89 終幕は音もなく

「ね、桑谷くわたにくん」


 放課後、ノートとカラーペン買わないとな、などと陽佑ようすけが考えながら、教室からベランダに出てぼさっと風景をながめていると、いつ出てきたのか、堀川今日子が話しかけてきた。


「来月チョコレートほしい?」

 くしゃみしかけていた陽佑は、盛大にむせてしまった。

「なに、急に。なにかお礼されるようなことって、あったっけ?」

 どぎまぎしながら、陽佑は用心深くたずねた。来月、チョコレート、とくれば、男子としてどきっとしてしまうのは自然な反応だろう。ただ、うぬぼれてはいないつもりである。うっかり調子に乗ったような冗談でも言おうものなら、女子に広まってどれだけ惨めな扱いを受けることになるか。思春期男子としては警戒せざるを得ない。自分は土田や山岡のように、女の子をスマートにあしらえる男ではないという自覚はある。

 堀川はしばらく黙っていたが、ため息とも吹き出しともつかない音を立てた。

「……冗談だよ」

「なんだよ、びっくりした」

 陽佑の方は心底から大きく息を吐いた。しかし、心臓に悪いのはむしろそこからだった。

「桑谷くん、好きな子いるでしょ」

「ヴっ」

 喉から異音が出てしまった。

「なんっ、だよっ、いきなり」

 アニメのような挙動不審におちいる陽佑の横で、堀川はベランダの手すりに両ひじとあごを乗せて、うつむいた。

「隣のクラスの子、だよね」

「…………っ」

 取り繕うのに失敗して、陽佑は固まってしまった。

「……………………なんで、そんな、」

「わかるよ。見てれば、わかる。見てれば、ね」

 陽佑は、きまり悪くて、ちらっと堀川を横目で見た。彼女はうつむいていて、どんな顔をしているのかわからない。

「…………桑谷くんって、ときどき、ひどいよね。にぶいし」

「…………?」

 困惑した。陽佑は急いで、自己の言動を早回しでかえりみる。にぶい、はまああるかもしれない。そもそもぼんやりした性格である。が、ひどい、というのは思い当たらない。少なくとも、自分から積極的に、誰かにひどいことをした覚えというのがないのだが。

「それって、いつの、何の話?」

「…………もういい」

 堀川はさらに顔を伏せた。

「来月の話は冗談だから、忘れて」

「…………ん」

 着地点がよくわからないまま、陽佑は返事した。まあ「来月」が冗談としても、陽佑を非難したあのくだりは、どうも冗談には聞こえなかった。

「俺……堀川に、ひどいこと、した?」

「もういいってば」

 堀川はちっとも顔を上げてくれない。

「なあ」

「いいから、もうさっさと帰ってよ」

「…………」

 帰れと言われてしまった。

 取りつくしまがなくなってしまったようなので、陽佑は立ち去ることにした。どうやら消えた方がよさそうである。しかし、いつもの堀川に似ず、えらく自分勝手なことばかり言ってくる。それでも陽佑は、なにか自分が迷惑をかけたのではという気がしてならなかった。

「……ごめん、堀川、なんか嫌な思いさせたみたいで……」

「そこで謝るのが、桑谷くんの悪いところ!」

 なんなんだ、いったい。

「ああー、ええと、……その、…………ごめん」

 悪いところだと指摘されたものの、ほかに言うべき言葉も見つからず、陽佑はきまり悪く堀川の後ろを通り過ぎて、教室に入った。どうすりゃいいんだ、と内心で頭を抱えながら。


「…………ひどいよ、ほんとに……」

 手すりに顔を伏せたまま、震える声で堀川はつぶやいた。彼女はそのまましばらく動かなかった。教室から見かけた真壁が、どうしたの、と心配してベランダに出てくるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る