■“自殺旅行のおわり”Side:L
04.145の悪意
あれから何年過ぎただろうか。
「こんちわ偽物。殺しに来たよ」
ドゥ子が挙げた悲痛な声を、しかし聴くものは誰もいない。
更地ばかりが広がる深夜のニュータウンには、家もなく、人もなく、光さえもが遥かに遠い。伸ばした指先すら見えない暗闇の中に、立つのはたったふたりきり。ドゥ子と、ドゥ子。引き締まった魅力的な体も、磨けばいくらでも輝きそうな顔も、そっくり同じ。傍目には、その姿が漆黒の夜空に煌めく明星のようにさえ見えただろうに。
たとえ当人たちが、互いの姿に吐き気を催す不快を覚えていたとしても。
「本物きどり?」
と、ドゥ子がドゥ子を嘲笑う。
「ここまでくると笑えないよ」
殺意はもう、習い性のひとつに成り下がっていた。
叫んだ。跳んだ。相手の懐に飛び込んだ。使い込んだ大型レンチを振り回す。棒が咬み合う。鉄火散る。鈍い衝撃がドゥ子の腕を打ちのめし、皮膚が裂け、骨が軋み、呻き、転げ、泥に塗れて、苦し紛れの反撃がドゥ子の頭蓋を捉える。掌が痺れるような感触。大切な何かを粉砕した手応え。耐え難く不愉快。暗い快感。そして何より、果てしない虚しさと徒労感。
ドゥ子は喚いた。中身はない。言葉と呼ぶには稚拙すぎる。それは獣の雄叫びだ。何度も、何度も、飽くまで何度も、凶器を脳に叩き込む。
何かが飛び散り頬を汚した。血か何かが。
気がつけば、片方のドゥ子は完全に息を止めていた。
荒い息を抑えようと、ドゥ子は大口開けた。だが足りない。全く足りない。酸素が、生きるために必要なものが、決定的に足りない。満杯の肺に無理に息を吸い込もうとして、そんなことは不可能だと気づき、ドゥ子はやむなく声を吐き出す。
「あと……3人……」
ドゥ子は丘の下を眺め見た。
暖かな色とりどりの光が、街中の、窓という窓から漏れ出している。それはいつか彼女のそばにあった光。その手に掴めるかもしれなかった光。自ら投げ出してしまった、何物にも代えがたい輝きの残滓。
ドゥ子は泣いた。
だが涙も、あと少しで涸れるはず。
あとほんの一息で、きっと――
自慢だった体はどこを見ても生傷にまみれ、手入れの行き届かない髪は金だわしのよう。やせ細った体に異様な眼光ばかりが宿る。時に打ちのめされ、時に死にかけ、身も心も切り売りしながら、それでも彼女は歩み続けた。いつ果てるとも知れない血塗られた道行き。
その果てに、とうとうここまでやってきたのだ。
殺した分身は142人。残すはところ、あと3人。
ゆえに彼女は帰ってきた。
終のところ。最後の分身が集まるところ。かつて生まれ、かつて育ち、そして投げ棄てた、彼女の故郷。
終田町へと。
苦しい喘ぎは止まらない。足は重く、血は流れ続ける。しかしそれでも峠は越えた。崖沿いの街灯すらまばらな坂道を、ドゥ子はふらつきながら下っていく。
満身創痍に暗い足元、これほどの悪条件でもなんとか進んでいけたのは、ここが懐かしい道路だからだ。寸善市と終田町を繋ぐ一番の近道。中学のころは休みのたびにこの地獄坂を登ったものだ。あれから長い時間が過ぎてしまった。とはいえ、面影は確かに残っている。目を瞑ったって迷いはしない。
ようやくドゥ子は目的の児童公園にたどり着き、遊具のそばにへたり込んだ。いつものように水道で血を洗う余裕さえなかった。ケバの立ったアスレチック遊具に背を預け、辺りを見回す。この公園も、昔のままだ。不気味にそびえる街灯も。3本目の支柱が曲がった金属の手すりも。
変わってしまったのは、ドゥ子自身だけだ。
一抹の寂しさを抱きながら、ドゥ子は未来に思いを馳せた。順調にいけば、あと半月もしないうちに全ての分身が片付くだろう。そのとき彼女は、晴れてこの世にたったひとりの彼女となる。目的を果たしたら、どうしようか? 故郷で仕事を見つけてあたりまえの生活を始めようか。諦めた大学進学にもう一度挑戦してみようか。
あるいは、このまま――
心地よい妄想のさなか、疲労が彼女を眠りに誘う。そっと目を閉じて体を休める。旅の夜の、僅かな憩いのひととき。
だが、世界はそれすら許さなかった。
灯、またたき。
影、音もなく。
時、凍り付き――
上!
ドゥ子は跳ね退いた。頭上から一直線に振り下ろされた凶器が地面を抉る。初撃を躱し、転がり起きて、レンチを拾い膝立ちになる。突然の奇襲。無論相手は分身。まどろみから引きずり出された恨みを込めて敵を睨む、が、突如背後に湧き上がる気配。半ば反射的に振り返りざま、後ろからの一撃を受け止める。
――2人目!
と、別方向からもうひとり。
――3人!?
横手から来たさらなる打撃、まともに受ける暇は――ない! 咄嗟にドゥ子は2人目に体当たり、押し倒しながら向こう側へ転げ出る。3人目の振り下ろしたバールが髪の数本を持っていくのを後ろに聞いて、ぞっと肌を粟立たせつつもその場を逃げる。崖際のフェンスに背を預け、ゆらりと迫る3人の分身たちと対峙する。
「こりゃあ手厚い歓迎だあ」
呟くドゥ子の額を、不快な汗が流れ落ちた。鉄パイプ、バール、角材。それぞれの得物をぶら下げた殺人鬼が3人。遠巻きにこちらを囲み、街灯の光を背負って立ち止まる。まさか、残りが全員まとめて襲ってくるとは。
「3人がかりってズルくない?」
「3人?」
ひとりが、応えた。
「……に、見える?」
その瞬間。
絶望が彼女を圧し折った。
遊具の上。街灯の後ろ。ごみ箱の向こう。街路樹のそば。道から1人、2人、3人。遊歩道の階段。民家の屋根。マンションの階段。斜面。手すり。右も。左も。前も。後ろも。およそ考えうるあらゆる場所を。すべて同じ顔が埋め尽くす。
ドゥ子の分身。
総勢145人。
「うそ……」
膝が震える。
舌が回らない。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
今まで殺してきたはずの、ありとあらゆる自分たちが、殺したときと変わらぬ姿を、あれほど消したかった、認めたくなかった、無数の自分の側面たちを、今、目の前に晒している。
「なんでお前らが生きてるんだ!!」
「殺したくらいで“わたし”が死ぬと思ってたのか?
わたしたちはわたしの
「なんだよ、それ……」
涙が、零れた。
「それじゃあ、わたしは、なんのために……」
「意味など」
恐怖。
「そこに意味などあるものか」
暴力が殺到する。145の殺意が145の凶器を帯びて。前から、横から、頭上から、後ろから、とめどなく死の一撃が降り注ぐ。避けた。受けた。そして食らった。脇腹にめり込む金属棒。よろめくドゥ子、それでも逃げ延びようとする彼女の髪を、誰かの指が引き摺り寄せる。別の手が腕を、肩を、首を掴んで捻じ伏せる。地を舐め、雁字搦めに拘束された彼女の前に、最後の分身が嗤い立つ。
純然たる憎悪の塊を、自らの前にそそり立たせて。
分身は叫んだ。
ドゥ子がしてきたのと同様に。
「みんな消えてしまえ!」
憎悪が、頭蓋に振り下ろされた。
死んだ。
死ぬってどういう感じだろうか。
無数の死をもたらしてなお、ドゥ子は一向に死を解さない。死は恐れ。死は秘匿。分厚いヴェイルの向こう側に隠され、風と光の悪戯に時折輪郭を見せるもの。殺して、殺して、殺し続けて、それでも死から目をそらしていた。殺されたものがどうなるのかなんて、考えたこともなかった。殺すことのみが頭にあって、殺されることなど想像もしなかった。
そんな半端な覚悟で他人に――否、自分自身に与えた死が、本当の死であると言えただろうか。言えなかったのだ。だからこそドゥ子の“わたし”たちは死んでいなかった。あれほど執拗に殺したはずだったのに、命は脈々と活き続けていた。
思い上がりだったのだろうか。
自分には、自分を殺す権利と力があるなどということは。
自分だけは、他の分身たちと違う。自分だけは特別だ、などということは。
なら、この死は報いだ。
殺し続けてきた自分自身に殺される。
――わたしには、お似合いの死に場所だ。
ドゥ子はそっと、目を閉じた。
奇妙に安らいだ心のまま。心地よい諦観に身を委ねて。
だが。
次に目を開いたとき、血の雨は確かに降っていて。
それでもドゥ子は生きている。
体が動く。起きる。見回す。転がる死体。いくつものドゥ子の分身たちが、頭蓋を動脈をかち割られ累々そばに積み重なる。その中にただ一人立つ少女。ざわつく分身たちをひと睨みに抑え付け、ドゥ子を背中に庇うもの。中学女子。ピンクのカーディガン。プリン犬の缶バッジ。口元のマフラー。カーキ革のおしゃれなランドセル。そこからはみ出す無数の刃物。手にぶら下げた、血塗れの大鉈。
「立ってください」
少女は言った。氷の如く。冬の空の如く。忘れかけていた暖かな気持ちが、涙とともに湧いてくる。どうしてここに? 疑問は砕けた。守ってくれた? 懐疑は解けた。ドゥ子の裡の全てを薙ぎ払い、黒玉の眼差しが彼女に絡む。
あれから5年。5年も過ぎたが。
その声を聞き間違えるはずがあろうか。
「――リサ!」
(つづく)
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