81 時間よ回れ

 北高を受験することについては、陽佑ようすけはすでにA判定をもらっていた。落ち着いてやれば大丈夫なんだろうけど、お前はポカをやると大崩れするからなあ、と数学の教師にぼやかれた。あと、できれば国語と英語はもう少しがんばっておけ、とも助言されている。なんだか心もとないA判定である。


 一方で、連城れんじょうが憂鬱な表情になっていた。最近どうも成績が思わしくないのだという。おれ北高入れるかな、とぼやいている。

「運動会の衣装に根つめすぎた?」

「いや、そういうのじゃねーんだ」

 一時的なものでなく、手ごたえがよくない、ということらしい。

「3年になってからやたらテストばっかりだしな。テストと学校行事の合間にしか授業がない感じ。……おれって、プレッシャーに弱い人間だったのかな」

「家庭科の王者が何言ってんだよ。いまだに陥落したことねえだろ」

「高校受験に家庭科関係ねーよ」

「内申点ってもんがあるだろ。日頃の徳の積み重ねだよ」

「入試の点が悪かったらどーにもならねー……梅原」

 連城は、窓枠に軽く反り返るような姿勢で、通りかかった女子を呼び止めた。はーい、と返事してこちらへ来てくれる。陽佑は半歩下がって、自分と連城の間のスペースを梅原に譲った。


「今日は何の話?」

「テストの結果」

「ああー、やめよう、そんな話。……連城くん、運動会の衣装の写真って、全部集まったの?」

「おう、コンプリート。協力ありがとうな」

「運動会っていえば、青組のあの看板、すごかったね。まさか国芳を図案に持ってくるなんてね」

「クニ……なに?」

歌川うたがわ国芳くによし。あれのもとになった浮世絵描いた人だよ」

「浮世絵……へえ」

 どうやら梅原はこういう世界に詳しいらしい。軽く国芳について講義してくれたが、押しつけがましくもなく上から目線でもなく、無知な人の興味を上手にそそるように、話してくれる。


「……あ、もうクラブ行かないと」

 話がひと段落したところで、教室の時計に気づいて、梅原は顔色を変えた。

「コンクール近いんだ、じゃね」

 片手を振って、すげなく梅原は行ってしまった。軽くうなずいて、ふたりは見送る。角を曲がって、見えなくなってしまってからも。

「なあ」

 ぽそっと、連城が口に走らせた。

「このままずっと続けばいいのにって思った時間が、終わっちまうのは、どうしてなんだろうな」

 陽佑は連城を見なかった。どこに思いをめぐらせているのか、どんな表情をしているのか、なんとなくわかったからだった。たぶん、陽佑自身と同じだろう。

 特別な話でなくていい。むしろ、どうでもいい話がいいのだ。今日のような、ちょっとした豆知識でもいいし、数時間後にはもう忘れてしまうような馬鹿話でもいい。ただ、ただ……。

「……わかんね」

 そう答えた。自分で思ったより小さく、頼りない声だった。


     〇


 陽佑は書店で、問題集を探すかたわら、「歌川国芳」の画集を見つけて、手に取ってみた。

 ああ……なるほど。

 運動会で見覚えのあるタッチの絵だ。ぱらぱらとめくるうち、まさにあの看板の元になった絵を発見した。なるほど、色合いとか背景を変えたんだな。それにしても、……やはり元の絵の方が迫力というか、緊迫感があるというか。バランスもいい。まあ、あの巨大看板にはトレースするわけにもいかなかったのだろうけれど。……ああ、梅原が言っていたのはこういうことか。なるほど。詳しいな。

 落ち着いて眺めてみたい気もしたが、価格を確認してのけぞりそうになった。中学生の小遣いにはかなりの負担である。お年玉とか臨時収入の時期になってから改めて検討することにして、今日は問題集だけ買うことにした。


 帰宅して部屋に入る。買ってきた問題集を机に置き、リュックを下ろして、ふと思い出し……本棚のゲームブックを取り出した。以前、学校での読書時間に読みかけたものだ。あの後、無事に終章までたどり着くことができた。

 ……これ、梅原が、手に取っているんだよな。

 ただそれだけで陽佑は、その本を心の中の神棚に、ご神体としてまつっていた。

 あのとき初めて、梅原が、江戸の文化に詳しいらしいことを知った。

「こういう本って、江戸時代のすごろくみたいだね」

 ゲームブックについて語り倒してしまった陽佑に、ドン引きもせず、うんうんと聞いてくれた末にそう言ってきた声を、まだよく覚えている。

 ――去年の運動会の日の夜。あれ以来ときおり、梅原の夢を見る。嬉しくて、切なくて、どことなく甘美で、なにかが醜悪で……彼女に申し訳ない気持ちと自己嫌悪になってしまう夢。ただ手に触れる感触だけが、左手に残る。


 ――江戸時代のすごろくならいいのに。陽佑は小さくため息をついて、着替えをし、ベッドに体を放り出した。あがりにたどり着きたくない。運悪く、サイコロの出目が悪くて、あちこちのマスを移動してばかりであがれない……そんな中学生活ならいいのに。でも現実は、あくまでも現代式のすごろくだ。サイコロがどんどん背中を押してくる。しかも、あがりはもう見える距離にある。着いてしまったとき……そのとき陽佑は、梅原と別れ、新しいすごろくのふりだしに行かなくてはならないのだ。

 江戸時代のすごろくの中を、さまよっていられたらいいのに。梅原と、手をつないで。……陽佑は起き上がると、ゲームブックをそっと、本棚に戻した。

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