65 双川家の事情

「よぉ、ちょっちょっちょ」

 休み時間に廊下を歩いていたら、壁際にしゃがみこんだ1組の双川ふたがわに、呼び止められた。去年の文化祭(仮称)以来、双川とはあいさつくらいしか交わしていない状態だったので、陽佑ようすけは思わず周囲を見回して、話しかけられたのが自分かどうか確認してしまった。

「俺?」

「オメー以外の誰がいんだよ」

 ……いきなりそう言われてもな。


 双川は、相変わらずヤンキーな着崩しである。廊下にしゃがんだままなので、やむなく陽佑もそばにしゃがんだ姿勢になった。

「元気そうだな」

「ビョーキだったらこんなとこいねーよ」

「そりゃそうだ」

 腹が立つどころか、むしろおかしい気分になって、陽佑は小さく笑った。

「なにがおかしーや。ちょっと目ェ離したスキに、えれー背ェ高くなりやがって」

「うん、まあ」

 曖昧あいまいに応じた。双川を追い越してしまったのはいつだったのか、こうなるともうわからない。

「ところでよー、オメー進路どーすんだ。どこの高校?」

「北高」

 陽佑は即答した。その先はまだはっきり定めていない。理工系に進めたらな、くらいのぼんやりさだ。

「ふーん。梅原とは一緒か?」

「え? いや、あいつは南高って聞いてるけど」

「そりゃ残念だな」

「…………なにがだ?」

「いやいや」

 にやにやと笑う双川を前に、陽佑はかすかにのけぞり、狼狽ろうばいを必死に隠した。いや、そのつもりだったが、隠せていない気もする。こいつ……気づいているのか? いったいいつから?


 が、双川がしたいのは、その話ではなさそうだった。

「まー、どっちにしたって、オレの頭じゃムリだな」

「行けると思うよ。受けないのか?」

 一見してヤンキースタイルな双川と、明らかにおとなしく温厚そうな陽佑が、廊下でしゃがんで親しげに話しているのは、双川の人間性を知らない人ならぎょっとするかもしれない。彼が崩しているのは服としゃべり方だけで、中身はごく普通の中学生だということは、同じクラスに所属したことのある生徒、しかも男子なら、大概わかっていることだが。


「オレ、どーすっかなー。引っ越すことになるかもしんねーし」

「え、いつ? 親の転勤?」

「まさか」

 やめれと双川は、大きく片手を振った。

「転勤どこじゃねーや。オレんとこ、離婚しそーだし」

「……親が?」

「ほかに誰が離婚するや」

「ま、そうなんだけど」

 双川と話していると陽佑は、ときどき自分が馬鹿なんじゃないかと思えてくる。つい当たり前のことを聞いてしまう自分に、双川は実に的確にツッコんでくるのだ。しかし、わかっていてもはっきり確かめておきたくなる事柄というのは、世の中に存在するのではないか。

「もともと夫婦仲よくなかったけど、こないだ、ジジーがどっかのオンナはらませたってわかって、エレー騒ぎになってな」

「はら……」

 咳ばらいして、陽佑はちょっと下を向いた。思春期の男子の常として、余計な連想が働いてしまう。孕ませたというのは、妊娠させたということで、つまり……そういうことだ。スゴイなあ。

「……ジジーってのは、双川の親父さんって解釈で合ってる?」

「ほかに誰がいるや」

「いや、確認しておかないと、変な思い違いしそうだから」

「そーか?」

「って、それって親父さん、浮気ってこと?」

 陽佑はできる限り声のトーンを下降させた。ちょっとエッチな話題なら、校内で男子がそこここにかたまってひそかに盛り上がることはある。しかし家庭の危機が絡んでくるとなれば、廊下というのは適当な舞台ではない気がするのだが。

「不倫だ不倫」

 こともなげに双川は斬って捨てる。


「まー、いよいよババーが怒る怒る」

「ババー、ってのは……」

「もうわかんだろ。んでアイツ、今度こそ離婚だって、ジジーに皿やらなんやら投げつける、いやちょっとした見ものだったぜ。どっちも、人間捨てて妖怪変化みたいなツラがまえになっちまってさ」

 双川はくっくっと笑ったが、それは修羅場というやつではないのだろうか。

「妖怪変化、って……自分の親だろ」

「あーゆートキ、本人は自分がどんなツラしてんのか、考えたことねーんだろな。『化け物殺すにゃ刃物は要らぬ、鏡でそのツラ見せてやれ』ってのがオレの持論でね」

「……ふうん」

「つき合ってらんねーからオレ遊びに出たんだけどさ、夜帰ってみたら、ジジーもババーも両方家出していなくなっててさ。家ン中、ドロボーに遭った後みてーにぐっちゃぐちゃで、片づけしてねーの。もーバカバカしくてよ、オレもほったらかしにしてっから、まだあのまんまだぜ。高校とかちょっと、今考えるヨユーねえな」

 ……確かにその状態で、自分の進路どころではなさそうだ。


「親、帰ってこないの?」

「ババーは気が向いたら帰ってくんだろ。ジジーはオンナのとこシケこんで、もう帰ってこねーだろな」

 双川の話にはぽろぽろ、独特の言葉が入る。ヤンキー語、というやつだろうか。

「メシは?」

「ババーがある程度のカネ置いてった。コンビニもあるし、料理も多少はできっからな」

「できるの? すげえ」

「昔っからババーはちょくちょく家出してたからな。嫌でも覚える」

「すごいな、双川って」

 いや、感心している場合か。


「それ、先生とかに相談しなくていいの?」

「先コーに何ができるや。相談したら、夫婦げんか治まるんか? オンナの腹ぼてがなくなんのか?」

「腹……」

 陽佑はもう一度咳ばらいした。

 だとしても、これは容易ならざる事態という気がする。

 双川はどうしてこんな、にやにやと笑いながら他人事のように話せるのだろうか。


「それで、引っ越しってのは?」

「オレがどーなるかって話さ。ジジーとオンナんとこはこっちから願い下げだし、ババーが引き取るとなったら、たぶんババーはオレ連れて実家に帰るだろーから、引っ越しだろーな」

 双川が挙げたのは、遠く離れた県名だった。

「そんな遠くに……」

「ま、そーなるとしたらの話だし、いつになるかもババー次第だから、ちょっと読めねーや。それとも、ババーもオレを引き取るの拒否するかもしれねーな。オレこんなだし、可愛げねーだろーし、義務教育も終わるトシだしよ」

 ……何も言えない。陽佑の手には負えないことだけが、はっきりと認識できる。


 チャイムが聞こえてきた。行かなくてはならない。

「なんで、……その話を、俺に?」

「さーな」

 話の重さに見合わない、さっぱりとした口調のままで、双川は立ち上がった。

「最近しゃべってねー奴に、こぼしたくなったのかもな」

 だるそうに双川は、陽佑に背を向けて歩き出した。やはりだるそうに、片手だけふいっと振って。


     〇


 宿題もそこそこに、陽佑はごろんとベッドに体を投げ出した。

 ……今日はなかなかハードな話を聞いてしまった。双川のことだ。

 あっけらかんとした態度で、双川はえらい窮状きゅうじょうを明かしてきた気がする。

 俺になにか、できることないのかな。陽佑は天井を眺めて、ぼんやりと考えてみた。とりあえず食事も調達できているんだからそれでいいじゃん、という話では、絶対に、ない。


 ……しばらく泊まりに来ないかと、誘ってみるか。……誘うのは自由だろうが、それこそ双川本人が言っていたように、問題の根本的解決にはならないと思う。根本的解決というのは、彼の両親の問題であり、それこそ陽佑には自分の力でどうにかできるとは到底思えなかった。


 ……こういうのって、相談できる機関、ないのかな。先生に話せば、どこに相談すればいいのか、教えてもらえないだろうか。それなら何とかなりそうな気がする。しかし、それを陽佑がしていいのか、という疑問点があった。たぶんだけど、双川は陽佑に相談先を探してほしくて、あんな腹を割った話をしたのではないと思う。というより、陽佑が双川のあんな話を誰かにもらすべきではないだろう。相談するなら双川が自分でするのがスジというものだ。無断で陽佑が動くのは、違うと思う。そして双川自身は、先生に相談することにさえ乗り気でなさそうだった。


 聞いてしまった以上は、自分に何かできることはないかと考えてしまう。けれど考えるごとに、双川を取り巻く状況の重さが、陽佑の思考を何重にもからめ取り、動きを封じようとしているようだった。あっけらかんと笑っていた双川。……笑うことしかできないのかもしれない。でもあいつは、それで鬱屈うっくつしたり、苛立ちを誰かにたたきつけたりせずに、笑っていた。愚痴をこぼすくらいですまそうとしているのだ。


 双川って、俺が知っている誰よりも、大人なんじゃないだろうか。陽佑は思った。家庭であまり幸せじゃなさそうだから、精神が大人びたのだろうか。それが双川本人にとって得なことかどうかはわからないけれど。そして、大人な双川でさえおそらく、目の前の濁流に為すすべなく立ちつくしている。……大人どころかただの中学生にすぎない陽佑にできることは、ますますなさそうに思えるのだった。


     〇


「あん?」

 翌朝、廊下で呼び止められた双川は、ぱっくり口を開けて陽佑を振り返った。それでもと陽佑は、提案してみたのだ。しばらくうちに泊まりに来ないかと。双川は、気の抜けたような顔になって声を立てずに笑い、手を大きく振った。

「昨日の話で、よけーな心配かけちまったな。ワリい。そんなつもりで話したんじゃねーよ。オキモチだけありがたくもらっとかぁ。それに、今朝ババー帰ってきやがったんだ。あの話は忘れてくれや」

 とっさに何も言えず、陽佑は困惑した。

桑谷くわたによぉ、あんまり人に親切にしてっと、オレみてーなロクでもねーヤツに利用されることになるぜ。気ぃつけな。――でも、ありがとな」

 双川は、いつもと変わらない眠そうな笑顔で、軽く手を振って1組の教室に入ってしまった。陽佑は、ちょっと後頭部をかいて、2組の教室に向かった。


 断られるだろうなとは思っていた。それに、忘れてくれということは、もう誰にも何も言うな、何もしてくれるなと、念押しされたってことだろう。おそらく双川は最初から、こいつなら言いふらしたりしないだろうと、陽佑を呼び止めたのだ。そこを裏切ってはならない。


 中学生というのは、小学生よりも多くのことができるのだと思っていた。しかし、中学生でさえ歯が立たない事情というものはあるのだ。高校生になったら、立ち向かえるようになるのだろうか。そのとき双川はどうするつもりなのだろうか。知りたいけれど、おそらく陽佑には知る権利も機会もないだろう。

 それにしても。……オレみてーなロクでもねーヤツ。――自分をそんな風に言うなよ双川。お前はすごいよ。いつも飄々として、誰よりも苦しい思いをしながら、それを他人にまき散らすこともなく、達観したように斜に構えている。受け流しているのか、彼なりに立ち向かっているのか、そこはわからないが。あの笑顔の下に、重い重いものをかかえて、それを誰にも、かけらほども見せずに生きてきた。俺ならきっと無理だろうな……。


 陽佑は、軽く頭を振った。今、自分にできることはひとつしかなかった。忘れてくれや……彼は、そう言ったのだ。

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