0x02 思い出すもの、思い出したくないもの

「忘れ物はない? 今までみたいに私が届けるってわけにはいかないんだから」

「……ああ、大丈夫だ。持っていかないといけないものは、これで」

 また、思い出を見ている。

 ここは、昔の家――まだ関東に住んでいた時の家の玄関だ。

 親父は、まるで人がひとり入りそうなほど大きなスーツケースを引いていた。

 視界に映るカレンダーは二〇一一年、小学二年生の二月のもの。もう二か月もすれば三年生に上がる、そんな時期。

 このときはこの先長い別れになるなんて思っていなくて、せいぜい普通の海外出張と同じくらいだと思っていた。

「まだ、気にしてるの?」

「そりゃ、気にしない訳がないよ。天と弘治を置いていくなんて……」

「……仕方ないよ、今からアメリカに行く体力は私にはもう残ってないんだもん。本当は三人で行きたいけど」

「ドクターストップ、だもんな」

「そんな顔しないの。さ、バスの時間だよ」

 それから、三人で家を出る。家の近くのバス停にやってきた大きいバスに乗って、辿り着いたのは成田空港。

 空港に向かうバスに乗る機会なんて無かったから、道中はとても楽しかったことを思い出す。

 訪れた空港も、今の僕からすれば一週間前に訪れた場所だ。あの時は初めてだと思っていたけど、二度目だったんだな。

 空港に着いてからは、搭乗手続きで大きな荷物を預けて、最後に家族みんなでレストランで食事。

 これが、最後の三人での温かな思い出だった。

 だけど、その時間もあえなく終わりを迎える。

 保安検査場の入り口で、僕たち三人は別れを惜しんでいた。

「そろそろ時間ね。ほら弘治、父さんに行ってらっしゃい、って」

「行ってらっしゃい、父さん。次はいつ帰ってくるの?」

「はは、そうだなあ……できれば夏に一度帰ってきたいと思ってるけど」

 なんだか普通の出張とは違うらしい。何となくそれを感じ取った僕の質問に対して、親父は目をそらして答えた。それを見た母さんが苦笑いを浮かべる。

 もしかしたらこの時、親父は帰ってくる機会があまり作れないことを知っていたのかもしれない。

「わかった。楽しみにしてるね」

「いい子にしてるんだぞ?」

「うん、もちろんっ。母さんの手伝い、ちゃんとする」

「よーし、いい子だ」

 頭に乗せられる、大きな手。親父のその手が、大好きだった。

 何でも解決してくれる、頼れる大人の大きな手。その温かな温もりは僕の髪をくしゃりと撫でると、離れていった。

 これが、「父さん」と触れた最後の記憶。

「ほら、放送掛かっちゃった。……体には気を付けてね」

「向こうに着いたらメールするよ」

「時差もあるだろうし、無理はしないでね?」

「もちろん。天も、無理だけはするなよ? 頼むから」

「うん、気を付ける」

「何かあったらすぐメールするんだぞ? 出来るだけすぐに帰れるようにするから」

「もう、過保護だって。わかったから――じゃあ、行ってらっしゃい」

「ああ。天、弘治、行ってきます」

「行ってらっしゃーい」

 手を振って見送る僕を、親父は名残惜しそうに何度も振り返りながら保安検査場に消えた。

 その背中に、小さな不安を覚え――

 この間とは少し違う空港の景色が、記憶の中の不安とともに緩やかに白くなっていく。

 その白さが、瞼の向こうの光の白さと融けあい。

「……はあ」

 目を開けると、世界は朝を迎えていた。

 差し込む太陽の光は、もういつの間にか振りまく温度をだいぶ減らしている。

 相変わらず寝た気はしない。最後の家族の思い出だから、仕方がないけど――心は、嵐の中の小舟のようにその思い出に翻弄されていた。

 気分は最悪だ。

 なにしろ、あの親父のことを鮮明に思い出しているわけだ。

 自分の中のイメージの親父とあの日の父さんの姿が頭の中で不整合を起こして、劇物のように心を蝕んでいる。

「よっ、と」

 吐き気さえ催すほどの荒れ狂う思考を断ち切るべく体を起こす。

 それと同時に、一筋の涙が頬を伝うのを感じた。

 今までもおぼろげながら覚えていた、最後の親父の背中。

 その背中は、高い解像度を持った今考えると……どこか寂しげだったように見えた。

 今まで記憶の中で見てきた父さんの姿は、僕の中で形成されていた親父の姿をばらばらに打ち砕く。

「父さん、帰ってくるつもりはあったんだな……」

 そしてもう一つ、大切な気付きがあった。

 これからほぼ三年、母さんの告別式の日まで親父は帰ってこない。

 ……でも、少なくともこの時は、それなりの頻度で帰ってこようと思っていたんだ。

「親父は、この時……何を考えてたんだろう」

 別れのこの時に何を考えていたのか。

 初めて、親父……いや、父さんの気持ちを知りたいと思った。

 いつしか、心の中で暴れまわっている不快感もさかむけ程度に小さくなっている。

「っと、こんなことしてる場合じゃないな、早く準備しないと蒼を待たせちまう」

 枕元の時計が騒音を立てる前にアラームを切って、カレンダーをちらりと見た。

 日付は十月の二十一日。今日から後期の授業が始まる。

 いつものように学校の仕度を整えても、自分以外の音はしない。

 蒼はこの間伝えたことをちゃんと守ってくれていて、広い家の中には僕一人だけ。

 だけど、家を出ると玄関に蒼が立っていた。その姿を見るだけで、心臓が軽く跳ねるのを感じる。

 気を遣ったのか土日もうちの手伝いには来なかったから、顔を合わせるのは一週間ぶりだ。

「お、おはよう蒼。久しぶり」

 だからだろうか、声を掛けたらいきなりどもってしまった。

 だけど蒼は大して気にした様子もなく、こちらに笑顔を向ける。助かった。

「ん、おはようシュウ。……なんか顔色悪いわよ、そんなに夜遅くまで考えごとしてたの?」

「いや、ちょっと眠りが浅かっただけだ。そんな悠みたいなことしないよ」

 さすがは幼馴染、普段通りのつもりでいたけど一発で見抜かれてしまったらしい。

「寒い中待たせて悪かった。チャイム鳴らしてくれてよかったのに」

「そんなに待ってないし大丈夫よ、あと一、二分したら鳴らそうと思ってたところ。明日からもこの時間でいいのかしら?」

「ああ、助かる」

「あと、こないだのうちに朝来なくていいって話だけど――」

「ん、悠から聞いたわ。本当にちょっと考えたいことが……道香のこととは別であるんだって」

 例の件に関しても、どうやら悠がこの土日で話を通してくれていたらしい。

 理由に関しても程よくぼかしてくれているようで、核心には触れていないようだ。やっぱり持つべきは優秀な親友だな。

「そっか。あれだけじゃ蒼のこと不安にさせたよな、ごめん」

「いいのよ、気にしないで」

 そう言う蒼の表情は柔らかくて、寝不足と親父の姿でささくれ立った気持ちも少しずつ落ち着いていくのがわかった。

「よーっすお二人とも、おまたせさん」

「おう、今日もちゃんと起きてきたな」

「おはよ、悠。じゃあ行きましょうか」

 こうして、いつも通り三人で学校に向かえることに感謝しながら肌寒い道を歩く。

 その途中、僕は頼れる優秀な親友に耳打ちをする。

「ありがとよ、悠」

「任せとけって。あとはお前次第だぜ」

「……判ってる」

 純粋な感謝を伝えたら、応援までされてしまった。本当に珍しいことがあるもんだ。

 だけどその雰囲気が落ち着かないらしく、結局僕の背中をつつきながら、蒼にも聞こえる声で話し始めた。

「シュウが考え事だなんて、天変地異の始まりか?」

「お前、僕がいつぞや言ったことの仕返しだな?」

 ……シリアスが長続きしない奴め、さっき上がった評価を返してほしい。

「わりかしアレはグサっと来たぞ」

「日頃の行いの賜物だ」

「ま、体調を崩さない程度にしとけよ。あの蒼ですら風邪引くくらいだし」

「ちょっと、あの蒼って何よ」

「ってか、心配してくれてんのか」

「当たり前だろ。だってお前は大切な幼馴染だからな」

「いくら見てくれがかわいいからって、僕はお前のこと――」

「ちげーよっ! 俺がいつそんな話をした!」

「たまにはボケてみるのもいいもんだな」

「ちょっとシュウ、あんたまでボケに回らないでよ。ただでさえうちの部活ボケだらけなのに」

 そんな楽しい話も学校に着けば一段落させざるを得ない。

 なんの感慨もなく始まった後期の授業を五コマ終え、月曜最後の授業はロングホームルーム。

「そういや、霜月祭のクラスの出し物は考えてきたか?準備時間が短いとはいえ、三日間もあるんだからな」

 担任の先生が霜月祭、と黒板に書きつけた。そういえば、うちの学校の文化祭、霜月祭まであと二週間か。

「正統派でメイド喫茶とか?」

「杉島、お前は正統派の意味を辞書で引き直してこい」

「いやでも、ヴィクトリアンメイドとか良くないですか?」

 早速こういうお祭りごとに目がない宏がブッこんでいる。さっきまでグースカ寝てやがったのに。

 ちなみに奴が出したテーマの評判といえば、

「……いいね!」

「さんせー、女子がメイド服着てくれるなら喜んで裏方やるわ」

「んー、ヴィクトリアンメイドならいいかな。コスプレみたいな裾短いのは嫌だけど」

「かわいいよね、アタシも着てみたーい」

 恐ろしいことに概ね好評だった。ヴィクトリアンメイドって単語が普通に女子に通じてるの、それはそれでどうなんだろう。

 ちなみにヴィクトリアンメイドとは、裾の長いロングドレスを使った正統派なメイド服のことだ。前に宏が熱く語っていて覚えさせられた。

「柳洞にも当然メイド服だよな」

「「「ああ」」」

「俺ウィッグ持ってるぜ。柳洞に似合うと思うやつ買ってたんだ」

「いや、今の髪型を活かしてボブで攻めるのはどうかな?」

「私のエクステ貸そうか?」

「待て待て待て待て、俺をどうするつもりだ」

「だいじょーぶだいじょーぶ、減るもんじゃないしさ」

「アタシメイクしたーい」

「柳洞にはあえてフレンチメイドとかいいんじゃないか?」

「いいね、それだ」

「お、これマジで俺コスプレさせられるやつか?」

「もう逃げられないと思ったほうがいいぞ」

 そして性癖が破壊されている一部の連中は、悠にどんな格好をさせるかで盛り上がりを見せている。

 ……一部の連中、と言うにはいささか割合が高いような気がしないでもないけど。ってか女子はそれでいいのか?

 あと悠に似合うウィッグを仕入れてたやつ、絶対こういう機会を待ってただろ。

 そして当然、霜月祭には部活ごとで何かをする企画も存在するわけで。

「霜月祭で、コン部って何かするのか?」

「あー、忘れてた……今日の会議、最初のネタそれね」

 普段は十五時四十五分から始めている開発会議だけど、部活直前にWINEで十六時十五分へと時程変更が告げられていた。

 空いた時間に次のチップについて下調べをしていた僕は、ちょうどお茶を取りに行くタイミングが被った砂橋さんに文化祭のことを聞いてみた。

 それで返ってきたのが、今の至極面倒そうな返事。やっぱり部活としても何かする必要があるらしい。

「りょーかい。砂橋さんはクラスの出し物とか決まってるの?」

「うんにゃ、アタシたちはロングホームルーム明日だから。鷲流くんのとこは?」

「……正統派メイド喫茶」

「え、何? 大学の学祭? ってか正当派って何?」

 砂橋さんが完全に呆れきった目でこっちを見ている。気持ちはわかる、僕もそう思ってるから、その可哀想な人を見る目はやめてほしい。あと正統派ってなんだよ、僕も疑問だよ。

「どっかのバカが提案したのがほぼそのまま通っちゃったんだよ」

「もしかしなくてもウチの部活の?」

「御明察。砂橋さんもどう? キャストに即なれるし手伝いたくない?」

「あーあーあー、嫌なこと思い出させないで。アタシの立派な黒歴史だから」

「でもほら、倉庫に衣装は――」

「フシャーッ!」

 お返しとばかりに提案をしてみたら、猫のように威嚇されてしまった。やっぱり駄目か。

「でも、部活で展示って何やるんだ?」

「見せるものなら一杯あるでしょ、今年の成果物展示の機会なんだよ。それにね、もういっこ大事な役割があるの」

「なんだ?」

「普通の学校の文化祭なのに金曜からやるの、何か変だと思わない?」 

 そう言われて、近所にある別の高校の文化祭の日程を思い出してみる。賑やかだったのは概ね週末の二日だったような?

「確かに、他の学校は大体土日の二日間だよな。他の学校の生徒とかは平日に来れないし」

「そのとーり。答えは金曜にJCRAのお偉いさんが来るからだよ、半導体工学科と部活の視察に」

「そういうことだったのか……全然気にしたことなかったや、授業無いからラッキーくらいにしか」

「気持ちはめっちゃわかる、得した気分だよね」

 あはは、と笑って見せる砂橋さん。それから、直前の笑顔とは正反対に大きなため息をついて表情を曇らせた。

「去年はウチの部活は展示できるものが無くって、星と化したPrescottのパネル展示だけだったんだよね。それも多分春の存続騒動に関わってるんだと思う」

 つまりは今まで栄光を手にしていたこの部活が二人しか残っておらず、かつ成果もイマイチなことがJCRAの人たちにもバレてしまったということだろう。

 確かに、JCRAの人たちからすれば自分たちのお金をかなり注ぎ込んでいる部活なのに、片方が壊滅寸前で片方の部員が増えているなら……片方を潰して吸収合併させる、そう考えるのも不自然じゃないな。

 ドロドロした裏の事情に大きくため息をつくと、それと同時に耳慣れない単語が聞こえたことに気が付いた。

「ぷれすこっと?」

「ああ、そういやこの名前はもう消えてたね。Light Burstコアを使ったCPUの開発コードネームだよ、CPU甲子園向けだった」

「例の魔の八月の時のチップか。それって、確かIntechの開発コードにも使われてたよな?」

 前に見た資料では、Pentagon4の中の一つの開発コードがPrescottだった。今はオリジナルの名前を付けてるけど、前はそうでもなかったらしい。

「そ。流行りだったんだ、実際の開発コードを使ったほうがそれっぽく見えるでしょ?」

「じゃあ、自分たちで考えるようになったのは……」

「この部が新体制になってから、だよ。というか、蒼の独断だね」

「でもその開発コード名が消えてたって、どうして?」

 そう、一番の疑問がそこだった。そもそも開発コードが消えるって、どういうことだ?

「どっちかっていうと正式な記録から、かな? やったのは発狂したプロマネだったかな、自分が担当して失敗したチップの資料を残したくなかったんでしょ、どうせ」

「そんな理由かよ……どうりで資料が残ってないわけだ」

 初夏、初めてプロジェクトマネージャーを任されて資料を漁ったときに全部消えていた理由がこんなところで判明してしまった。

 今だからわかる。そんなプロジェクトマネージャーにリードされた開発が上手くいかなかったのは当然の結末に違いない。

 そうはなるまいと思うと同時に、一つの疑問が浮かんだ。どうして、そんな人がプロジェクトマネージャーになってしまったんだろう?

「ま、今年はCPU甲子園とアジア大会のチップの実機展示でいいでしょ。良い感じのシリコンも氷湖に準備してもらえば見栄えもすると思うし」

 砂橋さんはまたにやりと笑って見せる。暗い話は終わり、ということらしい。

 ちなみに今の笑顔は楽ができると踏んだ時の笑顔だ。笑顔の質もなんとなく察せるようになってきたな。

「もしかして、あの会議室にある樹脂封じのチップ?」

「そうそう、アレって文化祭の展示に使ったやつなんだよ。今年はパッケージ済みとシリコン単体で二つずつ置けるの、見栄えがよくて良いことだね。くふふ」

「なるほどね、それに向けた準備もちょっとしないといけないわけだ」

「後はミーティングで詰めればいいでしょ。さーて、アタシは戻るね」

「ん、色々教えてくれて助かったよ。ありがとな」

「気にしないで。頼んだよ、プロジェクトマネージャーくん」

 それから、砂橋さんは上を仰ぐように見ると小さくため息をついた。

「あの子たちの話、ミーティングまでに終わるかな」



 今日は比較的暖かい日。じめじめこそしているけど、風も強くなく冬服一枚でも寒くないちょうどいい秋の一日だ。

 だからここ、部室の屋上に立って待っていた彼女も寒そうなそぶりは見せていない。

 寒い中待たせてはいけないと思っていたから、心の中で安堵のため息をついた。

「……どうしたの道香? こんなところに呼び出して」

 そんな曇り空の下で待っていたのは、私のことを呼び出した可愛い可愛い後輩。

 振り返った道香は、緊張と申し訳なさをない交ぜにしたような複雑な表情。

 ……まるで、勇気をふり絞って、告白をしたんだろうあの日の姿に重なって見えた。

「ちょっとお話ししたいことがあって……お時間ありがとうございます」

「いいのよ、道香のためだもの。開発会議なんてずらせばいいの、気にすることないわ」

「ありがとう、ございます」

 それから流れたのは、しばしの沈黙。緩やかな風が部室の周りの木を揺する、ザザン、という音だけが私たちの間を駆け抜ける。

 まるでためらうかのように少し言いづらそうにしている道香を見て、助け舟を出すことにした。

「……シュウのこと、かしら?」

「ご存じなんですね」

「ええ。結凪から聞いたわ」

 呼び出された理由自体は、思っていた通り。

 でも、道香からはぴりぴりした雰囲気を全く感じない。

 秋風がさっと頬を撫でるのとほぼ同時、彼女は胸元でぎゅっと手を握って言い切った。

「それなら話は早いです。わたし、お兄ちゃんに告白したんです」

「ええ、聞いたわ」

「でも、答えは保留されちゃいました」

「……ええ、それも知ってるわ」

「さすが蒼先輩、ですね。負けるつもりはありません。ありません、けど……」

 道香の声からは、普段の真っすぐな感情が伝わってこない。

 てっきりそのことで何か言われるんだと思っていたけど、そう言う訳ではないのかな。

だとすると、何だろう?

 たっぷり数秒の沈黙ののち、道香は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

「……わたしからこんなことを言うのは変なことだっていうことは知ってます。でも、蒼先輩にもお兄ちゃんのことを諦めないで欲しいんです」

 想像の中にあった言葉とは全く違う言葉を伝えられて、思わずぽかんとしてしまう。

 私が知ってるお話でも、聞いた話でも、こんなことをライバルに言われるのは聞いたことが無い。

「どういう、こと?」

「わたしはまだ返事を貰ってないですから、お兄ちゃんの気持ちが今誰に向いているのかはわかりません。なので、私が想いを伝えたことで、お兄ちゃんが望まない結末を迎えてほしくないんです」

 道香の笑顔はどこか苦しそうなものに変わる。

 普通だったら、自分の想いが成就するように何でもするだろう。

 特に道香なんて、普段の様子からどれだけシュウのことを慕っているかはよくわかる。

 でもそんな子が、こんな……まるで敵に塩を送るようなことをするのかな。

 たぶん、私の気持ちもバレてしまっているんだろう。もしかしたら……シュウの気持ちさえも、この子は知ってるのかもしれない。

 そう考えると、背中をぞくっとした震えが走った。

 もし、シュウが道香のことが好きだということが判っていたら、同じように過ごせていたかな。

 きっと私には出来ない。心の奥底の粘ついた熱が全てをからめとって、動けなくしてしまうだろう。

 結局のところ、私はいつまでも怖がりな……手を引いてもらっている側なのだから。

 もしそれを知っていてなお、自分の気持ちを伝えたんだとしたら?

 この子は、その胸の奥にどれだけの勇気を持っているんだろう。

 更には、全てを知ったうえでこうやって声を掛けてくれたんだとしたら?

 もしもそれが、シュウに手を引いてもらう訳にはいかないこの恋に関して……私の手を引くためにしてくれたんだとしたら?

 この子はどれだけ……シュウだけでなく、私のことも大切に思ってくれているんだろう。

「だから、私に気を遣って手を引くなんてことはしないでくださいっ。お願いです……!」

 まるで悲鳴のようにさえ聞こえる切ない道香の言葉を聞いて、思わず彼女のことを胸に抱きとめていた。

「ちょっ、えっ、そういうことはお兄ちゃんに……」

「ううん……いいの。しばらく、こうさせて」

 ほんのわずかな、ポーズを示すためだけの抵抗は、すぐに消えた。冬服越しの温かさが、じんわりと私たちを包む。

「……あったかい、です」

「道香のほうが暖かいわ。……ありがとう、道香」

「感謝されることなんて、何も……」

 私の顔を見上げた、少し潤んだ道香の目を見て胸が罪悪感に鈍く痛んだ。

 だけど、この痛みは必要な痛み。私が受け入れないといけないもの。

 そして、彼女はこの何倍もの痛みを胸に抱えているのかもしれないと思うと。

「あのっ、蒼先輩、ちょっと苦しっ、です」

 気付けば、腕の力が少し強くなってしまっていた。慌てて緩めると、改めて道香の目を見つめる。

「ううん、あるの。何度でも言わせて、ありがとう道香」

「……そういうところ、蒼先輩はずるいと思います」

 もう一度ぽすん、と私の首元に顔を預けた道香と一緒に、もう一度吹いた秋風を感じる。

 そのまましばらく私の胸で静かにしていた道香は、今度は影のない笑顔で見上げた。

「ありがとうございます。元気が出ましたっ」

「そう、なら良かったわ」

「……まずは、今日の開発会議からですね」

「気が重いわね」

「でも、伝えない訳にはいかないです」

「それもそうね……シュウにも道香にも、それと氷湖と結凪にも苦労をかけることになるかしら」

「蒼先輩も、です」

「……頑張りましょ。シュウのことも、世界大会のことも」

「ええ。私たちはライバルですから、蒼先輩には負けません」

 目が合った道香と、ふふっと笑顔を交わす。それだけで、今は十分な気がした。



「私はもう少し風に当たってから行きます、会議までには戻りますから」

「わかったわ。寒くならないうちに戻ってくるのよ」

「大丈夫ですよっ、さっき蒼先輩の温かさを一杯貰いましたから」

「もう、そんなこと言って」

 そう言うと、蒼先輩は階下へと戻っていきました。

 屋上のドアがばたんと閉まる音が消えると、あと聞えてくるのは風の音と遠くから聞こえる運動部の声、それにファブの空調の音くらいです。

「……っ」

 急に、柔らかかった風が冷たく感じました。

 蒼先輩の前では、ちゃんと笑えていたでしょうか。

「全部、伝わっちゃった……かな?」

 わたしは良くも悪くも顔に出てしまうから、もしかしたらいろんなことが伝わってしまったかもしれません。

 鋭い蒼先輩ですから、それこそ私が抱えていたものも全部。

 涙が流れそうになりますが、今もまだタイミングではありません。

 それに、涙に濡れた赤い目で会議に出たらみんなを心配させてしまうでしょう。

「……あと少しだからっ、頑張れ道香!」

 だから、言葉に出して歯を食いしばって耐えます。

 私の想いがこの風に乗って溶けゆくその日まで。

 この気持ちを空に還すまで、泣くのは早いですから。



「お待たせしましたっ」

「大丈夫よ、まだ五分あるわ」

 道香が部室に帰ってきたのは、会議の始まる五分前。既に狼谷さんもファブから戻ってきていて、メンバーはオフィスエリアに揃っていた。

「ちょっと早いけど始めちゃいましょうか、皆揃ったみたいだし。準備は出来てるかしら?」

「そうだな、俺はいいぜ」

「オレはちょっとメイド服のデザインをしてるから待ってくれ」

「いや何してんのさ」

「そこ、デッサン狂ってる」

「んが、やっぱそうか。なんか違和感あったんだよな」

「氷湖先輩は知ってましたが、杉島先輩も絵がお上手なんですね……」

「直すなら、こんな感じ」

「おー、さすが」

「そんなアイツの絵を直せる狼谷も何者だよ」

「……悠も宏も大丈夫そうだな。砂橋さんと狼谷さん、道香は?」

「アタシは準備するものないから大丈夫だよ」

「大丈夫、準備出来てる」

「バッチリよ」

「わたしもオッケーですっ」

「んじゃ、始めようぜ」

「そうしましょう」

 皆の準備も大丈夫そうだな、一部デザイン画と格闘してるやつもいたけど。ぞろぞろと連れ立って長い階段を降りると、一階のいつもの会議室にやってきた。

 今日のおやつは修学旅行のおみやげで一杯だ。大阪組は悠と宏セレクションのネタ系お菓子盛り合わせ、九州組はちゃんと定番のお菓子。チョイスした人の性格が出るなあ。

「さて、おおまかな議題は二つよ。霜月祭で何をやるかと、世界大会に向けての大まかな目標設定」

「まずは霜月祭から行こっか。知っての通り、ウチの部活は出し物をしないといけないんだ」

「はいっ、どんな出し物をするんですか?」

「えーっとね――」

 砂橋さんが、概ねさっき話してくれた内容をこの学校の文化祭が初めての道香に教える。返す返すも独特な学校だよなあ。

「なるほど、あんまり面白くなさそうですね」

「いいのいいの、どうせ初日のお偉いさんくらいしか来ないからさ。ウケは必要ないってわけ」

「ちょっと、もう少しオブラートに包んであげなさいよ」

「でも、企業の人なんかも来るのは金曜なんだろ? 土日はなんなら閉めても」

「ダメ」

「……はい」

「……だけど、土日にあんまり人が来ないのも事実。一人居れば十分」

 ちょっと残念そうにしている悠だけど、狼谷さんもそんなに人が来ないことを認めてしまっている。本当に人が来ないんだろうなあ。

 確かに、僕も本校舎からこんなに離れた奥まで部活展示のためだけに足を運ぶかと言われればノーだけど。

「氷湖が言う通りだと思うわ。ってわけで出しこそするけど省エネな感じで行こうと思うけど、いいかしら?」

「ん、いい」

「さんせー」

「面白くはないけど、まあ仕方ないな」

「ってわけで、氷湖は申し訳ないけど展示用のシリコンを準備してもらえる? MelonとMelon Hillをパッケージング前後でそれぞれ一つづつ」

「わかった、予備の石を使う。ヒートスプレッダーは無い方がいい?」

「その方が見栄えはしそうじゃね? これもそうだし」

「そうね、ダイが見える状態にしましょ。シリコンだけ準備してもらえれば、展示用に加工する業者はこっちで手配するわ」

「お願い。どっちも予備があるから、今日には発送準備まで出来る」

 それから、蒼は皆にパネルの内容も割り振っていく。とはいえそんなに難しくなくて、各々がやったことをまとめるだけだ。なにしろ、この部には重複している役割を持っている人はいない。

「じゃあ確認よ。それぞれに関して、プロジェクト全体の概要パネルはシュウ、それ以外は各々の担当箇所についてA0ポスターで準備、いいわね?」

「しゃーない」

「りょ」

「わかった」

「あーい」

「はいっ」

「概ねやる気のない返事だなあ」

 クラスの出し物決めの時にはあんなに元気だった宏も、あまり面白いことにはならなさそうだと勘づいたからか適当だ。現金な奴め。

「んじゃ、霜月祭はそんな感じで。次に世界大会に関してだけど、次もプロマネは鷲流くんでいいよね?」

「良いと思いますっ」

「それしか無いでしょう」

「お、おう、食い気味だねお二人さん。じゃ、鷲流くんあとはよろしくー」

「どんどん適当になってくな……」

 あまりにも投げやりな砂橋さんからバトンを投げつけられ、パソコンをプロジェクタに繋いでからスクリーンの方に向かう。覚悟は出来ていたからいいけどさ。

「さて、じゃあ世界大会に向けたチップの話に入るぞ」

「っし、待ってました」

「こっちが本番だしな」

「まずは、世界大会こと『ワールド・ハイスクール・コンピューター・デザイン・コンペティション』について簡単に復習だ。場所はアメリカ、サンノゼにあるIntechの本社。大きな会議室を借りてやることになるんだそうだ」

「ついに来るところまで来た、って感じね」

「ここまで来れたのが、すごい」

「日程は三月の二十五日から二十七日まで。旅程的には二十三日に出て、帰ってくるのは二十九日になる」

「春休みは概ね溶けてなくなるんだね」

「タダでアメリカ旅行に行けると思えばむしろ得だろ?」

「そりゃそーだ」

「ってわけで、開発期間としてはほぼ五か月取れる。条件はほぼアジア大会と同じで、命令セットは自由、製造プロセスは規定の90ナノメートルプロセス用の装置を使うこと、冷却は空冷、ってだけだ」

「トランジスタのサイズは規定が無いのね」

「そう。去年もそうだった」

「そっか、狼谷は二度目なのか」

 宏の言葉に、狼谷さんは首を横に振った。去年の電工研は世界まで行ってたはずだけど、どうやら同伴はしていないらしい。

「同行は生徒八人まで。私は、そこに入らなかった」

「どうしてだ?」

「論理設計やソフトチームの方に人を割くべき。プロセスエンジニアは、居ても基本的にできることはない」

「そう言われれば確かに、製造担当は何も出来ないっちゃ出来ないもんなあ」

 確かに、狼谷さんはアジア大会の時も初めてのように静かにはしゃいでたな。実際にこういう大会に同行するのは初めてだったんだろう。理由もそう言われれば納得だ。

「そして、アジア大会との大きな差は一つ。シリコンのサイズが600平方ミリメートルまでいけることだ」

「おお、CPU甲子園と比べるとついに四倍か」

「アジア大会と比べても、二倍」

 狼谷さんは難しい表情をしている。その理由は自明で、半導体のサイズは不良率に直結するからだ。

 もし、一つのウエハの中に二十の欠陥箇所がランダムに発生するとする。

 チップの面積が小さく、一つのウエハから四十枚や五十枚とかたくさん取れるなら、最悪の二十チップの不良品を出してもそれなりの数の良品を確保することができる。

 だけど、一つのチップの面積が大きくなって一つのウエハから取れるチップの数が半分になると、二十個不良品が出たときの良品率は一気に低下する。なにしろ、取れる最大の良品の数は半分になっているのに、不良品の数は半分にはなってくれないからだ。

 一方で、日和って半導体のサイズを小さくするのは性能に直結する。知っての通り、半導体のサイズは詰め込めるトランジスタの数に直接関わってくるし、そのトランジスタの数は高速に処理できる回路を積むとどうしても増えてしまう。

 つまりは、できるだけ詰め込んだプロセスルールで、いかに製造上の欠陥を減らすことができるかというプロセス勝負の側面も大きくなるということだ。

「アタシは死んだ」

「結凪が頑張らないとやる人居ないわよ」

「そうなんだよねえ……しゃーない」

 当然ながら、プロセスが進みチップサイズも大きくなるとその分回路の規模も大きくなる。その結果、砂橋さんが既に死んだ魚の目になっているのも仕方はないな。こればかりはやってもらうしか無いけど。

「以上がルールだけど、何か質問はある?」

 皆を見回すと、やる気は十分といった表情。

 ……どこか硬い表情をしている、道香と蒼を除いては。

 二人の不思議な表情は気になる。会議の後にでも聞いてみよう。

「よし、じゃあそれぞれのプランを発表して貰おうかな。まずは蒼の論理設計から」

 蒼にケーブルを渡すと、映し出されたのは今までよりさらに大きなプロセッサのブロック図だった。

「うお、そこまで拡げるつもりなのか」

「これは……」

「すげえ、な」

 思わず皆が絶句するのも無理はない。

 何しろ、そのチップの規模は前回のコアであるMelonfieldよりさらに巨大化し、予想トランジスタ数は二倍に到達しようとしていたからだ。

「さて、じゃあ世界大会用に準備するコアの概要よ。今のところ考えてるのはこれ――『Sapphire Cove』。大きな変更としては、浮動小数点演算用の128ビットベクトルユニットを追加で二基、さらに64ビット整数ALUも追加で三基搭載していること」

「ゴリゴリだな」

「そりゃトランジスタ数も二倍になるわけだ……」

「さらに、128ビットALUを二つ協調動作させることで256ビット幅で扱えるようにする。ロードとストアも、それに合わせて256ビット対応に改良するわ」

「AVX2かよ……」

「しかもそれが二つ、か」

 前回のMelonfieldは、SSEと呼ばれる拡張命令系用に128ビットの同時処理が可能なベクトルユニット、つまりは行列計算機を二つ搭載していた。

 それを二倍にして、処理能力をまず二倍に。さらには、四つのベクトルユニットを二つずつ連携させ、256ビット分のデータをまとめて処理できるようにするんだという。

 かつデータのやり取りにも支障が無いようキャッシュにデータを保存するストア、またキャッシュからデータを持ってくるロードも二倍の256ビットの同時処理に対応させる。

 まるで最新のPC向けチップみたいな、無茶苦茶だけど……性能は高い設計だ。

「命令発行ポートが12って……Intechのチップよりリッチじゃん」

「すごい、です……」

「もちろん、アジア大会では有効に出来なかったSMTもバグを取って使えるようにする。このSapphire Coveを……八つ積むわ」

「八コア!?」

「コア数が二倍、トランジスタ数も二倍って……」

「チップ面積が四倍になるぞ!?」

 だが、さらに爆弾は炸裂した。アジア大会では四つのコアを乗せていたけど、それをさらに二倍の八コアにするのだという。

 このままだと、悠が言うようにチップの面積は二倍を通り越して四倍。千二百平方ミリメートルというとてつもないサイズが必要になる。

 正方形にすれば一辺が三.五センチ近く、難易度もさることながらそもそも規定違反だ。

「ええ。でも、やらなきゃいけない理由があるの……あの人たちに負けるわけには、いかないんだから」

 そんな皆からの声にも、蒼は動じる様子はない。何かを気負ったような表情でそのまま話を進めた。

「さらに、前回の反省を活かしてメモリコントローラーも内蔵するわ。DDR3で2チャンネル対応のものを二つ、合計四チャネル分確保する」

「さらにメモコンも乗せるのかよ……出来るのか? そんなこと」

「既に結凪と氷湖には伝えてあるわ。理論性能としては八コア、一ギガヘルツ動作で64GFLOPS。実測でも45GFLOPSくらいは確保したいわ」

「一ギガヘルツで45GFLOPSって……三ギガヘルツで動かしたら余裕で100GFLOPSを超えるじゃん」

「……いや、それじゃ足りないわ。というわけで、論理設計はこんなところよ。次、結凪」

「アタシは、出来てるとこから蒼のを論理設計してくつもり。詳しくは氷湖が話してくれると思うけど、今回の新しいプロセスは死ぬほど物理設計が大変だから。メモコンは正直プロセスが最終版になるまでやりたくない、かなり信号がシビアになるから」

「そんなに大変なのか……」

「蒼からRTLを貰ってから十日……せめて一週間は欲しいかな」

「そりゃ相当だな」

 今までは蒼から最新のRTLを貰ってから三日もあれば物理設計を片付けてしまっていた砂橋さんが、それだけの時間を必要とする。それは、改めてどんなチップを目指しているのかを痛感させる。

 もっとも、回路の規模が四倍以上になってるのに日程も四倍にならないあたりはさすがだと思うけど。

「ってわけで、物理設計は一週間見てくださーい。次、氷湖ね」

 やれやれ、といった表情でケーブルを渡す砂橋さんだけど、その口元は楽しそうに緩んでいた。本当にハードルを飛び越えるのが好きなんだな。

 そんなことを思っていたのも束の間、狼谷さんが画面に出したフロアプランに僕たちは再度度肝を抜かれた。

「まずは、今回のチップのフロアプラン。とはいえ、蒼のコアが完成していないから、あくまでも現時点での情報を元にした理想図」

「……600平方ミリに、収まってる?」

「よんじゅう、ごナノ……」

 コアも大きくなり、さらにメモリーコントローラーまで追加されるのだ。トランジスタ数はほぼぴったり四倍。

 それを600平方ミリに収めるというのは……どう考えても、並大抵じゃない。

「そう。今まで使っていた65ナノから一歩先に進めて、45ナノの世代で作る」

「どうやって? もう色々と限界だったんじゃ」

「まずは、Melon Hillでクロックが上がらなかった原因のリーク電流。これは、この間も言った通りHigh-K Metal Gate、HKMGを使うことで解消する」

「でも、この間は具体的な材料が公開されてないから難しいって……」

 記憶が正しければ、前回の試作の時にはHKMGの材料がわからないって言っていたはず。難しいのは宏も知っていたようで、質問を狼谷さんに投げる。

「High-K素材って、確か『窒化ハフニウムシリケート』だったよな?そんなの作れるのか」

「ハフニウムベースのものは無理。だけど、あれから論文を探して、JCRAでも扱いがある材料で作れそうなHigh-K素材を見つけた」

「そんなものがあるのか」

「ある。酸化アルミチタンを使う」

「アルミとチタンの合金の酸化物ってことか?」

「そう。性能に直結するk値は30程度、今までの酸化シリコンの約十倍」

「そういえば、High-K素材のKは、そのk値と関係があるのか?」

「そう、K値が高い素材だからHigh-K素材」

「じゃあ、そのk値ってのは何者なんだ?」

「簡単に言えば、誘電率のこと。真空の誘電比との比を取ったのがk値」

「大きければ大きいほど、ゲート絶縁膜の厚みを増やせるんだったよね? 確か」

「そう。つまりは、同じ容量ならゲート絶縁膜を十倍に出来るということ」

「ということは、リーク電流を大きく削れるんですね」

「さらに、厚みをある程度薄くすればリーク電流を抑えつつクロックを上げられる」

「それが出来れば最高だな……」

 トランジスタのリーク電流は、トランジスタに使う絶縁体が薄すぎるから発生してしまう。一方で、絶縁体を厚くするとトランジスタの動作が遅くなってしまうと言っていた。

 そんなトランジスタの問題を劇的に改善するのが、High-K素材。ついに、その素材を見つけたということになる。

 もし本当に出来るのであれば、一気に動作速度と消費電力の問題を解決することができるのだ。これ以上望むことは無い。

 確かに、狼谷さんからのお願いで合宿から帰ってすぐ酸化アルミチタンは発注したけど……まさか、こんな用途になるとは思わなかった。

「性能的にはどうなの?IntechのHKMGと比較するとどうなのかしら」

「さすがに商業でIntechが使ってるものよりは劣る。あれはk値が40程度と言われているから、それでも四分の三くらいの性能はある」

「凄いわね……」

「もちろん、課題はある。950度を超える環境に置くと酸化アルミチタン絶縁膜が劣化して、リーク電力が急激に増加する」

「絶縁膜が温度で壊れる、ってことですか」

「そう。だから、製造工程の見直しは必須」

「それ、本当に作れるのか?」

「まだ一工程ずつの再現を行っている段階だけど、不可能ではなさそう。具体的な情報についてはもう少し待って欲しい。これがまず一つ目の大改良」

「もう一つのMetal Gateの方はどうなんだ? たしかこれと組み合わせないとまともにトランジスタとして機能しないんだよな」

「それが現時点での大きな課題。使いやすそうな素材を探しているけど、調達できるかがわからない」

「ある程度絞れたら教えて、こっちでJCRAに確認してみるよ」

 どうやら、そのHigh-K素材は今までとは違う、Metal Gateとやらと組み合わせないといけないらしい。

 だけど、そっちの素材はまだ検討中なようだ。こっちの調達も後々考えないといけないんだろうな、覚悟をしておこう。

「二つ目は、SADP技術の導入」

「えすえーでぃーぴー?」

「Self Align Double Paterningの略。簡単に言えば、一つの線から二倍の線を作り出す技術」

「つまり、今までの細さで引いた線を元に二本の線を引くってことか」

「簡単に言えばそう。まず前提として、通常のダブルパターニングは無理」

「そもそもダブルパターニングってなんだ?」

「マスクを二枚使って、それをぴったりと重なり合うようにそれぞれ露光する。マスクのパターンの方をずらせば、線と線の間を限界以上に詰めることができる」

「マスクの方の線を詰めすぎると、光の回折で線と線の光が干渉して、上手く綺麗な線が描けなくなっちゃうんです。それを避けて線を引けるのが、通常のダブルパターニングなんですけど……」

「二枚のマスクを使って、装置の限界以上に線を詰めることができるってことか。でもなんでそれが出来ないんだ?」

「今の露光装置では、線の太さをこれ以上細くできない。間隔を詰めても、ぼけてしまって隣のトランジスタと干渉する」

「つまりは、細い線を書けるけど間隔を詰められない時にしか使えないってことか」

「そう。でも、SADPは元の線を使って二つのトランジスタを作るからそこまで細い線が必要ない」

「元の線は二つのトランジスタの間隔だもんな。確かにそっちを詰める必要はねえな」

 宏が頷いているけど、僕はまだそこまでしっかりと理解できていない。後で狼谷さんに教えてもらわないとな。

「これで、今の装置のままトランジスタの大きさを半分にすることができる」

「もちろんデメリットもありますよね?」

「ある。一つは、二つの全く同じ線が引かれてしまうということ」

「そりゃ、元は一本の線だしな」

「つまりは、物理設計の時には必ず二本並行で線を引かないといけない。例え隣り合うものが別の回路だとしても」

「……それで砂橋さんがヤバい顔してんのか」

「女の子が人前で見せちゃいけない顔してるわね」

「ほんっと、物理設計的にはヤバいからねこれ」

 ただでさえ斜めの線が引けなかったりと制約が多い物理設計だけど、その設計がさらに複雑になるわけだ。砂橋さんが女の子がしていい顔じゃない表情になってるのも無理はないのかもしれないなあ。

「もう一つは、製造時間。SADPの特性と、トランジスタの密度が上がる以上今までの配線層だけじゃ配線し切れないからメタルレイヤーが増える。だから、今までよりさらに製造が伸びると思って」

「スケジュールも厳しくなるってことか……」

「でもまあ、背に腹は代えられないよなあ」

 確かに、同じ面積にさらに多くのトランジスタ、ひいては回路を詰め込むことになる以上、配線の層自体も増やさないといけないのは仕方ない。

 それが製造時間に影響してしまうのも仕方ないし当然だけど、プロジェクトマネージャーとしては少し苦しいな。スケジュールは今までよりもかなり緩くしないと。

「あと、試行錯誤になるから人手が欲しい。だから、できれば結凪、道香と柳洞くん、杉島くんはプロセスが出来るまで手伝ってくれると助かる」

「わかった、お前らもいいよな?」

「ああ、もちろん。出来る限りの手伝いはするよ」

「任せとけって」

「はいっ」

「というわけで、プロセスからは以上」

「っし、じゃあ徴兵組三人はまた次でいいか?」

「ああ、論理設計がある程度形にならないと俺らも出来ないしな」

「空いてる時間で、ボード回りも結凪先輩と話しておきますっ」

「それもデザインルールが出来ないと固まんないから、道香もプロセスに専念しちゃっていいよん。アタシもデザインルールが出来ないと何もできないし」

「わかりました、よろしくお願いします」

「っし、じゃあ最後に性能目標だな。調べたところ去年の優勝チップは80GFLOPSちょいを叩きだしてた。だから、100GFLOPSを目標にしようと思う。どうだ?」

「ん、まあ妥当だな」

「そんなもんだろ」

 最後に性能の話に移る。目標は『現実的でかつ高いとこに置く』と考えたとき、バランスが取れるのはこのあたりだと考えた案を話すと、男どもはうんうんと頷いてくれた。

 だけど、蒼は小さく首を横に振る。

「……いや、足りないわ。目標は二百GFLOPSよ」

 口にしたのは、僕が設定した値のなんと二倍だった。

「確かに、今の発表内容を踏まえれば不可能じゃないけど……何か理由があるのか?」

 今までのスライドの内容が全部現実になれば不可能ではないぐらいの数字ではあると思う。でも、あまりにも博打な提案だ。

 悪い言い方をしてしまえば、蒼らしくない冒険的な数字。

「画面貰ってもいいかしら?見せたい資料があるの」

 それを聞いて一層表情が硬くなった蒼は、ケーブルを受け取ると自分のパソコンに接続する。

 そこに映し出されたのは……青地に白の文字。僕たちの手元のパソコンに貼ってあるのと同じロゴには、Intechの文字があった。

「おい、これってIntechの内部文書じゃないのか!?」

「こんなの、どこから……」

「出所は後で。これを見て頂戴」

 当然会議室は騒然とするけど、蒼は硬い表情を崩さないままスライドを進める。

 次のページに書いてあったのは、とあるチップの概要。

「……これかあ、めちゃくちゃ言ってきたって言ってた奴」

「間違いなく、九十ナノメートルじゃない。多分、同じ四十五ナノの戦いになる」

「こんなチップを、世界大会に持ち込むってのか?」

「ええ、念のため運営にも聞いてみたけどIntechが参加するのは本当みたい。扱いはエキシビジョンだけどね」

「じゃあ、直接の結果には関係ないんだな」

「無理をしなくてもいいんじゃないか?」

「アタシも、上手くいかないことは考えたくないけど……かなり厳しいと思う」

 皆の口から飛び出すのは困惑の声。

 だけど、この数字を見たときに覚悟は決まった。

「いや、蒼の言う通りで行こう。向こうが百五十GFLOPSを叩きだすなら、こっちは二百GFLOPSだ」

「おい、シュウ! お前まで」

「……嫌な予感がするな」

「もちろん、何か壁に当たってどうしようもなくなったら目標は下げるよ。でも、最初の目標は高くして損はないと思う。あと半年あるわけだし、何より相手も同じ資料を持っててこれを超える性能を実現してくるかもしれない」

 それは、本心のうち半分。この間のように悔しい思いはしたくないから、行けそうなのであれば高い目標を置くに越したことはない。

 そして、残りは……父さんの会社が作ってくる物に負けたくない。そう思ったから。

 僕の言葉に、皆は数秒の思案ののち小さく頷いてくれた。

「確かにな。こないだみたいな悔しい思いはごめんだ」

「限界までやってあげますかあ、アタシも悔しかったしね」

「ん。任せて」

「ったく、面白くなってきやがったぜ。僕ももちろん出来る限りやるさ」

 ……蒼と道香を除いて。

 二人とも、今までになく緊張して……そして、不安そうな表情に見える。

「みんな、ありがとう。じゃあ、目標はこれで行くよ」

「最後に、この情報がどこから来たかだけ皆さんにお伝えしておきます」

「そうそう、それが気になってたんだよ。明らかに内部文書だよなあ」

「これは、Intechの上級主任技術者――」

 嫌な予感が背筋を走った。もしかしたら、親父の同僚だったり……?

「シュウリュウ、ダイキさん、です」

「……シュウのお父さん、ね」

 その声が聞えた瞬間、膝の力がすとんと抜けた気がした。

「やっぱり、苗字が同じだからそういう――おい、弘治!? 大丈夫か!?」

「ちょっ、鷲流くん!?」

 目の前が真っ白になって、次に真っ黒になる。

 皆の声も、どこか遠くに感じて。

 ……親父が、どうして?

 今さら、何のために――



 この後、どうやって帰ったのかもあやふやだ。

 体調が悪いとか言って、歩いて家まで帰った気がする。

 何もする気になれず、かといってベッドに行くこともできず。誰もいない静寂が包む家の中、ソファーに座り込んでしまったことまでは覚えている。

「クソっ……!」

 昨日取り戻した思い出でほんの少し軟化したと思っていた自分の心に、再びひびが入るのを感じた。

 何年ぶりかに連絡を取ってきたと思ったら、今度は自分たちの手の内を明かす。その意味が全くわからない。

 お前はここまで来れないと言われているような気がして怒りが燃え上がるけど、同時に自分に何ができる?という現実がそこに冷や水を掛けて温度を下げる。

 そして残るのは、少しずつ埋まりつつある、でもまだ消えない心の空っぽになった隙間。

 僕一人しかいない、物音一つしないリビングは、孤独な思考をどんどんと強めさせる。

 まとまらない胸の中の黒い感情と戦っているうちに、窓の外からは朝日が差し込んでいた。

「そうだ、学校……」

 ゆっくりと首を回して時計とカレンダーを見る。時計のカレンダー機能が見せる数字と壁掛けカレンダーの数字を照らし合わせると、大きくため息をついた。

「祝日、か」

 今日は何かの理由で祝日だった。首は機械的にひざ元を向いて、冷たく温度を感じない心は一つの言葉を吐き出す。

「何考えてんだよ、親父……」

 だが、そこまで考えたところで心身ともに限界だったらしい。

 ぷつんと糸が切れるように視界が暗転すると、静かに意識を失った。



「ここが新しい、私たちの家」

「わあっ、ここが?」

「そ、もう天国に行っちゃったおじいちゃんとおばあちゃんの家だよ」

「そうなんだっ」

 バスと電車を乗り継いで数時間。幼い僕は、新しい家にはしゃぎきっていた。

 この会津若松に来た記憶はほとんどない。一、二回この家を訪れたことがあったくらいだろうか。

 物心つく前に亡くなってしまった祖父母の家ということで、掃除がてら遊びに来て一泊するくらい。生活感は無いけど朽ちてもゆかないギリギリのラインで維持されている家だった。

 もちろん、初めての引越しということで寂しい気持ちは無かったわけじゃない。つくばに居た友達とも別れないといけなかったし、何よりずっと住んでいた家を離れる寂しさはあった。

 でも新しい生活への期待のほうが上回っていた僕は、母さんが玄関を開けてすぐに家の中へと駆けこんだ。

 これが、今住んでいる家での長い暮らしの始まりだった。

「わあっ、埃だらけっ」

「あちゃー、やっぱり年末年始にちょっと来るだけじゃダメだね。大掃除しなくちゃ」

 母さんが苦笑いをするのを見て、僕も笑う。それから母さんは、思い出したように手をたたいた。

「そうだ、掃除用具もどうせ引越しの荷物の中だし……その前に、お隣さんに挨拶しに行きましょ」

「おとなり、さん?」

「そ。私の友達が隣に住んでるの」

「そうなんだーっ」

 そしてやってきた隣の家に、早速度肝を抜かれた。

 今まで住んでいたのは、つくばの近くの住宅地にあった一軒家。そこそこ広い家なのが自慢だったけど、そんな自慢は木っ端みじんに吹っ飛んだ。

 なぜなら、そこはえらい広い庭を持つ豪邸だったから。

 ――今でも変わらない、早瀬の家だ。

「やっほー、金江居る?」

「お、天先輩? もう着いたんだ。今行くから少し待ってて」

「だ、誰?」

「今のが母さんの友達だよ。そういえば初めてだっけ、会うの」

「うん……」

「弘治がそんなに縮こまってるなんて珍しいね。おっきい家にびっくりした?」

 小さく頷いてみせると、母さんは楽しそうに笑う。記憶と一緒にしまい込んでいたその笑顔に、涙が流れそうだ。

「大丈夫だよ、いい子だから。それに、たしか弘治と同い年の――」

「久しぶりね、本当に痩せちゃってるじゃないですか」

「お久しぶり、病院暮らしは美味しいものが出てこないのがよくないよ」

「もう、またそんな風に冗談言って……あらあら! この子がお子さん? お名前は?」

「鷲流、弘治です。よろしくお願いします」

 知らない大人におっかなびっくりではあるけど、母さんと楽しそうに話していたから悪い人ではないとも思う。だから勇気を出して自己紹介をすると、金江さんも今と変わらない、楽しそうな笑顔を見せた。

「弘治くんね。歳はいくつ?」

「八歳です」

「そっか、そういえば蒼と同い年だったわね」

「その蒼ちゃんは?」

「あの子、臆病だから……ほら蒼、翠、隠れてないでご挨拶しなさい」

 金江さんが声を掛けた方を見ると、隠れ切れていなかった髪がひょこりと揺れた。それから同い年くらいの女の子と少し小さな女の子の二人が走って金江さんへと向かっていき……その背中に隠れた。

「もう、引っ込み思案なんだから。お隣に越してきた天さんと弘治くんよ」

「鷲流弘治です、よろしく……君は?」

 金江さんの足の後ろからちらちらと僕を伺っていたその女の子は、おっかなびっくりといった様子で僕の前に姿を見せてくれた。

「早瀬、蒼、です。よろしく」

「うん、よろしく」

 彼女に手を伸ばす。それが当時、僕にとっては自然だったから。

 小学三年生になろうという僕は、当時父さんから教えて貰った挨拶の握手を自慢にしていた。それだけで少し大人になれた気がしたから。

 でも、蒼ちゃんはきょとんとしている。意図が伝わらないらしい。

「握手だよ、握手。アメリカ式の挨拶なんだって」

「そ、そうなんだ……」

 再び恐る恐るといった様子で手を伸ばしてきた蒼ちゃんの手を取る。

 ……今とは違ってとても小さい、でも今と変わらない温かな手だった。

「ん、これでもう友達だ。握手も済ませたしな」

「よ、よろしく?」

 何だか不思議そうな表情で再び金江さんの後ろに隠れた蒼と入れ替わるようにして、もう一人の子が出てくる。少しおっとりとした様子は、蒼との挨拶を見たからだろうか。

「いもーとの早瀬翠、です」

「翠ちゃん、だね。よろしく」

「うんっ、弘治お兄ちゃん」

 翠ちゃんとも握手を交わして、僕は新しい友達との新生活を夢に見ていた。

 これから暫く続いた平和な日常は、束の間のものだとは知らずに。

「……ころりよ……りよ……子だ……」

 穏やかな記憶の残滓と重なるように聞こえて来たのは、どこか聞き覚えのある子守唄。

 優しい声と頭を撫でられる温かな感覚が少しずつ現実へと引き戻していく。

 夢のような温かな記憶が白く溶けきると、現実の僕の感覚がさらに強まる。

「起きたら……あ、起きた?」

「……かあさ、ん?」

 頭を包む温かな感覚は、決して十分とは言えずに終わってしまった叶わない情景を思い描かせた。

「……ん、しばらくそのままでいいわよ」

 空から降ってくるのは、優しい声。頭を撫でる慈しむような手つきに、意識は再度沈下を始める。

 懐かしくて切ない温もりを思い出し、一滴の涙がこぼれるのを感じながら……再び意識を優しく手放すことにした。



「……んお?」

「今度こそ起きたかしら? おはよ、シュウ。そろそろ起きないと夜眠れなくなっちゃうわよ」

 次に意識が覚醒したときには、最初からそれなりに目が覚めていた。降ってきた声で感覚がはっきりしたせいで、状況把握が進む。

 今枕にしているのは、蒼の膝のようだ。後頭部に感じる温かくどこか柔らかな感触は、蒼のお腹。

 体にはタオルケットが掛かっており、ソファーとは思えないほどの天国なのが判って――

「わっ」

「っ、ごめん、膝借りちゃってたみたいで」

「ううん、いいのよ。気にしないでちょうだい」

 あわてて跳ね起きると、脳は一瞬で覚醒を遂げた。

 それと同時に、今までしていた素晴らしい状況を再確認させられる。

 何しろ気になっている女の子の膝枕で昼寝をしていたわけだ、抱えていたもやもやを一時的に吹き飛ばすのには十分すぎる程。

「ってか、何で蒼がここに!?」

 膝枕をしながら優しく撫でてくれていたのは、私服姿の蒼だ。普段私服で来るときは掃除を手伝ったりしてくれるからパンツスタイルだけど、今日の蒼は……まるでデートに向かうかのような、かわいらしいスカートを穿いている。

 顔が熱くなりそうなのをなんとか押さえながら照れ隠しの質問を投げると、蒼は少し申し訳なさそうに答えた。

「昨日、大丈夫って言いながらどう見ても大丈夫じゃなかったから様子を見に来たのよ。考える時間が欲しいって言ってたし、昨日の話はショックだったとも思ったから昨晩はお邪魔しなかったんだけど……」

「そう、か」

「お昼前に来てみたら、ソファーで死んだように寝ててびっくりしたわ」

「じゃ、じゃあどうしてさっきみたいな……」

 これは自分でも間違ったと判るけど、混乱した頭は思ったことを直接口へ出力してしまう。ああっ、出来るだけ意識しないようにしようと思ってたのに!

 だけど、どうやら蒼にも勇気が要ることだったらしい。顔が一気に赤くなった。

「なんだかうなされてて、寝苦しそうにしてたから……でも私の力じゃベッドにも運べないし、ちょっとでも眠りが良くなるように、って思って……」

 どんどん小さくなっていく蒼の声。そのいじらしさに、胸が熱くなったからだろうか。

「……わからなくなっちゃったんだ。親父のことが、なんにも」

 気が付いたときには、口から言葉が溢れていた。こんな弱い自分を見せるつもりなんて全く無かったのに。

「今日、親父が日本を発つ時の記憶を見たんだ。あの時までは、親父は……父さん、だった。そのことが受け入れられなくて、少しだけ見直したところもあってさ。でも……あのスライドを送ってきた意味が全然判らなくって」

「……そう」

「そりゃ、頭にも来たし……でも同時に、困惑も大きくて。結局、僕はどうしたいのかすら判らなくなっちゃったんだよ」

 気付けば、胸に渦巻いていた気持ちが言葉になっていた。

 蒼は、それを嫌な顔一つせず真剣に聞いてくれる。

「それって、今絶対に固めなくてはいけないものではないんじゃないかしら。前も言った通り、前向きな先送り」

「どういう、ことだ?」

 そして、蒼の言葉に返す言葉を失った。

 同時にもやもやの一つの要素として、考えがまとまらないこと自体に対するストレスもあったことに自分で気が付く。

「実際にアメリカに向かうまで、あと五ヶ月もあるじゃない。今無理してゴールに辿り着かなくても良いと思うの」

「そんな……」

「急いては事をし損じるわよ。開発を進めながらじっくり考えて、見えなくなってしまっている気持ちを掘り出してみるのがいいわ」

 優しく諭すように言葉を続ける蒼。

 渦巻くもやもや自体が解消される訳でこそないけれど、その棘はいつの間にか幾分か丸くなっていた。

「そう、か」

「今のその気持ちがどこから来ているのか、ゆっくり解きほぐしてみましょ? きっと根元には、何かがあるはずよ」

 確かに蒼の言う通りなのかもしれない。今はまだ、あの――最後の父との記憶は、薄ぼけた暗闇に残ったまま。

 今出した答えが、きっと最後の答えとは限らないよな。

「ありがとう、少し気持ちが楽になったよ」

 心からの言葉だ。蒼もさっきまでの優しい笑みから、いつもの幼馴染の顔に戻る。

「ん、良かったわ。体の調子はどう? 病は気からとも言うし」

「大丈夫だと思う。具合が悪いってことはないから」

「……よし、大丈夫そうな顔ね。じゃあ私は帰るわ、夕飯の準備をしないと翠が拗ねちゃう」

「わかった。気を付けて」

「何よ、お隣さんじゃない」

「それでも。今日はそういう気分なんだよ」

 リビングのソファーを立ち上がった蒼に続いて、僕もソファーを立つ。

 昨日の夜は根が張ったように動けなかったここを、何事も無かったかのように立ち上がることが出来たのは……蒼のお陰だ。

 もう頼らないと思っていたのに、また手を引いて貰ってしまった。

 その感謝の気持ちだから。そう自分に言い聞かせながら、普段は行かない玄関まで見送る。

「今日は、本当にありがとう」

「シュウが元気になってくれたならそれが一番よ。また明日、玄関の前でね」

「ああ、また明日」

 結局、手を振りながら家を出ていく蒼が道路に出ていくまで見送ってしまった。

 ドアを閉じる直前、蒼の表情が少しだけ名残惜しそうに見えたのは……気のせい、かな?



 翌日。

 蒼と悠と一緒に朝の部活に出ると、さっそく皆に囲まれた。

「お兄ちゃん、大丈夫なの?」

「結構心配になる崩れ落ち方してたけど」

「怪我とか、してない?」

「ああ、ちょっとショックだったけど……もう大丈夫だ。安心してくれ」

 当然ながら、皆にも心配を掛けてしまったようだ。

 申し訳ないとは思うけど、もう少し。僕がもう少しだけ強くなるまで。

 皆の気持ちに甘えてしまっても……良いんだろうか。

「ならよかった、ここで倒れられたらシャレにならないしね」

「僕のことを買ってくれてるようで嬉しいよ」

 砂橋さんの素直じゃない心配にも笑顔で返すと、不安そうな表情をした道香がとてとてと近づいてきて言った。

「お兄ちゃんはもう、この部活には欠かせない人なんだから。無理は絶対にしないでね? 妹との約束だよ」

「いや、道香は妹じゃないけどさ」

「もう、お兄ちゃんの妹のようなものでしょっ、わたしは」

 何だか気になる言葉ではある。まるで、自分が妹であるようなことをアピールしているような。

 告白の返事を保留している側がこう考えてしまうのもどうかとは思うけど、それでいいんだろうか。

「……でも、それは約束だ。心配してくれてありがとう、道香」

 だけど、心配してくれていることには変わりがない。あるだけの感謝を込めて伝えると、道香は幸せそうな笑顔で頷いた。

「うんっ」

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