93 卒業式
……その日が来ることを、恐れてはいないはずだった。
卒業式には両親も参加することになっていた。学校に着くと、両親は保護者控室に案内され、陽佑は3年2組の教室に入った。半分くらいの生徒が、落ち着かない様子でそこにいた。真っ先に
陽佑と連城は、いつものように、廊下に面した窓のそばにたたずんだ。今日はあまり話すことがない。気のせいなのか、連城の顔色がすぐれないように見えた。なぜか、ひと晩泣きはらしたらこうなるのだろうか、とおかしな想像が頭をよぎって、陽佑は奇妙な予感に胸を貫かれた気がした。
「それにしても、入試があって、卒業式があって、その後合格発表って日程は、鬼だな」
気の抜けた声で、連城がつぶやいた。
「でも、合格発表の後に卒業式って方が、鬼じゃないか?」
「……そうだな」
陽佑の意見に連城は同意した。……きっと本当に話したいのは、こんなことじゃないけれど。
今日でおしまいなのだ。退任式というのもあるけど、あれはあくまで番外だから。
ふたりはほぼ同時に、横目を廊下に送った。梅原だ。声をかけようとした瞬間、須藤が巨大な声で「おーす、今日で終わりだなー、友よー」などとわめきつつ視界をさえぎりやがったので、そっちに反応せざるを得ず、「本命」はその間に通り過ぎてしまった。「なにが友だ」と、やはり冗談めかして言い返したが、おのれの声の中には五寸釘が数本込められていることを、陽佑は自覚していた。ふと連城を見た。連城は笑っていたが、顔が土気色になっている気がした。
先生が入ってきた。悪性の風邪はどうやら、ぎりぎりのタイミングで3年生から立ち去ってくれたようで、欠席者はなさそうだった。式次第の最後の確認があり、配られた造花を各自で胸に飾って、制服を整え直す。男子は襟のホックを留めろと注意があった。時間が来て、生徒たちは廊下に整列した。今日ばかりは身長順ではなく、出席番号順だ。陽佑は比較的番号が早いから、前の方に並ぶ。近くの男子と話しつつ、さりげなく身を乗り出して、前方の1組の生徒たちの列を見やった。梅原はずっと前の方で、ちらっとしか見えない。
このまま、縮められない距離が、ふたりの間に横たわっている。
おしゃべりに笑いながら、陽佑は小さく頭を振った。
これでいいんだ。……このまま、今日で封印する。
〇
卒業式の間、陽佑の感覚には薄い膜が張っていた。これは……そう、祖母が亡くなったときと近い。聞こえているけれど、脳に届くのが極端に遅い。我にかえっていたのは、卒業生の氏名が呼ばれるときだけだった。1組の梅原が、名を呼ばれて返答し、斜め向こうの座席から立ち上がったところへ、目も耳も注がずにはいられない。そして自分のときに、きちんと返事をしなくてはならないからだ。
そうか、と陽佑は思い当たった。感情を抑制しているからだ。感情を抑えようとすると、感覚が鈍るんだな。今俺は、自分の気持ちをコントロールしようとしている。ばあちゃんのときもきっと、そうだったんだ。
そうしないと……感情が、爆発してしまいそうだから。
俺はやっぱり、あのとき悲しくてしょうがなかったんだ。ごめん、ばあちゃん。最後に正月、会いに行ってよかったのかな。ばあちゃん、喜んでくれたんだろうか。
国歌や校歌は、後方に控えていたブラスバンド部によって演奏された。梅原の後輩たちだ。式次第は陽佑の感覚を上滑りしていき、滞りなく終了した。卒業生たちは順に退場した。女子の何割かが泣いていた。本当にこれでおしまいなんだという感慨が押し寄せてくるものらしい。
そうだ。本当にこれで……おしまいだ。
梅原だけじゃなくて……ここにいるみんなの何割かとは、もう関わることはないのだ。
連城の様子が見たくなったが、退場しながらあまりきょろきょろするわけにはいかない。陽佑はうつむき加減で順路を歩いた。
教室の並びに戻ってくると、廊下はたいへんなざわめきだった。一部の女子がはばかることなく号泣を始めていた。廊下も教室もごった返している。1組の教室をそっとのぞいたが、こちらもえらい騒ぎで、梅原は見つけられなかった。仕方なく陽佑は自分の教室に戻った。
今日も運動会同様、使い捨てカメラをこっそり持参した生徒が多くいた。さっそく記念撮影が始まっている。教室を撮ったり、友だちと並んでみたり。陽佑も、自分のカメラを友人に持たせて取ってもらったり、友人の撮影に入れてもらったり、自分の方が撮影を頼まれたりした。姿が見えなかった連城がいつの間にか戻ってきたので、一緒に撮ろうと持ちかけた。連城はもちろん応じてくれたが、さっきよりもそわそわした様子に見えた。
卒業証書は、式では代表者1名が受け取って終わりだったので、笹井先生からひとりひとりに改めて渡される。そうしていよいよ最後のホームルームが終わり、卒業生に整列のアナウンスが入った。下級生が昇降口から校門まで、見送りの列を作って待っている。たとえまだ校内に用事があっても、一旦はこの見送りを受けて通過しないと、下級生は解散できないのだ。ひとまず卒業生は、丸めて筒に収めた卒業証書を持って、見送りの列を通過するべく昇降口に向かった。もちろん、このままもう帰るということなら、荷物も一緒に持って出ることになる。
卒業生ひとりひとりに、小さな花束が配られた。順番は特に決まっておらず、とにかく途切れないように通過すればよい。下級生たちが両側に並んだ列の後ろで、コーラス部が歌っている。拍手が空へのぼった。
生徒によっては、後輩に呼び止められて、また別の花束やら手紙やら受け取ることもある。ずっと前方で、土田や大野がバスケ部の下級生男女に囲まれて、写真を撮られているのが見える。山岡の前にも、女子が列を作って待っていた。陽佑は身に覚えがなかったから、すんなり通り抜けられるつもりでいた。が、2回ほど、下級生の女子数人のグループに呼び止められて、「おめでとうございます」「お世話になりました」「お元気で」の挨拶とともに、小さな花束や手紙を渡され、写真撮影にも応じるはめになった。片方は運動会で関わることになった顔ぶれで、もう片方は文化祭(仮)を立ち上げる際に文化委員会で一緒だった後輩がいた。たったそれだけの関わりで、ここまでしてくれるものかなあと、陽佑は半分他人事のように思えて仕方がなかった。
間の抜けた話だが、梅原や連城のことが気になったし、両親とも合流しないといけないので、門のところで列からはずれて、校舎に引き返した。実際そうしている卒業生は多い。一旦靴を履き替えて教室に戻った。2組にいる生徒ももう見送りの列を通過し終わったらしく、中には抱えきれないほど多くの花束を机に投げ出している猛者もいる――女子だったが。みんな、最後のおしゃべりに興じたり、撮影の続きをしたりしている。そのうち見送りも終了したらしく、下級生の数人が3年生の教室までやってきて、これまた一緒に写真を撮ったり、見送りで渡せなかった花やプレゼントを贈ったりしている。クラブ活動をしていた生徒は、部室に顔を出しているようだ。そうするうち、三々五々、両親と一緒になったり、友だち同士やクラブの仲間と下校したり、それぞれに去っていく。数日後に、クラスのみんなで卒業パーティが企画されていた。
陽佑の胸の内はいよいよ、蓋を跳ね飛ばして荒れつつあった。連城はいっこうに姿を見せなかった。ざわざわ、というより、肌の内側がざらつく感触がある。陽佑は落ち着かず、視線をあちこちへ投げつけた。帰っていく男子と声をかわしながら、衝動が暴れそうになるのを、陽佑ははっきりと悟っていた。
――耐えきれない。
陽佑は廊下へ飛び出した。1組の教室をのぞいた。残っている生徒は数人で、その中に梅原はいなかった。胸の奥が焦げる。陽佑は見回し、駆け出した。ブラスバンド部員なら音楽室にいるかもしれない。
俺――何やってんだ?
陽佑は、何かに振り回されて、廊下を走っていた。自分が自分じゃない気がする。こんなことするはずじゃなかったのに。もしも、もしも音楽室で見つけたら――どうするつもりなんだ?
……わからない。とても重大な疑念のはずなのに、足を止めることができない。俺、こんな人間だったっけ? ぼんやりしているくせに、こんな衝動的に、後先考えずに走り回るような、こんなことする人間じゃないと思ってた。でも……ガラじゃないのに、自分の体をどうしてか、止められない。考えること自体が困難だった。頭が散らかって、まとめることができない。体の奥から巨大な何かが突き上げてきて、陽佑の身も心も追い立ててくる。止まれない。
ほどなく音楽室に着いた。案の定、数人のブラスバンド部員がいて、先輩とおしゃべりしている。卒業後の部会はもう終わったのだろう。たまたま出入口近くにいた、2年生らしき女子生徒に話しかける。喉がカラカラだ。
「梅原、いる……?」
「……部会の後、もう帰られたみたいですけど……?」
「ありがと」
それだけ言って、陽佑は回れ右で駆け出した。変に思われたかもしれないが、もう卒業するのだし、知ったことか。陽佑は校舎内を走り回った。ときおり、いぶかしそうな生徒や教師や保護者とすれ違う。いない。……思いつくところ、どこにも。陽佑は藁にすがる思いで、もう一度、3年1組の教室に駆け戻った。
1組の生徒は、さっきよりもさらに数が減っていた。
「陽佑」
背後から呼ばれて、もう少しで飛び上がるところだった。廊下に、両親がそろっていた。
「もう終わった? 帰りましょうか」
――タイムアップ。母の声は、終末の鐘のように、響いた。
〇
昇降口で忘れずに、上履きを荷物に入れる。
通りがかりに、連城の、そして梅原の、靴箱をのぞいた。
どちらも、すでにからっぽになっていた。
ぼとん。……陽佑の中で、何か重いものが落下して、鈍く転がった。
――今日は保護者も一緒のはずだから、自分の都合だけでは行動できなかったかもしれない。きっと、そうだ。
陽佑は、最後の荷物を持ち直し、両親に続いて、扉を通り過ぎた。
前庭にはまだ、いくつかの生徒たちの集まりが残っていて、それを待っているらしき保護者もいた。けれどそこにも、連城も梅原も、いなかった。
――あっけないほど、陽佑の気持ちは、置き去りにされていた。
なぜ。――これでいいはずなのに。この日はこう終わらせるということを、ずっと前から決めていたはずなのに。
終わったんだ。これでいい。梅原に、知られないまま……。
陽佑は歩き続けた。声を上げたかった。泣き声ではなく、わめき声を。でも、何をどうわめくつもりなのか、自分でもわからなかった。
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