0x04 霜月祭
霜月祭の準備日は、なんとたった一日しか存在しない。
体育祭くらいしか行事のない前期とは打って変わって行事まみれの後期の中、無理やり文化祭を突っ込んでいるから授業日程の確保に腐心してるらしいとは砂橋さんの談だ。
そんな霜月祭の準備日である十一月の七日、僕と悠、それに宏はクラスへと出向いていた。
さすがにクラスの方に全く顔を出さないわけにはいかない。
なんなら宏はクラス企画の首謀者。ここ一週間は部活とクラスの両方で何か仕事を受けていたらしく、忙しそうに目を回していていた。
その間は悪さが出来ないわけだし、しばらくそのまま目を回していて欲しい。
「うーっす、手伝いに来たぜ」
「どう?準備は」
「あっ、杉島くん来たよっ」
「待ってたぜ杉島、このメニューなんだけどさ」
「ああ、どれどれ」
教室に入った瞬間、宏は早速運営の調整のために連行されていった。
クラス皆が楽しそうなのは何よりだけど、本当にこんな企画で良かったのだろうかと思わないこともない。……楽しそうだし、いいか。
「柳洞くん、ちょっとおいで」
「えっ、目怖っ」
「ほらほら、怖くないからね~」
「いやお前が一番怖えよ! うわ、やめろって、ぎゃあああああっ」
「ふっふっふ、この日を楽しみにしてたんだよ」
思考を停止させている間に悠も連れて行かれた。可愛そうに。
連行された先は衣装班のようで、全員目がキマっている。うちのクラスって一体……
「鷲流くん、こっち手伝ってー」
「おう、どうすりゃいい?」
そして僕にも声が掛かった。今だけはコン部のプロマネではなく貴重なクラスの戦力だ。出来ることは全力で手伝うとしよう。
……こういうお祭りごとは、元々嫌いじゃないんだから。
クラスの装飾を手伝ったり、机の配置を宏の指示で変えたりといった雑用をこなすのも、祭りに向かっていくのだという実感が湧いてテンションが上がる。
「かんせーい! え、やっば……あたしより可愛いんだけど」
「うっわ、いかついカメラ……」
「はーい、笑顔笑顔! いきまーす、三、二、一」
衣装班の方では悠の改造が終わったらしい。十五分前まで聞こえていた悠の悲鳴は、既に聞こえなくなっていた。くわばらくわばら。
その悠が吸い込まれていった更衣用のカーテンの向こうからは、一眼レフとかいうカメラだろうか、ババババという機関銃のようなエグい連写の音が教室に響いている。
「終わったみたいだな」
「僕は見るのが怖いよ」
「あいつの目が死んでるに百ペリカ掛けるぜ」
「ああ、それは賭けが成立しないだろうな。事実だろ」
宏と二人でどうでもいい会話を交わしている間に、撮影会はさらにヒートアップ。
「はいポーズお願いしまーす!」
「だめだめっ、そんなんじゃ可愛くないよ。もっと、こう……」
「僕、あの写真見なきゃダメなのか?」
「柳洞の遺影はあれで決まりだな」
具体的な指示が飛んでいるせいでポーズが想像できてしまうのが嫌だ。親友(男)のあられもない姿なんて考えたくもない。
しかもよく解ってる奴が指示してるな? 明かに素人のそれではないぞ。
それからしばらくして、撮影会は終了したらしく衣装班の連中が中から出てきた。
「それではー、柳洞くんのお披露目でーすっ」
衣装班の女子の声で、クラスの皆がそちらへと走っていく。シャーッ、という音と共にカーテンが開いて。
「お、おかえりなさいませご主人様っ。こちらのお席へどうぞ」
「ぶーっ!?」
「マジか」
聞こえて来たのは悠の媚び媚びな声。見てみると、楽しそうに愛嬌を振りまいている親友の姿があった。
「人間関係間違えたかな」
「奇遇だな、僕もちょうどそのこと考えてたとこだ」
見たことないにこにこした笑顔に、可愛い系に極振りした、でも衣装から浮かないメイク。それとシックなメイド服は、確かによく似合っていた。
認めたくはないし、認めたら何かが壊れそうではあったが。さすがは悠に色々したいと日頃から漏らしていた連中だ。
「待て、よく見るとあいつ目のハイライトが無いぞ」
「精神を守るために心を無にしたか……」
「悠ってあいつ、元々可愛い恰好をすること自体は嫌いじゃないけど、ここまでガチなのは初めてだろうからな」
「十五分後には吹っ切れてノリノリになってるのが見える」
「なんだかんだで楽しいのも事実だろうからな」
そう、悠は可愛い格好をすること自体は嫌いじゃないのだ。恐ろしいことに。
その大戦犯の一人である蒼は、そのかわいい悠の姿を見て噴き出した。
「ぷっ、すごい可愛いわよ、悠」
「だろ? おかえりなさいませ、ご主人様っ」
「へえ……本当に女の子みたいだね、かわいいかわいい」
「かっ、かわ、かっ、あ」
「川?」
「……なんか負けた感じがするのが釈然としない」
教室の手伝いを終えた僕たちは、そのまま部室へと戻っていた。
そう、悠の格好もそのまま。
案の定吹っ切れた悠はサービス満点だ。星野先輩は何だかときめいた表情をしてるし、道香は完全にトリップしている。砂橋さんが若干悔しそうなのも面白い。
「……ねえ、シュウ」
「どうした蒼」
「私たち、とんでもない子を開発しちゃったんじゃないかしら」
「あの日のいたずらがこうなるとはな……」
小学生でやんちゃ盛りだったころ、蒼と悠の背が同じくらいだった時期があった。
その時に僕のアイデアで、蒼の服を着せたことがあったのだ。
……その時のときめいたような悠の表情は、忘れたくても忘れられるものじゃない。
それ以来、悠の部屋には女性ものの服が何着か常備されているのを知っていた。
というか、着た悠を何度か見せられたことがある。普通に可愛かった。
「ってか、衣装借りてきたのね」
「もうこうなったらこのまま部活行ってやるってさ。校内歩いてるだけでざわめきが止まらなかったよ」
「だからあんなに嬉しそうなのね……」
「自分がかわいいと思われること、なんだかんだで大好きだからなあいつ」
「そうだ。ねえ結凪」
「何?」
何かを思いついたらしい蒼が、砂橋さんの耳にこそこそと何かを吹き込んでいる。
「ぜっったいやだっ」
「まあそう言わないの。……」
絶対拒否の姿勢を見せる砂橋さん。そこに、蒼が追加で何かをささやいた。
「マジ!? 着る着るっ」
何を吹き込んだんだろう、砂橋さんは次の瞬間、すごい笑顔でオフィスエリアを飛び出していった。
「おお、すっごい笑顔。何言ったらああなるんだ?」
「まあ待ってなさい。五分もすれば帰ってくるでしょ」
そう言って笑う蒼に疑問符を浮かべつつ、かわいい悠の姿でウキウキなみんなを眺めていると。
「蒼っ、お待たせ―っ!」
「ぶーっ!」
ばーん、とオフィスエリアの扉が開かれる。そこに居たのはえらい笑顔の砂橋さんだった。
……懐かしいメイド姿の。
「わああああああっ、砂橋ちゃんかっわいー!ねね、柳洞くんと並んでよっ」
「何だってしますとも!」
「おい、大丈夫なのか砂橋?」
「何が?」
「……まあいいや、楽しそうだし」
今ここにはメイドさんが二人いる。恐ろしい事態だ、いつの間にここはメイド喫茶になったのだろう?
何より二人ともかわいいのが反則だ。いや、片方は男なんだが。
「……」
「スマホ、写真で一杯になるよ?」
こんな姿を見た道香はさぞ興奮するだろうと思ったら、無言でスマホカメラのシャッターを長押ししまくっていた。パシャシャシャシャという連写の音が混じってさらに混沌とした空間になる。何だここ?
「なあ蒼、どんな魔法を使ったんだ? 砂橋さんがあの服着てあんな笑顔になるなんて」
「簡単よ、ニンジンをぶら下げてあげたの」
「どんな?」
「EDAソフトの更新よ。結凪が言ってた最新のソフト買ってあげるって」
「なるほど、パワハラ?」
「いいじゃない、ほら見て。本当に嫌がってると思う?」
そう言って指さされた先の地獄では、メイドさん二人がすごい笑顔で写真撮影に応じていた。
「えへへ、じ、じゃあ、二人ともあのセリフ言ってみようか」
「「お帰りなさいませ、ご主人様」」
「いいなーっ、あたしも着てみたいなあ」
「……私も、着る?」
「星野先輩とか狼谷ちゃんも着れるサイズは残念ながらうちの部には無いっすね、いやまあ砂橋ちゃんに合うサイズの奴がある時点でおかしいんだが」
道香は変なカメラマンみたいになってるし、星野先輩と氷湖は着たいとか言い始めてるし。みんな文化祭ということでテンションが上がってる、ということにしておこう。宏の奴がツッコミに回っている時点で異常事態だ。
「……ノリノリだなあ、砂橋さん」
「でしょう? あの子だって興味ないわけじゃないのよ、ただちょっと恥ずかしがりなだけ。私はその背中を蹴っ飛ばしてあげただけよ」
「それにしても、よくそんな予算あったな。結構したよなあのソフト?」
半導体の論理設計・物理設計に使うEDAツールと呼ばれるソフトは、そのソフト単体だけでえらい金額が必要となる。もちろんモノによるけど、砂橋さんと蒼が使うEDAツールと呼ばれる物に関しては確か数百万単位で必要になったはず。
少なくともIP大会まではそんな余裕は間違いなく無かったんだけど、余裕ができたのかな。
僕が管理している開発費以外にそんなにお金があるとは思わなかった。
「あれ、シュウにも前言ってなかったかしら? 世界大会まで行ったから、世界大会用のチップの開発予算が降りてるの」
「ああ、材料とか全く金額気にしなくていいくらいの金額だったな。調達の時は助かったよ」
蒼からこれだけ使っていいよ、という金額のデータは既に貰っている。家が一軒余裕で建てられるくらいの予算だった。
それ以上に貰っていたんだというんだから、世界大会に向けた予算というのが幾ら付いたのか末恐ろしい。
「実はあれ、ソフトの分を既に引いた額なの。結凪から今回の物理設計はいよいよ今の古いソフトだとキツいって話があって、私のソフトとまとめて更新することにしたのよ」
「へえ、ソフトでも違いがあるんだな」
「そうよ。論理合成や配置配線をするプログラムの出来が良くなってるし、SADPみたいな制約が多い設計にも対応できるようになってるの」
「なるほど、そりゃ確かに必要な訳だ」
「JCRAがくれる標準品だともう厳しいわね。それに、プログラムの最適化も進んでて、同じ回路でもより短時間で論理合成や配置配線が終わるようになるのよ」
「その引き換えがあれか」
ちらりと混沌エリアを見ると、砂橋さんは道香に撫で回されていた。
「ううーっ、このふかふか感がたまりませんっ」
「あんたのほうがふかふかだっての......! 窒息する!」
……正面から抱き込まれてるから、身長差と道香の胸の合わせ技で苦しそうだ。
「ま、本人も楽しんでるみたいだしいっか」
「そうね。実はもうライセンス買ってあるし」
「お主も悪よのお」
「シュウのいたずらがうつったかしら」
蒼と顔を見合わせて笑う。一日くらいは、こんな平和な時間があってもいいか。
「そうだ、おーい狼谷さん」
「なに?」
そういえば、開発費の話で思い出した。狼谷さんに伝えとかないといけないことがあったっけ。
声を掛けると、狼谷さんはとことこと僕たちの方へとやって来た。
「頼んでた素材、来週には届くって。受け取りは代休明け、水曜の部活の時間にしたけど大丈夫?」
小市さんの言っていたとおり、今週火曜日には早速日本の上越化学の担当者さんからメールが届いていた。
どれも取り扱いがあるらしく少量ずつ売ってくれるとのことで、JCRAも含めて話はあっという間に進んだ。
そしてモノ自体もう来週には届くらしい。さすがは世界最大シェアの半導体材料メーカーだ。
「ん、わかった。早速水曜から試作する」
「あとは、ルビジウムはくれぐれも扱いに気をつけて、だって。JCRAでも学生に卸したこと無いって言ってた」
「物性は把握済み。学校とJCRAにも届け出は済ませて、研修も受講済み」
「わかった、くれぐれも怪我とかには気をつけてね」
「十分気をつける」
「よし、じゃあ以上だ」
話を切り上げると、狼谷さんはいつもの無表情でまだやいのやいのと騒いでいる連中を指差した。
「そろそろ準備を進めないと、間に合わない」
「だな。おーいみんな、そろそろ一階の準備やるぞー。そんな遊んでるってことはプリントまで終わってるんだよな?」
「っべ、印刷してねえや」
「悠、オレの分も刷っといてよ」
「ったく、しゃーねえなあ……どれだ?」
「オレの共有フォルダの、文化祭二〇一九_完成版_一.一五_最終.pptxだ」
「プログラマが付ける考えうる限り最悪に近いファイル名だな」
「お前らなあ……」
悠と宏のやる気のなさは天下一品だ。まあ、クラス企画とかと比べてしまうと……派手さがないことは否定しないけど。
「アタシは終わってるよん」
「わたしも終わってますっ」
「さすが計算機工学科、優秀だな」
「俺らが優秀じゃないみたいな言い方だな?」
「事実だよ、ほら大判プリンタにはよ行け!」
やる気のない男二人を大判プリンタにはよ行けと急かす。
一方計算機工学科組はちゃんと準備が済んでいるらしく、丸まったポスターが机の上に四本乗っていた。これを専用のフレームに入れて展示する計画だ。
「ポスターフレーム持ってこないとね。どこに置いたんだっけ?」
「あれ、倉庫の中じゃなかったかしら」
「ちょっと見てくるよ。見つけたらそのまま一階に運べばいい?」
「ええ。私も手伝うわ」
相変わらず埃っぽい倉庫に入ると、お目当てのポスターフレームはすぐに見つかった。
引っ張り出してエレベーターで一階のA会議室に運び込み、協力しながら大きなポスターを額装していく。
ポスターを綺麗に伸ばすと透明なパネルで挟み、ばちん、ばちんと端の金具を下ろして固定。
これを何度か繰り返して、後から持ってきた悠と宏の分もフレームに入れていく。
「うし、こんなもんか」
「おおー、なんかいい感じになったね」
最後の一枚を壁のフックに引っ掛けると、まずは壁の準備が完了した。
壁にポスターがたくさん掛かっているだけで、普段の会議室とはまた違って見えるな。なんというか、こう……部室がちゃんと生きてる感じがあるというか。
「おおー、いい感じいい感じ。じゃあ机寄せちゃうけど、早瀬ちゃん、多分机足りないよね?」
「そうです、B会議室から二つ机を取ってこないといけないんです」
「んじゃ、俺行ってくるわ」
「アタシも手伝うよ」
部屋の準備はすぐに整うだろう。じゃあ、その間に展示用のシリコンとボードをーー
「シュウは私と、二階のラボに展示物を取りに行きましょ」
「わかった、任せろ」
どうやら、蒼も考えることは同じだったらしい。
「下の配置は星野先輩、お願いできますか?」
「おーけーおーけー、おねーさんに任せといて」
親指を立てる星野先輩に下を任せて、僕と蒼は二階のラボへと機材を取りに向かう。
「ふんふんふーん、ふふふふーん」
「ご機嫌だなあ」
階段を上る途中、前を歩く蒼からは鼻歌さえも聞こえてくる。ここまで上機嫌なのは珍しいな。
そんな上機嫌な蒼の背中に声を掛けてみた。
「それはそうよ、だってこんなに皆で集まって活動出来てるんだもの。青春よ、青春」
「確かにそうだ」
「……それに、シュウも居てくれるんだもの。これ以上ないわ、私には」
感慨深げに言ってくれる蒼の言葉を聞くと、僕まで嬉しくなってくる。
ラボに到着し実動デモと展示に使うサンプルを集めていると、さらに蒼から声を掛けられた。
「そうだシュウ、土曜日暇な時間あるわよね?」
「ん、そりゃまああるけど……」
金曜は念のため全員部室に居てもらうことにしたけど、土日は二人ずつでシフトを組むことにしている。だから、クラス企画の手伝いを入れてもそれなりに時間はあるはず。
「よかった。せっかくのお祭りなんだし、一緒に回りましょ?」
「いいよ。せっかくの機会だしな」
蒼から、学校絡みでこういうお誘いを受けるのは初めてだな。
街のお祭りにも数年参加していなかったし、なんだか久しぶりな感覚だ。
それに、僕も一緒に回れればと思っていたのは事実。この機会を逃したくはない。
「よかった。断られたら泣いちゃってたわ」
「さすがに嘘だってわかるぞ、それは」
「ふふっ、お見通しね」
そう言って微笑む蒼を見ると、もっとその笑顔を見ていたいと思ってしまうあたり……重症だな。
両手いっぱいに展示用の資材を回収し、辿り着いたA会議室はかなり賑やかになっていた。
賞状は額に入れ机に立てられているし、薄い紙で作ったのであろう花なんかも各所に飾られている。
「なんだこの飾り? すげえな、この短時間で作ったのか」
「なんか数年前の文化祭で使った飾りがあるはずだよー、って言って星野先輩が発掘してきた」
「おお、ありがとうございます星野先輩」
「ふっふーん、こういう華もあった方がいいでしょ?」
「花だけに?」
「……悠、今のはどうかと思うセンスね」
「自分でもひどい駄洒落だなと思ったよ」
「わあっ、なんか派手になりましたねっ」
「だろ? いい感じだ」
「道香ー、それいったん置いたらこっち手伝ってくれる? 悔しいけど、悔しいけど……アタシじゃ背が届かなくて」
「はい、もちろんですっ」
こうして部員の皆(二人はメイド装束だけど)と協力して飾りつけを済ませて、なんとか文化祭当日に展示を間に合わせることができた。
迎えた本番、十一月八日金曜日の午前十時。
「それではただいまより、霜月祭を開催いたします」
どこか楽しげな放送委員の放送で、霜月祭は始まった。
今日は、前に砂橋さんが言っていた通り偉い人たちの視察がメインの日。一般の来場者はそう多くないから、窓から校舎の方を見ても人はまばらだ。
「こちらが電子計算機技術部です」
「来たっ」
「時間通りだねえ」
だけど、僕たちにとっては勝負の一日。ここで偉い人たちへの心証が悪いとまた廃部騒ぎになりかねない。
教員から通達されていた時間、概ねその通りの時間に偉い人たちはやってきた。校長や教頭と一緒なあたり、当然だけど学園祭のVIP待遇だな。
「こんにちは、紹介をお願いしてもいいかな?」
「はい、もちろんです。計算機技術部の展示にご来場ありがとうございます、部長の早瀬です」
「副部長の砂橋です」
「おお、君が早瀬君と砂橋君か。CPU甲子園の優勝、そしてアジア大会三位おめでとう」
「ありがとうございます」
恰幅の良い人が最初に話しかけてきた。きっとあの人が一番偉いんだろう、蒼も砂橋さんもえらく緊張しているように見える。
「砂橋、砂橋というと……NEMCエレクトロニクスの砂橋和重技師はご存じかな?」
「はい、私の祖父です」
「おお、そうかそうか! まさかここにお孫さんが居るとは」
そして、思わぬ名前も登場する。すらりと痩せた一人が訊いてきたその名前は、僕たちにもなじみ深いもの。
「そういえば柴田専務は初めてでしたか、この部の視察は」
「去年は日程が合わなくてなあ。そうかそうか、和重さんにはお世話になったよ、鬼のような人だった」
「あの、祖父とはどうやってお知り合いに?」
「ああ、砂橋技師が居た部署でしばらく私の上司をしていてね。基本は優しく頼れるんだが、何かあると烈火のように怒るんだ」
「あの温和そうな和重技師が……」
「意外な、一面」
こうやって和重技師の部下だったという人も出世をして、偉い人になってるんだな。砂橋技師がどれだけ凄い人なのかということをあらためて教えられた気がする。
「また砂橋技師と会う機会があったら、一技開の柴田に会ったと伝えておいてくれるかな? 名刺も渡しておこう」
「はい、わかりました。頂戴いたします」
砂橋さんは名刺を貰うと、制服の胸ポケットにしまった。話がひと段落着いたのを察したんだろう、一番偉いと思われる人が展示の方を向く。
「さて、では展示を見させてもらおうかな」
「お待たせしてしまって申し訳ありません鈴木理事長」
こうして、偉い人たちの視察が始まった。一応はプロジェクトマネージャーということで、最初に話していくのは僕の仕事だ。
Sand Rapidsから始まり、Melon、そしてMelon Hillの三つのプロセッサに関して紹介をしていく。
「ふむ、実行ユニットとデコーダをこの構成にした意図はなにかあるのかな?」
「論文を何本か読みまして、そこに記載されていた一般的なソフトの命令割合を元に回路規模のシミュレーションもしながら決定しています」
「それなら、コンプレックスデコーダを一本にしたほうが効率がいいのではないかな?」
だけど、どうやらこの偉い人たちも元々技術者らしく技術的な質問がどんどん飛んでくる。
だから、僕が答えられない質問が来るたびに目で救援を要請するしかない。
今回は論理設計だから、蒼の領分だ。ちらりと蒼の方を見ると、満足げに解説を引き継いでくれた。
「その構成も検討したのですが、開発期間と従来のデコーダIPを流用する関係で断念しています」
「そうかそうか、確かにIP大会からCPU甲子園の間だけとなれば難しいな」
「ですが、世界大会向けのチップでは改善予定です。仰る通り、非効率ですから」
もちろん、論理設計以外にも物理設計やプロセス、そしてBIOSやソフトに至るまで質問攻めにされる。その度に、担当のみんながさらに細かい補足をしてくれた。
「おお、ちゃんと実動サンプルもあるんだな」
「フルパワーで動かすと騒音と発熱が凄いのでパワーリミットは掛けていますが、実際に大会で使用したものと同じロットのシリコン、同じボードです」
そして一番目を引いたのは実動デモだった。やはり実際に動いている姿を見せるのはインパクトが大きい。
ちなみに消費電力の制限を掛けているのは、前日に全力で回るファンの風切り音がうるさ過ぎることに気が付いたからだ。CPUに内蔵している温度センサーがあまりアテにならないから、無理やりクロックを落として発熱を減らしつつ、決め打ちでファンの回転数を落としている。
「このボードは凄いな、設計は外に出したのかな?」
「いえ、この設計も内製です。こちらの桜桃がデザインしています」
「ほお……どこかで習ったのかな?」
「はい、去年までポートランドで留学しておりましたので」
「ポートランドだと……ああ、ヒルズボロのIntechかな?」
「はい、その関係で」
「なるほど。ここのVRは――」
道香も持ち前の元気さで質疑応答を乗り切っている。この部で酷く人見知りする性格の子が居なくて助かった。いや、狼谷さんは緊張して震えていたけど。
その度に皆に助けてもらいながらも、なんとか僕たちが開発した全てのチップについて説明を終えた。
「いっやー、素晴らしい! 世界大会も是非頑張ってくれ」
「はい、勝ちに行こうと思います」
「いいぞ、その意気だ。それでは、結果の報告を楽しみにしているよ」
激励を残して、お偉いさんがたは部室を去っていく。去り際の表情がとても明るかったのを見て、その背中が見えなくなるまで見送ってから僕は一つため息をついた。
「はーっ、疲れた……」
「緊張、した」
「あの様子だと問題なさそうだな」
「ああ、文化祭の高い高いハードルを乗り切ったぞ」
皆も思い思いに感想をこぼす。大きな一つの壁を、なんとか乗り切ることができた……と思う。あの感じなら、悪くは扱われないよな。
「さあさあ皆、まだ文化祭は始まったばっかりよ。一番の壁は乗り越えたとはいえ、まだまだ他の来賓の方たちも来るんだから」
「だね。さあさみんな、もうひと頑張りだよ」
「うげー……」
蒼と星野先輩に促されて展示ブースに戻る。その言葉の通り、一日目は他にも大学の人や会津武蔵通の人なんかもかなりの頻度で見学に来たから意外と休む暇はない。
現場の技術者さんや大学の教授さん、研究員さんたちからは鋭い質問がたくさん飛び出して、皆でなんとか受け答えをしていく。
「只今をもちまして、霜月祭一日目を終了致します。ご来場頂きありがとうございました」
「終わっ、たぁ……」
「みんな、一日目お疲れ様。とりあえず一番大きな壁は乗り越えたわね」
だから、十七時の閉会放送はまさに福音のようだった。大きなため息と共に、控室として準備しておいたB会議室の椅子にへたり込む。
「……」
「うわっ、大丈夫か砂橋。一瞬何かと思ったぞ」
「もうツッコむ元気すらないよアタシ」
「つか、れた」
「あはは、さすがにあたしも疲れたかなあ」
「星野先輩も、携わってないところなのにありがとうございます」
「んーん、気にしないで」
受付係をしていた星野先輩と悠も戻ってきた。ツッコむ元気さえないくらいに砂橋さんも疲れていたし、それは他のみんなも同じ。表情も、やりきった笑顔と疲労が半々ってとこだ。
思い思いの椅子に座って大きな息をつくと、会議室にはしばらく沈黙が流れた。
「……でも、楽しかったな」
「ああ、宏の言うとおりだ」
「なんだか認められた感じがして良かったわ。去年は本当に悲惨だったから」
「技術の話をするの、何だかんだで楽しいよな」
「とても、勉強になった」
「それもそだね。アタシも色々頑張んないとなあって思わされたよ」
「やっぱりプロの方々からお話を伺うのは勉強になりますっ」
それから、ぽつぽつと感想が出てくる。僕も疲れたけど、それだけではなくて……なんというか、満足を覚えていた。
開発では、結果だけを求めているのは変わらない。だけど、こういう機会も大切なんだな。
「うんうん、青春だねえ」
「ちょっとババくさいですよ、星野先輩」
「ひどっ、一つ上なだけなのに!」
星野先輩の言葉で、みんなの顔からは笑顔がこぼれる。
そう、先輩が言う通り――これが、青春というものなんだろうな。
翌日の土曜日は、クラス企画とかからすれば本番初日とも言える日だ。
「それじゃ、今日も気張っていきましょ。昨日と違って特に困るようなこともないとは思うけど、もし人手不足になったりしたときにはWINEに書いてちょうだい」
「シフト入ってない間は自由だけど、もし暇ならWINEを見てくれると嬉しいかな。さっきみたいな理由でヘルプが必要かもしれないからね」
「もちろん、教室の企画のシフトの時なんかは仕方ないけど」
一方、僕たちは開店休業だ。来る人はぼちぼちいるかも知れないけど、昨日みたいに気を張ってずっと技術的なことを受け答えする必要はないしな。
「それじゃ解散ー、最初のシフトは……アタシと氷湖だね。はあー、やるしかないかあ」
「逃げちゃ、ダメ」
「逃げないよっ」
B会議室で気の抜けた朝礼もどきをしている間に、僕たちは開幕の時間を迎えた。
といっても幹部二人の言う通りシフトが入ってない時間は自由。
席を立つと、早速蒼がやってきた。
「シュウ、早速行きましょ。早い時間だしそんなに混んでないと思うわ」
「おう、約束だもんな。混む前に出向いちゃおう」
準備日にした約束を果たすべく、僕たちは部室棟を出て校舎の方へと向かうことにした。
今日は晴れ、気温も十度を超えて比較的温かい。散歩にはぴったりだ。
「天気に恵まれてよかったわ、今日は暖かいし」
「だな。雨に降られちゃこうして呑気に散歩してる場合じゃないし」
「そうね。それに、お客さんも減っちゃって張り合いが無いわ」
「って言っても、そんなにお客さんは来ないんだろ?」
「とは思うのよね。去年は私たちが弱小ってことを差し引いても人は居なかったし」
「狼谷さんもそう言ってたし、去年の電工研ですらそうなら今年のコン部も変わらないだろ」
「ま、向こうは人が多い分一人当たりの負担が少なそうってくらいかしら」
そんな他愛もない会話を楽しみながら歩みを進めていく。
正直去年の霜月祭のことはあまり覚えていない。クラスの企画に顔を出したくらいの記憶はあるけど、それくらい適当に流していたということだ。
だから、ちゃんと祭りを楽しむのは初めてだな。
「おおー、結構人いるんだな」
「ふふっ、去年の私と同じね。街の中心部じゃないし周りは田んぼと畑ばっかりだから、こんなに賑わうなんて思ってなかったわ」
「文化祭がガラガラっていうのも寂しいし、賑わってるのはいいことだ」
「その通りね。さ、行きましょ」
校門前まで辿りつくと、そこは多くの人で賑わっていた。他校の制服の生徒も居るし、もちろん大人も子供も入り乱れて楽しげな雰囲気だ。
「どこか行きたいところとか、何かあるのか?」
「そんな下調べをする時間なんて無かったの、シュウも知ってるでしょ?」
「まあ、もちろん。僕もだからな」
「ってわけで、まずはパンフレット貰いに行くところからね」
「おいっ、迷子になっちゃうって」
その雰囲気に呑まれたからか、蒼の背中が人ごみに紛れかける。見失うのはまずいと思って、あわてて反射的にその手を取った。
同時に、やりようはいくらでもあったことに気が付く。なんなら、そんなに迷子になるほどの人混みって訳でもない。
でもとっさにこうやって手が出たのは……なぜだろう。
次の瞬間、蒼はびくっと震えてその動きを止めた。
「……あ、ありがと」
「お、おう」
隣に並ぶと、蒼の顔が少し赤くなっているのがよく見えてしまう。
一方で、ぎゅっ、ぎゅっ、と、手の感覚を確かめるように握ってくる感覚は、なんとなく小さな子を想像させた。
「ね、シュウ。はぐれたらいけないし、しばらくはこのままじゃ……駄目かしら?」
「ん、いいよ。気が済むまで」
「ありがと」
頬を少し赤く染めて笑う蒼は、とても可愛く見える。
だから、やっぱり僕は――
「どうしたのシュウ? 行きましょ?」
「ごめん、ぼーっとしてた」
不思議そうな表情の蒼を見てしまったから、軽く首を振って切り替えた。そう、まだ伝える資格は無いんだ。
無事パンフレットを特設受付で貰うと、蒼と学園祭を回り始める。まずは、というところで計算機工学科のクラス展示に向かってみた。
「これが私のクラスの展示らしいわ」
「完全に他人事だな」
「他人事になっちゃうのよ、部活に入ってればクラス企画に参加する義務はこっちには無いの。だから、クラス企画なんて部活に入ってない数人とかでできることになっちゃうわ」
蒼の辛口なコメントの通り、確かに展示こそされてはいるものの、授業でやった内容の展示といった趣で正直面白味はなかった。計算機工学科の専門授業だとこんなことをやるのか、くらいだ。
多分やることに意味がある、といった感じの企画なのだろうなあ。
「うーん、そうか。計算機工学科はこんな感じなのか」
「じゃあ逆に、普通科のほうはどうなのよ」
「あー、蒼はびっくりするかもな」
「シュウも明日シフトに入ってるみたいだし、せっかくだしシュウのクラスの企画に行ってみましょうよ」
「え、えぇー……」
というわけで、不本意ながら蒼を普通科の教室棟まで連れてきたはいいものの。
「は? 列すご」
「すごい、大人気なのね」
「宏の企画だから大外しはないとは思ってたけど……」
うちのクラスは、入場待ちが発生するほどに混んでいた。
高校の企画でメイド喫茶は珍しいのかもしれない。何故ゴーサインが学校から出たのかは永遠の謎だ。
「並んでく?」
「そうしましょ。どれくらい掛かるかしら」
「聞いてみるか」
列の整理をしてたやつを捕まえて聞いてみる。クラスメイトだから当然顔見知りだ。
「おーい、早川」
「お、鷲流じゃん。お前暇なら手伝えよ」
「残念ながら今は忙しくてな。今列に並んだんだが、どれくらいで入れるかな?」
「そうだな、今まさに杉島が椅子と机をどっかからパチって――」
「弘司! いいところに、手伝ってくれ!」
廊下に響いたのは宏の声。その手にはどこからか調達してきた机と椅子がある。二日目なのにこいつは何をやってるんだ?
「今はそれどころじゃないんだが」
「うるせー、非リアの敵め! お前なんて机運びの刑だ!」
「私刑じゃねえか!」
やいのやいの言いながら少し古いように見える机を搬入して、机同士の間隔をちょっと詰めたりバックヤードを削ったりして場所を確保。結局、宏のいいように手伝わされてしまったな。
「これで十二席は増えたか」
「別で一人席も作ったし、まあこんなもんだろう」
「何でいまさらこんなことしてんだよ」
「正直予想以上の反響だ。こりゃ嬉しい悲鳴だぜ」
「需給予測大外しじゃんお前」
「んじゃ、俺はもうちょい中で働いてくるわ」
「やー、助かったぜ鷲流。これで回転もよくなるだろうし、後十分くらいもすれば入れるんじゃねえかな」
宏と入れ替わりで、机の飾り付けなんかを突貫でやっていた早川もこっちに戻ってきた。
確かに、今増設した席に人を通したから列は一気に進んでいる。これならあと何組か、という程度だろう。
「了解、ありがとよ。……今更だけど、この机どこから降って湧いたんだ?」
「なんか倉庫代わりの空き教室の鍵開けて取ってきたらしいぞ」
「マジか、聞かなかったことにしよ。サンキューな、早川」
「うんにゃ。明日はこき使うから楽しみにしてろよ」
「はは、お手柔らかに」
というわけでクラスの手伝いを終え一気に進んだ列に戻ると、蒼は不安げに聞いてきた。
「あっ、お帰りシュウ。何かやってたみたいだけど……」
「席数を増やしてきたんだ、どっかから闇の椅子と机を宏が調達してきたらしくてな」
「ん? 中二病喫茶か何かだったかしら、ここ?」
一気に不思議そうな顔になる蒼。そんな蒼にさっきの顛末を話していると、そんなに時間も掛からず僕たちも呼ばれた。
「お待たせしました、中へどうぞ」
早川がドアを開けると、中から聞こえてくるのは――
「いらっしゃいませ、ご主人様!」
クラスメイトたちのお出迎えの声だった。何だこれ。
「……本当にすごい光景ね」
「僕は宏が恐ろしいよ」
「こちらのお席へどうぞ!」
クラスの女子にご主人様と呼ばれるのもなんだか変な気分だな。とりあえず通された二人席に座ると、メニューを見る。
並ぶもの自体は宏のこだわりで普通の喫茶店と同じ。何ならその一品一品がかなり凝っていて美味しいらしい。
というか、実際に作る男子をかなりハードに教育して作り方を叩き込んだのだという。家庭科室を家庭科部から半分奪取してまで出来立てにこだわっているそうだ。
「蒼、何頼む?」
「そうね……って、凄いわねメニューも」
「出てくるものも一等品らしいよ」
「これも杉島くんが?」
「当然。男子をがっつりこき使うって言ってたぞ」
同じようにメニューに並ぶものを見て感嘆とも呆れとも取れるため息をつく蒼。すると、ことん、とグラスの置かれる音が響いた。
「お、ありが――」
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「チェンジで」
「お帰りなさいませ、親っさん、お嬢さん!」
「コンセプトの話じゃねえよ!」
「そうか、最近Yakuzaをやったから行けるかなって思ったんだが」
「その格好で極道は無理だろ……」
うまいこと死角からやってきたのは悠だった。案の定ツッコミどころしかないやりとりは、どこまでもメイドさんらしくない。あ、でも蒼はちょっと楽しそうだ。
「やっぱり見てくれは悪くないのよねえ……」
「だろ? 見た目だけならナンバーワンともっぱらの評判だ」
「口さえ開かなけりゃなあ」
「とまあそういう訳で、オーダーを聞こうか」
「じゃあアールグレイとチーズケーキ。蒼は?」
「うーん……じゃあ私はホットコーヒーと小倉抹茶ケーキで」
「あいよ、ちょっと待ってな」
「最後まで役作りをしようという気概くらいは見せてくれよ」
楽しそうにオーダーを取って戻っていく悠。息つく間もなく、入れ替わるように一人のメイドさんがやってきた。
「やっほ、来てくれてありがと鷲流くん」
「藤平さん。どうしたの?」
そのメイドさんとはクラスメイトの一人、藤平さん。服飾リーダーとして悠を好き勝手やる第一人者だ。
そして、彼女のこの笑顔が意味することは知っている。目のハイライトが消えているこの笑みは、悠にコスプレさせるときに向けるものと同じ。
「いんやあ、お連れさんとはどういう関係で?」
「部活の同期よ」
「あ、前に鷲流くんを迎えに来てた子だよね。名前はなんていうの?」
「早瀬蒼よ」
「早瀬ちゃん、覚えた覚えたっ。ねね、早瀬ちゃん、この服着てみない? というか着てくれない?」
「ええっ、わ、私!?」
「そそ。早瀬ちゃんからは……そう、可能性を感じるんだよ!」
「ええ……」
蒼から助けを求めるような視線が飛んでくる。困ってこそいそうだが、なんだか面白そうだ。
「鷲流くんも、そう思うでしょっ? この格好した早瀬ちゃん、見てみたいよねっ!?」
「そりゃ、もちろん」
「ちょっと、シュウ!?」
まずい、脊髄反射で肯定してしまった。蒼は頬を桃色に染めながらあたふたしている。
ちょっと珍しい姿が見れたし、それだけで連れてきた価値はあったな。
「なら着るしかないよねっ、行くよっ」
「あっ、ちょっと、うわ力強っ」
僕が謎の達成感に浸っている間に、哀れな蒼は謎の怪力を発揮する藤平さんに連れていかれてしまった。目が据わってる藤平さんから逃れられる奴はいないだろうなあ。
「お待たせしました、アールグレイと……って、蒼は?」
「藤平さんに連れてかれたよ」
「ああ、なるほど。まあ蒼だし、藤平だしなあ」
「何も否定できないな」
座って待っている間に、悠が頼んだ品を持ってきた。普段からは想像もできないような丁寧さで注文したケーキと飲み物を置くと、そのまま蒼が座っていた席にどっかりと腰を落とした。
「お前、サボってていいのかよ」
「休憩だよ休憩。めっちゃ気を張るから疲れるんだわ」
「宏がすごい目でこっち見てるぞ」
「あいつは放っておいても大丈夫だろ」
そんなおサボりメイドと相変わらずくだらない話をしていると。
「やーやー、お待たせお待たせ」
バックヤードの方から藤平さんが帰ってきた。顔がつやつやしているのを見る感じ、楽しかったんだろうなあ。
「うぅー……本当に出ないと駄目かしら」
一方の蒼は、バックヤードのカーテンに隠れて顔だけのぞかせている。ヘッドドレスだけでも十分かわいいな。
「大丈夫大丈夫、そんなに可愛いんだから!私が保証してあげる!」
「目が怖いわよ?」
おずおずとバックヤードの奥から出てきたその姿を見て……声を失った。
「お、お待たせ……シュウ」
「……かわ、いい」
漏れ出たのはそれだけ。
着ているのは、宏が携わったのだというエプロンドレス。もちろん派手さこそないけど、可愛さも十分に詰められたその衣装は、蒼の華やかな見た目を逆に引き立てているように見える。
普段着も可愛いというよりは落ち着いた格好の多い蒼だから、あまりのギャップに脳を焼かれるような感覚さえ覚えた。
恥じらいだろう、顔を赤く染める蒼の表情は見たことないくらい可愛い。
「あ、ありがと」
目をそらす蒼を見て、さらに可愛さが増した。周囲の喧騒さえ聞こえないくらいだ。
何て言うべきなのかお互いに言葉を探し合う数瞬の沈黙が、永遠にさえ感じ。
「いやー、逸材逸材! この私ですら言葉失っちゃったもん。ささ、じゃあこれを持って」
その沈黙を破ったのは、完全におかしなテンションになっている藤平さんだった。
いつの間にかその手には似合わないいかついカメラが握られていて、メイドさんがメイドさんを撮影するおかしな構図になっている。
「え、ええっ? こ、こうかしら」
「そうそう、良い感じだよ!はいじゃあこっち見て、撮りまーすっ」
お盆を持った蒼にポーズを取らせ、一昨日くらいに聞いたマシンガンのような連写の音が教室響く。あの音は藤平さんのカメラの音だったのか。
メイド喫茶というよりもコスプレ撮影会と化した教室の一角に、お客さんたちは生ぬるい視線を注いでいた。
「いや、さすが蒼だな。素材は良いからなあいつ」
「ここまで化けるとは思わなかったよ。ってか、よく合うサイズがあったな」
「全サイズ、一着ずつ予備が準備してあってな。それだと思うぞ」
「どこまで金突っ込んでんだあいつ……」
「それにしても藤平の奴、俺をこうしたときから思ってたけど腕はいいんだよな。腕は」
「目が思いっきり濁ってるのが恐ろしいけどな」
その緩んだ雰囲気になってしまえば、さっきのような沈黙に戻ることはできない。
「ふう、ありがとう早瀬ちゃん。いいもの撮れたよ」
「そう……よかったわね……」
「っと、ごめんね。うちのメニューもこだわってるから、是非食べてってよ」
「え、この格好で?」
目を回しながら藤平さんに写真を撮られていた蒼は、数分後に開放された。
着替えることを許されなかった蒼がふらふらと席に戻ってくると、悠はどこかへと消えた。給仕の仕事に戻るんだろうな。いや、藤平さんと二人で宏に怒られるのが先かもしれない。
「お疲れ様。本当に似合ってるよ蒼」
「ありがと。シュウのその言葉だけが救いだわ」
僕たちの間に流れるのは、緩やかな時間。まだ頬は少し赤いけど、メイド服を着たまま呆れたように笑う姿はいつもの蒼だ。
いつの間にか、僕たちの飲み物は湯気の立つ新しいものに入れ替わっている。藤平さんなりの謝罪なのかもな。
「あら、本当に美味しいわ。さすがは杉島くん監修ね」
「あいつに出来ないことは何があるんだろうな」
「本当ね」
二人で顔を見合わせて小さいため息をついた後、笑顔になる。
この一瞬がとても幸せだな、と。もう何年ぶりかわからない、心からの幸せを感じることができた。
美味しいケーキを頂いて、蒼が着替えに控室へと向かっている最中。
席に座ったまま待っていると、どこかに消えていた藤平さんが戻ってきた。
「ねえねえ鷲流くん」
「どうした? 僕にはメイド服は似合わないと思うけど」
「んー……この服に合わせるにはちょっと男の子っぽすぎるかな、もっと体のラインが隠れる服の方が、って違う違う!」
あわてて手を振る藤平さん。その目はさっきのように濁っていない。どうやら被害者にならないで済みそうだ。
そんな彼女は、ごそごそとエプロンドレスを漁ると何枚かの紙を差し出してきた。
「これは?」
「表にしてみればわかるよ」
言われる通り紙を返してみると、光沢紙に綺麗に印刷されたさっきの写真だった。さすがは高いカメラを使ってるだけあって、素人目で見てもよく撮れている。
それにしても、いつの間にこんな印刷まで済ませたんだろう。
もしかしてバックヤードに印刷の機材まで置いているのかな。だとすればいよいよ何屋だかわからないぞ。
「おお、こんな風に撮れてたのか。グッジョブだ」
「ふふっ、デートの途中に私もハッスルして迷惑かけちゃったみたいだから。これくらいはね」
「デートってわけじゃないんだけどな。まあ、ありがたく受け取っておくよ」
「良く撮れてるでしょ?」
「完璧だ」
がっちりと握手を交わす。藤平さんの目に狂いはなかった。家宝にするとしよう。
「……何してんのよ」
そして、着替え終わった蒼はその様子をじっとりとした目で見ていた。
貰った写真は学ランの内ポケットにしまい込んで、二人で教室を後にする。
「あーあ、大変な目にあったわ」
「でも、楽しかっただろ?」
「そりゃ……まあ、楽しかったけど」
「ならよかった。でも、時間取りすぎちゃったな」
「そうね、そろそろ戻らないと」
ちょっとむっつりとした蒼と、再び賑やかに飾り付けられた校舎を歩く。
うちのクラスの展示で時間を使いすぎてしまったから、そろそろ部室に戻った方がよさそうな時間になってしまっていた。
残念なことに、次のシフトは僕が入ってしまっている。
「また機会を見て着てくれよ」
「何言ってるのよ、あれはクラスの出し物用の衣装でしょ?」
「蒼が着たのは予備らしいし、各自着た奴は持って帰れるって前に宏が言ってたからな。貰おうと思えば貰えるんじゃないか?」
「……いや、いいわよ」
その目が少し希望に揺れた気がするのは、気のせいじゃないだろう。
二人で並んで部室に戻ると、相変わらずそこは喧騒から切り離された世界だった。
「お、お帰り。そろそろアタシのお役もごめんだね」
「ええ、ちょっと早いけど休憩に入っていいわ。入りはどうかしら?」
「ぼちぼち。でも、常に二、三組はいる」
「去年よりちょっと人は多いかな。ま、のどかで良いことだよ」
「すみませーんっ、ギリギリになっちゃいました!」
「あら、お帰り道香。時間は全然大丈夫……って、すごい抱えてきたわね」
「はいっ、模擬店の出来がここまでいいなんて思いませんでした」
走って戻ってきた道香の手元には様々な食べ物が抱えられていた。
ウチのクラスもそうだけど、あの短い準備時間で保健所のチェック諸々を通す猛者たちがそれなりに居るお陰で校内には食べ物の屋台も珍しくない。
道香はそれを軒並み買って来たんじゃないか、というほどの量を抱えている。さすが、パワフルだ。
「もちろん、一人で食べたら太っちゃうので是非皆さんも食べてくださいっ」
「あら、ありがとう。あとで幾ら掛かったか教えてちょうだい、皆で出し合うわ」
B会議室に道香の差し入れを置いて、砂橋さんと狼谷さんと交代。
「暇、ですねえ」
「お昼時だしなあ」
十二時半を過ぎると、ついにお客さんは居なくなった。元々人入りは少ないし、それにみんなお昼を取っているんだろうなあ。
道香に至っては、自分で買ってきた焼きそばを受付のテーブルでもくもくと食べていた。ソースの匂いが犯罪的なまでに玄関に満ちている。
このシフトが終わったら僕も屋台で何かを買ってこよう、と思ったころ。
「やっほ、道香……って、すっごいソースのいい匂いがするんだけど!?」
もう一つの青春が、部を訪れた。
「ふぁえ、ふぇいふぉ!?」
「お行儀悪いから食べてからにしなさい」
「鷲流先輩もお久しぶりです」
「お久しぶり、雪稜さん。わざわざ高崎から来てくれたの?」
「はいっ! 皆さんにお会いできる機会ですから」
「来るとは聞いてたけど、こんなに早く来るなんて思ってなかったよっ」
「早く会いたくて、朝早い新幹線に乗ってきたんだよ」
やってきたのは雪稜さん。実際に会うのは夏合宿ぶりだけど、相変わらず元気そうで何よりだ。道香からずっと連絡を取ってると聞いてはいたけど、こうやって遊びにまで来てくれるとやっぱり嬉しいな。
それにしても、はるばる高崎から会津まで一人で来たのかな。その疑問は、続いて見えた人影により氷解した。
「やあやあ皆、元気にしていたかな?」
「和重技師!? お久しぶりです」
「孫の顔を見に来てしまったよ」
「どうですかチーフ? 部の様子は」
「ゆ、雪稜所長まで!? お越しいただきありがとうございます」
高崎でお世話になったお二人と一緒に来ていた、というわけだ。納得の人選ではあるけど、びっくりするものはびっくりだ。
「皆は居るのかな?」
「少々お待ちくださいっ」
あわててB会議室へと走ると、そこでは計算機工学科組が道香の買ってきた食べ物を食べながらまったりと休憩していた。
「およ、どうしたのそんな慌てて。何かトラブルでもあった?」
「面倒ね、こんなガラガラな時に」
「違う違う、雪稜親子がいらっしゃってるんだよ」
「うえっ、ここまで来てくれたんだ! そりゃ大事だ」
「思ったより早かったわね。せっかくだし行きましょう」
というわけで、ぞろぞろと会議室を出ると受付へと向かう。
「鷲流くん、雪稜親子って?」
「夏合宿でお世話になった人たちなんです。NEMCエレ高崎事業所の所長さんとその娘さんで」
「うえっ、すごいコネあるんだね」
「僕もびっくりしましたよ」
途中、事情をよく知らないであろう星野先輩に簡単な説明を挟み。
「やっほ、珪……って、おじいちゃん!?」
「やあ結凪、元気にしてたかな?」
「そりゃそうなんだけど、ええっ!? 来るなら来るって言ってよ」
「こういうのはサプライズの方が面白いだろ?」
あえて言わなかった和重技師に遭遇した砂橋さんは、驚きと喜びと怒りが入り混じったような面白い表情をしていた。
「ゆいちゃんっ、久しぶり」
そんな砂橋さんに追い打ちを掛けるように、雪稜さんが飛びつく。砂橋さんはさらにころころと表情を変えた後、雪稜さんの体を優しく抱きとめた。
身長差があるからどっちが抱きつかれている側かわからないのが面白いな。大型犬が小さい子にじゃれついている姿を彷彿とさせる光景だ。
「久しぶり、珪。勉強の調子はどう?」
「道香に教えてもらってるから大丈夫。編入試験になんて負けないよ」
「そっか、偉い偉い」
雪稜さんの頭をなんとか撫でる砂橋さんの表情は、やっぱり合宿の時に見せた優しいお姉さんのものだった。
「砂橋ちゃんも、こんな顔できるんだね」
「ええ、砂橋さんの幼馴染なんです。雪稜所長の娘さん」
「そゆことか。それにしてもなつかれてるねえ」
見えないしっぽがぶんぶんと大きく振られているようにさえ見える。それは星野先輩も同じらしく、明らかに動物とかを愛でるような目で見ていた。
「遠路はるばるお越しいただきありがとうございます、和重技師、雪稜所長」
「早瀬さんも久しぶり。アジア大会でもえらく活躍したみたいじゃないか」
「ありがとうございます。とはいっても三位なので、次はもっと上を目指そうかと」
「上を目指そうとするのは良いことだな。何はともあれ、まずは展示を見せて貰おうかな」
和重技師も、雪稜所長もとても楽しそうにしているのがわかってほっとする。和重技師の言葉の通り、早速展示に案内しようと思ったんだけど。
「はい、ご案内します。結凪、行くわよ……って、面白いことになってるわね」
「重いよ珪っ、アタシのちっちゃさ知ってるでしょっ」
「ゆいちゃんの温もりを補給してるから、ちょっと待って……」
「なんか引っかかる言い方だなあ! それに、あんたも大変な姿勢でしょうにっ」
「これくらい何てことないもん……」
「不思議な光景」
「氷湖も一刀両断してないで助けてよっ」
いつの間にか、背が高い雪稜さんが膝を床につけて無理やり砂橋さんの胸元に顔をうずめていた。やっぱり雪稜さんの砂橋さんに対する感情は幼馴染に向けるものだけかは怪しいなあ。
「ほら離れてっ、てうわ力強っ」
「ううー……」
「なんだよそんなに甘えちゃってさあー、もおーっ」
「あそこで冷たくなり切れないところが結凪の可愛いところね」
「ですねっ。結凪先輩、何だかんだで優しいですから」
結局砂橋さんが数分を要して引き剥がすことに成功し、僕たちはようやくA会議室に向かうことにした。
展示を見るとやっぱり技術者としては気になるようで、和重技師や雪稜所長からは初日に負けず劣らずな難しい質問が飛び交う。
「これ、液浸は純水を調達したのか」
「はい。製造工程に使う純水パイプから引きました」
「よくそれで精度が出たな。レチクルは――」
「鷲流くん、このMelon Hillコアの設計にはどれくらい掛けたんだい?」
雪稜所長に狼谷さんが捕まっているのを横目で見ていると、こちらには和重技師から質問が飛んでくる。休んでいる暇なんてない。
「そうですね、夏合宿前から取り組んでは居たので一ヶ月半くらいでしょうか」
「へえ。それも早瀬さんが?」
「はい、私の設計です」
「ほおほお、既存コアの改良とはいえよくやる」
一方で、雪稜さんの方をちらりと見ると道香や砂橋さんと一緒に実動デモを見ながら勉強をしているようだった。
「そう、ここの線はメモリだから差動じゃないシングルエンドなの。メモリ周りの回路設計の時は――」
「『クロストーク』と『スキュー』に注意、でしょ?」
「そうそう、正解。逆に周波数が高い信号は『マイクロストリップ』にすると損失が大きいからそこもね」
「おお、ちゃんと勉強してるね。てか、そんなとこまで出るんだ」
「そうそう。かなり本格的ってお父さんも言ってた」
「あの人の言う本格的って、ガチな奴じゃん」
どうやら、さっき自分でも言っていた通り試験勉強は順調みたいだな。
そんなやり取りを聞いて、一つのことを思い出した。
「そういえば、和重技師。初日に来たJCRAの視察団の方で、柴田さんという方が和重技師のことを御存じでした」
「あーそうそう。名刺も貰ってたんだけど、この人」
「おお、一技開の時の柴田か! 懐かしいな」
砂橋さんがほい、とやる気なさげに渡した名刺を見て、和重技師は破顔した。確かに和重技師と繋がりのある人だったらしい。
「こいつは俺が初めて持った部下だったんだ。あいつも優秀なエンジニアだが、今はJCRAに出てたのか」
「へえー、お爺ちゃんの初めての部下さんなんだ」
「ああ、沢山迷惑をかけられたし、沢山迷惑を掛けたよ」
そう言って笑う和重技師の表情は、なんだか懐かしいものを見ているようだった。もしかしたら、当時の様子を思い出しているのかもしれない。
「そうかそうか、こいつもこんなに偉くなったのか。今度電話の一つでも入れてみるとしよう」
「ええ、きっと喜ばれるかと」
JCRAの偉い人ですら部下だった時期があるあたり、やっぱり和重技師は凄いエンジニアなんだな。
「そういや、何かあいつは言ってなかったか?」
「んー、怒ったときは烈火のように怒るって言ってたかな」
「ははは、あいつめ。絶対に電話の一本でも入れてやろう」
その言葉を聞いて、この人だけは怒らせないようにしようと内心で誓った。
「いやー、素晴らしいですね。いいものを見せていただきました」
「こちらこそ、遠くからお越しいただいたのにがっかりさせる訳にはいきませんから」
それからたっぷり三十分ほどは雪稜所長と雪稜ちゃん、それに和重技師に説明して回り。
ようやく玄関に戻ると、砂橋さんがぽつりと言葉を漏らした。
「ね、アレの話してもいいんじゃないかな。もしかしたら何か意見を貰えるかも」
「アレって、今作ってるアレのこと?」
「そそ。念のためNDAを書いてもらうとして、漏らすような人たちじゃないのはアタシがよく判ってるから」
「ん、いいかも。皆さん、もう少々お時間ありますか?」
「もちろん、君たちの展示を見に来たようなものだからね。いくらでも時間は調整しよう」
「では、今作っているものについて意見を頂けるとありがたいのですが」
「構わないぞ。むしろ聞いていいのか?」
「いいよ。どうせ競争相手は全部海外だし、情報を漏らしたりはしないでしょ。だよね?珪」
「もちろん。お父さんも絶対にそんなことしないよ」
僕たちの方も時間はあるし、何よりアドバイスを貰うならこれ以上頼もしい存在もない。その間に、狼谷さんは控室に動かしていた機密保持契約書を持ってきていた。
「一応決まりなので、これだけサインして貰ってもいいでしょうか?」
「はは、機密保持契約書か。懐かしいな」
蒼はそれを受付のバインダーに挟んで渡すと、三人は喜んでサインをしてくれた。
「珪はついでに、うちの部室のもっと中まで案内してあげるよ」
「ありがとう、ゆい先輩っ」
「では、こちらへどうぞ」
「受付と説明はあたしに任せて、ごゆっくりー」
「すみません、お願いしてしまって……何かあったらチャットで連絡ください」
「いーのいーの、そのためのあたしだもん。有益なアドバイス貰ってきてね」
星野先輩に受付を託して、機密保持契約書が無いと入れないエリアへと向かう。会議室から奥に繋がるドアを開けると、三人からは声が漏れた。
「改めて訪問してみると、本当に凄いですね。一部活にこれだけの設備があるとは」
「JCRA様様だな。うちのチップでも作ってもらうか」
「……す、凄いっ!」
「いまガラス越しで見ていただいてるのが、うちの製造設備ですね。世代は90ナノの機械たちなので古いのですが」
「いやいや、学校にこれだけの設備があるのが凄いんだ。僕もこんなところで勉強したかった」
「珪には後でもっと詳しく説明してあげる。さ、二階に行くよ」
そう言ってずんずんと階段を上がる砂橋さんに続いて、僕たちも二階へと向かう。
「どこでやる?普段は会議室だけど」
「んー、オフィスエリアの使わない机でいいんじゃない?」
「それで良いと思うわ。資料は……可搬型のスクリーンがあったはずだから、それを持ってこようかしら。プロジェクターはあるし」
「あ、わたしも手伝いますっ」
「ありがとう、道香」
階段を上ったところでプレゼンの機材を取りに倉庫へと向かう蒼と道香とは別れ、一足先にオフィスエリアへと入る。
「ここが、僕たちが普段活動しているオフィスエリアです。デザインなんかは全部ここで起こしている感じですね」
「……あのえらいことになってる机、ゆい先輩のですよね?」
「そう。紙の塔が林立してるところ」
「ははは、和重チーフの机とそっくりですね」
「ああ。お前の親父も片付けが出来ない人間だったからな、完全に遺伝だ」
「もーっ、余計なことはいいの! 確かにアタシの机だけどさっ」
デスクの上に置いたままにしていたノートパソコンを立ち上げて、資料の準備をする。開発会議の時に使った資料で十分かな。
「お待たせ、すぐ見つかってよかったわ」
「あそこも一回整理しないとですねえ……」
「設置、手伝う」
すぐに蒼と道香も戻ってきた。狼谷さんの手伝いでぱぱっと展開して、早速説明を始める。
説明が始まった瞬間、雪稜所長も和重技師も目の色が変わった。本気の技術者の目だ。
「って感じのチップを作ろうとしてます。以上、説明終わりっ」
大体三十分くらいだろうか。最後のプロセス技術に関して説明していた狼谷さんと砂橋さんが話を終えて、全ての内容を話し終えた。
「……こりゃ、大変なものを作ろうとしてるな」
「ええ。本当に出来たらすごい話です」
話を全て聞いた雪稜所長と和重技師の表情は明るくない。止めるべきか進めるべきか悩んでいるように見える。
今まで様々なことを決断してきたんだろうお二人でも決断するには渋い顔をする必要がある程に、このプロジェクトはリスキーだということだ。
「やはり、それくらいハードルは高いですよね」
「高い、なんてものじゃないな。キミたちがやろうとしているのは、人間に空を飛べと言ってるようなものだ」
「……わかって、ます」
「特にプロセスはめちゃくちゃだな。さっき下で走っていたのは試作だろう?」
「はい。SADPの試作ラインがようやく出来たので」
「まあ良品率次第だが……SADPにHigh-K材料の適用、どちらも凄く難しいのは理解しているね?」
「論文を読んで改善の目途は立っているので、試すだけです」
「ボードも、かなり複雑になるだろう。この速度の信号をきちんと流せるボードを設計できるのか?」
「はいっ、高速信号の怖さは重々承知です。素材とデザイン、両方で特性を改善したボードを製作する予定です」
「結凪も。ソフトIPの『ポート』だからってなめてかかるとえらいことになるぞ」
「わかってる。そのための試作チップも起こす予定だし」
「そして早瀬さん。これだけの機能のコアでは、相当な最適化をしないとこの面積には収まらないでしょう。目途は立っているのですか?」
「はい。論理設計段階から余計なものを削る努力をしています」
「最後に鷲流くん。バックアッププランはあるのかな?」
一人一人担当者に覚悟を問うて、そして最後にはプロジェクトマネージャーの僕。
不安げに見つめるみんなの視線が集まる中、ゆっくりと口を開いた。
「……はい、考えています。二月頭までに目途が立たない状況であれば、バグが概ね取れて安定しているMelon Hillベースのチップに切り替えるプランです」
これは、今まで星野先輩以外には伝えてこなかったバックアッププラン。
「ねえ鷲流くん、代替プランは何かあるの?」
「やっぱり必要、ですよね」
「うん。全部が上手くいかないと、この絶妙なバランスの上に立つチップは完成しない。その時に魔の八月を繰り返すのは、絶対に見たくないから」
「僕もそう思ってます。考えておきますね」
「頼んだよ、プロマネくん」
性能は出ないかもしれない。勝つことは難しいかもしれない。
でも、出すものが全くないよりは絶対に良いことだ。
そう思って、このまま進むと決めた時からひそかに検討していたもう一つのプランだった。
僕の言葉の後、沈黙が流れる。全員が固唾を呑んで見守る中、突然雪稜所長はにっこりと笑って見せた。
「……よし! なら僕たちから言うことは何もないよ」
「ああ、大いに挑戦してみるといい。聞いていておかしなところも無かったしな」
「……意外。止めてくると思ってた」
「あー、まあ、お勧めはしないな。身の程にあってないといえばその通りだ」
「でも、少なくとも今の段階で止めるべきだと思った要素が無いんだよ。リスクを全員が認識していて、それを解消する見込みがあるのだから」
「それに、きちんとバックアップもある。はは、さすがは日本一の部活だ」
「ありがとうございます」
蒼の声は、本当に安心したもの。正直僕もほっとした。僕の判断は、とりあえずここまで間違っていなかったようだ。
一方、砂橋さんはぽかんとしている雪稜さんに声を掛けた。
「珪、何かコメントある?」
「……ゆい先輩たち、また凄いことしてるんだなって思いました」
「普通のコメントだねっ」
「だって、だってだって、言ってることはわかったけど、教科書には参考程度としてしか載ってないことを全部やろうって言うんだよ!?」
「ふふっ、それくらいじゃないと世界には勝てないんだよっ」
「なんで道香が自慢げなの?」
「頑張って勉強しなきゃ……」
決意を新たにしてくれたらしい雪稜さん。一方で、雪稜所長と和重技師からも嬉しい言葉が飛び出した。
「さて。せっかくだし、設計を見てもいいかな? もう少しアドバイスできることがあるかもしれないしね」
「いいんですか!? 是非お願いします」
「じゃあ君は狼谷さんの方を見てくれ、プロセスならわかるだろう?」
「わかりました、那珂に居たのは飾りじゃないのをお見せしますよ」
「はっは、その意気だ。私は論理設計の方を見よう、いいかな早瀬さん?」
「もちろんです、是非宜しくお願いします」
「んじゃ、アタシたちは部室の紹介しようか。いい?珪」
「うん、お願い!」
「そうだ、鷲流くんも来る?」
「お、いいのか? じゃあ僕も行こうかな」
それぞれに別れてアドバイスが始まると、僕たちは部室の中の様々な部屋を案内して回った。ラボはもちろんのこと、ファブまで入れてあげたり。
「ここがファブだよ、ウチの心臓部。今は氷湖が最新プロセスの試作を流してる」
「す、すごいっ……こんな部屋が学校に……!」
「びっくりしちゃうよな、僕も最初はそうだった」
ちょうど試作が走っているから、AHMSがFOUPを抱えてあちこちに走り回っている姿を見せることもできた。
「わぁ……っ」
ぽかんと口を開けたまま帰ってこない雪稜さんは、なんだか最初の僕の反応を見ているみたいで面白い。きっと、狼谷さんからはこんな風に見えていたんだろうな。
簡単にファブの機械を説明してから、ファブを出る。
ちらりと時計を見ると一時間ほどが経っていた。もしかしたら上で待たせてしまっているかも。そう思って階段を上ろうとすると、ちょうど蒼たちが降りてくるところだった。
「そっちは終わったのか?」
「ええ、概ね。いいアドバイスを貰えたわ、そっちはどう?」
「ちょうど今ファブの見学が終わったところだ。ぴったりだったな」
そのまま一階の廊下で合流すると、和重技師は僕の肩を軽く叩いた。
「鷲流くん、今回のチップは多分難産になるだろう」
「はい、リスクは承知の上です」
「ならいい。一つアドバイスをするなら……技術者を信じて頑張りたまえ。もっとも、君なら問題ないだろうけどな」
ははは、と笑う和重技師。
技術者を信じるということは、チームの皆を信じるということ。それなら、確かに問題ないだろう。
「珪子、見学してみてどうだった?」
「すっごい面白かった!」
「……ここで勉強したいと、そう思ったか?」
「うん。もっと頑張ろうって思ったよ」
「それなら、わざわざ若松まで出た甲斐があったな」
そして、成果を報告する雪稜さんも笑顔だ。きっと、また人一倍努力してこの学校を目指してくれるだろう。
「さて、では他の展示も見に行くとするか。君たちも、時間を取ってくれてありがとう」
「いえいえ、こちらこそアドバイスまで貰ってしまって。来てくださって本当にありがとうございます」
「また何かあったら気軽に連絡して欲しい。いつでも力になろう」
「もう、お爺ちゃんは格好つけすぎ!」
砂橋さんのツッコミで、また皆が笑顔になった。
「珪子も、わからないところがあったらいつでもWINEしてね」
「うんっ、もちろん! ガシガシ送っちゃうから。ゆい先輩にも」
「アタシにも!? まあ、いいけどさ……」
「ちょろい」
「氷湖今なんて?」
「ふふっ、仲が良くて何よりだわ」
そしてその笑顔のまま、三人は部室を後にする。珪子ちゃんなんかは、木の陰に隠れて見えなくなるまで手を振り続けていた。
「……やっぱり、大型犬ね」
「ん、それに関しては否定しないよ」
どうやら、みんな思うところは同じらしい。
◇
そんな文化祭も、後は特に大きな波乱もなく過ぎていき。
「これにて、霜月祭を閉会致します。来年またお会いしましょう」
日曜日の午後五時、閉会を告げる放送が入る。
「はあー、終わったねえ……」
「さすがに、疲れた」
それと同時に、B会議室にはため息が溢れた。
皆もなんだかんだで疲れたらしい。特に半導体工学科組はクラス企画に徴兵されないのをいいことに、シフト外の時間で開発を進めてくれていたようだからなおさらだ。
「みんなお疲れ様。大盛況だったんじゃないかしら?」
「暇な時間が多かったけどね」
「それはいつものことだって。あたしが一年の時の霜月祭よりお客さんは来たと思うよ」
「んー、これで一大イベントも終わったし、いよいよ本格的に開発だな」
「ええ。頑張らないと」
幸い、明日は片付け日だから授業がない。片づけは明日に回しちゃうか。
「さて、今日は終わりにしましょ。疲れてるだろうし、みんなも帰っていいわ」
「片づけは明日やるからね。って言っても、どうせそんな手間じゃないけど」
「そうね……集合は十時にするわ、いいわね?」
「はーいっ」
「桜桃ちゃんは元気だなあ」
「宏にしては珍しくへばってるな。そんなに大変だったのか」
「そりゃもう、目が回るほどに」
「あの死骸もそれと関係あるか?」
「ああ、大アリだ。大活躍だったぜ」
ちなみにウチのクラスの企画は大成功もいいところ。今日は何度かシフトに入ったけど、シンプルに忙殺された。
「んじゃ、今日はかいさーん。打ち上げとかはまた今度考えよ」
砂橋さんのゆるい一声で、続々と部室を後にする。
こうして、文化祭は成功裏に幕を閉じた。
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