03.旅立ち
わたしがたどり着いたとき、そこはもう血の海で。
見慣れた光景、いつもの匂い。なのにその中央で、倒れているのはわたしのリサで。
そばには分身がひとり、呆然と立ち尽くしている。
わたしは叫んだ。
自分の弱さをかなぐり捨てて、わたしはふたたび獣になった。掴みかかる。引きずり倒す。喉を牙で食い千切り、手足を爪で圧し折って、わたしは、わたしを、やつを、この、忌々しいわたしならざるわたしを、殺して、殺して、そして、殺した。
頭蓋の形状さえ分からなくなったわたしを見下ろし、わたしはようやく我に返る。
リサに駆け寄り、跪き、助け起こす。
呻きが聞こえた。まだ生きてる! 抱いて走った。さっき背中からやられた傷も、そのあと食らった腕の傷も、ものすごく痛いような気がしたけど、不思議と気にはならなかった。どうでもよかった、今は。
わたしの胸の中にはただひとり、リサが、リサだけが――
駆けずり回ってようやく見つけた病院で、わたしは膝を抱えている。医者が親切で本当に良かった。保険もない、金もない、でも頼むと無茶を言ってすがり付くわたしの願いを、快く引き受けてくれた。こんないいひとに出会えたのは幸運だった。それとも世間はみんないいひとなのか。悪いやつはわたしだけ。わたしが全部……わたしのせい。
守れなかったってだけじゃない。
わたしがリサを殺そうとしたんだ。
わたしは、わたしが許せない。あんなものはわたしじゃない。あんなものが居ちゃいけない。ずっとそう思い続けてきた。そのためにやつらを殺し続けてきた。それが終わるまで、わたしはひとりのわたしでいよう、どこにも留まらず流れていよう、そう心に決めていた。
そのはずなのに。寂しさに耐えきれず、うっかり温もりを求めてしまった。それがリサを傷つけた。
もしリサが死んでしまったら、リサを殺してしまったら、わたしは――
神様に祈った。教会なんか行ったこともないくせに。仏様にも。七福神にも。サンタクロースにも。なんなら悪魔にでも。リサを助けてくれるならなんでもいい。誰にだって祈る。なんだって捧げる。代わりにわたしが死んでもいい、殺してくれていい、命でも魂でもくれてやる、だから、だから……!
どれほど時間が経ったかわからない。ひょっとしたら、ほんの数分だったかも。
医者が処置室から出てきて、大丈夫ですよとわたしに言った。泣いてしまった。めちゃくちゃな声でお礼を繰り返した。医者は何度もわたしの肩を叩いたけど、その顔が強張っていたのは分かった。彼からわたしはどう見えているだろうか。考えるまでもなかった。不審者だ。幼い子供を連れまわし、あんな大怪我をさせて、進退窮まって駆け込んできた誘拐犯。
覚悟はもう決めていた。
処置室に入ると、リサは頭に包帯を巻いて、おとなしくベッドに横たわっていた。ちょっと顔色は悪いけど、意識はある。いつもの冷たい目をわたしに向ける。わたしはがんばって笑ったけど、目を真っ赤にはらしてちゃ格好はつかないね。
医者の話だと、案外傷は浅かったらしい。頭部は血管が集中しているから、少しの怪我でも派手に出血するんだと。でも頭部に打撲を受けたのだから、脳にいろいろあるかもしれないから、とにかく安静にしておいて、あとで検査しなきゃいけないそうだ。リサがそんなことを話してくれた。
難しい話は全然頭に入らなかったが、リサが元気そうだということだけは分かった。そしてわたしには、それだけで充分だ。
「ゆっくり寝てな。ベッドで休むなんてできなかったもんね」
「いいえ。早くここを出ましょう」
リサが小声でそう言うので、わたしは首をかしげる。
「たぶん警察呼ばれてます。ややこしいことになります」
「だろうね」
「分かってたんですか?」
「そりゃあ、何度か、あったもん」
「早く」
起き上がろうとするリサを、わたしは止めた。
沈黙があって、ほんの数秒で、リサはまるまると目を見開いた。わたしの考えていることを察したらしかった。リサはわたしの手を力任せに振り払い、起き上がり、わたしの襟首に掴みかかった。
「ふざけないでください」
「リサ――」
「なんで勝手に決めるんですかっ!」
病院中を震わせるその声は、初めて聴いた彼女の慟哭。
「声が大きいよ」
「私が足手まといですか?」
「ううん……」
「役には立ててたつもりです」
「そうじゃない」
「一生懸命やりました。足りなければもっとやります。少しでも、なりたくて、私、あなたに――!」
「違う!」
思わず漏れたわたしの悲鳴を、ただ、リサだけが聴いていた。
わかった。ようやくわかった。わたしが、リサのあの視線の中に何を求め、何を喜び、何を恐れていたのか。見つめ合う。彼女の
瞳が描く、わたしの分身。
「わたしは、そんなんじゃない。
リサが思ってるようなやつじゃないんだ」
「助けてくれたじゃないですか。
パンをくれたじゃないですか。
暖めてくれたじゃないですか」
「そんなの誰でもできることだよ」
「でもドゥ子さんがやったんでしょ!?」
「リサ」
「私は子供です。
弱いです。
バカです。
かっこつけて家出して、でもパパとママに会いたいです。
ひとりは暗くて、寒くて、情けなくて――だからあのとき、もう殺されてもいいと思った。なのにドゥ子さんは強かったでしょう!? ひとりで旅して! 戦って! 殺して! 私まで救ってくれた、それが私のドゥ子さんです!」
「違う」
わたしは、立った。
小さな手が、わたしの胸から零れ落ちていく。
「わたしは強くなんかない。
だってわたしは、―――――」
無理して作った微笑みが、涙に溶けて流れてく。わたしの口をついて出た、忘れかけてた名前とともに。
「それが本当のわたしなんだ」
わたしは部屋を飛び出した。
寒々しい外の暗闇へ――ひとりだけで。
これで、お話はだいたい終わり。でもわたしの能力について、ひとつだけ話してなかったことがある。今きみが見ているこの夢、その正体にまつわる秘密だ。
他人がわたしに対して抱いたイメージが、実体化して、分身となる。そのことは確か話したね。でも無制限に分身ができるわけじゃないんだ。条件がある。
それは、わたしの本名を知ること。
誰かがわたしの名前を知ったとき、わたしのイメージは形となる。わたしではない別のわたしがこの世に生まれる。そしてわたしはそいつを憎む。そいつもまたわたしを憎む。わたしたちは殺し合い、生き残った一方だけが、本当のわたしになる。
殺されたほうは、消滅する。
分身を生み出した、誰かのイメージもろともに。
そして雲散霧消するイメージの残りかすが、生みの親に夢を見せる。そう、それがこの夢。きみの中にあるわたしの最後のかけら。わたしが託す無意味なメッセージ。
わたしはもう、きみから生まれた分身を殺した。きみの記憶はもうすぐ消える。わたしに対して抱いた怒りも、憎しみも、ひょっとしたら愛着とか優しさとかも、きみの思い描くわたしの虚像とともに流れて消える。
これでいいんだと思う。きっとそう。覚えていたって辛いだけ、そんなことは、いっぱいあるもの。
だいじょうぶ、きみはひとりじゃないよ。お父さんもお母さんもいる。友達だって、恋人だって、たくさんできる。きみは、わたしと違って強いもん。
もうすぐ目覚めの時間だね。
ありがとう。短い間だったけど、ホント楽しかった。
ばいばい、リサ。大好きだよ。
*
長い眠りから醒めた時、私は見知らぬベッドの上で、視界には両親の顔があった。
何か早口でまくしたてる父。涙を零す母。私はそれを無感動に眺めながら、複雑に縺れ合う脳内の糸を解きほぐそうとする。だが手を触れるや記憶の繭糸は溶け流れ、私の胸には耐えがたい喪失感だけが残される。
今、私は何を夢見た?
今、私は何を失った?
横手を見れば、籠の中に私の荷物が詰め込まれている。ずっと愛用していたポムポムプリンの日記帳が、ブラインド越しの朝日を浴びてやけに白く浮かび上がる。
途端、私の目から涙が零れた。なぜだか分からない。正体不明の動揺が私の中から湧き上がってきた。私は呟いた。小さな小さな声で。涙は見せてもいい。だが言葉は聞かせたくない。他人には。両親にも。他の誰にも。
「ずるいよ」
握り締めた手のひらに、爪が固く食い込んでいく。
「別れ際に大好きなんて、そんなのずるい――」
Continued on Side:L
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