0x03 新たな協力者

 親父からの挑戦状が皆に知らされたあの日から一週間と少しが経った、十一月一日金曜日。

 僕の気持ちも蒼のお陰で安定しているし、二日に一度ほど見る思い出も温かな時期のものなお陰でわりと元気に動けている。

「おーっす」

「シュウ、お疲れ様。あっそうだ、試作用部材のことなんだけど」

「はいはい、ちょっと待ってね?」

「蒼が終ったら、次はこっちに」

「了解、ファブがいい?」

「いや、ここでいい。話す前にちょっと調べることもあるし」

 放課後の部室では全員作業に勤しんでいて、僕も引っ張りだこだ。

 特に今回は技術面でのハードルが高いから、皆張り切って取り組んでくれている。

 まずは最初に声を掛けてくれた蒼の元へ向かうと、相変わらずごちゃっとした画面の中でHDLと戦っていた。

「試作用の部材だっけ? 蒼から話をしてくるなんて珍しいね」

「ええ。今回はスケジュールがあるから四ステッピングくらいいけそうじゃない?」

「スケジュール的にはそうだな。今のところ最終ステッピングを二月末ってくらいにしか決まってないし」

「氷湖も把握してると思うけど、ウエハーが足りるかしらと思って。ガスは日酸からだから大丈夫だと思うけど、それ以外の材料には気を配っておいて頂戴。リードタイムが長いものも少なくないから、早め早めに発注よ」

 どうやら何か問題があったわけではなく、注意喚起という側面が強かったみたいだ。

 確かに、今回は今までにない長期戦になる。戦いで言えば兵糧にあたる試作用の材料はちゃんと確保できるようにしておかないと。

 戦いに負けるのは概ね補給線が限界を迎えたときだというのは、悠とやった戦略ゲーで嫌というほど学んだ。何回バルバロッサ作戦に失敗して史実をなぞったか覚えていない。

「ああ、その辺は聞いてる。注意ありがとう」

「ならいいわ。後の事務系は大丈夫?」

「大丈夫なはず、大会事務局に連絡とかは済ませたし。蒼の方のスケジュールは?」

「……はっきり言って進みは良くないわ、二日遅れくらいかしら。そもそも基幹となるインオーダー部の大枠の設計も終わってないから」

 やっぱりというべきだろうか、肝心の開発状況は今一つのようだ。

 最近のCPUのコアは、インオーダー部とアウトオブオーダー部に概ね分けることができる。命令を取ってきて解釈し、実行の準備を整えるまでがインオーダー部、その後空いた実行ユニットに手を付けられる命令から投げ込んでいくのがアウトオブオーダー部になる。

 このアウトオブオーダー部に命令を供給するのがインオーダー部で、命令を供給出来るスピードが処理する速度を超えないと実行ユニットが余ってしまい、性能が出なくなってしまう。

 一方インオーダー部も複雑なデコーダーとかで構成されているから、不必要なほど強化しても有限な電力と熱の枠を潰し、さらには貴重なシリコンの面積も使ってしまう。

 つまりは、インオーダー部とアウトオブオーダー部のバランスを取りながら開発をしていく必要があるってわけだ。

 今はそのインオーダー部の性能を決める細かい設計が済んでいないということで、この間の大きなアウトオブオーダー部に手を入れられていないということになる。

 その遅れの理由は判っていた。手を付けないといけない箇所の数に対して、明らかに人手が足りていないのだ。

 特に、遅れるとまずいプロセス開発の方に砂橋さんや道香まで駆り出されてしまってるのが痛い。どちらも遅れるとその先に進めないだけに、今はこの部員の少なさがネックだ。

 本当はプロジェクトマネージャとして何とかしてあげたいのだけれど、こればかりはどうしようもないのが悔しい。

「わかった、無理だけはするなよ」

「ありがと、そう言ってくれて助かるわ。じゃあ私は設計に戻ってるから、何かあったら声かけてちょうだい」

「ん、了解」

 とりあえず蒼の元を離れると、次に向かうのは狼谷さんのデスク。

 ファブにいることも多いからだろうか、それとも性格からだろうか。狼谷さんのデスクはいつも物が少なく整理されていた。

 そういえば、前に狼谷さんの部屋に行ったときも物が少ない小綺麗な部屋だったな。そう考えると性格の面が大きいのだろう。奥で唸っている毛玉少女とは真逆だ。

「お待たせ狼谷さん、どうした?」

「まずは、論文通りにSRAMを試作した結果」

「おお、もう出来たんだね」

「といっても、ラインとしては組みあがってない。一工程ずつ、場所によっては手動でやった結果」

「そりゃ確かにまずそうだ」

 とりあえず画面のスライドに目を落としてみると、どうやらSADPの方はある程度形になったらしく、面積は同じで容量を二倍にできたとある。

「……いや、試作だからだと思うけど、イールドは酷いね」

「CPU甲子園の前を思い出す、酷い数字。ダイ全部が動作したチップはまだ作れてない」

「一応改善の見込みはあるんだよね?」

「単純欠陥もかなり多いし、諸々の最適化もまだ。だから、今が最悪」

「よかった」

 だけど、指摘した通り良品率は久しぶりに見たゼロ。改善する見込みはあるとはいえ、やはりこちらのハードルも高いのは間違いなさそうだ。

 そういえば、SADPの原理を聞こうと思って聞けていなかったな。今のうちに聞いちゃおう。

「せっかくだし、SADPの基本的な考え方を教えて貰ってもいい?」

「ん。まずは、シリコンの上に元となる素材Aで線を引く」

「ここまでは今まで通りだよな。だけど、元となる材料Aってなんだ?」

「珪素やマスクと反応特性が違う素材であれば何でもいい。理由はあとで」

 そう言うと、砂橋さんは紙の上に一本の長方形を描いた。その下に、線と同じような四角を描く。きっと、今描かれた材料Aによる線の上からと横からの図だろう。

「次に、さらに別の材料Bを使って成膜をする。この素材はエッチング用のマスクになる素材。この時、線の周りにもシリコンにも同じだけの厚みの膜が出来る」

 そう言いながら、砂橋さんは四角形の外側にもう一回り大きな凸の字が連続しているような線を引いていく。これが素材Bだ。

「均一な別の素材を作るんだな。でも、このままだとデコボコしてるよな?」

「そう。次の工程で、ウエハから垂直にドライエッチングを掛ける」

「せっかく付けた素材Bの薄膜が全部無くなっちゃうんじゃないか?」

「思い出して、ドライエッチングは真っすぐ削ることができる。線の上に乗ってる厚みとシリコンの上にある厚みは同じ」

「ってことは、上から見て線と線の間のシリコンがむき出しになるまで削れば……」

 小さく頷いた狼谷さんは、それからさっきの凸の字に斜線を入れていく。残ったのは、素材Aを挟む素材Bの線だけ。

「素材Aを素材Bで挟んだような線が引ける。あとは、素材Aだけをエッチングして無くせば、任意の太さの線がAの二倍引ける」

「今までは一回露光したら直接金属を埋め込んでたのを、一回別の素材を挟んでその両脇に配線の金属をつける、って感じになるんだな」

「そう。複雑」

「これを、下のほうの大体全部の層でやらなきゃいけないのか」

「だから時間がかかるし、不良率も上がる」

「なるほどな。教えてくれてありがとう」

今までは、マスクを付けて、露光して、洗浄して、エッチングして、というだけの工程が、圧倒的に複雑になっている。これは確かに不良率が上がりそうだ。

 狼谷さんは相変わらずの無表情だけど、口元だけが緩むのが見えた。判りにくいけど、見分け方さえなんとなくわかってしまえば意外と表情に出てるんだよな。

「あとはもう一つ言ってたよな。HKMG……だっけ? あっちはどう?」

「そう、その話が本題」

 そんな狼谷さんにしてはめずらしく、はっきりと眉毛の端が下がった。どうやらかなりよろしくないことらしい。

「JCRA扱いの材料だと、High-K素材である酸化アルミチタンの純度が足りなかった。それと、メタルゲートの材料の扱いもない」

「メタルゲートの材料は何なんだ?」

「窒化チタンとルビジウム。このうち窒化チタンはJCRA扱いで半導体グレードのものが手に入るけど、ルビジウムがない」

「ちなみに、ルビジウムが無いとどうなるんだ?」

「PMOSのトランジスタが作れない。だから、チップが完成しない」

「そりゃ大事だな……わかった、確認してみる」

「必要な材料の仕様はメールで送る。お願い」

 材料の扱いが無いのはかなりの大問題だ。自分の席に戻ってちょっと調べてみると、ルビジウムは危険なレアメタルとのこと。そんなものを扱ってないのはある意味当然なんだけど、それはそうとしてチップが作れないのは困るな。

「えーっと?ルビジウム、またはプラチナかイリジウム……」

 検索を掛けると、プラチナもそうだしイリジウムも案の定貴金属だった。目が飛び出るような値段が目に入ったけど、これでも不純物が多すぎて半導体には使えないだろう。

「とりあえず確認してみる、か」

 JCRAには、カタログに載ってない必要材料も依頼すれば手配してくれるサービスが一応ある。そこで調達出来れば一番楽なんだけど。

 とりあえず電話を掛けるべく、スマホを取った。

 五分後。

「……はい、扱いはない。はい……わかりました。ありがとうございます」

 画面の終話ボタンをタップすると、大きくため息が出る。残念ながら、結果はノー。何に使うつもりなんだとまで言われてしまった。

 さらに三十分後。JCRAのリストに載っている素材会社さんに片っ端から電話をしてみたけれど、釣果はゼロだった。

「芳しくなさそうだね、お兄ちゃん」

「まさに素材集め、だなあ」

「ゲームだとよくやってるんじゃないの?」

「彼らがどれだけ大変かがよくわかったよ」

 休憩なのだろう、僕の席にふらっと遊びに来た道香が声を掛けてくれた。

 ゲーム内の彼らみたいに自分で調達しに行けたらどんなに楽だったことか。いや、それでも何十キロもの鉱石とかを採掘したら死ぬな。

 そもそもルビジウムなんかはアルカリ金属で、空気中に置いておくだけで燃えるって書いてあったし。

「んー……そうだ!」

 そんな僕の姿を見て苦笑いしていた道香は、ふと何かを思いついたらしく自分の席へと戻っていく。

 どうしたのだろうと思って見ていると、数分後に戻ってきた。

「あったあった。これ、もしかしたら役に立つかもよ」

「ん? 名刺?」

「そ、お父さんの名刺。ほら、うちのお父さん上越化学で働いてるから」

「じょうえつ、かがく?」

「そ、日本最大の化学材料企業で、半導体材料の世界シェア一位の会社だよ? 知らなかった?」

「……全く」

 わりと勉強してきたつもりではあったけど、材料の会社にまでは目を向けていなかった。 貰った名刺に目を落としてみると、道香のお父さん――桜桃小市おうとう こいちさんの名前がある。

「もしかしたら、ちょっとでも売ってくれるかも。直接売ってなくても、扱ってるとこを教えてはくれると思うし」

 それはまさに、天国から伸ばされた一本の糸のよう。それに、僕もよく知っている人だから連絡を取るのに抵抗もない。

「ありがとう道香、連絡してみる。本当に助かった」

「ううん、チップが出来ないとわたしの出番もこなくなっちゃうから。頑張ってね、お兄ちゃん」

「本当にありがとな」

 道香はそう言って笑うと、スカートを翻して冷蔵庫の方へと向かっていった。

 貰った名刺を裏返すと、裏には英語が書いてあった。なにより会社の住所が英語だ。アメリカ勤務なのだからある意味当然だけど。

「メールは……日本語でいいよな?」

 ためらったのも一瞬。

 親父が消えてから第二の父親のように良くしてくれた恩人の元に、久しぶりにメールを打つ。文面はすぐに出来て、最後に狼谷さんから貰った資料を添付して送った。

 この時間だとアメリカは深夜だし、今日中に返事が来ることは無いな。

「ごめん、難しいことをお願いして」

「いや、これが無いと作れないんだろ? なら、プロジェクトマネージャーとしては何としてでも確保しないとな」

 メールの送信とほぼ同時、狼谷さんが様子を見に来てくれていた。気にしてくれていたらしく、不安そうにその眉は下がっている。

「私はこれからファブに入る」

「わかった、最終下校の前に連絡するよ」

「あと一つ、お願いがある。手が空いてる時でいいから、事務室に行って欲しい」

「荷物か?」

「そう。霜月祭で使う展示用シリコンが届いたみたい」

「お、早いな。わかった、ちょうど今手が空いたところだし行ってくるよ」

 お願いは他愛のないものだった。こういう誰がやってもいい仕事を片付けるのもプロジェクトマネージャーの大事な仕事だ。

 狼谷さんに言った通り、今すぐにやらないといけない仕事は片付けたところ。気分転換も兼ねて散歩に出るとしよう。

「雑用をお願いしてしまって、申し訳ない」

「気にしないで、プロジェクトマネージャーなんてそれが仕事なんだし」

 少し申し訳なさそうな狼谷さんと一緒にオフィスエリアを出て、一階に降りたところで狼谷さんはファブへ入っていった。

 一方の僕は玄関から外に出る。今日もいい天気で、沈みかけの太陽は緩やかに並木を照らしていた。

「んー……大丈夫かな」

 一人になると、どうしても不安が口をついて出てしまう。

 アジア大会の時とは違い、皆がかなり新しいことに挑戦してくれている。それ自体は問題ないことだし、この間みたいに悔しい思いをしないためには必要だ。

 だけど、約二週間で早速壁に当たっている状態でもある。正直、このまま進めて本当に大丈夫かと思ってしまっているのも事実。

 CPU甲子園の時みたいにギリギリになってから地獄を見るのは、みんなの負担を考えると出来るだけ避けたい。

 そんなことを悩みながら構内をとぼとぼと歩いていると、聞き覚えのある声が後ろから飛んできた。

「……あれ、鷲流くんじゃん。久しぶり」

「あ、どうも。お久しぶりです、星野先輩」

 振り返ると、そこに居たのは蒼より少し背の高い女子生徒。

 声を掛けてくれたのは星野先輩だった。こうやって話すのは、CPU甲子園の翌日以来になるかな?

 星野先輩はそのままとてとてと走ってくると、不思議そうな顔をしながら僕の顔を覗き込んできた。

「どしたの、そんな深刻そうな表情しちゃって」

「そんな顔してました?」

「うん、なんか悩んでます! って顔だったよ」

 そんなに顔に出していたつもりはなかったんだけど、無意識のうちに表情に出てしまっていたらしい。

 でも、文字通りの部外者に細かいことを伝えるのはどうなんだろう。

「あー、まあ……今ちょっと悩み事がありまして」

「おねーさんに話せること? 相談に乗ろっか」

「いや、電工研の人に知られる訳には……あれ、でも世界大会だからいいのかな」

「あたしはもう引退したよ。あのCPU甲子園が最後、もう受験も近いしね」

 薄ーく誤魔化そうとしたけれど、先輩は更に食らいついてきた。長い付き合いではないけど、どうやらお節介焼きなところがあるみたいだ。

 それに……あの魔の八月を知っているエンジニアでもある。もしかしたら、何かアドバイスをもらえたりするのかもしれないという期待はあった。電工研ももう引退しているようだし、意外と良い人選かも。

 それと同時に、一滴の違和感が脳裏に落ちる。部活でもないのに、どうしてこんな時間まで残っていたのだろう?

「あれ? じゃあなんでこんな時間まで」

「そりゃ、自習してたんだよ。いくら推薦が貰えそうとはいえ、ダメだった時に備えて勉強しておかないとね」

 その理由はとってもシンプルだった。たしかに言われてみれば受験生なのだ、今は受験勉強の真っ只中だろう。

 というか、この人推薦貰えそうなんだ。やっぱり成績も優秀なんだな。

「……じゃあ、僕の話を聞いてる場合じゃないんじゃ?」

「それとこれとは別だよ。どちらかといえば、受験勉強がしんどすぎてちょっと休憩したい言い訳だったり」

「それなら、お願いしてもいいですか?」

「うんうん、そんな顔してるキミを放っておくのも寝覚め悪いしね。そうだな……せっかくだし屋上でも行ってみる?」

「わかりました」

 星野先輩の後ろについて、残ってる人も少ない静かな校舎を上へ上へと上っていく。最上階である四階を超えて、屋上に繋がる重たいドアを開けた。

 そこに広がっていたのは、夕焼けに染まる真っ赤な空。明日の天気も悪くは無さそうだ。

「ん-、あそこにしようか」

 辿り着いたのは、屋上にいくつかあるベンチだった。僕たち以外の人影はなく、どこか遠い世界の出来事のようにグラウンドから部活の声が響いている。

 僕と星野先輩は少し間を空けて、その少し古びたベンチに腰を下ろした。

「さーて、じゃあ話を聞こうか。どうしたの?」

「今、うちの部活で世界大会に向けてのチップを作ってるんですよ。時間があるので新しいチップを一から」

「そう言えばおめでとうって言ってなかったね。アジア大会三位、おめでと」

「ありがとうございます」

「で、その新しいチップでもプロマネやってるの?」

「そうなんですけど……目標をどうするべきか悩んでまして」

「目標? そりゃもちろん優勝なんじゃないの?」

「それはそうなんですけど……今年、Intechがエキシビジョンで出るみたいで」

「へえーっ、そりゃまた凄いことだね。この大会のためにわざわざチップ起こすんだ」

「詳しくは言えませんが、うちの部にそのチップの性能目標が届いたんですけど……去年の優勝チップの二倍の性能なんです」

「うわ、えげつな。商業でやってるとこが本気出したらそうなるよね」

「うちの部活ではその一.五倍の目標にしたんです。なんですけど……開発から二週間で、プロセスもロジックも壁に当たってまして」

「まあ、あたし達の持ってるもので挑もうと思ったらそうなっちゃうよねえ」

「で、このまま進めていいものなのかなと。プロジェクトマネージャーとしては」

「なーるほどねえ……」

 吐き出したいことを全部言うと、なんだか少しすっきりした気がした。一方の星野先輩は、何かを懐かしむような……そしてどこか悔しそうな表情。

「なんだかすみません、こんな話聞かせてしまって。話しただけでちょっとすっきりしました」

「……ねえ、鷲流くん。昔話がひとつあるんだけど、聞いていってくれない?」

「聞かせて欲しいです。是非」

 そう伝えると、先輩は大きく息を吐く。

「んじゃあ、これはある計算機工学科の生徒の物語ってことで聞いてね」

 それから、懐かしむようにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「あるところに、将来を期待された計算機工学科の一年生が居ました。彼女は計算機系の部活に入ると、早速頭角を表してすぐに自作のコアを製作します。そのコアの優秀さが認められて、彼女は一年生ながら十一月の秋季新人成果発表会向けのコンペに参加する権利を得ました」

 その語り口ですぐに判った。これは、星野先輩の歩んできた物語だ。

 先輩は、変わらず滔々とした話し方で、まるで何かの物語を朗読するかのように続ける。

「彼女は開発チームを組み、早速チップの開発を始めます。……ですが、彼女はエンジニアとしては優秀でしたが、マネージャーとしてはそうではありませんでした。自分も携わるコアの設計にかかりきりになってしまい、周辺回路まで手が回らずに時間切れ。コア以外は無難なIPで揃えることになってしまいました」

 ……これは、Willametteと呼ばれたチップの裏話なのだろう。砂橋さんと蒼が「コアには見どころはあるけど、チップ全体としてはIPを使った性能的に無難なチップ」と評していたけれど、その裏には星野先輩の失敗があったのだ。

「さらに、彼女はプロジェクトマネージャーとして致命的な欠点が二つありました。その一つ目、未来を見通す力が足りていなかったのです」

「未来を見通す力、ですか」

 そして、先輩が語ったのは未来を見通す力、という言葉。

 自分にはそんなものがあるとは思えない。でも、言葉を挟むような雰囲気でもない。

 先輩は、まるで自嘲するように問いかけてきた。

「彼女が掲げた性能目標は、対抗となるチームの性能の一.一倍。君ならわかるよね? これが良くないことは」

「……ええ。それくらいでは、ちょっとでも相手が良いチップを作ったり、自分のチップの性能が伸びきらなかったときに負けてしまうでしょうね」

「ん、その通り。結局性能は伸びず、相手のチップが思ったよりも性能がよかった両方の理由で大敗北を喫してしまいました」

 ……なるほど、未来を見通す力、か。ようやく先輩の言いたいことが少し判った気がした。

 確かに将来のことなんて判らない。だけど、それを手元の情報と肌感覚を元に精度の高い予測を立てられる勘を持っている必要があるわけだ。

「さらに、悲劇は続きます。新人大会向けのチップを手がけることが無くなった彼女は、コアの設計を買われて翌年のCPU甲子園向けのコアの開発を行う、メイン論理設計チームのサブリーダーに抜擢されてしまいました」

 先輩の昔話は魔の八月に直接繋がる話になる。どこかには携わっていたのだろうと思っていたけど、まさか論理設計のサブリーダーだったなんて。

 ということは、蒼のあの件も、もしかして。

「論理設計チームのリーダー、そしてプロジェクトマネージャーも務めた人は、夢を語る技術に優れた人でした。プロマネとチームリーダーなんて兼務は難しいから、彼女は実質論理設計チームのリーダーだった訳です」

「夢を語る技術?」

「そ、プロジェクトマネージャーとして大事な技術の一つだよ。目標を設定するときに、どうやってそれを達成するのか、そしてそれがなぜ必要なのか。それを魅力的に語る技術が本当に凄かったんだ。みんな、夢を見たみたいに浮かれてた。それが本当に、泡沫の夢とは気付かないくらいに」

「なるほど……」

「彼が夢見た野心的なチップに憧れた彼女たちでしたが、進めれば進めるほど壁の高さに気が付きます。ですが、気分を良くしたそのリーダーはその壁をさらに高くしていきました。不可能とも思え始めた目標に、なんとかリーダーを軌道修正しようとする彼女でしたが……努力もむなしく、開発は破滅へと突き進んでいきました」

 今までも聞いてきたけど、やはりPrescottのプロジェクトマネージャーが主因なのは間違いない。今は何をしているのか知らないけど、顔も名前も知らないその人の評価は話を聞くたびに下がっていってしまう。

 でも、その人がプロジェクトマネージャーになった理由は理解できてしまった。

「四月に入学した新入生も徴兵し、即実戦に叩き込んで……当然ながら、質は良くない回路が沢山出来上がります。その修正や改良に手が取られ、彼女は軌道修正を試みることすらできなくなりました」

 ……夏合宿で皆でやった仕事のほとんどを、自分一人でやらざるを得ない状況ということだ。

 さらには勉強も経験も不充分な子たちを開発に直接入れてしまったから、考えるのも恐ろしい事態になったのは想像に難くない。

「ここで、もう一つの致命的な欠点が露になりました。頼れるエンジニアが居ない、ということです。自分の手が一杯でも、それを助けてくれる人は居ませんでした。人の数もそうだし、質もそう。つまりは自分たちに見合わないものを作ろうとしてしまったんだよ、そうとも気付かずにね」

 心臓が止まるかと思った。なぜなら、それは僕たちの未来にも聞こえたから。

 確かに質は万全だろう。だけど、人は足りていない。

 だけどそんな冷や汗は、どうやら伝わらずに済んだようだった。

 星野先輩は視線を地面へと落とす。その表情は髪の影になってしまって、伺うことはできない。

「そして……彼女は一番大きなミスを犯します。本番用チップが間に合う最後の機会、とっても優秀だった一人の一年生のコードを十分にチェックすることなくリリースしてしまいました。ですがそこには致命的で、かつ見つけづらいエラッタが潜んでいたのです。結果的にそのチップはまともに動かず、大会は棄権せざるを得ませんでした」

 これが、魔の八月の真相。

 文書にも残らなかった、崩壊したプロジェクトの現実なのだ。

 明かされた当時の状況に言葉を失っていると、星野先輩は空を見上げた。その表情は……まるで今直面しているかのように、とても悔しげだ。

「私は、その子に合わせる顔がありませんでした。忙しいことを言い訳にサブリーダーとして絶対にやらなければいけなかった仕事を省略した結果、彼女の心に大きな傷を付けてしまったのです。絶望した彼女は、逃げるように部を去りました」

 一筋の涙が先輩の頬を伝うのが見えて、どう声を掛けようか迷っていた言葉が全て吹っ飛んでしまった。

 今まで、全く考えなかった訳ではない。砂橋さんの言うように、彼女……星野先輩は、蒼たちを見捨てて部を去ったと。

 でも、星野先輩はこれだけの後悔と辛さを抱えていたのだ。正直自分でも、同じ状況なら……同じ部に居続ける自信はない。

「……はい、おーしまいっ。何が言いたかったかって言うとね、キミが信頼してるエンジニアがいける、って言うなら信じてあげて。でも、細かく状況を確認して、無理そうだと思ったら目標を下げることも考える。今いる子たちは多分みんな自分の技術に誇りを持ってるから、無理そうなときは無理って言ってくれると思うから……言葉にしてしまえば、これだけのことだよ」

 先輩は涙を袖で拭うと、笑顔を見せてくれた。

 辛い過去のプロジェクトの話をしてくれた上に、アドバイスまでしてくれて……先輩の心の強さに感服すると同時に、そんな心をもへし折ってしまった魔の八月の壮絶さに改めて閉口した。

「ありがとう、ございます」

「もう、何でキミまで泣きそうになってるの」

 結局、言葉にできたのはただ感謝の言葉だけ。

「……まあ、その子はプロマネとしては全然ダメだったわけ。キミはよくやってると思うよ、鷲流くん」

「ありがとうございます。結局その後、先輩はどうしてたんですか?」

「んー? ああ、彼女なら電工研に行ったあと、論理設計チーフみたいな感じで後輩の育成を頑張ってたみたいだよ。引退するまでに花開くことはなかったけど、来年以降の下地にはなったんじゃないかな」

「そう、ですか」

「今度は笑ってるし。表情が忙しいね、キミは」

 先輩はあきれ顔だ。どうやら別の人の話、という体を崩したくないらしい不器用さに思わず笑ってしまった。

 それと同時に、一つのアイデアが僕の脳裏をよぎる。

 今の話を聞いた後にこの話をするのは申し訳ないと思う一方、今の話を聞いたからこそ出来る話なんだとも思った。

「先輩。先輩は、今でも半導体を……CPUを作りたいですか?」

「うん、管理職は向いてなかったけど手を動かす仕事は大好きだから。大学に入ってもコンピューターやりたいなあ」

 意思はある。あとは、きっかけだけ。

 そのきっかけは、自分で作るしかない。なぜなら僕はプロジェクトマネージャーで、彼女たちを支えたいと心から思っているから。

「そうなんですね。じゃあ、あの……」

「うんうん、どうしたの? おねーさんに言ってごらんなさい」

 なんだかお姉さんに憧れがあるらしく、にやにや笑いながらお姉さんぶる星野先輩。

 僕は、その先輩の手を取った。

「ちょっ、えっ、ええ~っ!? あのっ、いや、そういうのは困るってか、あまりにも急すぎてびっくりしてっていうか」

 真っ赤になる先輩の手を握って、真っすぐ目を見て。

 出来るだけ誠意が伝わるように、ゆっくりと言葉にした。

「僕たちを……いや、蒼を助けてくれませんか?」

「……へっ?」

 屋上が沈黙に包まれる。

 太陽は山に姿を隠してしまい、少し冷たくなった風が僕たちの間を通り抜けた。

 ぽかんとした表情の先輩は、シンプルな一言を僕に投げかける。

「どういうこと?」

「今、コアの改良に対して論理設計ができるエンジニアが足りていないんです。蒼が一人で頑張っている状況で」

「……うん」

「だから、こういう言い方をするのも良くないのは判っているんですが……あの日助けられなかった蒼をもう一度手助けすると思って、僕たちと一緒に部活をしてくれませんか?」

 その言葉を聞いた先輩は、大きくため息をつく。あれ、何か間違ったかな?

 それから数秒悩んで、先輩は一つの問いかけをしてきた。

「あたしで、いいの?」

「もちろんです。蒼以上の知識と経験があって、蒼と砂橋さん、それに狼谷さんのことも知ってる。これ以上適した人は居ませんよ」

「でも、あの子たちは嫌がるんじゃ……」

「内心状況がまずいとは思ってると思うので、後は僕が何とか説得します」

 言い切ってから少し冷や汗が出る。蒼はともかく、砂橋さんはどう説得したものだろうか。

 だけど、先輩の力は絶対に必要だと思ったから後悔はしない。

 そんな先輩は、もう一回大きくため息をついてから小さく頷いた。

「……わかった。私でも力になれることがあるなら、手伝わせてください」

「こちらこそ、頼りにしてます。……ありがとうございます、先輩」

 一方的に握った手を離して、今度は握手を交わす。

 日の落ちた屋上の冷気で冷たくなった手は、少しだけ大きく感じた。

「ん、じゃあ早速部室に行こうか。まだやってるんでしょ?」

「ええ、そうしましょう」

 手を離した僕たちは、真っ暗になりつつある屋上を後にして部室へと向かう。

 その途中。

 階段を降りながら大きく伸びをした先輩は、そのまま僕の顔を覗き込んできた。

「はあーあ、びっくりした。告白でもされるのかと思っちゃったよ」

「ええっ、そんなこと……」

 そう言われて、自分の行動を思い返してみる。

 手を握って、真正面を向いて、真剣な顔で――

「うわあっ、本当だ」

 完全にアウトだ。蒼と道香に刺されてもおかしくない。

「やっぱり無意識かあ。まったく、おねーさん以外にそんなことしちゃダメだぞ? 蒼ちゃんに怒られちゃうから」

「へ?」

「あれ、早瀬ちゃんと付き合ってるんじゃないの? てっきりそうなんだと思ってたよ」

「いやいや、まだです」

「ふーん? まだ、なんだ?」

「い、いいですから早く部室に行きましょうっ」

 にやにやする星野先輩から追撃の質問を受け、全部ノーコメントで流す。僕が入ってから先輩という存在が居なかっただけに、新鮮な距離感だ。

 部室の前まで戻ると、ちょっと待っていて貰うことにした。

「いきなり先輩を連れてオフィスに入れる訳には行かないので、先に皆を集めちゃいます」

「わかった。あたしは待ってるね」

 それから部室に入ると、階段をばたばたと駆けあがってオフィスエリアへと向かう。ちらりと見たファブには誰も居なかったから、少し早めに引き上げてくれていたらしい。

「みんな、ちょっと一階の会議室に来てもらっていいかな」

「ちょっとシュウ、遅いと思ったら……どうしたのよいきなり」

「いいから、大切な話だ」

「……?」

 オフィスエリアに入って声を掛ける。全員の頭の上に疑問符が見えるけど、今は仕方ない。

 ぞろぞろと皆を連れてA会議室に入ると、全員の視線が僕に突き刺さった。

「で、どうしたのいきなり。大切な話って何さ」

「部員を一人、増やそうと思う」

「は? 今からか?」

「どうやってだよ、こんな勧誘期間でも何でもないときに」

「人はもう決まってる。ちょっと待っててくれ」

 それだけ言い残して、玄関のドアを開ける。

「お待たせしました、どうぞ」

「あはは、どうぞって言われるのも変な感じだけどね」

 そして、先輩をA会議室に連れて行く。

 一緒に部屋に入った瞬間、皆が息を呑むのがわかった。

「みんな知ってるだろうけど、星野一希先輩だ。僕たちの今のプロジェクトに手を貸してくれる」

「でもっ――」

「判ってる」

 砂橋さんが口火を切ろうとしたのを無理やり制止する。

 次の言葉を僕が発する前に、先輩は動いていた。

「早瀬ちゃん」

「はい?」

「あのときは、本当にごめんなさい。あなたの上の立場だったのに、ミスにも気付けず、助けてもあげられなかった。本当に、本当に、ごめんなさい……!」

 蒼に向けて、先輩は深く、深く頭を下げた。

 僕たちには息を呑んで見守ることしかできない。

 沈黙の中で蒼は最初戸惑っていたようだったけど、やがて優しい笑顔を見せる。

「いいえ、私も先輩に色々教わった側ですから……感謝こそすれど、文句はありませんよ。それに、他のチームからの色々な怒りの言葉を全部カバーして、頭を下げて回ってくれたのも知ってますから。あのときは私のミスで迷惑をおかけしました、ありがとうございました」

「早瀬、ちゃん……ありがとう……!」

 星野先輩は、そのまま蒼を抱きしめた。その目には幾重もの涙の筋が走っている。

 きっと、魔の八月のことは先輩の中でもトラウマになっていたのだろう。

 そんな嫌な記憶を払拭することが出来るのであれば、それに越したことはない。

 数分して、蒼は星野先輩の胸から開放された。蒼も思わず苦笑いだ。

 それから、先輩は皆に向かって言った。

「禊、ってわけじゃないけど、早瀬ちゃんのためにも出来ることがあるなら手伝いたい」

「アタシは嫌だかんね、そんなの」

 それでも、やっぱり砂橋さんは嫌みたいだ。鋭い言葉が部室に走る。

「ちょっ、砂橋さん」

 あわてて止めようとしたけど、続いたのは……思っていたのとは全然違う言葉。

「やるんだったら、蒼への罪悪感とか、そんなんじゃなくて……本気で、あの夏を取り返すくらいの気持ちでやってほしい。今のアタシたちが作ってるチップは、そうでもしないと届かないところを目指しているから」

「砂橋ちゃん……そう、だね。そんな考えじゃ皆に失礼だよね」

 星野先輩も思うところがあったらしく、素直に謝罪の言葉が出る。

 心から楽しそうで、どこか好戦的な……いつかの、そう、IP大会の時に見せた笑顔で言い放った。

「あたしはね、プロセッサを作りたい。誰にも負けないものを、この部で。だから、あたしの知ってる技術を、経験を、全部使ってほしい。お願いしますっ」

「ん、それならいいです。蒼のこと、手伝ってあげてください」

 砂橋さんが満足げに頷いたのを見て、他の皆にも話を振る。

「他のみんなはいいか?」

「私は、もちろん」

「わたしも大歓迎ですっ、人手不足ですから」

「俺も全然いいぜ。な、宏」

「反対する理由は無いな」

 全員が頷いたのを見て、僕はひそかに安堵した。

 皆が先輩のことを受け入れてくれなければ、入部してもらうのは難しかっただろうから。

「よし。じゃあ、今日から星野先輩も部員だ」

「早瀬ちゃんの下に付く感じでいいのかな? あたしは」

「ええっ、いいんですか?」

 思わず聞き返す。蒼と同じか、その上のフェロー、つまりは蒼の上に居てもらうのがいいのかな、なんて思ってたんだけど。

 でも、先輩は楽しそうに笑う。

「いいのいいの、鷲流くんにも言ったけどあたしはマネージャーに向いてないからさ。早瀬チーフ、宜しくお願いしますってことで」

「は、はいっ、宜しくお願いします、星野先輩」

 蒼からすれば、先生のような人が自分の部下になるわけだしすぐには慣れないよなあ。

 でも、これで蒼の負担を減らすことが出来るのは間違いない。

 全てが何とかなって安堵していると、狼谷さんが袖を小さく引いてきた。

「ん、どうしたの狼谷さん」

「シリコン。取ってきた?」

「あっ」

 すっかり忘れていた。そういえば、そのために部室を出たんだったな。

 あわてて時計を見ると十八時。十七時半で閉まってしまう事務室はもう終わってしまっている。

「ごめん、すっかり忘れてた……明日取ってくるよ」

「急いでないから、大丈夫」

「ったく、ちゃんとしてよねプロマネさん」

「返す言葉もないよ……」

 砂橋さんの言葉と狼谷さんの視線で一通り反省して、星野先輩に書類を書いてもらい。

 正式に部員となった先輩は、早速オフィスエリアで蒼から教えを受けていた。

「こーれはまた、凄いプロジェクトだね。これを一人でやろうとしてたんだ、そりゃ無茶だよ早瀬ちゃん」

「……でも、これくらいしないと目標には辿り着けませんから」

「ん、その気持ちもわかる。あーあ、受験勉強なんかしてる場合じゃなくなっちゃったなあ」

 二人の間には、過去のいざこざを感じさせない楽しげな雰囲気が漂っている。どうやら、判断は正解だったようだ。

 一方の僕は、先輩に渡すためのパソコンをセットアップしている。そこをちょうど砂橋さんが通りかかった。

「おーい、砂橋さん」

「ん、どしたの鷲流くん?」

 なんだか言葉の端に棘があるような気がする。それに気付かないふりをしながら砂橋さんの元へ向かうと、小さく耳打ちした。

「星野先輩のこと。……よかったの?」

 気にしていたのは、やっぱりさっきの一幕。

 もし本当に先輩のことを嫌っているのであれば何か考えないといけないと思ったからだ。

 でも、砂橋さんは首を縦に振った。

「ん、蒼が許してるならアタシは言うことないよ。ただ、あの蒼を言い訳にしたひねくれた物言いが気に食わなかっただけ」

「そっか。ならよかった」

 どうやら砂橋さんも心配は必要なさそう。正直いいアイデアは無かったから、本当によかった。

「ま、蒼だけじゃ苦しいのは判ってたからね。そこに関してはいい仕事したよ、プロマネさん?」

「棘があるぞ」

「ん-ん、何でもないよ」

 どうやら、単純に機嫌が悪い訳でもないらしい。女の子の機嫌はよくわからないな。上機嫌と不機嫌の両方を感じる砂橋さんの言葉に頭をかきながら、デスクに戻る。

 ちょっと時間のかかるセットアップを進めて、その間に片付けられる仕事を全部片付け。一通り終わる頃には、あっという間に最終下校が見える時間になっていた。

「星野先輩、お待たせしました。パソコンの準備が終わったので、使ってください」

「ん、ありがと」

「どうですか? 僕たちが作ろうとしてるものは」

「そうだなあ……早瀬ちゃんから聞けたのは概要くらいだけど、既に正直無茶苦茶だと思う。プロセスもアーキテクチャも進みすぎて」

「あはは……」

「でも」

 星野先輩は、もう一度輝く笑顔を僕と蒼に向けた。

「最高に楽しそうじゃん。やってやろうじゃない」

 どうやら、砂橋さんと同じように壁が高ければ高いほど燃えるタイプらしい。

 蒼との関係も問題なさそうだし、貴重な戦力になってくれるだろう。

「正直、助かっちゃいました。私からもお礼を言わせてください、本当に……来てくださってありがとうございます」

「ん、いいのいいの。おねーさんのことをこき使っちゃって、早瀬ちゃん」

「じゃあ、まずはインオーダー部……そうですね、デコーダの実装を新しいディスパッチャに対応させる改修お願いしていいですか? 文化祭の前までに」

「うっ、それはまた厳し……」

「先輩なら出来ると信じてます。私の先生ですから」

「……ぅ」

「先輩はコン部のエースだったじゃないですか。その姿、是非見たいです」

「……やってやろうじゃない! あたしに任せて!」

「マジか」

「ちょろすぎて心配になるわね」

 ……さらに、何となくこの先輩の性格も判ってきた。最初は冷たい先輩かと思ったけど、わりと適当でお調子者なところがあるな。あと、こう言ってしまうのもなんだがちょろいぞ。

「さて、そろそろ下校時刻なので帰る仕度してください」

「はーいっ」

 皆に声を掛けて、部活はお開きになる。

「お疲れ悠、明日も頼むぜ」

「頑張って起きるとするよ」

「そこからか?」

「夜型にはきついぜ全く。んじゃ、おやすみ」

「おやすみ、シュウ、悠」

 帰り道、ご近所さんということで悠の家の前で別れるのが最近の流れ。

 でも、悠が家に入った後も蒼は帰ろうとしない。

 僕の家の玄関前までついてきた蒼は、そこでようやく口を開いた。

「ね、シュウ。今日星野先輩を連れてきたのは偶然?」

「だな。ちょうど事務室に向かってる途中で自習帰りの先輩に声掛けられてさ」

「ふうん?」

 蒼はなんだか面白くなさそうだ。理由を考えてみても……とある自意識過剰なものしか思いつかない。

「ま、いいけど。星野先輩とシュウがどんな話をしてたって」

「単純に、過去のプロジェクトについて話を聞いてただけだよ。プロマネとして参考になるところもあるかなって」

「ふーん? 本当にそれだけかしら」

 もしかして、星野先輩と色々な話をしたことを気にして……嫉妬してくれているのだろうか。

 そう考えると、少しむっとした表情の蒼が特段かわいく見えた。

「……星野先輩を誘ったのも、蒼のためだよ」

「それ、どういうことよ」

「蒼が頑張ってくれてるのは知ってる。でも、このままだとCPU甲子園の時とか、アジア大会の時みたいに蒼一人に負担が大き過ぎると思ったんだ」

「……そう」

「また、蒼が倒れたり辛い思いをしたりする姿は見たくなかったからさ」

「ああもうっ、よくそんな恥ずかしいこと言えるわねっ」

 目をそらして、自分の髪をくるくると指で弄び始める蒼。あれ、蒼ってこんなに可愛いいところを見せてくれるような子だっただろうか。

「だから、こういうのも変だけど……頑張りすぎないでくれ、蒼」

「……ありがと。色々あるとは思うけど、シュウもね」

「ああ、気を付けるよ」

「じゃあ、おやすみなさい。また明日」

「おやすみ、蒼」

 ドアをばたんと閉めると、大きく深呼吸をした。

 一度気付いてしまえば、人間の心なんてなんて単純なものなのだろう。

 漠然としていた気持ちが、どんどん大きく膨らんでいくのを感じる。

「……早く、なんとかしないとな」

 誰にともなく言葉を漏らすと、日常へと意識を戻した。



 この夜、僕はまた思い出を見ていた。

「お母さん、どうしたの? 難しい顔して」

「っと、そんな顔してた?」

「うん。困ってる感じ」

「あはは……表情に出てるつもりはなかったんだけど」

 そう言って、ダイニングテーブルでノートパソコンに向かう母さんは笑顔を見せる。

 小学四年生の冬、母さんがまだ家に居る……最後の冬だ。

 外は雪が降っていて、明日の朝の雪かきを思うと少しだけ気が滅入った。

「お父さんからメールがあってね。お父さんが頑張ってるチップが上手くいっていないみたいなの」

「ふーん、そうなんだ」

「そもそも一個前のBroadwellが遅れてるし、『シュリンク』だけのチップすらイールドが良くないとなると……14nm自体があんまり良くないんだろうなあ」

「?」

 今なら母さんが言っていたこともわかる。コアの論理設計が終わっても、製造プロセスの方が固まらず物理設計に入れていなかったのだろう。

 こればかりは、親父にはどうしようもないところだ。

 でも、当時の僕にはよくわからない。頭の上に疑問符が出ているのに気付いたのだろう、母さんは優しく笑った。

「ふふっ、弘治にはまだちょっと難しかったね」

「お父さんが何か失敗してるの?」

「ううん、お父さんが設計したチップを作る技術のほうが追い付いていないの。動くチップが取れないんだって」

「そうなんだ。大変だね」

「あの人もかなり張り切って設計してたから……このままちゃんと製品になってくれればいいんだけど」

「なんていうの?そのチップの名前」

「んー? スカイレーク、って名前よ。」

「すかい、れーく……空の湖?」

「そ。そう言う名前の湖がアメリカにあるんだって」

「お母さんの名前だねっ」

「ふふ、そうね。それもあって、お父さんは頑張っているみたい」

 ……そして、今の僕は知っている。

 このSkylakeというチップは、結局世に出ることは無かったことを。

 何があったのかは、当然明らかにはなっていない。中止になったチップをなぜやめたのかは、技術的にも経営判断的にもトップシークレットだからだ。

 でも事実として、母さんが言ったBroadwellの次に出たチップはBlue Lakeという名前だった。

 そんな現代の僕の疑問には、もちろん思い出は答えてくれない。

 母さんはぽん、と手を叩くと思い出したように言った。

「そう言えば、明日は一泊で検査があるの。だから、明日は桜桃さんのところでお泊りね」

「うんっ、わかった。いつもと同じ?」

「そうそう、学校に迎えに来てくれるって」

「はーいっ」

 時々母さんが短期入院で検査したり、夜まで掛かる検査の時にはこうやって道香のところにお世話になった。

 その夜の景色は揺らいで消え、次に現れたのは道香の家の光景だった。

「お兄ちゃんっ!」

 車を降りると、その音を聞いてか道香が玄関から飛び出してくる。

 このころは髪も長くて、元気ではあったけどもうちょっと控えめだった。

 ……アメリカで色々大変だったんだろうなあ、道香。

「おう道香。さて、今日は何して遊ぼっか」

「こーら、二人とも。まずは宿題をしないと」

 車を降りてきた道香のお母さん、由華さんに抱えられて、道香は暴れる。

 道香もまだ七歳で小柄だったとはいえ、ひょいと小脇に抱えられるあたり由華さんのパワーはすごい。今になって実感する。

「やだーっ、せっかくお兄ちゃんが来たんだからお兄ちゃんと遊ぶっ」

「だーめ。とっとと終わらせちゃいなさい、そしたら一杯遊べるんだから」

「ううっ……」

「もちろん、弘治くんもだからね?」

「はーい」

「その後は雪かきも手伝ってちょうだい、また積もっちゃってるから」

「わかりました、頑張ります」

「もーっ、遊ぶ時間無くなっちゃうじゃーんっ」

「今日はお泊りなんだから、ちょっとくらい我慢しなさい」

 もう一つの、幸せな家族の光景。

 この景色の終焉が近いことを、今の僕は知ってしまっていた。

 あと半年だ、母さんが病院から出られなくなるまで。

 そしてあと、一年弱だ。――母さんが、死んでしまうまで。

 記憶の中でもがいたところで、現実は変わらない。

 だけど、今日の穏やかな寂しい記憶は外部からの乱入者によって強制的に中断された。

 ブーッ、ブーッという音が聞こえる。

 これは……携帯?

 目を開くと、携帯の画面は着信を告げていた。

 あわてて通話ボタンをタップすると、スマホを顔に当てる。

「ふぁい、もしもし?」

「もしもし、弘治くん? おひさしぶり、小市だけど……もしかして寝てたかな?」

「っ、小市さん! お久しぶりです」

 脳が一瞬で覚醒するのを感じた。まさか小市さんのほうから電話してきてくれるとは思わなかった。

 壁掛けの時計を見ると午前七時。目覚ましの鳴る十分前だった。

「久しぶりに連絡があったのが嬉しくて、思わず電話しちゃったよ」

「すみません……」

「いいんだ、便りのないのは良い便りなんて言うしね。どう、道香は元気にしてる? 一緒の部活なんだよね?」

「はい、それはもう。毎日楽しそうに部活してます」

「そうかそうか、それはよかった。昨日はメールありがとうね」

「いえいえ、ご無沙汰なのに突然お願いしてしまってすみませんでした」

「いやいや、弘治くんからのお願いだからね。嬉しいんだよ、頼ってくれて」

「……ありがとうございます」

 半ば父親代わりだった小市さんだけど、最近は本当にご無沙汰だった。

 あの日まではメールも頻繁にしていたけれど、それからは年に一度、二度という頻度。こうやって声を聞くのは、本当に道香たちがアメリカに旅立つ日以来じゃないだろうか。

 そんなにご無沙汰だったのに、こんなに優しく声をかけてくれる。

 申し訳ないと同時に、とても有難く思えた。

「さて、メールで貰った材料の件。どちらもうちのレアアース部門で扱いがありそうだ」

「本当ですかっ」

「うん。今日日本の担当者にメールを送ったから、来週の月曜日にはそっちに連絡が行くと思う」

「ありがとうございます、本当に助かります」

 自分でも声が明るくなったのがわかる。なにしろ、一番最初の関門であり重要なポイントでもあった材料が手に入る道筋が見えてきたわけだ。これほど嬉しいことはない。

 さすがは日本最大の化学メーカーの人、昨日知ったとは口が滑っても言えない。

「っと、日本は月曜は祝日か。じゃあ火曜日だね。メールチェックだけよろしく」

「はい、わかりました」

「購入はJCRAの任意材料調達経由でいいんだよね?」

「はい、部からの直接購入は禁止なので」

「わかった、じゃあそこも話を通すようにお願いしておくよ」

 JCRAは一応国の支援を受けている以上、色々と面倒な手続きが必要な事も多い。たとえば、普通の学校であれば部活動の用品は先生の許可を得れば学校のお金で自由に調達できる。

 だけど、JCRAの支援を受けている部活は半導体関連の材料に関して全てJCRAを通して購入しないといけないルールがある。半導体の材料には、それこそさっき話題に出てきたルビジウムとか、普通であれば安全上の観点から取り扱えないものも多い。だから、JCRAがきちんと管理しているという建前が必要なんだそうだ。

「本当に、色々とありがとうございます」

「ううん、さっきも言った通り僕も嬉しいんだよ。そうだ、弘治くんもアメリカに来るんだよね? 世界高校プロセッサデザイン大会で」

「はい、その予定です。よく御存じですね」

「そりゃもう、娘の部活だからね。もっとも、弘治くんが写真に写ってたのもびっくりしたけど」

「あはは……色々と巡りあわせがありまして、今はこんなことやってます」

「大会の中で一日、オレゴンの方の工場・職場見学の日が挟まる予定って聞いてる。その時にでも、一緒にご飯を食べに行こう」

「そうなんですね。是非是非」

「よし、決まりだ。朝早くに電話しちゃってすまないね」

「いえいえ、僕もそろそろ起きないといけない時間でしたから」

「じゃあ、学校頑張って。また何かあったらメールするよ」

「ありがとうございます!」

 電話を切ると、少し懐かしい気分になった。ちょうど小市さんや由華さんたちとの記憶を思い出していたこともある。

「道香に教えてやろっと」

 アメリカの世界大会に向けては、懸念事項と、気が重いことも一杯ある。もちろん親父のこともそうだ。

 でも、一つ楽しみが増えた。それが少し嬉しかった。

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