94 告白
卒業祝いに、両親が週末、外食に連れて行ってくれることになっていた。今夜じゃなくてよかったかもしれない。せっかくの卒業式の直後だというのに、食べ盛りのはずの
陽佑はベッドに体を投げ出した。
何も手につかない。何も考えつかない。いっそ受験勉強ができたらいいのに。心の中がざわざわと毛羽立っている。吐き気に近いものが、胸の上に座り込んでいる。スマホでゲームなどしてみようかと思ったが、アプリを起動した瞬間に遊びたくなくなり、横へ押しやった。
寝転んだまま、部屋のあちこちへ視線をさまよわせる。ゲームブック。梅原が手に取った光景をまだ覚えている。おかげで、あの本を見るたびに、江戸時代のすごろくという奴に思いを馳せずにはいられない。本棚の、歌川国芳の画集。運動会の看板の元ネタだと教えてくれたのは梅原だ。その隣の、小型のアルバム。使い捨てカメラで撮影した、運動会の写真が貼り付けてある。青組や仲の良いみんなで撮った写真だけでなく、
なにより、この左手。彼女の手にはっきりと触れた、感触……。
……ふけってどうする。もう終わったんだ。
ゆっくりと目に浮かんでくるものがある。陽佑は振り切るように、上体を起こした。
これでよかったんだ。
こう終わらせるって、ずっと前から決めていたじゃないか? その通りにしただけなのに……何が、胸の中で渦を巻いている?
もう終わったんだ。もう、どうにもならない。なまじ梅原の連絡先とか自宅を知らなくてよかったと思う。知っていたら……いや、だから、もう終わったんだ。
幾度も繰り返す。それなのに、体の中で嵐が暴れている。音もなく吹き荒れ、散らかった気持ちをさらに巻き上げ、まき散らして。
いつの間にか9時が近づいていた。スマホをリビングに返さなくてはならない。と陽佑が思った瞬間を待っていたかのように、スマホは着信音を歌い上げた。画面に表示された名前に軽く驚きつつ、陽佑は耳に当てた。
「おう、連城、どうし……」
た、の音は、生産される前に瞬間冷凍されてしまった。小さくしゃくり上げる音がした。懸命に声を殺そうとしているものの、明らかに連城は泣いていた。
「どうしたよ」
陽佑の声のトーンは、変わらざるを得なかった。
「桑谷……ごめ…………
それだけ言うのに、連城は普段の5倍近い時間をかけた。
「抜け駆け……した」
「ぬけがけ……」
どういうことだ、と聞く前に、陽佑の胸の奥に、重い塊がすっと下りてきた。
「……梅原に、……告った。卒業式の後で」
……ああ、やっぱり。
そんな予感がしたから、陽佑にはあまり驚きはなかった。それでもとっさに、どう言えばいいのかわからず黙り込んでしまったのを、ショックを受けたのだと連城は解釈したらしい。
「ごめん……」
「いや……」
なんだ、そんなことか。……言いそうになって、陽佑は危うく踏みとどまった。
「それで……?」
反応に困って質問してしまったが、愚問かと舌を噛みそうになった。抜け駆けした、それだけの理由で連城が泣いているわけがなかった。
「お前出し抜いた、罰が当たった。ふられた。……おれのこと、友だちとしか思えないって。卒業して、高校も違うのに、そう言われても、どうしたらいいかわからないって」
そうか、としか言えない。
ふられた理由の前半はともかく、後半についてはごもっともである。進学先も違う、自宅も遠いし場所がわからない、連絡先も聞けない。……どうしようもない。
「なんか……本当に今日で終わっちまうんだと思ったら、どうしても……居てもたってもいられなくなってさ……覚悟してたつもりだったけど、……こんな、ショックでかいとは思わなかった……」
連城はどうにか泣き止んだようだが、しゃくり上げるのがなかなかおさまらないらしく、ときどき変なところで声が止まる。思い返したのか、また涙声に戻ってしまった。
ごめん、ごめん、と繰り返す連城に、陽佑はどうにか、謝るなよ、と押し込んだ。
「気持ちはわかるよ。……今日梅原を見つけたら、俺もそうしてたかもしれない」
正直に吐き出し、陽佑はベッドの上に座り直した。喉に苦いものがこみ上げてくる。
「俺も、梅原に言わないつもりだったけど、……今日で終わりだろ、本当にこれでいいのかって気持ちが、急に上がってきてさ……突然焦っちゃって、捜したんだ、梅原のこと。でも見つからなくて、あきらめた。すげえ残念な気持ちと、これでよかったんだって考えが、ごちゃごちゃでさ。今もくしゃくしゃしてる。だから、……もう謝らないでくれよ」
「ああ……ごめん」
「だからやめろって」
電話の向こうで、連城が鼻をすすり上げた。
なぜか、連城への怒りや恨みは、一切なかった。たぶん自分には連城を責める権利があるのだろう。あるのだろうけれど、行使する気にはまったくなれなかった。ほんの少しタイミングが違っただけで、自分も同じことをしようとしていたから、だと思う。
「な、合格発表一緒に行こうぜ。で、ぱーっとハンバーガー食おうぜ。おごるからさ……安いのでよければ」
陽佑は明るく声を張り上げた。
「おれ受かってるかどうかわかんねえよ」
「受かるよ。大丈夫だ」
本心から陽佑は言った。
ふへっ、と奇妙な笑いが聞こえた。
「桑谷が告ってたら、オッケー出てたかもしれねえな」
「それはないよ。あいつにとって、たぶん俺たちはひとまとめだ。お前がだめなら、……俺もだめだよ」
……入試の前後、連城が学校を欠席していた期間に、自分とふたりになって気詰まりそうにしていた梅原の顔が、脳裏をかすめる。ひりつく笑いが陽佑の喉に広がった。眼球に熱がこもっている。……俺が崩れてどうする。連城を支えなきゃならないのに。
「そんなのわかんねえぞ」
「俺だって、お前と同じ北高だし」
「…………あー……」
「な。……バーガー食って、高校生活楽しむことだけ考えようぜ」
「……酒が飲めたらな」
「そだな……卒業パーティ、行くだろ」
「ああ、行くよ」
「騒ごうぜ」
「そうだな」
ようやく連城の声が上向いてきた。
「連城」
「ん?」
「……ごめんな」
「……何が? なんでお前が謝るんだよ」
電話の声が狼狽している。
「いや……」
陽佑は頭をがりがりかきながら抱え込んだ。
「うまく言えねんだけどさ……なんかこの頃、自分がすごく、どろどろしたことばっかり考えているような気がしてさ……お前のこと、傷つけるようなこと考えているんじゃないかって、……自分の考えがすごく、嫌だったんだ。それで……なんか、悪いなって」
「……マジメだな、お前」
しみじみと、連城が言った。
「そんなの、おれだってあるよ。……今日のことだって、おれ本当は、お前に負けたくないって思ってたのかもしれねえし。それに、梅原の気持ちも考えてなかったしな」
すん、と鼻をすする音。
「そりゃ、こんなタイミングで、玉砕されたって、梅原も困るよな。お前まで出し抜いたあげくに、ふられたショックをひとりで受け止められなくてお前に電話するって……やっぱヤな奴じゃねえか、おれ」
「いや、それはもうやめようぜ。みじめになってきた」
「そうだな」
明後日の合格発表の待ち合わせを決めて、陽佑はやっと、みじめな電話を終わらせた。熱を帯びたスマホをベッドにぽいっと投げ出して、そうか、と陽佑はつぶやいた。
連城も、どろどろしたこと考えて、悩んでたんだ。
――当たり前のことじゃないか。
自分だけじゃなかったんだと、そう思えただけで、不思議な安堵が胸を満たした。悩んでいるのが自分だけのような錯覚に落ちていた。連城とはいつも一緒にいたのに、自分のことだけしか見えていなかった。連城もそうだっただろうけど。
同い年だものな。自分以外の誰も悩んでいないなんて、どうして思えたんだろう。――陽佑は、ベッドにゆっくり上半身を倒して天井を見上げ、大きく息を吐いた。
落ち着いて考えてみれば、自分に連城を責める権利なんて、あるわけがない。あったとしても、自分が校舎内を駆けずり回った時点で消滅している。そもそも、お互いに「告白しないことにしよう」なんて約束も、一切していないのだ。
梅原の気持ち、か。……考えたことがなかったのは、陽佑も同じだ。連城の涙は、ちょっとタイミングが違っていれば、自分のものであったかもしれない。ここで、梅原も困るよな、というところに思い至れないあたり、自分は連城にかなわないんじゃないだろうか。
確かに、困るよな……。同じ高校に行くなら、まだともかく。……いや、ふってしまう立場なら、それはそれで、やっぱり嫌か。
なぜか、2年前の、大野のことを思い出した。ほとんどの女子と調子よくやっていた大野は、梅原に対してだけは異様に攻撃的だった。その一方で、陰湿な、梅原の所持品を汚したり壊したり、暴力をふるったり、という行動は一切していなかったはずだ。彼女への嫌がらせを面白がっていた、という心理とは違うものを、陽佑も感じていた。
あのときの大野も、自分の中のどろどろした感情と戦っていたのではないのか。内容はわからないけれど、どろどろ感だけはなんとなく、わかる気がした。
同い年のみんなが悩んでいるのだとしたら、大野だって、そうであるはずだ。
……もしかして、――梅原も、こんなこと、悩んでいたりするんだろうか。
だめだ。天井が急激ににじんできた。喉から上がってきた苦さが、小さくもれる。陽佑は、熱くなったまぶたを強く閉じて、寝返るように体を横へ向けた。かえってそれがまずかった。表面張力は敗北し、まぶたの端からつたい落ちていった。
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