07.自殺旅行のおわり
冷たいやつ、という言葉がある。
もちろんそれは、優しくないとか、思いやりがないとか、そんな意味で使われる負の言葉だ。誰だって冷たいなんて言われたくはない。いつだって温かみを求めている。冷たさは人を傷つけ、蝕むもの。それが常識。
でもどこかの砂漠の国では違うのだそうだ。どこもかしこも地獄のように熱いその土地では“冷たさ”は心地よさそのもので、だから付き合っていて気持ちのいい人を指して冷たい人と呼ぶ。
温度なんて、所詮は人の尺度に過ぎず、ましてそれを見つめるものは、常識に汚れた無数の主観。目の前にある冷たいものが、悪魔になるか天使になるか。それは見るものが決めること。生と死もそう。移ろいゆく二つの命。誰しもいつか死に絶えて、誰しも死ねば冷たくなる。身も心も冷え切って、力を失い、薄れて消える。
それが忌むべきものと誰に言えよう。
自ら死を目指して進むことを、人は愚かと笑うだろう。自殺のために費やしてきた壮絶なこの7年間。長い長い旅路の果てに、手に入れたものは何もない。殺した自分たちだって殺し切れていなかった。身を切り裂くような寒気。手足を痺れさせる徒労感。それでも、ままならぬ体に鞭打って、ドゥ子は漕いだ。必死に足を動かした。夜の街を。冷たい風と、ほんの少しの賑わいの中を。
色とりどりの光が窓という窓から溢れ出て、今や、ふたりを包んでいる。ドゥ子とリサを、終の処へ導くように。
人生は、思い通りにならなかったかもしれない。
それでも今、彼女はこうして進んでいる。
「不思議だね」
「何がです?」
「わたし、またキミを乗せて走ってる」
「かつてのあなたが居ればこそです」
「あの頃のわたしも、あの頃のキミも、消えてしまったはずなのに」
「たとえ消えても」
リサの声は風の音にすら負けそうなほど弱弱しく細り、それでもドゥ子の耳には届いた。
「私は私。今も、昔も。責任は、私が取ります」
しばらく無言でペダルを漕いだ。リサは強い。惚れ惚れするほど。彼女はどれほどの目に晒されて来たろうか。幼くして殺人鬼になり、両親には腫物のように扱われ、今やこうして汚れ役を務めている。その道程に、ありのままの彼女を見ようとしない、歪んだ視線がいくつあったことだろう。それでもこんなことが言える。強靭でしなやかな魂。さながら入念に叩きのばした鋼鉄の刃のように。
「あっちです」
と、リサが不意に指をさした。
案内されるまま交差点を曲がったところで、ドゥ子はようやく気が付いた。自分たちが目指してる場所がどこなのか。知っているのだ。学校帰りに寄り道したあのコンビニも。赤に捕まったら二度と出られない地獄の信号も。バーチャ2で無敗伝説を創り上げた“終田にこにこロード”のアーケイドも。何もかもが胸に響く。捨て去った追憶を引きずり出す。
リサの手がお腹に触れる。その手のひらは、冷たいけれど。
「もうすぐですね」
目尻を拳でこすり、ドゥ子は頷く。
「もうすぐだ」
駅前を過ぎ、住宅街を抜け、川沿いの土手を満月目指して走る。と、一本橋のたもとまで来たところで、リサが唐突に顔を上げた。自転車を停めろと背中を叩く。アスファルトにひらり舞い降りるや、大鉈をランドセルから引っこ抜く。
「なに?」
「分身たちが来ました」
「えっ……」
「何も感じませんか?」
言われてみればそうだ。分身の位置が分からない。目を閉じても何も視界に浮かばない。彼女らの存在を感じ取る能力が消えてしまったのだろうか。慌てるドゥ子に、しかしリサは落ち着き、頷いて見せた。
「終の時が近づいています。
あなたが凡てを許したとき、総てもまたあなたを赦す。
それは長い旅路のおわり。そして新たな道のはじまり」
「何言ってるの?」
「先に行ってください。場所は分かりますよね」
確かに分かる。分かりはするが。
そのとき、ざわめきが耳に届いた。弾かれたように振り返る。道の遠くから、大勢が、ぞろぞろとこちらを目指してくるのが見える。ドゥ子の分身たち。ついに追いついてきたのだ。汗が額に滲む。反射的に手が愛用のレンチを探る。だが、ない。公園で戦ったとき、落としてきてしまったのだ。
「ここは私が食い止めます」
「勝てっこないって!」
「勝ちはしません。止めるだけです。
あなたが終の処に辿り着けば、分身たちは消え去るでしょう。それまで時間を稼ぎます」
リサは橋の中央に立つ。手に大鉈をぶら下げ、遠方より迫り来る狂獣どもの殺意を、小さな体ひとつで受け止めて。その薄く、儚く、しかし頼もしい背中を、ドゥ子の前に聳え立たせて。
「ドゥ子さん。あなたは、あなたが好きですか?」
考えた末に、ドゥ子は答えた。
「好きだよ。やっと」
返ってきたのは微笑みだった。
「さあ行って。あなたは、あなたの道を!」
自分の道。
遥か最果て。行きつくところ。
それがどこであったのか、ずっとドゥ子は忘れていた。あの日確かに何かを志し、一歩を踏み出したはずだったのに、気づけば辺りは一面の闇。進むべき道。目指すべき場所。そんなものはおろか、自分の立場さえ見えはしない。
それでもどこかへ行きさえすれば、いつか何かを掴める気がして、ドゥ子はただただ走り続けた。時に目を瞑り。時に耳を塞ぎ。時に涙さえ夜のとばりに包み隠して。
いつしか自分に言い聞かせていた。ヒーローなんかじゃない弱い自分は、こうして生きるしかないのだと。
――でも。
今、ドゥ子は無心に走った。橋を渡った。土手を駆け下りた。暗い田んぼ道を突っ切って、その先に小さな家が建っていた。どうってことのない普通の家だ。屋根も普通だ。壁も普通だ。ドゥ子の“普通”の基準となったものばかりだ。
帰ってきたのだ。生まれてから18年、ずっと住み続けてきた古い我が家に。
ドゥ子は息をのんだ。門の表札は剥がされ、そこだけ白く浮かび上がっている。庭の中は草引きもされず、荒れ放題に捨てられている。窓には灯りの一つもなく、窓から中まで見通せる――というのはつまり、カーテンさえも取り払われていたのだ。
吸い寄せられるように玄関へ近づき、意識すらしないままノブを捻ると、なぜかカギは開いていた。そっと戸を引く。恐る恐るのぞき込む。靴もなければスリッパもない、マットもなければすだれもない、およそ生命を感じさせない冷たいフローリングの廊下が、ただそこにじっと横たわっていた。
ドゥ子は中に滑り込んだ。
そして巡った。探し回った。ひとつふたつ部屋を覗けば、そこが空き家であることはもう明らかだった。それでも全てをつぶさに確かめずにはいられなかった。和室。居間。ダイニングでは水道が動かないことも確認した。トイレ。風呂。二階に上がって、小部屋が二つ。違和感があった。焦りがあった。目の奥から、火傷しそうなほど熱い涙が湧いてきた。
おかしい。
こんなはずはない。
あるはずがない、こんなこと。
無人だとか、荒れているとか、そんなのが問題なのではない。あれから何年も経ったのだ。引っ越しくらいするかもしれない。手入れだって行き届かないかもしれない。そんなことはどうでもいい。それよりも。
何もかもを探りつくして、もう調べるところもなくなって、ドゥ子は呆然と、ベランダに滲み出た。
こんなはずが、ないはずなのに。
「知らない……」
膝をつき、彼女は泣いた。
「わたしはこの家を知らない――!」
“彼女”ならざるジョン・ドゥ子は。
彼女は“彼女”ではない。
正確には、その本体ではなかった。
それが、綿密な調査の末にリサが探り当てた事実であった。
ドゥ子が殺した分身たちの死体は、その後、泡となって消えてしまう。殺人鬼の能力が生み出した超常の存在に過ぎないからだ。だが、手掛かりとなったあの新聞記事にはこうある。『女子高生の遺体発見』。死体が残っていた。つまり、それが、本物の“彼女”。
ならば他は凡て、あとから創られた分身だ。
「そうだった……あのとき、わたしは……」
記憶が、ドゥ子の意識に雪崩れ込む。
“彼女”は優秀な子だった。小学校。中学校。勉強で困ったことなどなかった。ほっといたって成績はついてきた。両親も賢い人だったし、祖父は大学教授までやったほどの家系だったから、その中に生まれた英才に寄せられる期待は並大抵のものではなかった。“彼女”だってその気になっていた。自分は賢いんだ、なんていい気になっていた。
しかし大学受験は厳しくて。努力を知らずに育った“彼女”では、少々手に余る難題で。
胃を壊し、円形脱毛症になり、唇がボロボロになったところで、高校の友人に告白されて。戦いから逃げ、恋に溺れた“彼女”に、周囲の目はあまりにも冷たかった。
“彼女”は叫んだ。わたしはそんなに賢くないと。
“彼女”は泣いた。勝手な期待を押し付けないでと。
でも本当は捨てられなかった。惜しかったのだ。みんなに目をかけられる自分が。
相反するふたつの思い。おそらくはそれが、“彼女”の力が目覚めた理由。
だから、恋人のイメージから生まれた分身と出会ったとき、“彼女”は望んだ。
わたしを殺して、と。
全ては、辛い板挟みを解消するための、女子高生の短絡的な自殺願望が生み出した歪み。
それはあまりにも悲しすぎたから。
最初の分身は“彼女”を継いだ。“彼女”の知らないもうひとりの彼女。“彼女”の心を伝えるひと。この世のどこにも寄る辺を持たない、どこの誰とも知れない旅人。
「それが“わたし”だったんだ――」
その瞬間、一本橋で異変が生じた。傷つき、血に塗れ、大きく肩で息をつくリサの前で、分身たちがびくりと震える。朝日が昇る。みな一様にそれを見つめる。彼女たちがそろって小さく微笑んだかと思うと、突如、その体が崩れ、桃色の泡となって消失した。
悪意の、希望に絆されるが如く。
「そうか……」
鉈を振るい、血を払い、ランドセルの鞘に音もなく納める。彼女の目にも、太陽は眩く温かい。
「殺人完了、です」
結局、彼女が追い求めてきた本物の自分など、最初から、どこにもなかった。
その意味で言えばドゥ子が嘆いた通り、彼女の旅路は無駄なことであっただろう。だがひとの道行きに、何の意義もないことなどあろうか。凡ての時、凡ての出会い、吸い込んだ呼気のひとつひとつが、彼女のからだを創るもの。
今ここにある“わたし”も、過去どこかにあった“わたし”も、まだ見ぬ誰かの中の“わたし”も、総て合わせてひとつのわたし。
「ばかだよね」
ドゥ子は立ち上がった。
「生きてさえいれば、こんなものも見れるんだ。そんな簡単なことだって、7年経たなきゃ分からなかった」
東から来る光は驚くほど速い。みるみるうちに闇夜に溢れ出て、青に、白に、空一面に広がっていく。輝きの中に、浮かぶ雲。目覚め始めた小鳥と街。昨日と、去年と、7年前と、そっくり同じようでいて、何一つ同じところのない新しい朝。
「さようなら、昨日のわたし」
もはやその目に、涙はない。
「わたしはもう少しだけ、旅を続けてみるよ」
声は爽やかな涼風に溶け、消えた。
それを咎めるものは、誰もなかった。
(つづく)
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