0x05 「Sky Lake」
「……これで、大丈夫かしら」
「母さん、準備はできた?」
「うん、ばっちり」
また、記憶を見ている。
穏やかな記憶の、最後のひとかけら。
二〇一三年、小学四年生の時の夏。ついに、母さんは長期入院をすることになった。
今の僕は知っている。
これが、母さんが我が家に居た最後のシーンであることを。
「うわっ、こんなに片付けたの?」
「そうよ、しばらく空けることになりそうだから。弘治もあまり散らかってると、掃除が大変になっちゃうからね」
母さんが過ごしていた部屋は、最後の数日で一気に物の数を減らしていた。ぱっと見るだけでも寂しさを感じるくらいには。
……今の母さんの部屋とほぼ同じ光景が、そこにはあった。
「掃除くらい任せてくれてもいいのに」
「こんなに広い家なんだから、大変でしょ?」
「でもなんか……寂しいよ」
「もう、母さんはしばらく帰ってこれないんだから。ご飯とかはお隣の早瀬さんにお願いしてるから、そこで一緒に頂いてちょうだい?」
「うん、わかってるよ」
僕はもう、このころから早瀬家にお邪魔して食事を取ることが増えていた。
母さんがキッチンに立つのも、日によってはしんどそうにしていることが多かったから。
僕一人でも概ねの家事は出来るようになってはいたけど、さすがに小学生に一人で火を扱わせるのはリスクだと思ったんだろう。
その返事を聞いた母さんは、青白い顔に笑顔を浮かべた。
「ならよし。そろそろ金江が迎えに来てくれるから、行きましょ」
ちょうどその声と同時、インターホンが鳴る。いよいよ、最期の旅立ちだ。
「おはようございます、天先輩。じゃあ……行きましょうか」
「うん、頼んだわ」
母さん自ら車を運転することも無くなっている。車は半月前に売ってしまっていた。
今思えば、きっと車を残していても意味がないこと、そしていつ体調が急に悪くなるかわからないことも判っていたのだろう。
こうして金江さんの車で連れて行ってもらったのは、嫌でも忘れられない……歩いて十分ほどのところにある、大きな病院だった。グレーのツートンの建物が、なんだかやけに大きく感じたのを今でも覚えている。
それから金江さんと一緒に受付を済ませて、通されたのは白い病室。
嫌というほど見た、あの白い光景だ。
そこで夜まで過ごしてから、母さんとは一旦別れた。
それ自体は、母さんが入院するたびに経験したわずかな別れ。
なのに、その夜はなかなか寝付くことができなかった。母さんが居なくて、一人で寝ることは今までに何度もあったのに。
この日だけは、虫の知らせというのだろうか。なんだか不安で仕方がなかったのだ。
そんな眠れぬ夜、時計は十時半になろうかという頃。
ぴんぽーん。
聞きなれたチャイムの音でベッドを這い出した。
こんな時間に訪ねてくる人なんてまともじゃない。そう思いながら、ドアガードを立ててから恐る恐る玄関を開ける。
「はい、どちら様ですか?」
「弘治、くん? くぁ」
「蒼!? どうしたんだよ、こんな時間に」
慌ててドアガードをたたんでドアを改めて開く。そこに立っていたのは、どう見ても眠そうな蒼だった。
「……お母さん、しばらくいないって聞いたの。だから、寂しいと思って」
金江さん曰く、普段は九時半ごろには寝てしまっているのだという蒼。そんな蒼が見てわかるくらいに眠そうなのをこらえながら、不安げに見つめてきている。
「ばっ、そ、そんなことないし! 僕は一人でも大丈夫だから」
でもこの時は、当然図星だったとは素直に言うことができず。
そして何より、最後の一言は自分へ言い聞かせたことでもあった。
「でもー……」
「あーもう、そんな眠そうにして!ほら、帰るぞ」
靴を履くと、熱帯夜のむわっとした熱気に包まれる。
不満げなのか、眠いだけなのか怪しい蒼の手を引いて、僕たちは夏の星々の下を歩いた。
手にじっとりとした汗が吹き出てくるのを感じたころ、ようやく早瀬家の玄関に辿り着く。早速チャイムを押すと、すぐに金江さんが出てきた。
「あら、帰ってきたのね」
「……この時間に訪ねてくるのは、不審者ですよ」
どうやらその口ぶりだと、知ってて蒼を送り出したらしい。いくら田舎とはいえそれなりの都市の町中なんだけどな、子供ながらに呆れたのを思い出した。
「ふふっ、でもこうやって弘治くんが守ってくれるから。ありがとうね」
「……いえ」
「じゃ、また明日。朝ごはん、七時には準備して待ってるわね」
「はい、また明日」
「くぁ……おやすみぃ」
もはや半分寝ている蒼が玄関に入り、ドアを閉めたのを確認してから帰る。
でも、蒼が訪ねてくる前よりも……少しだけ、心が軽くなったのは間違いない。
次の瞬間、ふと突然夜空の闇が明るくなった。
感じる熱さが数倍になり、眩しさに目を開けていられない。
なんとか目を刺す光が落ち着いて目を開くと、僕が立っていたのは今と変わらない会津若松の駅前だった。
そこには、まだ小学生の道香と桜桃夫妻が立っている。
「本当は、弘司くんがこんな状況の時に出ないといけないなんて嫌なんだが……」
「仕事の都合なら仕方ないと思います。お気をつけて」
これは、道香との別れのシーン。母さんが長期入院に入ってまもなく、八月の半ばだったっけ。
我ながら大人びたことを言うなあと思っていると、背中をばしーん!と由華さんに叩かれた。綺麗な紅葉ができているんじゃないか、と思うくらいに痛かったのを思い出す。
「んもう、子供がそんなこと心配する必要なんてないんだから! でも、本当に体には気を付けてね。蒼さんの後輩が近所に居るっていうから、ちゃんと頼るんだよ?」
「それに、困ったらいつでも連絡して欲しい。キミは、僕たちの第二の子供なんだから」
本当に心配そうな小市さんと由華さんを見て、僕が出来るのは笑顔を見せてきちんと謝ることだけだった。
「はい。本当にありがとうございます、お世話になりました」
「ほら、道香も」
「お兄ちゃん、行って……ふえ、行って……ぐすっ」
「ちょっ、泣くなよ道香、別にもう会えない訳じゃないんだから」
「だって、お別れなんてしたくないもんっ……!うぇ、うあああああんっ!」
さすがに当時の僕でも気付いていた。
彼らが行くのはアメリカ、遠い国。
父さんが行ってから、まだ帰ってくるという約束を果たしていない場所だ。
つまりは、そうそう会うことも難しいということを。
実際に六年ほど会うことはできず、道香と再会を果たしたのは今年の春。
でも、そんなことを道香には言えなかった。言ったら道香がさらに泣いてしまうのが判っていたから。
縋りついて泣く道香を撫でていると、小市さんが時計をちらりと見た。
「そろそろ行かないと、だな。飛行機に乗り継げなくなってしまう」
「ん。じゃあな、道香。色々大変だと思うけど、次に会ったらアメリカの話を聞かせてよ」
「ぐすっ……うん、わかった……ずずっ」
その言葉でようやく道香は僕から離れる。大きな荷物を手に握りしめると、涙に濡れた顔で言った。
「またね、お兄ちゃん。絶対だよっ」
「ん、絶対だ。僕は若松で待ってるから」
「じゃあ、指きり」
差し出された小指に小指を絡めると、道香はどこか呑気な雰囲気の約束の歌を歌い出す。
ゆーびきーりげんまん。うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった。
小指を離すと、残るのは夏のむわっとした空気の熱さだけ。
「行こうか。またね、弘司くん」
「またねっ、絶対だからねっ!」
「うん、絶対だから」
それから手を振る桜桃親子に、笑顔で手を振り返す。
当然寂しくないわけがない。でも、泣くのは一人になってからと決めていたから涙は我慢。
三人の姿が改札の奥、そして建物の影に入るまで、笑顔で手を振り続けていた。
次の瞬間気が緩んで、全ての感覚が真っ白になる。涙が頬を伝う感覚だけが現実のようだった。
この時僕が感じていたのは、寂しさと孤独さ。
父さんは、帰ってくる素振りもない。
母さんはしばらく入院することになり、桜桃親子も居なくなってしまった。
周りに居るのは、早瀬家と柳洞家のみんなだけ。
でも、いつかはこの人たちもいなくなってしまうのかもしれない。
そうしたら、本当に一人ぼっちになってしまう。
そんな孤独があらためて胸を締め付け――目を覚ました。
「もうそろそろ、か」
カレンダーは十一月十六日。土曜の部活だ。
起きると同時に、手元に戻ってきた鮮明な記憶を手放さないようもう一度思い出す。
そういえば、痛いくらいの寂寥感を覚えることは今はない。
それどころか、きちんと思い出を残している中学の時にも感じることはなかった。
「何が、あったんだっけ」
だから、寂しさを払ってくれるような何かがあったんだと思うけど……
今はまだ、それが何なのかをはっきりと思い出せてはいない。
「……気が滅入るな、やめやめ」
無理やり思い出せばあの日の寂しさが蘇ってきてしまいそうで、それ以上深追いすることをやめた。
それに、夢の季節はもう夏だ。
母さんがこの世を去るまであと四か月。
それは夢の終わりがさらに近づいていることと、それと同時に答えを出さなくてはいけない日が近づいていることを突きつけていた。
◇
「開発会議、時間通り始めたいからそれまでには降りてきてくれよー」
「何時からだっけ?」
「十時からだぞ、痴呆が始まったか?」
「俺アルツハイマーかもしれん……」
「ほら悠おじいちゃん、ご飯は昨日食べたでしょ」
「人権無い定期だな」
「そのジョーク、宏が言うとちょっとマジっぽいからやめといたほうがいいぜ」
「おい柳洞、それどういうことだ」
「あんたたち、資料は出来てるんでしょうね」
「やべっ」
「おっと」
「はあ……先が思いやられるわね」
「全くだ」
部内で交わされる廃棄物のような会話の間にも、響くキーボードの音は止まらない。
いつものように玄関先で蒼と落ち合い、学校へと向かって。八時半には部室に揃っていたコン部のメンバーは、皆必死に開発に取り組んでいた。
火曜、水曜と二日間学校が休みだったから部室は使えなかったとはいえ、こっそりと自宅で作業したのをみんなの履歴を見て僕は知っている。
それだけモチベーションが高くて、本気になってくれているのが僕は嬉しかった。
「さて、では第二回開発会議を始めます」
「皆……揃ってるわね。今日は結構大事な話になると思うから、ちゃんと聞くのよ」
当然、開発会議も予定通りの時間に始めることができた。
ぐるりと見回すと、全員楽しそうにしてくれているのが一つの救いだった。
「まずは状況報告からいこうか。論理設計チームはどう? 蒼」
「正直、星野先輩が居なかったら無理だったわね……」
「頼ってもらえて、おねーさんはとっても嬉しいよ」
ケーブルを受け取った蒼が画面をプロジェクターで映す。蒼らしく端的にまとまった資料が概ね聞いていた開発状況を伝えている。
もっとも、事前に聞いていたものとそう大きく違いはないけど。
「さて、開発状況だけど順調よ。さっきも言った通り、全部自分でやったら無理だったわ」
「結構進んでるんだな。六割半ってとこか?」
「ええ、とりあえず動くものなら来週には出来ると思うわ」
「それなら一週間取っても中間前に試作が流せそうだな」
十二月の二週目には、後期の中間試験が待ち構えている。チップの全機能の準備が終わっていなくても、その前には一回試作をしたいね、という話は少し前に皆に伝えていた。
何しろ今回は新しいものが多い。ちゃんと動くにしろ動かないにしろ、試作して経験値を溜めないことにはいい結果に繋がらないだろう、という読みだ。
「早瀬ちゃんがアウトオブオーダー部をがりがり拡げてて、あたしがインオーダー部を手直ししてる感じだね。素の設計がそつなくまとまってるから、拡張だけなら比較的楽で助かるよ」
「私がやってるところにも色々アドバイスをくださるので、本当に勉強になってます」
「そう言ってくれると嬉しいなあ」
「なので、来週に出すために今日中にはインオーダー部を動くようにしてもらってもいいですか?」
「えっ、とりあえずで動かすにもあと百か所くらい修正と実装が残ってるんだけど」
「大丈夫です、だって星野先輩ですもん」
「いやぁ、大丈夫って言われても……」
「お願いです、星野先輩。何とかなりませんか?」
「ぐ、むむむ……」
どうやら、星野先輩が抱えている修正箇所もかなりの数に及ぶようだ。
その全部を修正してほしいというのは可愛い後輩からのお願いでも難しいらしく、ちょろい星野先輩にしてはめずらしく耐えている。
と、そこに思わぬ伏兵が現れた。
「あ、アタシからもお願いします。早く貰わないと、テープアウトに間に合わないんですよ。先輩のイケてるところ、見たいです」
「砂橋さん、ちょっと雑じゃない?」
「あの子が乗ってきたことに驚きよ」
「待ってください、あれ多分本気ですよ。ちょっと泣きそうじゃないですか」
「マジだ。自分が短納期で仕事するのが嫌だからな」
小声で両隣の蒼と道香と言葉を交わす。確かに短納期で、しかも初めて取り組むことが多い設計を担うのは少し可愛そうではある。
数秒の沈黙の後、こんどは星野先輩がやけになったように言い放った。
「わかった、頑張るっ! 何とか終わらせるよっ!」
「ありがとうございますっ!」
「……とりあえず一安心、なのか?」
……星野先輩も順調に開発に携われているみたいだ。
燃えてるプロジェクトの中で半年だけとはいえ、以前に蒼たちと部活をやっていただけのことはあるのかもしれない。
ここも懸念点の一つだったから、心の中で小さく胸を撫でおろした。
ちなみに、星野先輩に『お願い』をした後はひっそりと蒼がハードルを下げてあげているのは内緒だ。今回も、多分来週の月曜日までに直せばいいですよ、とか伝えるのだろう。
「ここからが本題よ。この間和重技師から提案されたんだけど……SMTを、4スレッド対応まで拡張しようと思うわ」
「つまり、1コアで今までは2スレッドの同時実行だったのを、さらに二倍にするってことか?」
「そういうことになるわね」
「インオーダー部にかなり手を入れることになりそうですけど、大丈夫なんですか?」
「そこは本当に大丈夫。今日終わらせたい最初に間に合わせるのは無理だけど、二回目のテスト製造までには間に合いそうかな」
「ひっそりと断定から希望にすり替えましたね」
「メインのアプリとして想定されるLIMPACKだとあんまり効果がないんだけど、それ以外は何を走らせるかわからないじゃない? 今回実行ユニットを大きく増やすから、それを全部使い切るには一理ある提案なのよ」
「確かに、命令発行ポートが十二もあるんだもんなあ」
「性能が良くなる改善なら賛成だ。間に合う目途が立ってるならやらない理由はないと思う」
蒼が受けていたアドバイスは、この改良についてだったみたいだ。
SMTは、LIMPACKのようにどのコアにも片っ端から同じ処理をさせるようなプログラムには向かない。
なぜなら、その処理に使える演算器は決まっているからだ。例えばLIMPACKならベクトル演算器を使うけど、これはコアごとに二つしかないから一スレッドでも問題ない。
一方で、例えば整数演算とメモリへの読み書きをするようなプログラムであれば、メモリの読み書きをしている間には演算器が遊ぶ、つまりは空いてしまう。人間にとっては一瞬の出来事でも、一秒間に何億回という処理が可能なCPUにとってはかなりの長い時間だ。
そういうアプリの時には、このSMTという機能は大きな効果を発揮するのだという。
そして、今回のSapphire Coveコアでは並列に実行できる命令の数が多い。だから、同時に実行できるスレッド、つまりはプログラムの数を増やしてあげたほうが性能を無駄なく使い切れるだろう、ということ。
単純な最高性能の向上には繋がらないけれど、プログラムの種類によってはさらに性能が伸びる伸びしろを作る改良だから、止める理由はない。
もちろん、間に合うことが前提だけど。
「ってわけで、Sapphire Coveコアは順調よ」
「よかった。じゃあ次、砂橋さんの物理設計……は、まだ何も手をつけられてないんだっけ?」
「正直そうだね、まだシリコンのプロファイルすら出てきてないレベルだから。暫定版は貰ったから、コアで使う確実にIPを重点的に実装してみてはいるよ」
一方、プロセス開発と密接に繋がっている砂橋さんの進みはイマイチだ。何しろ設計のもとになるシリコンの仕様が固まり切っていない。
「メモリーコントローラーはもう少し先になりそうか?」
「少なくとも月末までには無理かなあ。今年中には何とかしたいけど」
さらには、新しく使うIPであるメモリーコントローラーにもまだ手が回っていないのだという。
正直頭痛の種ではあるけど、こればかりはどうしようもないのがもどかしいな。
「そうそう、蒼に買ってもらった新しいソフト、めっちゃいいよ! やっぱりバージョンが新しいと違うねえ」
「ならよかったわ。デザインルールはどんどん難しくなるでしょうから、ちょっといいツールを使わないとやってられないのもよく判るから」
「アタシが恥ずかしい思いをした価値があったよ」
「そう言ってもらえてよかったわ」
……あの時には既にライセンスは買ってあったなんて、伝えない方がきっと砂橋さんは幸せだろう。
蒼の知らんぷりも堂に入っている。小さいときはあんなに素直でかわいかった蒼をこんな風にしたのは一体誰なんだろう。きっと悠に違いない。
だから、何も知らないふりをして話を続けることにした。
「ちなみに月末までに何とか動くレベルの物は作れそう?」
「プロファイルが今の暫定版から大きく変わらなければ、こないだのボードが流用できるチップくらいなら作れるかな」
「わっ、それ助かります。私もプロセスのお手伝いにかかり切りだったので、ボードの設計にはあんまり手をつけられてないんです」
「じゃあ、これのファーストシリコンは今までのボードで動く仕様にしちゃおうか。蒼、できるか?」
「結凪の二度手間が大きくなるけど、こちらとしては問題ないわ。メモリーコントローラーのIPを呼び出さないで、MIHとやりとりするIPの設定を今まで通りにするだけでいいから。星野先輩の手を煩わせるまでもないわ」
「ううっ、後輩からの気遣いが優しいっ」
「押し勝って納期を繰り上げたのも後輩なんだよなあ」
「じゃあ、道香の手も回らなさそうだしそうしよう。ついでに道香、ボードの方はまだみたいだけどどこか手をつけ始めたところはある?」
「ソケットの選定はある程度目星がついてて、併せてピンの配置は考え始めたよ。今までとは違うけど、出来物のソケットを使おうと思ってる」
「まあ、ソケットを一から設計してたら間違いなく間に合わないだろうからなあ」
「ピン配置が違うから互換性はないんだけどね。シリコンがある程度形になったら、結凪先輩ともっと詰めていくつもり」
「わかった」
道香の仕事が進まないのも仕方ない。今回は今までのIPに縛られた設計ではなく、イチから全てを起こす必要があるからだ。
そのためにはチップ全体の大まかな設計ビジョンが見えてないといけないけど、肝心の論理設計すら仕上がっていない状況。仕方ないとはいえ心配だ。
「ちなみに、メモリの信号も速いしピンだと不安だからLGAのソケットになる予定だよ」
「えるじーえー?」
「今までのソケットはPGAって言うんだけど、それとは別物になると思う。ほら、今までってCPUの方に針があったでしょ?」
「そうだな、剣山みたいな針があったな」
「LGAでは逆に、ソケットの方にピン……というか接点が移るの。CPUの裏側は金属の接点があるだけ」
「へえ、そんな仕組みがあるのか」
「最近のIntechのCPUなんかは全部LGAだよな」
「枯れた技術といえば枯れた技術だぞ」
「そ、そうだったのか」
「特徴としては、信号を伝える性質を良くしやすいことがあるんだよっ」
「だから、高速な信号直接扱う今回のチップはLGAにしたいってことか」
今回は今までと違って、CPU側にメモリなどの通信速度が速いものが繋がることになる。その速い信号を通すには、そのLGAという仕組みのほうが優れているというわけだ。
「そういうこと。あ、あとあと、今回からボードに『ロー・ロス』の『プリプレグ』を使うから予算は多めにお願いね」
「ろーろす? の、ぷりぷれぐ?」
「えーっと、多層ボードの銅箔と銅箔の配線の間に挟まる絶縁層のことをプリプレグって言うんだよ。ガラス繊維にプラスチックを染み込ませた素材なんだけど、これの特性で速い信号が通りづらくなっちゃったりするんだ」
「それが通りづらくならないのがロー・ロスってことか」
「そ、速い信号……高周波になってもロスが少ない素材のこと」
「わかった。まあ、予算には余裕があるから百倍とかにならない限り大丈夫だ」
さらには、ボードの素材すら変えないといけないらしい。今までもさんざん道香から高周波を通すボードの設計は大変なんだよとは聞いていたけど、ここまでとは。
もっとも、僕が口を出すところでもないしな。ここは専門家の道香に任せてしまって大丈夫だろう。
「さて、じゃあ……次は本題のシリコンの方か」
「ケーブル、ちょうだい」
「ほいよっと」
悠が蒼からケーブルを受け取り、それを隣の狼谷さんに渡す。パソコンに繋げると、スクリーンには狼谷さんらしく几帳面にまとめられた資料が表示された。
「文化祭とその前後で、SADPのほうはようやくラインとして流せるようになった」
「おお、ようやく人の手がいらなくなったんだな」
「とはいえ、良品率はまだ低い」
「二十パーセント、か」
その数字は、はっきり言ってお世辞にも高いとは言えない。一時期のゼロよりは間違いなくいいけれど、この状態で本番には行きたくないレベルだ。
相変わらず表情を変えずに、狼谷さんは続ける。
「SRAMでこれだから、ロジックを入れるとどうなるかは正直怪しいよな」
「かなりリスキーだとオレは思ってるぞ」
「ただ、これも改善点ははっきりしてるし見込みはある。薄膜の厚みと工程の調整をしたから、今流してるSRAMウエハーはもっと良品率がよくなるはず」
「なら、とりあえずはOKって感じか。HKMGの方は?」
「High-K素材は何とか扱う準備ができた。メタルゲートの方は、木曜日に届いた素材を使えるようにするパーツの受け取り待ち」
「ってことは、まだ使えないんだな」
「最初のチップには間に合わない。年末のチップには……うまくいけば」
「とすると、最初のチップはSADPを使うけど、HKMGを使わないプロセスになるってことか」
「そうなる。であれば、今結凪に渡してるデザインルールで製作可能。リークは少し大きくなるけど、仕方がない」
「まあ、SADPだけ使ってHKMGを使わないとそうなるよなあ。狼谷ちゃんの頑張りしだいってとこだな」
「出来るだけ早く、使えるようにする」
つまりは、トランジスタの密度だけが上がり、特性自体は前のまま、もしくは若干悪化した程度のもので作ることになるわけだ。
大会に持っていくには苦しいけど、とりあえず動くものを作るだけなら十分だろう。性能に関しても、設計に関する課題さえ見えれば問題ないだろうし。
一連の話を聞いて、砂橋さんは顔を綻ばせた。
「お、良いこと聞いちゃった。じゃあメモコンの方はHKMGを使ったルールを待って、MIHとの通信IPだけ作っておこっと」
「使うIPのリストだけ先に送っておくわ。プロセスが全部違うせいで、ハードIPは全然ないから覚悟してちょうだい」
「ぐえー、ってわけで氷湖、これから月末までは物理の方にかかりっきりかも」
「わかった。問題ない」
つまり、最初の試作の段階では、コアも暫定版だしプロセスも暫定版ということになる。
でもどちらも新しいことを色々と試す以上、早く試作してみるのが一番だ。上手く動かないことがわかるだけでも収穫は大きい、というわけ。
「目標の面積はターゲットの八割くらいになるかなあ。四百八十平方ミリくらいだけど、大丈夫?」
「……多分、大丈夫。今のSRAMチップが本番の六百平方ミリで作ってるから」
「それなら問題なさそうだね。ってわけで道香、サブストレートだけ割り込みの超特急でデザインしてもらうから」
砂橋さんのからのお願いに、道香は数秒思案顔になる。それから、ぽん、と手を叩いた。
「このステッピング用に新しいデザインを起こすよりも、『インターポーザー』の方がいいかもしれません。メモリもMIHにぶら下げるなら」
「あー、インターポーザ―で変換しちゃう? ソケットと『ピンマップ』が出来てるならそれでも良いと思うけど」
「下駄履かすのか。桜桃ちゃんも大変っぽいけど間に合うのか?」
「はい、何とか間に合わせようと思います。その方が後々手戻りが少ないですし、後のステッピングでも使えるでしょうから」
「待って、僕を置いていかないでくれ。インターポーザ―、ってなんだ?下駄?」
「簡単に言えば、ピンの配置を合わせるための変換アダプターのことだな。電気的な仕様が似てるけどピンの配置が違うから動かない、みたいなCPUなら、ピンの場所さえ合わせれば大体動くから」
「つまり、今回から新しく使うソケットを今までのJCRAの奴に合わせるアダプターを作る、ってことか」
「うん、そういうこと。プロジェクト的にも後々まで使えるし、どうかなお兄ちゃん?」
「信号の品質は大丈夫なのか?」
変換アダプターとなると、間に余計な基板や接点が一式増えることになる。高速な信号はそれだけで一気に減衰したり波形がおかしくなったりするらしい。
だけど、そんな懸念はすでに織り込み済みだったみたいだ。
「大丈夫、だって引き出すのはどうせ電源とMIHバスだけだもん。そんなに速い信号はそもそもJCRAのIPベースなわたし達のボードじゃ使ってないから」
「そうか、どうせ使うのはこの間のボードなんだもんな」
「ボードが無くて、シリコンがあるっていうのも変な話だけどな。俺たちらしいっちゃらしいけど」
「普通は逆よね。ボードはあるけどシリコンがまだの時に、一つ前のCPUでボードのチェックをするのに使うことが多いから」
信号の品質に問題が無いなら、懸念はない。頷いてゴーを出すことにした。
「よし、じゃあそれで行こうか。道香、超特急で頼むよ」
「任せてっ」
「ちなみにだが、下駄ってのはこのインターポーザーのあだ名だ」
「なるほどな、だから下駄を履かすって言葉が出てくるわけだ」
「というわけなので、本番用のピンマップを固めるためにも『シリコンバンプ』の確定を早めにお願いします、結凪先輩?」
「あ、アタシももちろん努力するよ。ってわけだから蒼、早くそっちのデザインちょうだいね」
「今あるものをベースに作っちゃうから、来週半ばには渡せるようにするわ」
もし今月末までに物理設計が終わってしまえば、二週間弱掛かるテストチップの製造が終わる頃には中間試験も終わっている、という計算になる。
皆には負担を掛けてしまうけど、狙ってもらうタイミングとしては万全だろう。
「スケジュール、キツキツだなあ」
「そんなこと言ってのほほんとしてる悠と宏、お前らにはテスト用のBIOSを作ってもらわなきゃだからな」
「げ、そうじゃん。狼谷さん、一人で大丈夫?」
「大丈夫。終わったらすぐ手伝ってもらうけど」
「オレたちが暇な時はないってことだな」
「まあ、そういうことだ」
「というわけだから、蒼はこっちにも最初のシリコン用の設計送って」
「わかったわ、悠と杉島くんにも共有しておくわね」
そして実際にシステムを動かすにはBIOSが不可欠。とはいえ、現状ではまだ既存のものをベースに作れるだけマシだ。
メモリコントローラーがCPUに入るとその制御の部分を作りこまないといけないと聞いているから、出来るものから手をつけておいてもらうのは正解だろう。
「ってわけで、俺たちも頑張るよ」
「ちなみに砂橋さん、来週に蒼から設計貰ったとして、いつまでにいけそう?」
「うーん……SRAMのを作った感触だと月末には間に合うと思うよ」
「じゃあ、最初の試作は月末……三十日の土曜日を目指そう」
「わかったわ」
「任せて!」
「あーい、頑張るよ」
「わかった」
「何とかしてみせますっ」
「うーす」
「あいよっ」
試作の日程を宣言すると、全員から肯定の返事が返ってくる。とりあえずの第一関門は、今月末になりそうだ。
今までより時間が取れるとはいえ、取り組む新しいことの数に比べれば十分とは言えない。できることから確実に進めていくことが成功に繋がる……と信じよう。
「開発情報の共有は以上になるけど、何か質問は?」
皆を見回すと、全員が小さく首を横に振った。どうやら問題は無さそうだ。
「じゃあ次に、今まで決めてなかった開発名を決めちゃおうと思う」
話を変えた先は、今日のある意味個人的な本題。
今まではなあなあになって流され続けていた、チップの開発コード名だった。
「そういえば、名前つけてなかったもんな」
「今回はどんなのがいいかなあ」
皆があれこれと言い始めるけど、それを遮るように声をあげる。
「で、ここからは提案、というかお願いになる」
「お、弘治にしては珍しいな。何だよ」
緊張で出る唾を飲み込んで、かねてから……父親からメールを貰った、その次の日から考えていたことを口にした。
「開発コード名を、僕に決めさせて欲しいんだ」
「そう言うってことは、何か案があるの?」
「うん、実はもう考えてる」
「いいわよ」
「ん、いいんじゃない?」
「いいよっ、お兄ちゃんが決めてくれるなら」
「お任せする」
「いいぜ」
「オレも、お前が決めてくれるならそれでいいぞ」
「いいのか、そんなあっさり」
皆は次々に肯定の声をあげてくれる。
正直何か言われると思ってたから、あまりの拍子抜けさに思わず聞き返してしまった。こんなにあっさり通るなら、さっきまでの緊張はなんだったんだろう。
蒼はにっこりと笑いながら、さも何でもないことかのように言葉を続けた。
「だって、このプロジェクトのプロマネはシュウなんだから。どんな理由でつけられた名前だったとしても、私は認めるわ」
蒼の言葉に皆が頷く。それを見て、みんなからの信頼を感じて涙が出てきそうになった。
同時に、その名前を付ける責任感で胃が痛むのを感じる。
だから、大きく息を吸って覚悟を決めた。
正直この名前を使うのはためらいもある。何しろ、この名前が以前につけられたチップは世に出ることはなかったから。
それに、過去を受け入れるための一つのステップという私的な理由でもある。
でも……皆の今年の集大成を見て欲しい。
この名前の一部にも入っている、とある人にも。
だから、この名前しかない。そう思った。
「じゃあ、開発名を発表するよ。コードネームは――」
◇
アメリカ太平洋標準時、十一月十五日の午後五時ちょうど。
Intechのキャンパス内にあるとある会議室に、最先端チップの技術者たちが集まっていた。
分野は論理設計からプロセス技術まで幅広い。いわゆる事業部の垣根を超えて集められた、少数精鋭といった顔ぶれだ。
「さて、みんな集まってくれてありがとう。これから、”that”開発のキックオフミーティングを行う」
「待ってたぜ、ダイキサン」
「いつプロジェクトを始めるのかと気にしてたんだ」
「悪い悪い、次のメテオ・レークの設計が始まってしまって肝心の僕のスケジュールが空かなくてな。結局今日になったんだよ、金曜の夕方なのにすまない」
「いいんだって、ダイキがいつもそれ以上に働いてるのは知ってるんだ」
その中心に立っているのは、鷲流大樹。
相変わらず顔は青白く、目の光は他のエンジニアたちと比べても薄い。だが、どこか纏っている雰囲気が普段と違うのはこの場の誰しもが感じていることだった。
「まずは、今回作るチップに関して。今回作るのは市販品じゃない。世界高校計算機設計競技会のエキシビジョン向けのチップだ」
「へえ、あの大会か。いつもは協賛だったけど、今回は参加するんだね」
「ああ。もっとも正式参加じゃない、エキシビジョンだけどな」
「そこで大人げなく勝っちまおう、ってわけか」
一人の主任技術者が冗談のように放った言葉に、技術者たちが声を上げて笑う。
でも、その場で一人だけが笑っていなかった。
「――そうだ。今回は、大人が本気を出したらどんなものが出来るかを見せようと思う」
「おい、それってどういうことだ?」
「まずは、これを見てくれ。基本的な仕様、それに大まかな機能設計は僕が済ませておいた」
そう言って大樹が表示したのは、弘治たちが受け取ったものから更に詳細が書き加えられた資料だった。
そこまで進めていたことと、書かれている野心的な内容に場の一同は言葉を発することもできずにいる。
「さて、順に説明していこうか」
そう言って大樹が詳細を話していくと、技師たちの表情は徐々に緩んでいった。
その内容が、何だかんだで面白そうだと思ったから。
「以上が、今回のチップの説明だ」
「面白そうじゃないか。90ナノ世代の装置を使って、最新の技術をデモするのか」
「確かに90ナノの装置でそのまま90ナノのチップを作っても面白くなんてないもんな」
「それに、アーキも面白い。まるで『LaLabee』の一部みたいだ」
「大人たちの本気、見せてやりますか」
エンジニアたちは、あれやこれやと話を始めた。あっという間に話は設計に、さらにはボードにまで移っていく。
そんな会話を交わしながら、挑戦的なことに対して面白いと思ってくれることは、エンジニアにとって結構大事な要素なんだろうなと大樹は思った。
そう、自分がのめり込みすぎたせいで今の現実があるように。
そうはならないで欲しいな、と冷え切った心で考えながら、大樹は大声でまとめた。
「プロセスは『PEG』の連中でまとめてくれ。キミたちの上司にはこっちから話をしてあるから、ある程度なら仕事の時間にやってもらって構わない」
「装置はどうするんだ? そこまで古い世代のは残ってないんじゃないか」
「ロンラー・メーターズの試作ラインルームに確保してある。場所はこの会議の議事録に添付しておくから、確認してくれ」
「わかった。任せてくれ」
「論理設計チームは来週の月曜日にミーティングをやる、会議の詳細は後で送るから見ておいてくれ」
「了解、待ってるぜ」
「物理設計チームはしばらく待機だ。後で忙しくなるから覚悟しておいてくれ」
「はは、わかった。今のうちに仕事を進めておこう」
「最後に、開発名を今更だけど付けようと思う」
「アレ、では味気がなさすぎるしなあ」
「斬新でいいと思うけどな」
「ははは、違いない」
「正直『アレ』だと判りづらかったんで助かりますよ」
「迷惑かけたな。今回作るチップのコードネームは――」
そして最後に、ある名前を大樹は口にする。
それは奇しくも、同じ名前を遥か七千六百キロ彼方の弘治が発した瞬間と同じだった。
「「スカイ・レークだ」」
――――[To be continued in Over the ClockSpeed! C-1 Stepping]――――
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