3年生

1学期

62 変わりゆく景色の中で

 桑谷くわたに陽佑ようすけは、今朝も変わらずお茶漬けをすすった。「行ってきます、後よろしくね」と、母がばたばた駆け抜けて行く。父はとっくに出勤している。「いったっさい」と、陽佑がいろいろ省略したあいさつは、玄関ドアに当たって跳ね返った。

 姉の美陽みはるは、この春から大学生になっている。大学は隣県だが、自宅から通うには無理があるため、下宿してひとり暮らしを始めた。だから、もうこの家にはいないのだ。専攻はよくわからなかったが、将来は「工業デザインがしたい」という希望があるらしい。

 口をきくのもおっくうになっていたし、姉の方でも弟をうっとおしがっているのは伝わっていた。仲がいい悪いではなく、関わるのが面倒といったところだった。しかし、いなくなるとやはり、なんか違うな、という違和感は生じる。何よりあの姉が、そんな展望を持っているとはまったく知らなかった。……どうやって将来の進路を決めたんだろう。少し話を聞いてみてもよかったかもしれないな。珍しく、そんな気持ちが頭をもたげた。まあ、こちらはまだ中学生で、今からそこまで焦らなくてもいいかもしれない。姉が帰省してきたときなど、機会はあるだろう。ごちそうさま、と手を合わせ、片づけをする。最後に家を出る者が洗い物をするならわしだが、なんのかんの言って両親は自分で使った分は自分で洗って出発する。これまで陽佑に洗い物を押しつけていた姉もいなくなったので、皿洗いの負担は多少減った。なんだか妙な気分である。


 今日は始業式だ。陽佑は中学3年生になった。組は去年からの持ち上がりで、クラス替えは残念ながら、ない。顔ぶれは去年とほぼ一緒だ。新鮮味がないといえば、ない。しかし、自分の周囲の時間が確実に硬くなってきているのを、肌で感じる。いよいよ最後の学年、高校受験を控えた特殊な1年間が、本格的に始まるのだ。乗り切るためには、おぼろげであろうとも、進路の希望がどの方角にあるのか、それを表明できなくてはならない。


 進路か。身支度を終え、火の元と戸締りを確認し、玄関ドアに施錠しながら、陽佑は頭を上げた。小学校に通って中学校に通って、受験してどこかの高校に通って、受験してどこかの大学に行って……子どもの頃から、その程度の認識しかなかった。もちろんその後はどんな職業に就くのか、という話になるが、「大きくなったら○○になる!」のレベルでしかなく、学校に通っているうちに自然と展望が見えてくるんだろう、などと甘いことを考えながら日々を過ごしてきた。けれども、いよいよごまかせない不回帰線に差しかかってきたようだ。生徒によってはもう、理数科に行くからあちらの高校を受けるつもりだの、どこそこの大学に行くにはここの高校が有利らしいの、それなりの展望を見出している者もいるのだ。4組の大野などはすでに、医大の付属高校を受験すると表明しているらしい。


 道を歩いていると、同級生の連城れんじう文也ふみやと合流したので、その話をふってみた。陽佑自身は、なんとなくだが理工系に進みたい程度しか考えてないんだけど、と付け加えて。

「うーん、両親はおれが大学行くものと決めてかかってる、というか、信じてる、らしいけどな」

「違う道を考えてる?」

「……まだはっきりしてねーんだ」

 連城は眉間のしわを深めた。

「これまだ誰にも言ってねーんだけど……服飾系の専門学校行ってみたい気もするんだよな」

「ほう」

 陽佑は改めて連城を見やって、はっと気づいた。……目線の高さがほぼ同じくらいになっている。俺また身長伸びたのか。2年前はあんなに差があったはずなのにな。


 ……ふと、陽佑の胸をよぎったものがあった。いつまでも連城と一緒にはいられないのだと。いや頭ではわかっていた。連城には連城の、自分には自分の進路がある。とりあえず、高校は志望校が同じとわかって、ほっとしたし、心強いとも思った。けれどその先は? ――いつか必ず、進むべき道が分かれるときがくるのだ。志望校が同じかどうか、それは道の分岐が早いか遅いかの違いでしかない。自分の道は自分だけのものだ。一時的に誰かと並走することはできるかもしれないが、それだって長い長い道のごく一部分にすぎないのだ。まさに今、中学校という時期だけ、数多くの道が並走しているタイミングにすぎないのと同じように。連城とも。梅原とも。……ほかの誰とも。


「連城がそこまで、裁縫に思い入れてたとは」

「裁縫っていうか……うん、実は、デザインがやりてえのか、縫製作業がやりてえのか、そこも自分ではっきりしてねえ。大学行っておいた方がいいのかもしれねーし。まー、どっちにしても高校は卒業しないとだめだろーから、そのへんはのんびり考えるわ。……受かれば、な」

「すごいな。俺よりずっとよく考えてるじゃん」

「理工系狙ってる奴が何言ってんだ」

「狙ってるっていうか……」


 道が見えたような見えないような、当人たちにとってもなんとも頼りない話をかわしているうちに、校門に差しかかる。前庭はざわざわとやかましい。

「そうか、2年生のクラス替えか」

 すっかり忘れていた。1年前、自分たちもここで悲喜こもごもの思いをしたはずなのに。昇降口の扉にクラス編成が今年も貼りだされており、2年生がわーわーきゃーきゃーと騒ぎまわっている。

「2年生はお気楽でいいよなー」

「俺ら、去年はあっちがわにいたんだよな」

「まー、そーだけどさ」


 ふたりは2年生を迂回して昇降口に入った。自分たちも去年、当時の3年生らに、こんな白っぽい目で見られていたのだろうか。立場が変われば感慨も変わるものだ。自分たちに関わりがないとなると、ずいぶんとさめた目で見るようになってしまうものだなと、陽佑はちらっと2年生を見返りながら思った。


 2年生は気楽なものだ……そう、3年生はクラス替えどころではないのだ。2年生が浮かれ落ち込む騒ぎで却って、3年生はそのことを思い知らされる。また一段階、身のまわりの時間空間が硬さを増す。有形無形の圧力のつぶてが、この先どのくらい投げつけられてくるのだろう。お前たちは受験生なのだぞ、と。

 梅原は……どんな進路、考えているのかな。3階へ階段を上りながら、陽佑はふと思い至った。


     〇


 3年2組の顔ぶれは2年2組と比べると、年度末に城之内じょうのうちが転校していなくなった以外は変化がない。こんなときの定番の展開「かわいい女子の転校生」も、なかった。身長の並び順も去年と同じでいいかと思ったのだが、体育館での始業式に向かうため、いざ廊下に並ぼうとして陽佑は、お前もっと後ろだろと、数人の男子によって押しやられた。確かに、去年までのポジションだと、陽佑の身長はぽこっとはみ出している。でかくなりやがって、と舌打ちまじりに言われつつ、どうやらここが自分の身長らしいと落ち着いたところは、連城のすぐ前だった。そんなに伸びたかな、とつぶやいたら、改めて連城が驚愕していた。その後ろには、山岡、土田、小沢しかいない。おかげで、廊下でたたずむこの位置は、1組の教室から離れてしまった。どうしても気になって、ちらちらそちらを見ていたら、――梅原志緒しおが、数人の女子と一緒に出てきたのが見えた。なんだかすごく久しぶりに見た気がする。元気そうだ。ほっと胸の内がほころぶのがわかった。……たぶん気のせいだと思うのだが、梅原が、2組の男子の列をさっと一瞥いちべつした、ような気がした。……やはり気のせいだろう。彼女は陽佑にも連城にも、気づいた様子はなかったから。



 3年生。中学最後の四季が、始まる。

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