積もりし雪が溶ける時④



 味噌汁をすすりながら眼の前で椅子に座ったまま食べようとしない彼女を見やる。

 メニューはご飯とベーコンエッグと味噌汁、それとパックのお漬物というシンプルな朝食。

 彼女は、その中のお椀の前に置かれたインスタント味噌汁を凝視したまま動かない。正直、かなり気まずい。

「えっと、インスタントの味噌汁は初めてか?」

 コクリと頷いた彼女に作り方を教えると、ようやく彼女は動き出した。

 具の入った袋と味噌の入った袋を開けて、お椀の中に入れてから机の上にあるケトルで沸かしておいたお湯を注ぐ。

「そしたら味噌が溶けるように軽く混ぜて、具が柔らかくなったら食べられるよ」

「なるほど……。凄いですね。こんな簡単に……」

 雪で濡れていたドレスを干した時にも思ったが、ひょっとしなくても、この娘はとんでもなくお嬢様なのではなかろうか。

 何処から来たのかは知らないけれど、少なくとも近くはないだろう。

 なにせ、こんな郊外こうがいの住宅街に、高そうなドレスを着て集まれるような店は無い。

 スマホだけは持っているみたいだし、電車であの駅まで来て、後は歩いたってところか。

 ケトルの使い方どころかケトルと言うものを知らず、インスタント味噌汁のことも知らない。

 スマホとドレスを洗面所に放置してしまうくらいには警戒心もない。やっぱり良いとこのお嬢様なんだろうな。

 一応、ドレスは雪で濡れてたから干しておいたけど、生地はかなり薄かった。あんな格好で冬の寒空のもとに居たら凍え死んでいてもおかしくなかったと思う。

「とても、美味しかったです。ごちそうさまでした」

「はいよ。お粗末様」

 自分で作ったのはべーコンエッグだけだけど。

 まあ、何にせよ口に合ったようで一安心だ。日本の食品業界に感謝だな。

 洗い物を済ませてコーヒーを2杯淹れる。お茶とどちらが良いか聞いた所コーヒーで良いとのことだったから。

 ドリップタイプとは言えインスタントだからと思い、スティックシュガーとコーヒーフレッシュも出してあげた所、彼女は1口だけ啜ってから躊躇ためらいなく、それらを入れた。

「まだ苦い……」

 ささやくような声で呟く様子を見るに、インスタントが口に合わなかった。と言うよりはブラックのコーヒーに慣れていないのかもしれない。

 遠慮して俺に合わせたのだろう。

 紅茶もあると言うと、コーヒーこれを飲みます。と意地張った様な声で言われた。

「美雪さん。少し、良いかな?」

 コーヒーが冷めて適温になった頃。そっと口を開く。

「美雪さんはこれからどうするつもりなのかな」

 責める訳でも、たしなめる訳でもなく、なるべく物腰が柔らかくなるように問いかける。

「なにか事情があって帰りたくないみたいだけど。出来たらその事情を聞かせてもらえないかな」

「それは……」

 昨日と同じく、言い淀んで話そうとはしない。

 それほどまでに言いづらいことなのだろうか、それとも単に俺が信用ならないのか。

 どちらにせよ、長くは家に置き留められない。非情かもしれないけれど、世間はアニメやゲームの様に優しくはないのだ。例えそれが善意でやっていたとしても。

 ただ、事情によっては力になれることがあるかもしれない。お節介と言われたらそれまでだけど。

「……お話、したいと思います」

 しばらく沈黙が流れた後、彼女は話し始めた。

「まず始めに、丸菱グルーブの石崎家という名前に聞き覚えはありますか?」

 丸菱と言えば“超”が3つは付くほどの大企業だ。石崎家という名前にも聞き覚えはある。確か、創始者の一族が石崎と言う名前だったはず。

「まさか……」

 このタイミングで、この話をするということは美雪さんの正体って。

 なにやら嫌な汗が背中を伝う感覚を覚える。そしてその考えは美雪さんによって肯定された。

「はい、私の名前は石崎いしざき美雪みゆき丸菱商事まるびししょうじの代表取締役社長、丸菱まるびし恵介けいすけの娘です」

「…………」

 何も、言えなかった。

 中小企業の課長という中流階級にも満たない立場の人間からすれば、彼女は殿上人てんじょうびとの様な存在。

 そんな人が家出をしていて、俺が家に拾い上げていると言う状況。

 あれ?俺、死ぬのでは?

「ソ、ソウナンデスネ……。ソレデ、ドウシテ美雪サンハ家ノ前ニ……?」

「そんなかしこまらないでください。斉藤さいとうさんは私の恩人なのですから」

「そ、そう……?」

 それから美雪さんは石崎家としての教育のこと、父の背を目指して努力してきたこと、大学受験を控えたタイミングで降って湧いた婚約者の事など、時間をかけて話してくれた。

 正直、ごくごく一般的な家庭で育った俺からすれば想像もつかないような生活だけど、とにかく婚約が嫌で逃げ出してきた。ということは解った。

「その婚約の話だけどお母さんに言って解消してもらうとか出来ないの?」

「お母様は私と古川さんあの人との婚約を望んでます。私の我儘なんて聞いてもらえるはずがありません」

「じゃあお父さんに言って、止めてもらうとか。聞いた感じ、お父さんは美雪さんの味方なんでしょ?」

「お父様は土曜会どようかいの集まりで海外に行っていて、来週まで帰ってきません……」

「そうか……」

 つまり美雪さんのお母さんは、お父さんに居ないタイミングを狙って婚約者と引き合わせたことになる。

 土曜会が何かはわからないけれど、出張しているということだろう。

「お母さんって、そもそも大学進学することを許しているの?」

「それは、どうでしょう……」

「例えばだけど、このまま卒業後に婚約者と結婚という話になったとするでしょ?」

「嫌です!そんなの!」

 彼女は机を叩き、立ち上がる。よほど古川って人のことが嫌いらしい。

「例えだから、ね?……それこそお母さんがどうしても政界との繋がりが欲しくて古川って人と引き合わせたのなら、古川さんとの婚約を解消出来たとしても次を紹介されるだけかもしれないよ」

「それは……」

「だから、お母さんの意思を確認したほうが良いかもね。その上で、美雪さんがどうしたいかも伝えてみようよ。大学に進みたいなら、それもね」

 おそらくは、美雪さん親子に足りないのは対話だと思う。

 今までお母さんの言いなりで過ごしてきた美雪さんは、自己表現が苦手なのだろう。

「無駄ですよ。お母様は私を石崎家の娘というコマとしか思ってない。それが石崎家の利になるならば、私の気持ちなんてどうだっていいんです」

「お母さんにそう言われたのかい?」

「言われては、いませんけど……」

「なら聞いてみよう――」

「――貴方に何が解るんですか!」

 声を張り上げ、睨んでくる。その瞳には涙が浮かんでいた。

「……すまない。部外者があれこれ言える問題じゃないよな」

「私こそ声を荒らげてしまい、申し訳ありません……」

 彼女は本当に申し訳無さそうに頭を下げて席に座り直した。

 無神経に踏み込みすぎた。彼女の気持ちを考えたら、お母さんに意見なんて出来ないか。

 多分、お母さんの話題はこれ以上すると本気で怒られてしまう気がする。かと言って中途半端なまま話を終わらせても何も解決しない。

 そう考えて、切り口を変えてみることにした。お母さんが駄目ならお父さんに。

「ねえ、お父さんって、この婚約の話を知っていると思う?」

「多分、知らないと思います。父は私のことを可愛がっていますから、あんな男古川さんとの婚約なんて知っていたら許さないと思います。私がそう信じたいだけかもしれませんが……」

 弱々しく語る顔は暗く、不安なことが見て取れた。

「それならばさ。さっきの話、お父さんには話せないかな?美雪さんがどうしたいかってやつ」

 自分で巻いた種とはいえ、地雷原の上でタップダンスを踊っている気分だ。

 ひとまず怒っている様子ではなさそうで安心する。

 力になれたらなんて自惚うぬぼれた考えをしていたけれど、勝手に首を突っ込んで、自己満足にアドバイスを垂れ流して怒らせていたら世話ない。

 固唾を呑んで返答を待っていると、彼女は小さく頷いた。

「……お父様になら話せる。と思います」

「電話はできる?」

「出来なくはないです……」

 含みのある言い方に思わず「まずい、地雷を踏んだか」と身構えていると彼女は特に怒った様子もなく話を続けた。

「多分、電源を入れたらお母様から電話が」

 言葉の途中で何かに気づきハッと顔を上げて、辺りを見始めた彼女に「君のスマホなら充電しておいたよ」とテレビ台の上に置かれた彼女のスマホを指差す。

「洗面所に置きっぱなしだったから。勝手にごめんね」

「ああ、そういえば……。いえ。ありがとうございます」

 どうやらスマホの存在を忘れていたらしく、置きっぱなしだったと言う話に対して腑に落ちた反応をした。

 勝手に触ったことを怒られなくてよかったと今更ながら思った。そう思うなら触るなって話だけど。

「自分のスマホが使いたくないなら俺のを使ってもいいからさ。あー、電話番号って覚えてる?」

「はい。何か有っても良いように近い親類の番号までは記憶してます。お電話、お借りさせていただきますね」

「いいよ。ロックは解除してあるから、そのまま使って」

「解りました」

 今どき親の番号も覚えて居ない人が珍しくないのに、親類の番号まで覚えているなんて、やはり金持ちの家に産まれると、そういうことも必要なのだろうか。

 ちなみに俺も両親の携帯番号を記憶してない側。昔からある固定電話の方は覚えているんだが、携帯の方は覚えられなかった。

「……もしもし、お父様?」

 どうやら無事に通じたらしい話し声を聞きながら、静かに電話が終わるのを待つ。

 呑気に冷めたコーヒーをすする俺は、1つ重大な失念をしていたことに気づかない。何気なく渡したスマホで電話させることの意味に。

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