Over the ClockSpeed! Ⅲ

大野 夕葉

【三巻前編】Over the ClockSpeed! Ⅲ C-0 Stepping

0x01 一本の電話、一通のメール

「……やっぱり、そうか」

「ええ、これからもやっぱり入退院は続くみたい」

「そんな状況で、アメリカになんて……いくらSky Lakeのためとはいえ……」

「こーら、それは言わない約束でしょ」

 目に映っているのは、痛いくらいに白い病室。

 そして、今にも泣き出しそうな表情をした父さんと、今までと比べてしまうと明らかに顔が白い母さんの姿。

 また、自分の記憶を見ている。これで三日連続になるだろうか。

 小学二年生になったばかりの僕は、母さんが目を覚ました喜びと、二人の明らかに暗い会話の雰囲気の間で板挟みになっていた。

「お母さん、大丈夫なの?」

「うん、もちろん。すぐ退院するからね」

「また、倒れたりしない?」

 当時の僕には、そんなに難しい病気のことなんてわかるはずもない。

 脳裏には、あの日倒れた母さんの白くて赤くて、そして熱い手の感触だけが焼きついている。

 単純で、今思えば残酷な質問。母さんは、優しく……そして、少し困ったような笑顔で答えた。

「うーん、それは絶対大丈夫とは言えないけど、私はあなたのお母さんだもの。頑張るわ」

「とりあえず、俺は来年の春に向けてなんとか出来ないかもう一度マネージャーに話してみるよ」

「それは嬉しいけど……」

 親父の表情は、僕の記憶にうっすらと残っている母さんの告別式の時の物とは違って、まだ目に光があるように感じる。

 母さんが倒れた日から六日。

 母さんは三日ほど意識が戻らない状態が続き、熱が落ち着いて意識を取り戻してからは検査続きで会うこともできず。ようやく今日になって、一般病室に移り面会が叶った。

「うん。一つ、お願い」

「なんだ?」

「あなたの夢だけは、諦めないで欲しいの」

「それは……」

「日本の開発チームはもう閉じちゃうんでしょう? それなら、あなたがやりたいことはアメリカかイスラエルに行かないと出来ない。その上アメリカから声が掛かってるなら、もう選択肢は一つしかないのはわかってるんでしょ?」

「そう、だけど」

 父さんが返事を言い淀むと、母さんは優しい笑顔で返事を制した。

 今までは思い出すことも出来なかったけど、親父にも何か夢があったということになる。

「ほら、そんな顔しないで。来週には退院できるって話だから」

「わかったよ。とにかく今は、体を休めることだけを考えてくれ」

「もちろん。病院まで頑張りはしないって、何しろお客さんから夜中に電話が掛かってくることもないしね」

 そういって笑う母さん。その笑顔は、朧げな記憶にある最後の姿と比べてもまだまだ生気を感じる温かなものだった。

 そんな温かな笑顔が、少し寂しく不安な光景が、どんどんと明るさを失っていく。

 視界が真っ暗になって、落ちるような感覚と共に――

「……っ、朝、なのか」

 目を覚ました。いつもとは寝心地の違うベッドに、見慣れない風景。時計を見ると、目覚ましが鳴る五分前だった。

「そうか、修学旅行」

 体を起こすとゆるやかに脳が覚醒を始め、心にくさびを打ち込む記憶は柔らかく薄れていく。

 十一月十七日、木曜日。今日は修学旅行の三日目、旅行二度目の朝だ。

 寝起きの温かさに任せてぼーっとしながら、蘇りつつある記憶を手繰る。確かこの後は母さんの宣言通り翌週には退院をして、またいつも通りの日常に戻っていたはずだ。

 母さんが職場にあまり行かなくなったこと以外は。

 僕は、その姿を見てとても安心した記憶が――

 ジリリリリリリ!

「うわ、うるっさ」

 思い出すのを阻害するかのように爆音を立てたのは悠の目覚まし時計。合宿で思い知らされた通り、こいつの寝起きの悪さも天下一品だ。

「ったく……おい、起きろっ、時間だぞ」

 はっきりと目覚めた八つ当たりに、悠を思いきり揺さぶって強制的に起床させる。

「う゛っ、ぉごっ……だいぶバイオレンスな目覚ましだな……」

「起きたか。頼むからその騒音元を止めてくれ」

「そうだな、よいしょっと」

 ロックを解除することで止まるのだというその目覚ましを解除する術を、残念ながら僕は持ち合わせていない。昨日の朝にそれはもう体験済みだ。

 手馴れた手つきで目覚ましを止めた悠は、まじまじと僕の顔を覗き込んできた。手癖のような速度で目覚ましを解除していたけど、それじゃ目覚ましの意味が無いんじゃないか?

「シュウお前、寝つきが悪かったとかあるか?」

「へ? なんでだ」

 そんなに酷い顔をしてたんだろうか。顔をぺちぺちと叩いてみてもさすがにわからない。

「いや、なんだか疲れたような顔してるからさ。そんなんじゃ今日持たないぜ?」

「ああ、眠りが浅かったのかもな。寝慣れないベッドだし」

「そんなクチじゃないだろお前……ともあれ、無理すんなよな」

「ありがとよ、心遣いに感謝しとくわ」

 よく眠れていない、いや、寝た気がしないのは、こうしてしまい込んだ記憶がリプレイされた翌朝の副作用だった。

 自分で全てを奥底へと追いやった記憶なわけだし、それを掘り返している以上、心が消耗していくのは当然だとも思う。

 だけど、これは僕が向き合わなければいけない問題だ。悠に心配をかけるわけにはいかないよな。

 適当に茶化すと、悠もそれ以上は深追いしてくることもない。僕たちは集合時間に間に合うように部屋を出る準備をして、部屋を後にした。

 朝食の席には、既に宏が座っている。こいつは別の奴と同室だったから、僕たちとは一晩ぶりの再会だな。

「よう、お二人さん」

「おはよう宏、お前は良く寝れたみたいだな」

「ああ、何しろ合宿みたいにゲーム機を持ち込む訳にもいかないしなあ」

「それが当然だと思うんだが」

 その顔は血色が良くて、逆に気持ち悪くさえ感じる。普段の不健康そうな宏のほうに見慣れているから仕方ないよな、うん。

「お前らも朝飯取ってこいよ、一日の計は朝食からだぜ」

「宏に言われるの、マジで腑に落ちないな」

「同じくだ」

 そんな軽口を交わしながらホテルの美味しいバイキングを楽しみ、ホテルを出てバスに乗る。

 一時間半ほどバスに揺られて辿り着いたのは大阪、今日はここで一日班ごとのグループ研修だ。当然、班のメンバーには悠と宏も居る。

「いやー、大阪だなあ」

「そりゃ大阪だからな」

「日本語が通じるのが嬉しいぜ」

「そうだよな、四日前は台湾に居たんだもんな……」

 ふと思い出した通り、僕たちは台北で行われたアジア大会を先週末に終えていた。

 大会の結果も手放しで絶賛出来るものではなかったけど、それ以上に心のリソースを喰っているものがあるせいでもっと遠い出来事にさえ感じる。

「おーい弘治、行くぞ。今日の旅程は分刻みだからな」

「っと、今行く。手加減した旅程組めって言ったのに」

「はっはー、オレがそんな旅程組むわけないじゃないか」

 いやに元気そうな宏に苦笑を浮かべると、班員をもはや置いていく勢いで進む宏を追いかけることにした。



 その夜。ホテルに辿り着くと、ばたりとベッドに倒れこんだ。

「くはぁー、疲れた……」

「さすがに俺も疲れたわ……」

「なんだお前ら、軟弱だなあ」

 悠も隣のベッドに倒れて、それを見た宏が呆れたように笑う。今日のハードなスケジュールを仕組んだ張本人はピンピンしていやがるのが腹立たしい。

「お前のせいだろ……」

「一緒の班の女子の顔見たか?呪怨みたいになってたぞ最後の方」

 結局今日は十か所以上の名所を秒刻みで回る、まるでどこかのお偉いさんか芸能人かというような旅程をこなすことになった。

 どこも三十分すら経たずに離脱するものだから、概ね消化不良なのも当然。しかも宏が面白豆知識を披露したうえで、その肝心のところを見る時間が無いみたいなことをするから尚更だ。

 まだ大阪に居るのにもう一度来て観光したい気持ちで一杯にさせるあたり、稀代の才能の持ち主に違いないな。当然褒めてるわけじゃない。

「ったく、まあ飯まで寝てていいぜ」

「お前も寝るなよ、三人そろって寝落ちして遅刻とか最悪だぞ」

 大阪の宿は三人部屋で、お馴染みの如く悠と宏が同じ部屋。こいつらと泊まりすぎて、もはやルームメイトのような感覚にさえなりつつある。

 何とか夕飯前に起きることにさえ成功してしまえば、食事を取って部屋に戻るだけ。

 スマホゲームのデイリーを終わらせると、あとはこいつらと適当な話をして風呂に入るくらいしかやることはない。

「風呂上がったぜ、次入れよ」

「りょーかい、んじゃ俺行くか」

「いいよ、いってら」

 風呂を終え、ジャージに着替えてシャワー室を出ると、入れ替わりで悠が入る。それを横目で見つつ、適当にベッドに腰を下ろした。

 宏はソシャゲのデイリーが終わらないらしく、かなりの時間プレイに勤しんでいる。いくつゲームを抱えているんだこいつは。

 そんな心底どうでもいいことに気を取られていると、突然スマホが震えた。久しぶりに時間があるから、色々と思索にふけろうと思っていたんだけどな。

「……ちょっと出てくるわ。鍵貰うな」

「りょ、バレないようにな」

「巡回までには戻ってくるよ」

 だけど、そんな愚痴はスマホの画面を見て吹っ飛んだ。そこには、WINEで蒼から着信があったことを示す表示。

 鍵をひっつかんで部屋を飛び出すと、非常階段の階段室に飛び込んでから画面をタップした。

「もしもし――」



 普通科と計算機工学科は普通の授業のカリキュラムも違うように、修学旅行の行き先も違う。

 普通科は関西だって聞いたけど、私たちは九州。訪れた熊本と大分というチョイスは、大きな半導体工場がこの二県に存在するからなのだという。実際に、ここ三日間は一日一回以上半導体関連企業見学が入っている。

 そんな修学旅行最後の夜、私は熊本にあるホテルのベッドに倒れこんでいた。

「うう゛ぅ〜〜〜〜っ」

「……蒼、どうしたの?」

「んん〜〜〜〜」

 頭の中をぐるぐると駆け巡る堂々巡りの考えは、口から出力されると言葉にならないうめきに化ける。

 言葉には出来ない胸のもやもやがつっかえて取れない。それは五日前の夜、道香とシュウのあんなシーンを見てしまったから。

 同室の氷湖が心配してくれているとはいえ、そんなこと言えないし……

「もしかして、道香ちゃんと鷲流くんのこと?」

「っ、結凪何か知ってるの!?」

「おおっすごい喰いつき……いや、蒼がそんなになるなんて思ってなかったからさ」

「そ、そんなかしら?」

「うん。初めて見るよ、蒼のそんな顔」

 もう一人、同室の結凪の呆れたような笑いを見て、頬が熱くなるのを感じる。どうやら、相当判りやすいほどに顔に出ていたようだ。ちょっと恥ずかしいな。

「心の余裕が、出来た」

「……というか、色々と状況が変化したから、なのかしら」

「それも含めて。こうやって皆で部活ができてよかったね、蒼」

 でも、その後の結凪の笑顔は優しい。悪友から普段の適当な軽口が出てこないと少し調子が狂ってしまうのは、きっとシュウも同じだよね。

「結凪は何か知ってるの?」

「んー、多分告白したんじゃない?道香ちゃん」

「っ、そうね、私もそう思うわ」

「あの夜、蒼も――」

「わーっ、いいの氷湖!」

「もごご」

 余計なことを言いかけた氷湖の口をふさいで結凪の方を向くと、彼女は難しそうな顔をして顎に手を当てている。コンピューター関係以外で見るのは珍しい、本当に悩んでいるときの癖だ。

「だけど、なーんか違うんだよねえ……」

「どういうこと?」

「多分オッケーを貰ったなら、もっと喜んで帰ってくると思うんだよね。で、断られたら多分もっと悲しそうにしてると思うんだよ。道香って表情にすぐ出るし」

 その言葉に小さく頷いて見せる。道香は素直に表情に出るかわいいところがあるから、結凪の見立ては概ね正しいと思う。

「んー、何と言うか……切なそうな表情をしてた、っていうのが正直なところなんだよね。翌朝には元に戻っちゃってたから、深くも聞けてないしさ」

 だけど、次に結凪が紡いだ言葉は正直意外なものだった。

「……もが」

「っ、ごめん氷湖」

「いい、大丈夫」

「でも、切ないって……どういうことなのかしら」

「それがアタシもよくわかってないんだよねえ」

「返事が、貰えてない?」

「それだともうちょっと不満そうな顔をしててもおかしくないと思うんだけど……真相は闇の中、だね」

「……ほんと、どういうことなのかしら」

 ぽつりと呟いた声は、エアコンの音くらいしかしない静かな部屋ではよく響いた。

「そうだ、本人に聞いてみればいいじゃん」

「えっ、そんなことできないわよ」

「鷲流くん?」

「そそ、さすがに道香に直接聞くのはね。でもほら、鷲流くんなら何か教えてくれそうじゃん? ほらほらー、善は急げだよ蒼」

「そんな、いきなりなんて……」

「はぁー、そんなんだから蒼は駄目なんだよ。もっと自分を推してかないと」

「でも……」

 心には少し切ない痛みが走る。自分のこの気持ちを伝えてしまうのは、あの日のシュウの悲しみにつけ込むことだ、ともう一人の自分が冷静に告げている。

 とはいえ、結凪の言うこともまた事実。もし少しでも可能性があるのなら、諦めたくはない、のかな。

 甘く苦しい感情は、数日会えていないだけで彼のことを渇望している。

 ちょっとぐらい……そう、声を聞くくらいなら、いいよね?

「……ちょっと電話してくる」

「ここでいいよ、いつ先生来るかわかんないし」

「覚悟が決まったのなら、すぐ行動」

「わかったわ。ありがと結凪、氷湖」

 二人の後押しを受けてWINEの通話ボタンをタップすると、耳慣れた呼び出し音がスマホのスピーカーを震わせる。

 一秒が永遠に感じるほどの時間は十数秒続いて、何か都合が悪いのだろうと諦めて電話を切ろうとしたとき。

「もしもし、待たせて悪いな。どうしたんだ?」

シュウの声が、聞こえた。

「えっ、あの……」

 電話に出てくれるとは思わなかった驚きと、シュウの声が聞けた嬉しさで言葉が出てこなくなっちゃう。もう治ったと思っていた恥ずかしさの残滓が、言葉を紡ぐことを許してくれない。

 ようやく言葉を発せたのは、一つの違和感を辿った冷静な自分のおかげだった。なんだか、声に元気がない?

「ねえシュウ、ちゃんと寝てる? なんだか声に元気がないわよ」

「あー、あはは……今日の行程がハードだったのと、ちょっと寝不足でな。体調はいいから大丈夫だよ」

「もう、睡眠はすべての基本よ? 私が言えたことじゃないかもしれないけど、ちゃんと寝ないと」

「ああ、心配してくれてありがとよ。ってか、声だけでよくわかったな」

「どれだけ私がシュウの声を聞いてきたと思ってるのよ。隠し事なんて通用しないわよ」

「それもそうか、心配してくれてありがとな。で、改めてどうしたんだ? 電話なんて」

「あ、えーっと……」

 優しいシュウの言葉で、私は再び言葉が出てこない事態に直面する。言い訳なんて、とっさに思い浮かんできてはくれない。

「シュウの声が聞きたくなったから……」

 本心を言葉にしてはみたけど、あまりにも恥ずかしすぎる。結局、冗談めかすことを選んでしまった。

「なんてウソウソ、冗談よ。ねえ、台北で道香と何かあった?」

「……どうしてだ?」

「何年お隣さんやってると思ってるのよ、私に誤魔化しは通用しないんだから。なんだか台湾から帰ってくるとき、二人が変な感じだったように感じて」

 その言葉は、嘘だ。だって、二人が展望台にいるところを見てしまっているわけだから。

 誤魔化しは通用しないなんて口から出まかせもいいところ。そして、そんな言葉しか出てこない自分がもっと嫌になる。

「……本当に、お見通しなんだな」

 でも、それを聞いたシュウは大きくため息をついてみせる。それから数秒、言い淀むような息遣いの後。

「道香に告白されたんだ。最終日の夜」

 冗談だったらどんなに良かっただろう。あの日見たものは勘違いで、そんなことないと言ってくれたらどんなに気が楽になっただろうか。

 でも。

 シュウはきちんと言葉にして伝えてくれた。

 ああ、そういうことなんだ。

 でも、相手は道香だ。それなら、手放したとしても――あの日以前の私も、許してくれるだろう。

 そう、思ったんだけど。

「……そう。返事はちゃんとしたの?」

「いや、してない」

「ちょっと、どうしてよ」

 シュウの言葉が意味することは、意外なことに結凪の言う通りだった。

 あれだけ気が利いて賢くてかわいい女の子に告白されたのに。断る理由なんて、少なくとも私には思いつかない。

 それと同時に、私にもまだ……なんて思いがよぎった自分の浅ましい気持ちに気付いてしまって、さらに自己嫌悪。

「……まあ、色々とあってな。僕も心の整理がついてないんだよ」

「あんまり女の子を待たせるんじゃないわよ? 愛想尽かされちゃうかもしれないんだから」

「覚悟が決まったら、きちんと返事をするつもりだから」

「そう、ならいいわ」

 シュウの心の整理って、何のことなんだろう。正直想像もつかなかったけど、きちんと返事をする、と返事をしてくれたから、深くは追求しないことにした。

 きちんと道香に返事をしてくれれば、あの日秘めることを決めた想いも断ち切ることが出来る、よね。

 そんな話題転換の一瞬の沈黙ののち、シュウは少し迷うように話を始めた。

「あと蒼、一つお願いがあるんだ」

「何よ、改まって」

「……しばらくの間、朝起こしに来てくれなくて大丈夫だから。ちょっと考える時間が欲しくて」

 そのお願いは、五年半前の約束を終わりにしよう、と言うのと同じ。

『今までいっぱい手を繋いでもらったぶん、今度は私が』。

 そんな懐かしくも温かい約束の終わりは、意外とあっけなかった。もっとも、このことをシュウは覚えてないだろうけど。

 つまりは、それがシュウの今考えている答え、ってことだよね。

「……そう。わかったわ」

「蒼も知ってるだろ? 僕が朝起きれるようになってるのは」

 冗談めかして笑うシュウだけど、きっと色々と考えてこの結論に至ったに違いない。声には、申し訳ないような、それでいて少し前向きな色があったからわかる。

 だから、その決意を応援したいと思った。

「ええ、そうね。じゃあ、学校に行く時間にインターホン鳴らすわ」

「わかった。そうしてくれると助かるよ」

「じゃあ、おやすみシュウ。無理するんじゃないわよ?」

「ありがとう。蒼もな」

 通話終了と表示された画面を見て、知らず知らずのうちに長いため息をついていたらしい。

「うっわ、すっごいため息。やっぱり道香ちゃん、告白したんだって?」

「ええ、でもシュウは返事をしてないそうよ。まあ、心はある程度決まってそうだったけど」

「意外。ちゃんと返事をしてると思った」

「アタシも。んー、じゃあなんであんな表情してたんだろ……?」

 皆で顔を見合わせてうなる。次に言葉を紡いだのは、氷湖だった。

「蒼は、それでいいの?」

「えっ?」

 思わぬ直球を受けて、口からは一言しか出てこなかった。

 でも、氷湖は続ける。

「蒼も、鷲流くんのことが好き。違う?」

「い、いや、そんなっ」

「見苦しいぞ蒼ー、認めちゃえ認めちゃえ」

「……はい。好き、です」

 一度は誤魔化そうとしてみたけど、二人の視線に負けて頷いた。

 言葉にすると、もう一度胸の中のねばついた気持ちが熱を持っていくような気がする。

「んー、難儀だねぇ……」

「こればかりは、どうしようもない」

「でもっ」

 反射的に声が出た。二人がびっくりしてこちらを見るけど、私にできるのは小さく呟くことだけ。

「……私には、そんな資格はないのよ」

 胸の中で抱えた、熱を持つ甘い痛みは増すばかり。

 でも同じくらいに、一番の古傷も痛みを訴える。

 二つの痛みの板挟みで、どうにかなってしまいそうだった。



「お、おかえりシュウ。早かったな」

「あんま長電話するのもリスクがな」

「で、誰だ? 早瀬か?」

「まあ、そうだけど……」

 部屋に戻ると、まだ宏はスマホに視線を落としたまま。そんな状態でこともなげに聞いてくるから、思わず口を付いて応えてしまった。

「上がったぜい。ってどうしたんだシュウ、そんな複雑そうな顔して」

「早瀬から電話が掛かってきたらしくてな。んで戻ってきたらこんな顔してるから、事情聴取を始めるとこだ」

「蒼? そんな複雑そうな表情をする理由なんてあるのか?」

「ああ、ちょっとな」

 そしてタイミング悪く、悠も風呂を終えて出てきたところ。案の定、面白いものを見つけたかのように首を突っ込んできた。

「んじゃ、何があったか話してもらおうか」

「……こないだ、道香に告白されたんだよ」

「こないだって、台北の夜か?」

「そう。道香に呼び出されてさ」

 こいつらに隠しても仕方ないか。しぶしぶこの間からの一連の流れを説明すると、悠は渋い顔を浮かべた。

「……そういうことだったのか。確かにシュウが出てったあと蒼が来るのはおかしいと思ったんだ」

「え、蒼が来てたのか?」

 それは初耳だ。それから部屋組だった二人から語られた裏側は、当然僕も知らないもの。

「ああ、てっきり俺はお前が蒼に呼ばれたんだと思ってたけど……悪いことしたな」

「何て言ったんだ?」

「シュウならどっか行くって言ってたぜ、って。だから、その後は玄関に向かったんだと思う」

「ってことは、桜桃ちゃんと出かけるのを見られてたかもしれないのか」

「多分な」

 そして、その話はとても重要なものだった。

 何しろ、蒼がこのことを知っていたなら――

「……僕、すごいミスをしたかもしれないな」

 ――今日話した内容は、とても誤解を生みかねない言葉だったから。

 判ってくれるだろうと甘えて言葉を省略に省略して伝えたことを、心から後悔した。

「おい、何を話したんだ?」

「蒼に、しばらく起こしに来てくれなくて大丈夫だって伝えたんだ。さっき」

「マジかよ、絶対勘違いしてるぜそれ」

「早瀬からすれば、桜桃ちゃんとねんごろにするから距離を取ろう、としか聞えないだろうなあ」

「ねんごろって、お前なあ」

「何でそんなことを言ったんだ?」

「……最近さ、過去の記憶ってか、思い出を見るようになってるんだ。今までは霧がかかったようにしか思い出せなかったものを、鮮明に」

「今朝の寝不足っぽかったのはそれか」

「ああ、正直に言わなかったのは悪いとは思ってるけど……僕の個人的な話だからな」

「んで、それが早瀬に伝えたことにどう絡むんだ?」

 宏も、普段のふざけた雰囲気を微塵も感じさせない表情で聞いてきている。

 だから、できるだけのことを伝えることにした。ここまで来たら、話さないほうが気を遣わせてしまうだろうから。

「道香に告白されて一番強く感じたのは、罪悪感だったんだよ。こんな僕で良いのかな、っていう。で、今の僕の罪悪感はどこからくるんだろうって思って辿ってみると……その根は過去にあるってことに気が付いたんだ。奥底にしまい込んで封印してた思い出に」

「自分の境遇とか、そう言う話か?」

「ああ、そういう話。だから過去を改めて全部受け入れて、その罪悪感を何とかしてからじゃないと……二人には向き合えないって思って」

「ふんふん」

「で、そう思ったからだろうけど、あれから寝てるときに過去の光景がフラッシュバックしてくるようになったんだ。夢みたいに」

「それが、来てほしくないってのにどう繋がるんだよ?」

「……悠も見たと思うけど、大体が楽しい話じゃないからさ。起きたとき、どうしてもげっそりしちゃうんだ。それを蒼に見せて、心配させたくなかったんだよ」

「カッコつけだなあ、お前は」

「うっ、そ、そうかな」

 悠に一刀両断されて少しヘコむ。でも、蒼に心配をかけることだけはどうしても嫌だった。

 それこそ、引け目を感じてしまうから。

「ってか、確認させてくれ。弘治はくっつくとしたら早瀬がいいと思ってんだろ?」

 その言葉に、はっとさせられる。思い出されるのは、この間道香が来た時のこと。あの時も、なんか似たようなことを聞かれたな。

「うーん……そうなのかな。嫌いじゃないのは当たり前なんだけど」

 実際、蒼のことは嫌いじゃない。でも、いわゆる恋愛感情だという自信もない。

「んだよ、はっきりしねえな。じゃあ、例えばオレと早瀬がデートに行った、って聞いたらどうだ?」

「それは……愉快じゃないな」

 一瞬想像しただけで拒否感というか、嫌な感じが胸を満たした。そして、そのことに自分でもびっくりだ。そんな風になるなんて思ってなかったのに。

「だろ? ってことは、何だかんだで早瀬のことが好きなんだよ。お前は」

「やっぱ、そういうことなのか」

 蒼を、他のやつには渡したくない。そう言い換えてみると、少しだけしっくり来た気がする。

 可愛くて、気立てがよくて、心優しい……そんな言葉では言い表せないくらい美点が一杯ある幼馴染の隣に並んでいるのは、僕がいい。そうか、こんなにも好きだったのか。蒼のこと。

 初めてはっきりと自覚した想いに目を白黒させていると、悠と宏は呆れたように大きくため息をついた。

「ったく、そう以外にないだろうがよ」

「つっても、シュウから伝えるのもなんか微妙か。言い訳がましくも聞こえちまうよな」

「はぁー、しゃーない。早瀬にはそれとなくオレたちから伝えるか」

「こういうのは俺の仕事じゃないんだけどなあ、高くつくと思え」

「……ありがとな、悠、宏」

 本当にいい友達を持ったと思う。正直、普通の人にこんな過去を引きずっている話をしたら変な奴だと思われるに違いない。

 でもそれくらいに、一連の過去は心に重くのしかかっていた。それをなんとか跳ねのけないと、何も身動きが取れないほどに。

「気にすんなって。ただ、お前は早くその過去編を終わらせて、今に向き合うんだぞ。何しろお前は過去の思い出だけの存在じゃなくて、今を生きてるんだから」

 悠の言葉は、心の奥深くに突き刺さった。

「ああ。遅くとも世界大会までには、全部の決着を付けるよ」

 だから願った。出来るだけ早く、全ての思い出に触れられるようにと。



「あーあ、暇だなあ」

 わたしがぽつりと呟いた声は、静かな部室にやけに響きました。

 それは当然で、いまこの部室にはわたし以外は居ませんから。

「メールもそんなに来るわけじゃないし、次のチップの方向性も決まってないし……勉強にはいいけど」

 そんな愚痴をこぼしてみても、当然返事はありません。

 二年生のみなさんが修学旅行に行っている間、居残りのわたしたち一年生と三年生は授業でした。もっとも、授業は午前だけ。テストの採点の関係らしいです。修学旅行に向かう二年生の分だけを先に片付けたらしく、わたし達のテストはようやく木曜日に帰ってきました。

 そんな訳で、お昼ご飯を学食で食べてからかれこれ二時間ほど。わたしは、この誰もいない部室で時間を持て余していました。

 蒼先輩からお願いされていることは、部室の管理とメールチェックくらい。といっても部室の管理なんてそんなにすることはありませんし、メールも基本的には届きません。

 放課後になれば珪子から時々WINEが来たりするので暇すぎるということはないのですが、向こうは普通に授業中であるこの時間はとても手持ち無沙汰です。

 手元にある技術書のページだけが進んで、勉強だけが捗ってしまうのがとても嫌な感じでした。

 だってそんな空白の時間は、勉強でもしていないと色々なことを考えてしまいそうでしたから――お兄ちゃんのこととか。

 そんな日々を過ごしていた、金曜日の昼下がりのこと。

 ててとーん。

「……お?」

 突然、つけっぱなしにしてあった事務仕事用のパソコンが音を立てました。メールの着信音です。

「誰だろ? こんな時間に」

 自分の席を立って、音の出所へと向かってみます。開きっぱなしのメーラーには、確かに新着メールがあるように見えました。

「英語……迷惑メールかな? アメリカは深夜のはずだし……でも、アドレス」

 タイトルは短く、『来年のワールド・ハイスクール・コンピューター・デザイン・コンペティション』とだけ。はっきり言って怪しい迷惑メールにしか見えません。

 でも、世界大会の名前を知っているだけではなく、差出人のアドレスにはIntechの名前が入っています。

「……しゅう、りゅう?」

 もう一度見ると、メールアドレスの前には見慣れたお兄ちゃんの苗字。

 Intechで鷲流、ということは……もしかして、お兄ちゃんのお父さんからでしょうか。

 気付いてしまった以上、メールを開かずにはいられませんでした。

「久しぶりだな、コウジ……俺を、超えてみろ?」

 その本文は、飾らない英語で二文だけ。

 読み自体は当たっていました。これは、お兄ちゃんのお父さんからのメール。

 ですが、父から子への愛のあるメールには見えません。どちらかといえば宣戦布告です。

 その真意が知りたくて、わたしは添付されていたPDFの資料を恐る恐る開いてみることにしました。ウイルスチェックは反応していないですし、何か仕込みがあるということはなさそうです。

「これっ……! どういう、ことなの?」

 その文章は、開発中のチップの性能についてまとめられたものでした。秘密保持契約を結んでいるわけでもないこの部活に、こんな資料を送ってくるなんてあり得ません。

 最初のページにはチップの概要が書かれていました。開発コード名は『アレ』(That)、リリース時期は来年二月、ワールド・ハイスクール・コンピューター・デザイン・コンペティション向け。

 つまりは、何らかの形で世界大会にIntechが参加してくるということ。

 それだけで心臓がバクバクと嫌な音を立てていますが、資料はまだ続きます。

 次のページに送ると、そこには――

「嘘、何この性能……!?」

 詳細なアーキテクチャの説明と予測性能が書かれていましたが、その数字は、はっきり言って見たことのないものでした。

 だって、90ナノメートルプロセスを使って150GFLOPSオーバーなんて……考えられません。

「……これ、絶対に90ナノメートルプロセスじゃない……」

 考えられるのは、わたしたちと同じことをしている。つまり、指定された90ナノメートルプロセス用の装置を使って、それ以下のサイズを無理やり製造しているのです。

 そうでないとこの性能を出せるとは考えられませんし、プロセスについては一切触れられていない理由も頷けます。

「65ナノ? いや、もしかして45……?」

 ちょっと考えを巡らせてみますが、可能性の話になってしまってたらればの域を出ません。色々と断定するには情報が足りなさすぎますし、製造に関する知識も十分とは言えないですから。

「そうだ、まずは蒼先輩に」

 きっと今は帰ってくる途中であろう蒼先輩に、メールを転送してから短いWINEを飛ばします。

「こんなメールが届いたんですけど、どうしましょう」

 見てくれた時に返事を出してくれればいいな、と思っていましたが、案外すぐに返事は届きました。

「これ、シュウにも送った?」

「いえ、まだです」

「わかったわ。月曜のミーティングで伝えることにする」

 ひとつ、ため息をつきました。これを伝えてしまえば、お兄ちゃんはさらに憔悴してしまうでしょう。

 ですが、伝えないということはできません。彼らがこのメールを参加校全てに送っていたとしたら、この150GFLOPSが今回の大会のひとつの性能の目標になってくるだろうことは、想像に難くないからです。

「……ままならないなあ」

 やっぱり、呟いた声に反応してくれる人はいません。でも、今だけはそれが救いでした。

 さっきまではこの状況のせいで暇を持て余していたのに、自分の身勝手さに呆れてしまいます。

 ひとつ大きく息を吸ってから、言葉を選びながら蒼先輩に返事を返しました。

「ちょっとセンシティブな内容ですもんね」

 送ってすぐに既読は付きましたが、蒼先輩からの返事はすぐには届きません。

 きっとわたしと同じくらい返事に迷っているのでしょう。本人に見られている訳でもないのに、これだけ言葉を選ぼうとしてくれる優しさが蒼先輩のいいところです。

 そして……それだけ、お兄ちゃんのことを大切に想っているのでしょう。

 胸がちくりと痛みますが、WINEの通知音がタイミングよくかき消してくれました。

「そうね。でも、伝えないわけにもいかないでしょう」

 だいぶ苦慮した返事に、思わず笑みがこぼれました。色々考えた結果なのであろうどこか不器用な文面は、やっぱり蒼先輩らしいです。

「それにしても、この性能はすごいわね」

「ですね。わたしもちょっと考えないといけなさそうです」

「私も、相当頑張らないといけなさそう」

「お互い頑張りましょう」

 開発だけじゃなくて、お兄ちゃんのことも。

 そんな言外のことは伝わらないでしょうね。だって、蒼先輩は……わたしのあのことを知らないはずですから。

「ええ、道香もね」

 戻ってきた返事は、ある意味予想通り普通のもの。

「……これも、伝えないとなあ」

 今度は大きくため息が出ました。もう勉強どころの気分じゃありません。

 せっかくの時間ですし、こちらについて少しぐらい考えを巡らせても怒られはしないでしょう。

 紙パックのお茶を冷蔵庫から取ると、もう一度大きくため息をつきました。

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