95 さよなら
北高には、
3年2組での卒業パーティも開かれた。喫茶店「グリーンテラス」の2階を借り上げて、軽食とゲームで大騒ぎしたものである。これが最後とあって、みんなハイテンションになっていた。
退任式の日は、あたたかな小雨が降っていた。3年生も久しぶりに学校に集まり、今年度限りでいなくなる先生方を見送る、という行事だった。梅原は女子としゃべっていたけれど、陽佑も連城も目を合わせる勇気がなかった。ふたりは半ば以上意識して、彼女のことを頭から追い出して過ごし、終了後はそそくさと学校を離れた。おそらく当分来ることはなさそうな、それが中学校との別れになった。陽佑と連城は、いつもと同じ、ごく簡単なあいさつで別れた。今後春休み中に会う機会がなかったとしても、数日後に高校で再会できることはわかりきっていた。
〇
北高の入学式も迫ってきたその暖かな日、陽佑は、役目を終えたはずの中学校の制服を取り出し、身につけた。この3年間で20センチ近くも背が伸びたので、袖も裾も修正の跡が何本もくっきりと浮いている。それでも写真撮影には支障ないだろう。家族はみんな出払っているので、玄関に施錠し、歩き出す。
群青色の空に、ごく薄い雲が不規則に漂っている。はしゃいで春休みを満喫する小学生の一団とすれ違った。ところどころで桜の木を見かける。今年は例年より開花が早く、もう散り始めているところがあるようだ。花見をするなら今週末が最後のチャンスかもしれない。
川沿いの道から土手に入る。鮮やかな緑が土をやわらかく覆っている。
予想した通り、桜はぴったり満開というタイミングだった。最後にこの恰好で、一番気に入っている桜の写真が撮りたいと思って、制服の処分を待ってもらっていた。
そして予想を蹴飛ばして……桜の下に、ひとりの女子がいた。陽佑と同じ中学校の制服を着ていた。陽佑には一瞬以下でわかってしまった。心臓がスキップした。
梅原
陽佑が足を止めたのに気づきでもしたかのように、梅原はこちらを振り返った。そして、しばらく呼吸を忘れたような様子で、陽佑を見つめた。
「……なんで?」
ほぼ同時に、同じ言葉が出てきた。
「いや俺……最後にこの恰好で、桜と写真が撮りたいって思ってたから」
今さらのように、角の丸い巨大サイコロをあちこちにぐりぐり押しつけられたような気持ちで、陽佑は答えた。
「あたしもそうだよ。卒業式の日って、桜がなくてつまんないよね。だから、撮りに来たの」
にこ、と梅原が笑う。ひどくまぶしく感じられて、頬が熱を帯びた気がする。陽佑は、どうすればいいのかわからない心もちになってしまった。
「ここってね、
「……そうだったな」
とてもよく覚えている。
「あ、そうだ。高校、どうだったんだ」
梅原の笑顔が、桜の花と同じく満開になった。
「合格したよ、南高。そっちは?」
「おお、おめでとう! こっちも受かったよ。北高。連城も一緒」
「あ、おめでとう、よかったね」
「ありがと」
ひとしきり、ふたりは新しい春を迎えられる喜びを分かち合った。連城の名前を出した時、しまったなと思ったが、梅原は目に見える反応はしなかった。……いや、ここで俺が気をつかう方が変だよな? かえって気まずくなるよな。
「あたし、もう帰ろうと思ってたんだけど、桑谷くん来たなら、スマホで撮ってもらえる?」
「あ、俺も頼む」
陽佑は手早くスマホを引っ張り出した。
そうしてふたりは、撮影し合った。桜だけ写したり、相手のスマホで撮影してあげたり、最後には桜の前にふたり並んで、それぞれ自分のスマホでシャッターを押した。真面目な表情をしたり、はめをはずしたポーズをとったり。とてもきれいに撮れた、と思う。この場でお互いに写すことができたので、相手の連絡先やアカウントをこの際交換しようという流れにはならなかった。実のところ、陽佑はそうしたくなかった。もしも梅原に連絡先を聞かれたらどうごまかそう、とまで考えていた。……そうはならないだろうけど。
この気持ちはもう、行き場がない。終わるしかないのだ。本来は卒業式の時点で、なし崩しに終わっているはずだった。今、せめて自分の意志で終わらせる機会をくれた神様に、感謝すべきかもしれない。
「じゃ、あたしそろそろ帰るね。この後用事あるし」
ついに梅原はそう言った。
たぶん、これが本当に最後になるだろう。わざわざ会う機会もないだろうし、理由もない。
だから……。
「梅原」
手を振って歩きかけた彼女を、陽佑は呼び止めた。
「なあに」
……少しだけ、ためらう。
「……ありがとな。3年間、楽しかった」
梅原は、きょとんとした表情になり、なんともいえない笑顔になった。
「それ、なに。告白?」
なんで、そうなる。陽佑は内心でのけぞったが、意外に動揺は表に出なかった。それどころか、口が勝手に、動いていた。
「わかんね。自分でもわかんねえや」
おい、ちょっと待て、俺。
ツッコミは間に合わなかった。梅原は、困惑したように首を振った。
「それ、ずるくない?」
「ずるいと思う。ごめん」
陽佑は正直に認めた。認めたものの、気まずさはあまり感じなかった。梅原は、小さく吹き出した。
「ま、いいや。あたしも最近、桑谷くんのことどう思ってるか、自分でもわかんなくなってきてたから、おあいこ、ね」
……1秒間だけ、呼吸を忘れた。
桜の香りが、胸の奥を吹き抜けたのを、感じた。
花びらが通り過ぎたあとに、――青い青い空が広がっていた。どこまでも高く。どこまでも広く。どこまでも遠く。
「…………そうか」
そうだったのか。
そうだったんだ。
「じゃ、ありがとね」
「元気でな。がんばれよ」
「ありがと。桑谷くんも。連城くんによろしく」
「おう」
――立ち去りかけて、梅原はもう一度、陽佑を眺めた。
「……背、すごい伸びたね。別の人、みたい」
「ああ、そうかもな」
事実だった。入学してしばらくは、梅原の方が身長が高かったのだ。彼女が陽佑と話すのに、視線を上げなくてはならなくなったのは、いつからだったろうか。
手を振って、梅原はあっさりと、背を向けて歩いて行った。
……呼び止めたい気もした。
でも、…………。
陽佑は桜を見上げた。ちょっとだけ、にじんで見えた。
もう一度、少し遠ざかった背中を、見つめる。
梅原はたぶん、振り返らないだろう。
けれど、……少しうつむいているように見えるのは、気のせいだろうか。こちらの勝手な願望なのだろうか。
――最後まで見送らないと決めた。陽佑はきびすを返し、梅原に背を向けて、歩き出した。彼女と違う方角へ向かって。
このまま終わってほしくない時間が終わってしまうのは、なぜだろう。……いつか連城がそう言っていた。終わってほしくないひととき……。だけど、さっきの梅原の言葉を聞いたときから、不思議にも陽佑は、自分が満たされたのを感じていた。あの言葉を聞いたから、俺は歩いていける。終わってほしくない時間が終わってからも、前に踏み出せる。あたらしい、別の、終わってほしくない時間を見つけるために。きっと、なんとかなるだろう。
……梅原とは、それきりになった。
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