77 詭弁(きべん)を弄(ろう)する

「どういうことだね!」

 副校長の三枝さえぐさ先生の怒声が、3年2組の教室を揺さぶった。

 生徒たちは凍りつき、三枝先生と、青ざめた山岡とを、見つめるしかなかった。



 ことの起こりは、山岡伸明のぶあきの悪ふざけであった。

 その日の放課後。デコレーションの巨大看板はかなり出来上がりつつある状態だった。今日はここまで、と作業に参加していた下級生を帰したあと、ふと誰かが看板の一部をながめ、このあたりが副校長の顔のシワに似てないか? などと言い出したのである。おもしろがった山岡は、まだ残っていた絵具で、顔の輪郭や目元などを描き足して、デフォルメした副校長の似顔絵を作り上げてしまったのだ。もちろんこのまま看板に残すつもりはなく、ひとしきり笑った後で塗りつぶすつもりであった。調子に乗った山岡はさらにフキダシを付けて「副校長デスッ」などと書いたのだった。……そこまでならまだよかったかもしれない。三枝先生は日ごろから、少々きつい言葉での叱責や説教が絶えない先生で、生徒全般からあまり好かれていなかった。山岡も何か鬱憤うっぷんがたまっていたのか、描きあげた三枝先生の似顔絵に、ナイフやらヌンチャクやら釘バットやらをさらに描き足し、当人にはまず面と向かって言えない言葉――つまり悪口を、これでもかとばかりに書きつけて、むちゃくちゃにしてしまったのだ。そうしてげらげら笑っているところに、当の本人が通りかかって、この落書きを見てしまったのである。


 気分を害したのは当然かもしれない。これは完全に山岡の落ち度だった。三枝先生の落雷は3階を貫き、ほかの3年生の教室から、なにごとかと様子を見に来た生徒もいたほどだった。うなだれて黙るしかなかった山岡を、三枝先生は厳しく叱責した末に、恐ろしい宣告を下したのである。


 青組は、デコレーション部門を失格とする、と。


 えっ、と誰もが口走った。伏せていた山岡の顔が、まさか、と三枝先生を見上げた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

「異議は認めない」

「先生!」

 ええっ、嘘でしょ、2組の生徒たちはぎょっとした顔を見合わせながら、恐慌にかられていた。土田も葉山も小長井こながいも、思いがけない不意打ちに言葉を失っている。

 ――ちょっと重すぎないか?

 陽佑ようすけも、被服室での縫製作業からたまたま戻っていた連城れんじょうも、いつもの廊下そばの窓ぎわで立ちつくしていた。三枝先生のやり方があまりにもオトナ気ないとは、後になって冷静に考えれば多くの生徒が共有する認識だったが、今この場ではとてもそんなことまで考えつけなかった。三枝先生の剣幕と、デコレーション失格という宣告の重さに、思考がマヒしてしまったのだ。しかしそんな中で、ただひとり陽佑だけが、懸命に脳に鞭打っていた。


 ……どうしたことか、陽佑の脳裏で何度も、去年三枝先生がピアノを練習していた光景が、リピート再生されていたのだ。音楽に詳しくない陽佑でさえ、上手とは断言できない腕前で。


 だけど。


 陽佑は、感情の上で勝手に、三枝先生のことを、文化祭を作り上げた半分同志、のように思っていた。協議ではああ言われたけど、本当に開催するとなったら、ああして夏休みに人知れず練習を重ねて、華を添えてくれた先生――。

 ――なにより、先生、あのとき俺を試しましたよね? 今も……試しているのでしょうか? 俺たちを……。



 三枝先生は、山岡をしばらく睨みつけると、背を向けて教室を出ようとしていた。

「先生!」

 山岡が呼びかけても反応しない。

 ――この先生が、生徒の声にまったく耳を傾けてくれないとは、思えない。

 話せば、わかってもらえるはずだ。

 いや、きっと三枝先生は、俺たちの弁明を聞きたがっている。試している。……陽佑は、勝手にそう考えた。

 それに、俺が、去年の校長室で話した生徒だと覚えてもらえていれば、……俺の話は聞いてくれるかもしれない。

 話せ。耳を傾けてもらえるやり方で。

 ……何を話せばいい?


 山岡が怒気に震えて一歩を踏み出した。表情がもうすでに食ってかかっている。暴言が出るまで数秒も必要としないだろう。現に、クラスで一番身長の高い小沢が、気配を察して素早く、山岡を背後からつかまえようと動いている。


「――三枝先生」

 何もまとまらないまま、陽佑は声を上げていた。山岡を暴発させてはならない、その一心でしかなかった。

 立ち去りかけた三枝先生は、足を止めて陽佑に視線を投げつけた。

「何かね」

 ――さあ、どうしよう。まだ何も……思いつかない。

「先生……生徒の、即興3分間スピーチ、添削をお願いします」

 とりあえず意味不明な前フリをして時間を稼ぎ、数歩進み出ながら、陽佑は懸命に頭を回転させる。

 考えろ。考えろ。

 どう話せば、いいのかを。


「確かに、先生のおっしゃる通りです。悪ふざけがすぎました。この点に関しては、全面的に我々が悪いです。本当に、すみません」

 殊勝に、うなだれる。

 まずは相手の言い分を全面的に肯定する。肯定された相手は、少し気分がよくなって、向こうに言い分があるならまあ聞いてやろうか、という姿勢が生まれる。

「その上で……生徒の言い訳に、少しばかり、耳を傾けていただければと思います」

 反論は、ここからだ。陽佑は一度、深く呼吸してから、必死に、糸をつむぎ始めた。


「去年の文化祭のステージ、三枝先生のピアノには、本当にびっくりしました。先生の知らない一面を見たようで、驚いたの、俺だけではないと思います。きっと、ものすごく練習なさったんでしょうね」

「……それはどうも」

 三枝先生は軽く、唇をゆがめた。

 ……目はありそうだ。

「先生だけじゃなかったです。そもそも俺が、文化祭のステージを提案したのは、いろんな生徒の、いろんな特技を、俺自身が見たかったからです。普通の学校の授業では絶対に見られない、意外な特技を持ってる奴は、いっぱいいると思ったからです。いろんな人の、いろんな特技とか、それに打ち込んでいる表情とか、いろんな人が見たがっていたと思う。だからこその、あのオーディションの倍率だったと思うんです」

 自分のしゃべっていることが文法的に合っているのかどうか、まったく自信がない。

 けれど今は、正しい日本語よりも優先して話さなければならないものがある。

 そもそも、自分のことを「俺」と表現してしまっていたことだって、後になってから気づいたくらいだった。


「それは、運動会でも同じことで。文化祭のステージは、文化系クラブのほかは、個人とか、有志とかのグループが基本ですよね。運動会は、それとは違う。運動会でこそ光るものを持っている奴だって、たくさんいる。それに、今度はクラス単位で、いや、我々3年生が指揮をとって、下級生を引っぱらなくちゃいけない。こういう形のイベントだからこそ、活躍できる奴だって、何人もいるはずなんです」

 俺のしゃべっていること、脈絡が、あるだろうか。わからない。ないかもしれない。録音して後から聞いたら、無茶苦茶なことをしゃべっているのかもしれない。でも今はそんなことを考えていられない。陽佑は今、消えていくものを作っていた。ステージと同じ。展示できない、しまえないものを。そのかわり、その場でダイレクトに反応がもらえるものを。


「でも、3年生がこうして指揮をとれる運動会は、この1回きりしかないんです。進学先の運動会は、またこれとは違うから。我々3年生も、探り探りなんです。たった1回の経験に、全力を振り絞って、いい結果を残したい。この競技はこうすれば、いい成績が出せるんじゃないか。こんな風に描けば、圧倒的なデコレーションが完成するんじゃないか。どんな曲を選んで、どんなダンスをすれば、ほかの組よりもたくさんの耳目を集められるか。……みんな、そのために頑張っています。ま、これはほかのどの組も同じだと思いますが」

 ――当たり前のことである。たぶん三枝先生はそんな光景を、何年間も見てきている。


「もちろん、あの落書きをあのままにしておくつもりはないってことは、デコレーション責任者の当人が、誰よりもよくわかっています。はめを外しすぎた失敗は、生徒の特権として、大目に見ていただきたい、というのが、俺の願いです。本当に悪かったと反省して、以後の経験に生かしたいという意欲は、もちろんあります。反省文が必要だとおっしゃるなら、俺がデコレーション責任者を説得して、必ず提出させます」

 そう言いながら、山岡をわざと強くにらみつける。陽佑はシャツの襟元を指先で引いた。水が飲みたい。


「それに、どんな生徒だって、学校のすべてに反発しているわけじゃないです。普通の授業が嫌いな生徒だって、こういう行事に、こんなに一生懸命になっているんです。学校行事は、広く言えば、授業の一環ではないでしょうか。学校の授業も行事も、生徒と先生の間にある程度の信頼がないと、成立しないと思うんです。あの落書きは……本当に悪いことでしたが、三枝先生への信頼というか、甘えというか、それがあったからこそで……悪い冗談だけど、先生ならわかってくれる、そんな甘えがあったからこそ、だと俺は思います」


 軽く唇をかんで、三枝先生を改めて観察した。美辞麗句を尽くして、もっとも肝心な部分をねじ込んだつもり、である。


「ですから……どうか先生、我々が全力で取り組んでいるところを、もうしばらく、見守っていただきたいと思うんです。この看板、デコレーション担当班が、どれだけ情熱を注ぎこんだことか。どれだけの生徒がこれを楽しみにしているか。ほかのクラスだって、お互いのデコレーションはどんなものが出てくるか、期待していると思うんです。どうか……失格は、取り消していただけないでしょうか。お願いします」

 陽佑は自然に、頭を下げていた。


「……先生、すみませんでした」

 山岡の低い声がした。まだ荒れた口調ではあったが、きちんと敬語を使っていた。

「先生、キャプテンの自分からも、お願いします」

「お願いします」

「三枝先生、どうか」

 土田が、連城が、葉山が。

 そして、「お願いします」が怒涛どとうのように重なり、陽佑の耳を打った。

 ……みんな。みんなが。


「…………話はわかりました。頭を上げなさい」

 3年2組の生徒たちが姿勢を起こしたとき、三枝先生は教室を出る寸前だった。

「デコレーション責任者、取り消してほしければ、反省文は原稿用紙3枚、今週いっぱい」

 と言い残して。

「ありがとうございます!」

 生徒たちは再び、頭を下げた。

「土田、葉山、頼みがあるんだけど」

 ……三枝先生がいなくなると、陽佑はふたりに呼びかけた。

「もし今後、生徒会とかから、運動会について何か書けって原稿の依頼があったら、1文でいいから、三枝先生を……」

 言いながら、陽佑は両手で持ち上げる動作をした。

「ん、わかった」

「お安い御用だ」

 葉山と土田はあっさりと請け負った。

「ありがとう。これで……スジは通せると思う」

桑谷くわたに! 助かったぁ」

 抱きつきにきた山岡の鼻先に、陽佑は指を突きつけた。

「お前が一番悪い! わかってるな、やること」

「わかってるって。アレが原稿用紙3枚でチャラになるなら安いもんだ」

「その前にアレ消すのが先だろうが!」

「おう、そうだそうだ」

「で、反省文は木曜に仕上げて来いよ」

「今週いっぱいって聞いたぜ!」

「木曜と言ったら木曜だ。俺がぎったぎたに添削してやる」

「げぇ~」

「おい待て、桑谷の国語の成績で、添削して大丈夫か? 葉山の方がいいんじゃねーの」

 陽佑と山岡の即興漫才に連城がツッコみ、テンションがおかしくなっていた2組の生徒たちがどっと笑い、気がつくと陽佑は、2組の女子にほめられつつも、男子に次々と肩をたたかれ、頭をもみくちゃにされ、「やめてくれ」と苦情を訴えていた。

 土田はげらげら笑いながら見物していたが、ふと笑いをおさめた。


「……集団の先頭に立って引っ張ることだけが、まとめる、ってことじゃ、ないんだな」

 そんなつぶやきが聞こえて、葉山は土田を見上げた。彼の視線の先に、すっかり頭をぐちゃぐちゃにされた陽佑がいた。

「おれの目に狂いはなかったな」

 うんうんと土田は続けた。結局自画自賛かい、と葉山は思ったが、黙っていた。

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