨日から面白い映画が始まったって教えてもらったの」
だが、その周りには人混みが。
「なんか、すごい混んでるね」
「もっ、もしかして……通してくださーい!」
道香と一緒に人混みをかきわけて、何とか窓口の近くまでたどり着く。
そこに表示されていたのは、バツの文字。
「まっ、満席……うそぉ……」
「結構な話題作だったんだな、公開二日目でもこんなに埋まっちゃうんだ」
テレビもBGM代わりに流してるだけだからちゃんと見てなかったけど、こんなに人気な作品がやってたんだな。
明らかにしゅーん、としてしまう道香。そんな道香は見たくなくて、映画館の時刻表に目をやる。上映時間が一番近いのは、と探してみると。
「おあ、これかあ……」
目に入ったのは、とある映画。明らかにデート向けではない、わりとバイオレントなアクション映画だった。
インターネットで吹き替え版がかなりカルトな人気を誇っていて、僕もネットに上がっているのを一部だけなら見たことがある。
「いや、でもなあ……」
「何か知ってるものがあったの、お兄ちゃん?」
「あるにはあったんだけどなぁ、あんまりお勧めできないというか」
「知ってるんだ、見たことあるの?」
「いや、全部は見たことないよ。一部だけならって感じ」
「ふーん? じゃあ、それにしよっ」
「いいのか? 何というかアクションもので、デート向きじゃないんだけど」
「いいの、お兄ちゃんが見てみたいなら一緒に見るよ」
そう言ってカウンターに引っ張っていく道香の手に引きずられるまま、その映画のチケットを二枚買ってしまった。
本当によかったのかと思う間は上映時間の都合取れず、僕たちは急いでジュースだけ買って劇場に入った。
人の入りは大したことがない。リマスターで元の映画は古い上、公開からもちょっと経っているからだろう。
空席の方がはるかに多い劇場に座ると、道香は楽しそうな声を上げた。
「わあっ、ふかふかっ」
「映画館特有の雰囲気ってあるよな」
僕もスクリーンの前に座ると、嫌が応にも楽しみになってくる。
しばらくすると照明は落ち、予告編が終われば本編だ。
案の定、流れるのはわりかしバイオレントな映像と、男どもの筋肉が躍動する姿。話自体もハリウッドとかの上等なものに比べればシンプルだ。
僕は面白いけど、道香は面白いかな……。そう思って隣をちらりと覗き見る。
でも僕は、道香がアメリカ帰りなのを忘れていた。
その目はきらきらと、スクリーンに映る映像を楽しんでいるようだ。
「面白、かった……」
「ああ、僕もこんなに面白いとは思わなかった……」
「あの無意味なまでの爆発の火力が、いい」
「だな……銃を片手に歩きながら、後ろの建物が全部爆発するシーンとか」
「主人公の俳優さんのパワーを見せつけるためだけみたいなシーンも、よかった……」
映画が終わって映画館を出た時には、道香はびっくりしたように呆けていた。アメリカナイズされた感性がいい感じに働いてくれたらしい。
「結局は愛娘一人を取り戻すためだけってのもいいよな」
「そうそう、家族愛だよね。ちょっと行き過ぎてるきらいはあるけど」
「楽しんでもらえたようで僕もよかったよ」
「うん、すごい楽しかった。お兄ちゃんにまた甘えちゃったなあ」
「気にしないでよ、むしろ付き合わせちゃった側なんだから」
そこまで言ったところで、僕のお腹が小さく鳴った。スマホの時計を点けてみれば、もう十二時半になろうとしている。
「そろそろお腹すいたよねっ、今度こそわたしが頑張っちゃうよ」
「なんだか恥ずかしいな……」
「ううん、わたしもお腹空いてきちゃってたし。ささ、れっつごー!」
いつの間にかスマホの地図アプリを起こしていた道香に再び手を引かれ、郡山の街中を歩いていく。
だけど、うまくいかない日は何をやってもうまくいかないものらしい。
「えっ、臨時休業……」
「こんなこともあるんだなあ」
道香が足を止めたおしゃれな洋食屋さんのドアには、臨時休業の札が掛かっていた。
おしゃれな店構えから、結構良い雰囲気のお店を探してくれていたのであろうことはすぐにわかった。
「定休日じゃないことは調べてきたのに……昨日は開いてたのにっ……」
「仕方ないな、お店の人にも何かあったんだろ」
「うーっ、わかるんだけどっ、家族経営のちっちゃいお店だってのもわかってたんだけどっ」
思わず涙ぐみそうになっている道香に、僕は慌てて知識を総動員する。
確か……こういういい感じのお店かどうかはわからないけど、近くの百貨店の上の方にはレストラン街があったはずだ。
おぼろげながら母さんがまだ元気だったころ、郡山に買い出しに来た時に寄った記憶がある。
「確か百貨店の中にレストラン街があったよな、格は落ちちゃうけどそこでどう?」
「ありがと、お兄ちゃん……そうする」
今度は逆にとぼとぼと歩く道香の手を引きながら、百貨店に入る。エレベーターで十階まで上がると、そこにはおぼろげな記憶の通りのレストラン街が広がっていた。
一応案内板でレストラン街があるのは確認してはいたけど、ちゃんと思った通りのものがあってひそかに胸を撫でおろす。
東京のものには敵わないけどお店も一応いくつかあるし、思ったよりも賑わいを見せている。二重の意味で安心した。
道香と店を見て回って、入ったのはイタリアンと洋食屋を足して二で割ったようなお店。
ゆったりとしたソファーに座ると、道香はしゅんとしたままメニューを渡してくれた。
「道香は何にする?」
「私は……ランチセットでいいかな。パスタの」
「そっか、僕はじゃあピザにしようかなあ。すみませーん」
オーダーを通しても、道香は元気のないまま。それはそうだろう、今日準備してきてくれていたプランはここまでうまくいっていないのだろうから。
でも、僕は道香がそんな顔をしている方が寂しかった。
「ほら、そんな顔してたらこっちも寂しくなっちゃうよ。元気出して、って僕が言うのも変かもしれないけど」
「……そうだよね、お兄ちゃんに気まで使わせちゃダメだよねっ」
そう言って自分のほほを両手で軽く叩くと、いつもの笑顔が戻った。
「せっかくのデートだもん。ちょっとくらい失敗したって、へこたれてたらもったいないっ」
「よかった、やっぱり道香は笑顔の方が似合うな」
「ふえっ……?」
「いや、何でもない。忘れてくれ」
安心したからだろうか、口からするりと恥ずかしい言葉が出てしまった。沈黙の中、二人で頬を染めていると料理が運ばれてきた。
「さ、ご飯にしようぜ。午後も色々考えてたんだろ?」
「うんっ」
元気に返事をしてくれる道香の笑顔はとてもまぶしくて、同時に胸のどこかがもう一度ちくりと痛んだ。
食事を終えてからは、次のプランまで時間があるらしい。だから、時間調整も兼ねて僕たちは百貨店の中でウインドウショッピングを楽しむことにした。
お店に入っては、色々な服に着替えていく道香。服によって雰囲気を色々と変える道香を見ていると、不思議と退屈はしなかった。
「お兄ちゃん、こんなのはどう?」
「おお、よく似合ってるな。道香は華やかな感じの服も似合うんだなあ」
「えへへっ、そうでしょ?」
そう言って楽しそうに笑う道香。今までは失敗続きでがっかりしてばっかりだったから、いい思い出にしてあげたいな。そう思って出来ることを考えた結果、僕は道香に声をかけた。
「どれか気に入った奴を一着選んでよ、それくらいなら買ってあげる」
「ええっ、いいの!?」
「ああ、今まではあんまりお金を使うあてもなかったからな。心配しないで」
「あんなに柳洞先輩とか杉島先輩とかとガチャ回してるのに?」
「死ぬほど課金してガチャを回しているのはアイツらだけだよ、一緒にしないで欲しいかなあ」
「うーん、じゃあ……」
そう言って悩み始める道香。たっぷり十分ほど悩んだ末、最後に選んだのは何着か前に試着していた白と緑のワンピースだった。
「これ、かなあ」
「さっきの明るい色のじゃなくていいのか?」
「うん、いいの。あんまり明るい服も、若松の街だと浮いちゃいそうだし」
「あー、わからなくもないけど……わかった、ちょっと待っててくれ」
道香が選んだ服は幸いそこまで高くはなく、どこに行ってもいいようにと多めに下ろしていた財布の中身で十分足りた。正直足りなかったらどうしようと背中に汗をかいていたのは道香には言えない。
「お待たせ」
「ありがとうお兄ちゃんっ、大切にする……」
そう言って見せた道香の笑顔は、言葉とは裏腹にどこか寂しく、切なげなもの。でも、一瞬でいつもの笑顔に戻った。
……もしかしたら、道香も今日僕が伝えなきゃいけないことをわかっているのかもしれない。
「時間はどう?」
「うん、いい感じ。むしろぎりぎりだとまたチケット取れないかもしれないし。行こっか」
「ああ、そうしよう」
いつしか自然に道香は僕の手を取っていた。その小さくてやわらかな手に引かれるまま、僕は歩みを進める。
だけど、十分ほど歩いて戻ってきたのは駅前。
「あれ、もう帰るのか?」
「ううん、違うよっ」
道香はそれだけ言って、さらに足を進める。そのまま駅の前を横切ると、駅前の大きなビルの中に入った。
エレベーターに乗ると、道香は迷いなく二十二階と書かれたボタンを押す。
「二十二階なのか?」
「そっ、一回行ってみたかったんだよね」
「スペースパーク……?」
「正解っ。あ、もう着いたよ」
エレベーターのドアが開くと、そこにあったのは大きな球体。でも、道香はそれに目もくれずに券売機へと走った。
「よかったあーっ、まだ残ってた」
そういうと、僕がお財布を出す間もなく二枚のチケットを買ってしまった。
「はい、お兄ちゃん」
「星空劇場?」
「そっ。ここにはね、福島で一番のプラネタリウムがあるんだよっ」
「知らなかった、それがこの球体ってわけか」
「そういうこと。楽しみーっ」
チケットに書いてあった時間は三時半、今の時間は三時十五分。開場は十分前と書いてあるから、本当にちょうどいい時間だったようだ。
「あと五分で開場みたいだし、ちょっと早めに行こうか」
「うんっ」
曇りガラスの階段を上り、プラネタリウムの入口へと向かう。時間通りに入場は始まって、僕たちはあまり待つこともなく大きな球体の中に入ることができた。
「おおっ、本当に大きいな」
「話には聞いてたけど、すごいねお兄ちゃん」
白い半円形のドームの下に赤い座席がたくさん並んでいる光景は、なかなか非日常感があってそれだけでテンションが上がる。
ゆったりとした座席に座ると、あっという間に上映開始の時間を迎えた。照明が落ち、暗くなると同時に一つの星が輝く。
「これが、今日の日の入りの時間です。東の空には丸い月が、南西の空で明るく輝いているのは宵の明星こと金星です。その近くには、少し暗いですが土星が見えます」
さらに時間は進められて空は真っ暗になり、まるでタイムマシンのように星々は動いていく。多分郡山よりは若松の方が星が見えると思うんだけど、こうやって眺める機会はなかったな。
「これが、今日の二十時の星空です。東の空にはベテルギウスとリゲルが、西の空にはデネブ、ベガ、アルタイルが見えますね。西の空の明るい星を三つ結んだものは、冬の大三角とも呼ばれます」
まるで自分が地球上にいないような、ありえないような浮遊感に包まれた気がする。ちらりと隣を見ると、道香もその満天の星空に目を奪われているようだった。
「これでもまだ明るくて、全ての星は見えません。これから、皆さんを理想の星空へとお連れします」
アナウンスとともに、さらに空は暗さを増す。今が真っ暗だと思っていたけど、さらに暗くすることもできたらしい。
「おぉ……」
「わあっ……」
そして、その光景に僕たちは目を奪われた。スクリーンには、数えきれないほどの星々がキラキラと映し出されている。
周りがまぶしくて見えなかったけれど、僕たちの頭上にはこれだけの星々が輝いているのだ。その事実は、一歩踏み出したことで皆の、そして過去の技術者たちのきらめきを学んだ春からの半年強を僕に想起させた。
今は、僕も……あの星々のような明るさは無くても、せめてその惑星くらいの存在にはなれているだろうか。
非現実的な光景にうっとりと目を奪われている間に星座の解説はどんどん進み、そして特別公開をしているのだという宇宙探査機の映像へと移る。
興味深い話を聞いていると時間はあっという間で、気付けばドームは明るくなっていた。
「すごかったな……」
「ねっ、私も思った以上だった」
「宇宙探査機の話もすごいよな、あんな遠いところから正確に地球へとものを持って帰ってこれるんだから」
「多分、星野先輩がそのあたりは詳しいと思うよ」
「そうなのか? なんか意外だけど」
思わぬ先輩の名前が出てきて驚いた。星野先輩、コンピュータだけじゃなくってそういうのにも興味があるんだな。
「うんっ、前に聞いたんだ。将来はああいう宇宙探査機とかに使うプロセッサも作ってみたいんだって」
「星野先輩だけにか」
「自分でもそう言ってたよ、この苗字で宇宙に関わらないのは嘘だよ、って」
「あはは、言ってそうだ」
二人で顔を見合わせて笑ってから、荷物を手にドームを後にする。
でも、出てすぐに僕たちは足を止めた。
「わあっ……」
「綺麗だなあ」
外に出ると、雲の向こうの太陽は今日の分の仕事を終えたらしく空は暗くなっている。
雲があるから、空に輝く星々を見ることは出来ない。
でも、その代わり。眼下には、街明かりがきらびやかに灯っていた。
「ふふっ、台北と比べちゃうと全然だね」
「それは相手が悪すぎるな、向こうは文句なしの大都市なわけだし。郡山じゃ勝負にならないよ」
「でも……どっちも、綺麗だよね」
「ああ」
思い出されるのは、二か月前になろうとしている道香の告白。
台北の展望台からの景色は、いまだに脳裏に焼き付いて離れない。
だから、話すなら今だと思った。
「なあ、道香――」
「ごめんね、お兄ちゃん。もう少しだけ……このデートが終わって、若松の駅に着くまで、待ってもらってもいいかな」
でも、言葉を紡ごうとした僕を道香は制止した。
残酷なことを僕は告げなくてはいけない。その罪滅ぼしに過ぎないという気持ちと、道香の言うことなら大体聞いてあげたいという兄心が喧嘩をしている。
どちらにせよ、僕がお願いを聞かない理由は無かった。
「わかった」
「ん、もうちょっとだけ……こうしていさせて」
そのまま、二人で並んで夜景を眺める。僕たちの間には、もう言葉はない。
完全に明かりが空から消えて、光と闇のコントラストが最高潮に達したころ。
「……ん、これで今日のデートはおしまいかな。遅くならないうちに帰ろっか」
「もう終わりでいいのか?」
「うん、結局お兄ちゃんを一日連れまわしちゃったしね。もうわたしには十分すぎるくらいだよ」
そう言って笑う道香は、やっぱりどこか寂しげで。
だけど僕は、改めて実感した残酷な決心が邪魔をして何の言葉も掛けることができなかった。
二人で来た時と同じように電車に乗る。隣に並んでなんてことない雑談を交わしている間に乗客はどんどん減っていき、会津若松の駅に戻るころには僕たちを入れても両手で足りるくらいの人しか電車には乗っていなかった。
「ご乗車ありがとうございました、会津若松、会津若松です」
駅員さんの放送を聞きながら電車を降りると、冷たい風が寒さを一層感じさせる。
ついに戻ってきてしまった。
「うーん、ここでいいかな」
改札を出ると、道香が向かったのは駅前にある小さな公園。
駅は街の中心部から離れているから、この時間になるとほぼ人も通らない。
道香はくるりと振り向くと、申し訳なさそうに笑った。
「まずは、今日のこと。いろいろとごめんね、自分で言ったことなのに、全然上手に出来なくて」
「僕は楽しかったよ、気にしないで。道香も楽しかったか?」
「うん……忘れられない思い出になるくらいに、楽しかった」
「そっ、か。ならよかったよ」
あの寂しそうな笑顔を再び見せる道香。僕はまた、何も言えなくなってしまう。
その沈黙の帳を破ったのも、また道香だった。
「やっぱりここに来ると、懐かしくなっちゃう」
そう。ここは、僕たち二人の思い出の場所でもある。
「……道香たちが旅立つのを見送ったのも、ここだったもんな」
取り戻した記憶のおかげではっきりとイメージが沸いた。六年半前、道香たちを見送ったのもここだ。
「お兄ちゃんは、ここで待っててくれたんだよね」
「ああ、あの時に指切りしたからな」
本当は、この街を離れることも考えられない状況にいただけ。だけど、それは結果的に道香との約束を守ることになった。
そう考えれば、この寒さも、山から吹き下ろす冷たい風さえも好きになれるような気がした。
「お兄ちゃん、本当に……答えを出してくれたんだ」
「おぼろげに消し去ってた道香との思い出も、楽しい思い出も、悲しい思い出も……全部はっきりと取り戻したんだ」
「そう、なんだ」
「遅くなって、ごめん」
「ううん、いいの。……わたしこそごめんね、お兄ちゃんにつらい思いをさせちゃって」
「いいんだ。こうでもしないと、過去の全てと向き合うことはできなかっただろうから」
口にしたのは、正直な思い。
あの道香の告白が無ければ、きっと僕は過去とまっすぐ向き合って……あの罪悪感の根源まで辿ることはできなかっただろうから。
道香はふふっ、と笑う。その表情は、どこか思いつめたような、寂しいような……告白の時に見せてくれたものと同じだった。
僕より一回り小さなその体に力が入ったのがわかる。
一度だけぎゅっ、と目を閉じて。あの時と同じように、まっすぐな言葉を口にした。
「もう一回だけ、言わせてください。弘治先輩、好きですっ。私は一人の男の人として、弘治先輩のことが好き」
頬を染めながら、どこか懇願するようにして言葉を紡ぐ。その姿を見ているだけで、胸がどこまでも痛くなった。
「だから……お願い、わたしと付き合ってくださいっ」
頭を下げる道香。どんな気持ちでこれを伝えようとしているのか痛いほどに伝わってくる、そのまっすぐな姿。
だからこそ、僕もまっすぐに向かい合わないといけなかった。
「……ごめん。僕は、道香の想いには応えられない」
できるだけまっすぐに、言葉を選びながら。
まるでこの寒空に言葉を溶かしていくかのように。
「過去を全部取り戻して、向き合うきっかけをくれたのは道香なのに……ごめん」
思わず声が震える。だけど、そんな残酷な答えを突きつけられた道香はどこか寂しげに笑っていた。
「そっ、か。あーあ、フられちゃった」
それからくるりと振り向くと、背中を見せたまま言葉を続けた。
「ねえお兄ちゃん、蒼先輩とはちゃんと向き合えそう?」
「……ああ。道香のお陰だ」
「それならわたしの本望、かな」
やっぱり道香は判っていたのだ。僕の気持ちが自分へと向いていなかったことを。
もしかしたら。今となっては確かめる術はないけれど、僕が過去へと向き合うために勇気を出してくれたのかもしれない。
だとしたら……本当に、僕には出来すぎた”妹”だ。
「あと、もう一つだけいいかな」
「うん」
表情は見えない。でも、必死に涙をこらえているのであろうことだけは判った。
聞こえてくる声が、涙声になっていたから。
「これからも、わたしは……お兄ちゃんのこと、お兄ちゃん、って呼んでも、いいのかな?」
「ああ、もちろんだ……!」
小さいけど大きなお願い。それを断ることは出来なかった。
いや、断るという選択肢は浮かびすらしない。
僕が即答すると、ふふっ、と道香は少しだけ笑ったような気がした。
「うん、それなら……仕方ない、かな」
「……ごめん」
「謝らないでお兄ちゃん、こっちもみじめになっちゃう」
日曜の夜の静かな駅前に、踏切の音だけが響いている。
道香は僕に背を向けたまま、静かに言葉を続けた。その声からは、どんな表情をしているのか感じることは出来なかった。
「今日は本当にありがとう、お兄ちゃん。ちょっとだけ……一人にさせて欲しいな」
「……わかった。また明日、道香」
「うん。また、明日」
道香の返事を聞いてから、僕は家へと足を向けた。本当は列車に乗ることもできたのだと思うけれど、今はこの冷たい風を浴びたい気分だったから。
心も体も、石を縛りつけたかのように重い。
だけど、それは僕が受け止めなければいけない……未来へと歩き始めた証だということもわかっている。道香も、僕がずっとしょげている姿は見たくないだろう。
だから。
僕は今日で、あり得たかもしれない一つの可能性をしっかりと手放さなければいけない。
家まで二十五分の道が、どこまでも遠く、寒く感じた。
◇
先輩の姿が、駅前の商店街に消えたのを見送って。
わたしは、大きくため息をつきました。
「はぁ……」
今、どんな表情をしているのでしょう。お兄ちゃんには到底見せられません。
そんなわたしに、一つの足音が近づいてくるのがわかります。
その足音にまた少し安心して、涙がこぼれそうになりました。
「あおい、せんぱい。来てくれたんですね」
「……ええ、もちろんよ。だって、かわいいかわいい後輩のためだもの」
声を聞かなくても、姿を見なくても。誰が来てくれたのかはわかります。
振り返ると、そこには申し訳ないような、泣きそうな……不思議な表情をした蒼先輩が立っていました。
蒼先輩なら、来てくれると信じていました。昨日のうちから、今日の夜……全てを見届けてほしいとお願いしていたからです。
帰りの電車の中、お兄ちゃんにばれないようにWINEで帰り着く時間を伝えるのは大変でした。
「道香、やっぱり判って……」
「いいんです。二か月前から、覚悟はしてましたから。これで、勇気が出ないなんて言わせませんよ」
「……そう、ね」
蒼先輩は、苦しそうな笑顔を浮かべました。
わたしも頑張っていつもの笑顔を作ろうとしますが、どんな顔になったのかは私にはわかりません。
やっぱり、最後まできちんと笑顔ができているかはわかりませんでした。
「蒼先輩も、見守っててくれたんですよね?」
「……ええ。何を言っているのかまでははっきりと聞こえはしなかったけど」
「よかったです。全部筒抜けだと、ちょっと恥ずかしいですから」
蒼先輩がぎゅっ、と手に力を入れたのが見えました。蒼先輩も、これで大丈夫でしょう。
お兄ちゃんももう大丈夫でしょうし、これでわたしの役目は完全に終わりです。
今日でわたしが紡いできた物語は完全に終わって、これからの主人公は蒼先輩ですから。
そう思うと……気が抜けたからでしょうか。頬を涙が一筋伝うのが判りました。
「……いいのよ、泣いて。そこまで強くある必要なんて、どこにもないわ」
「いいん、でしょうか……」
小さいころに会うことは出来なかった、お兄ちゃんから名前をよく聞く「あおいちゃん」。
当時の私は軽い嫉妬を覚えていたことも、胸に残っています。
でも、今年の春に出会ってみると……それすらも馬鹿らしくなるくらいでした。
とっても優秀で、とっても真面目で、とってもかっこいい。
そしてお兄ちゃんが居ないところでは、どこか怯えているような表情をしていたのも覚えています。
きっと蒼先輩も、お兄ちゃんのことが大好きで……でも、何か大切なものが横たわっているのでしょう。
そんな先輩を、嫌いになれるわけありませんでした。
だから、いいんです。お兄ちゃんと蒼先輩が幸せにになってくれるのであれば。
そう、心から思っているんですが。
今も悲鳴を上げる別の心は、別の言葉を紡ぎだしてしまいます。
「わたし、お兄ちゃんのことが本当に大好きで」
「うん」
「でも、蒼先輩のことも本当に大好きで」
「……ありがとう、道香」
蒼先輩が私に見せてくれた、本当に優しい、慈しむような笑顔がきっかけだったのでしょうか。
「……どうして、わたしじゃなかったんでしょうね……」
口から、本当は言うつもりのなかった言葉が零れてしまいました。
それがもう、限界の合図。
溢れる涙はとめどなくて、冷たいタイルへと吸い込まれていきます。
蒼先輩は、そんな私をぎゅっ、と抱きしめてくれました。
「あおい、せんぱいっ、ふえっ、ええええええん」
「道香……本当に、ありがとう……っ」
さすがに全てがばれているようで……蒼先輩も、わたしのために、静かに涙を流してくれました。
その温かさが嬉しくて、でもやっぱり悲しくて。
わたしは、蒼先輩の胸の中で声をあげて泣きました。
星さえ見えないこの街の冬空に、わたしの想いを――初恋を、還すために。
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